2012-08-07 第180回国会 衆議院 環境委員会 第11号
つまり、個人と社会と尊厳をやりとりするということでコミュニタリアンという政治思想が最近生まれてきたということを先週申し上げましたけれども、ちょうど素粒子がやりとりされて力が生まれるように、エネルギーが生まれるように、尊厳をやりとりして社会の本質が一つ進化するという、今、そのきっかけの時代にあるんじゃないかと思うんですね。
つまり、個人と社会と尊厳をやりとりするということでコミュニタリアンという政治思想が最近生まれてきたということを先週申し上げましたけれども、ちょうど素粒子がやりとりされて力が生まれるように、エネルギーが生まれるように、尊厳をやりとりして社会の本質が一つ進化するという、今、そのきっかけの時代にあるんじゃないかと思うんですね。
に施すことなかれというので、人と人との関係、自分のやってもらいたいこと、してもらいたくないことをそのまま相手に対してもというのでは不足だということで、新しい黄金律というのは、自分がもらいたいと思う尊厳とかリスペクトと同じように、自分が存在している、属している社会に対して、コミュニティーに対して尊厳を与えなさい、自分が欲しいものをそのまま社会に対しても与えなさい、それは尊厳であるということで、コミュニタリアン
それで、御質問は、まさに西條先生は、逆に言うと、平等が不全のときに、コミュニタリアンのアプローチというのは、結局、友愛とか博愛原則で、新しいコミュニティーをつくるプラットホームを国家が整備することによって、現に今回その横横連携のいろんなボランタリーなコミュニティーが「ふんばろう」を始めとしてできました。
だから、あなたは、社会に対して、あなたの自律を尊重し支持してほしいと願うように、社会全体の道徳、秩序を尊重し、支持するようにというのが新しい黄金律というもので、いわばコミュニタリアンという新しい政治の思想にもつながっているわけです。そちらの方はどうでもいいんですけれども。
また、米国におきますリベラル—コミュニタリアニズム論争においても、家族や義務を強調するコミュニタリアンたちでさえ、それを法制化することまでは主張していないという意見もあると承知しております。 確かに、私の主張は、近代立憲主義から一歩踏み出し、国民と国家の共に働く共働を規定するものとして憲法を再構築しようとするものであります。それは、近代国家の原理を根本的に変える壮大な仕事になるかもしれません。
ただ、コミュニタリアンの場合は、国家を解体するというところまで主張していなくて、例えばアメリカのコミュニタリアンの場合には、憲法を中心とする基本的な価値のもとに国家を構成するということを言っているので、日本においても同じことを考えられてしかるべきだろうと思っております。
○小林参考人 コミュニタリアンがみんな非暴力主義というわけではなくて、私はしかしその中で非暴力主義に非常にシンパシーを持つコミュニタリアンですので、もしフェミニズムがそういう考えでまとまるとなれば、その限りでは非常に共通性があると思います。
○小林参考人 コミュニタリアンにいろいろなものがありまして、保守的なコミュニタリアンは割と伝統的な伝統を強調する。また、それに対して、伝統の変革の可能性、それを選択する可能性というものを強調しております。