2017-04-07 第193回国会 衆議院 外務委員会 第9号
かつて、一九七二年、大平当時外務大臣からICJへの北方領土問題の付託を示唆したことがございますが、ソ連のグロムイコ外務大臣がこれを拒絶しているという経緯がございます。
かつて、一九七二年、大平当時外務大臣からICJへの北方領土問題の付託を示唆したことがございますが、ソ連のグロムイコ外務大臣がこれを拒絶しているという経緯がございます。
なぜ私がこういうことを言うかというと、当時、同席しておったのはグロムイコ外務大臣です。しからば、グロムイコ大臣が、四島問題があると彼が在任中言ったかどうかということ、同時に、当時、ブレジネフさんが書記長でしたけれども、その後のアンドロポフさんにしろ、チェルネンコさんにしろ、ゴルバチョフさんまで、書記長を指名したのはグロムイコさんです。
とにかく人を得て、違うと言ったら違う、私の言うことを信じなさいと言えばそれでいいんだというようなことではなくて、まさにそのとおりでありまして、かつてソ連の時代に、グロムイコ外務大臣は二十八年間にもわたって外務大臣をやった。ところが、日本の場合はその間に一体何人、総理大臣と大臣がかわったんだか。
そういうことで、七〇年代から八〇年代の初めにかけましては、ソ連は領土問題については解決済み、聞く耳は持たぬということで、当時のグロムイコ外務大臣は、領土問題を話し合うのであれば日本に来ることはできないということを言いまして、一九七六年から十年間、日本を訪問しなかったという時代がございます。
あるいはソ連のグロムイコ外務大臣のごときは、あれは何年ぐらいでございますか、三十年ぐらいは外務大臣をやっていらしたんじゃないかと思います。
それからもう一つ、私、サンフランシスコ条約についてちょっとソ連側の文献を読みまして研究しましたところを、皆様にとっては釈迦に説法かもわかりませんが、グロムイコ外務大臣を全権とするソ連代表団は、その当時明らかに帰属先はソ連であるということを明記しろ、その他のことを要求していまして、それに不満がゆえに調印しないでボイコットしたわけです。
それとの関連ですが、一九七八年の一月、当時福田内閣で、当時の園田外務大臣が訪ソされて、そして当時のグロムイコ外務大臣との間で領土問題のやりとりがありました。そのとき向こうからは、日ソの善隣協力条約の案をぱっと出された。園田さんは、それは一応持ってきたけれども、そんなものは検討の対象にならぬといって金庫へ入れてしまった、こういうことになっています。
当時の大平外務大臣からグロムイコに対してこの問題を提起したのに対して、グロムイコ外務大臣はこれに応ずる考えはないということを明確に述べたという経緯がございます。
そのときはチェルネンコ氏の葬式の直後ですから、まだほやほやのときであったわけですけれども、そばにいたグロムイコ外務大臣のゴルバチョフ書記長に対する態度を見るというと、やはり非常に丁重な扱いと態度をとっておられました。それは、私にとっては非常に意想外ぐらいのことであった。そういう面を見まして、チェルネンコさんが病気の間も既に相当実権を握っておったなという気が私はしておったのであります。
その後、ソ連は態度を変えてまいりまして、特に七〇年代後半になりますと、例えば具体的に申し上げますれば、七九年の九月でございますけれども、当時のグロムイコ外相は、園田外務大臣に対しまして、日本の立場を受け入れることができず、また根拠のないものである、現在この議論をすることは、日ソ関係の進展に役立つものではない、例えばこういうことを言っておりますし、また八〇年の九月、同じくニューヨークで同じくグロムイコ外務大臣
○土井委員 グロムイコ外務大臣が日本に来られるということについての可能性は非常に濃いということが種々伝えられてまいっておりますが、この感触の方はどうでございますか。
外務省はこの日ソ関係の改善ということを大前提として、グロムイコ外務大臣の日本訪問とその際の領土問題の話し合いが不可欠であるということを常々主張してこられておりますし、また当外務委員会における答弁としても外務大臣がお答えになっていらっしゃるわけです。しかしそれは、領土問題ということになると、いつもどういうことになるかという定型が決まったような格好になっているわけであります。
幸いにいたしまして、ソ連側も、国際情勢の変化というのも確かに背景にあると思いますが、この日本の対話への努力というものに応じてまいりまして、局長級の会談であるとかあるいはまた次官級の会談であるとか、そういうものも実現をいたしましたし、私とグロムイコ外務大臣との間の国連総会における会談も実現をいたしたわけでございますし、同時にまた、日ソ間で、改善のために、これまで停滞しておりました文化協定、租税協定あるいはまた
つまり、七六年以来もうずっと向こうから来ていないわけでありますけれども、今度はグロムイコ外務大臣がやってくるという方向に進むとごらんになっておるのかどうか、いかがですか。
したがいまして、特に外交面におきましては、グロムイコ外務大臣は長年外交の面におけるソ連の最高の権威とされておるわけでございますが、継続性というのが維持されていくのではないかというふうに見ております。したがいまして、内外政策を含めまして基本路線は前のチェルネンコ政権のものを踏襲していくであろう。したがいまして、対日政策についても基本的には同じような考えを持っております。
それをさらに前進させるためには、あるいはグロムイコ外務大臣に訪日してもらう、こういうためには、一定の条件づくりをやはりしなくてはいけないのじゃないか。そうじゃないと、すれ違いで終わってしまうわけですね。そういう意味の条件づくりは一体ないのかどうかということを聞いているのでありますから、その辺でお答えいただきます。
ただ、グロムイコ外務大臣の訪日という問題につきましては、私ども基本的には、例えば個々の条件なり前提なりをつくらなければいけないというふうな認識は持っておりません。これは外相間定期協議でお互いに東京、モスコー交互に開催するというしっかりした合意があるわけですし、前回行きましたのは私どもの園田元外務大臣が七八年に行っておりまして、来るべき番はグロムイコ外務大臣であるという認識でございます。
それから、グロムイコ外務大臣の訪日の問題でございますが、先般の日ソ首脳会談におきまして、ゴルバチョフ書記長自身の方から肯定的に対応していきたい、また、いつどういうふうに実現するかを今後相談していきたいというふうな発言がございました。
○和田教美君 外務省は、グロムイコ外務大臣の来日が一応ことしの秋ぐらいということを期待しているようなんですけれども、最近一部の報道によると、ソ連側は要するに年内の訪日は無理だ、実現は難しいということを言っておるというような報道がございました。
その節、総理の御説明によれば、ゴルバチョフさんの両隣にアジア問題の専門家とそれからグロムイコ外務大臣が密着をしており、気のついたことを時折耳打ちをしていたようであったというお話でございましたし、また具体的にはクレムリンの政策決定は深い霧に包まれていてよくわからないというふうに答弁をされたと記憶しております。
その従来の経緯に基づきまして、この話は先方グロムイコ外務大臣と我が方外務大臣のいわゆる定期外相協議を通じて交渉されることになっております。したがいまして、クレムリンの中の政策決定のプロセスがどのようなものであれ、少なくともその両国間の外交交渉としての返還交渉はこの外相定期会議を通じて行われなければならないというふうに考えております。
○黒柳明君 冒頭、外務大臣にちょっと日ソのことで一言お伺いしたいんですが、グロムイコ外務大臣の訪日がうわさされておりますが、グロムイコ訪日に向けまして、外交ルートで日ソ間の折衝をすべきだと大臣が事務当局に指示を与えられておる、こう承っておりますが、具体的にどんな問題で事務当局が話し合っていくのか、お教えいただけますか。
さらに八月には、日ソ友好議員連盟の会長に御就任をされた櫻内さんと一緒にソ連を訪れて、そして、私としては初めてでありますけれども、ソ連の幹部の皆様以外にグロムイコ外務大臣と約二時間、日ソ間の問題についていろいろ議論をいたしたわけでありまして、櫻内さんから、北方領土問題を解決して日ソの平和条約を締結する、これが真の日ソ友好の基本的なスタートになるという立場から、日本側の主張をされたことは当然のことでございます
そういった中で、弔問外交ではございますが、米ソの間で首脳会談が持たれる、そしてこれから、今も安倍外務大臣御答弁のように、グロムイコ外務大臣の懸案の訪日日程を秋までに実現させるということは大きな意味を持っておると思います。 グロムイコ外務大臣は、御案内のとおり一九〇九年生まれ、七十五歳という年齢と承知しておりますし、新しく登場いたしましたゴルバチョフさんは五十四歳という若さで書記長として登場する。