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265件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

2001-06-27 第151回国会 衆議院 外務委員会 第17号

なぜ私がこういうことを言うかというと、当時、同席しておったのはグロムイコ外務大臣です。しからば、グロムイコ大臣が、四島問題があると彼が在任中言ったかどうかということ、同時に、当時、ブレジネフさんが書記長でしたけれども、その後のアンドロポフさんにしろ、チェルネンコさんにしろ、ゴルバチョフさんまで、書記長を指名したのはグロムイコさんです。

鈴木宗男

2001-05-31 第151回国会 衆議院 安全保障委員会 第7号

とにかく人を得て、違うと言ったら違う、私の言うことを信じなさいと言えばそれでいいんだというようなことではなくて、まさにそのとおりでありまして、かつてソ連時代に、グロムイコ外務大臣は二十八年間にもわたって外務大臣をやった。ところが、日本の場合はその間に一体何人、総理大臣大臣がかわったんだか。  

渡辺周

1990-04-17 第118回国会 参議院 外務委員会 第2号

そういうことで、七〇年代から八〇年代の初めにかけましては、ソ連は領土問題については解決済み、聞く耳は持たぬということで、当時のグロムイコ外務大臣は、領土問題を話し合うのであれば日本に来ることはできないということを言いまして、一九七六年から十年間、日本を訪問しなかったという時代がございます。  

都甲岳洋

1986-11-12 第107回国会 参議院 外交・総合安全保障に関する調査会 第2号

それからもう一つ、私、サンフランシスコ条約についてちょっとソ連側の文献を読みまして研究しましたところを、皆様にとっては釈迦に説法かもわかりませんが、グロムイコ外務大臣を全権とするソ連代表団は、その当時明らかに帰属先ソ連であるということを明記しろ、その他のことを要求していまして、それに不満がゆえに調印しないでボイコットしたわけです。

木村汎

1986-04-11 第104回国会 衆議院 外務委員会 第8号

それとの関連ですが、一九七八年の一月、当時福田内閣で、当時の園田外務大臣が訪ソされて、そして当時のグロムイコ外務大臣との間で領土問題のやりとりがありました。そのとき向こうからは、日ソ善隣協力条約の案をぱっと出された。園田さんは、それは一応持ってきたけれども、そんなものは検討の対象にならぬといって金庫へ入れてしまった、こういうことになっています。

高沢寅男

1986-02-26 第104回国会 衆議院 予算委員会 第18号

そのときはチェルネンコ氏の葬式の直後ですから、まだほやほやのときであったわけですけれども、そばにいたグロムイコ外務大臣ゴルバチョフ書記長に対する態度を見るというと、やはり非常に丁重な扱いと態度をとっておられました。それは、私にとっては非常に意想外ぐらいのことであった。そういう面を見まして、チェルネンコさんが病気の間も既に相当実権を握っておったなという気が私はしておったのであります。

中曽根康弘

1986-02-10 第104回国会 衆議院 予算委員会 第7号

 その後、ソ連態度を変えてまいりまして、特に七〇年代後半になりますと、例えば具体的に申し上げますれば、七九年の九月でございますけれども、当時のグロムイコ外相は、園田外務大臣に対しまして、日本立場を受け入れることができず、また根拠のないものである、現在この議論をすることは、日ソ関係の進展に役立つものではない、例えばこういうことを言っておりますし、また八〇年の九月、同じくニューヨークで同じくグロムイコ外務大臣

西山健彦

1985-05-22 第102回国会 衆議院 外務委員会 第14号

外務省はこの日ソ関係改善ということを大前提として、グロムイコ外務大臣日本訪問とその際の領土問題の話し合いが不可欠であるということを常々主張してこられておりますし、また当外務委員会における答弁としても外務大臣がお答えになっていらっしゃるわけです。しかしそれは、領土問題ということになると、いつもどういうことになるかという定型が決まったような格好になっているわけであります。

土井たか子

1985-04-23 第102回国会 衆議院 内閣委員会 第12号

幸いにいたしまして、ソ連側も、国際情勢の変化というのも確かに背景にあると思いますが、この日本の対話への努力というものに応じてまいりまして、局長級会談であるとかあるいはまた次官級会談であるとか、そういうものも実現をいたしましたし、私とグロムイコ外務大臣との間の国連総会における会談実現をいたしたわけでございますし、同時にまた、日ソ間で、改善のために、これまで停滞しておりました文化協定租税協定あるいはまた

安倍晋太郎

1985-04-17 第102回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第4号

したがいまして、特に外交面におきましては、グロムイコ外務大臣は長年外交の面におけるソ連の最高の権威とされておるわけでございますが、継続性というのが維持されていくのではないかというふうに見ております。したがいまして、内外政策を含めまして基本路線は前のチェルネンコ政権のものを踏襲していくであろう。したがいまして、対日政策についても基本的には同じような考えを持っております。

野村一成

1985-04-17 第102回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第4号

それをさらに前進させるためには、あるいはグロムイコ外務大臣訪日してもらう、こういうためには、一定の条件づくりをやはりしなくてはいけないのじゃないか。そうじゃないと、すれ違いで終わってしまうわけですね。そういう意味条件づくり一体ないのかどうかということを聞いているのでありますから、その辺でお答えいただきます。

佐藤徳雄

1985-04-17 第102回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第4号

ただ、グロムイコ外務大臣訪日という問題につきましては、私ども基本的には、例えば個々の条件なり前提なりをつくらなければいけないというふうな認識は持っておりません。これは外相間定期協議でお互いに東京、モスコー交互に開催するというしっかりした合意があるわけですし、前回行きましたのは私どもの園田外務大臣が七八年に行っておりまして、来るべき番はグロムイコ外務大臣であるという認識でございます。

野村一成

1985-04-01 第102回国会 参議院 予算委員会 第18号

その節、総理の御説明によれば、ゴルバチョフさんの両隣にアジア問題の専門家とそれからグロムイコ外務大臣が密着をしており、気のついたことを時折耳打ちをしていたようであったというお話でございましたし、また具体的にはクレムリン政策決定は深い霧に包まれていてよくわからないというふうに答弁をされたと記憶しております。  

中村鋭一

1985-04-01 第102回国会 参議院 予算委員会 第18号

その従来の経緯に基づきまして、この話は先方グロムイコ外務大臣と我が方外務大臣のいわゆる定期外相協議を通じて交渉されることになっております。したがいまして、クレムリンの中の政策決定のプロセスがどのようなものであれ、少なくともその両国間の外交交渉としての返還交渉はこの外相定期会議を通じて行われなければならないというふうに考えております。

西山健彦

1985-03-29 第102回国会 参議院 予算委員会 第16号

黒柳明君 冒頭、外務大臣にちょっと日ソのことで一言お伺いしたいんですが、グロムイコ外務大臣訪日がうわさされておりますが、グロムイコ訪日に向けまして、外交ルート日ソ間の折衝をすべきだと大臣事務当局に指示を与えられておる、こう承っておりますが、具体的にどんな問題で事務当局が話し合っていくのか、お教えいただけますか。

黒柳明

1985-03-28 第102回国会 衆議院 内閣委員会 第8号

さらに八月には、日ソ友好議員連盟の会長に御就任をされた櫻内さんと一緒にソ連を訪れて、そして、私としては初めてでありますけれども、ソ連の幹部の皆様以外にグロムイコ外務大臣と約二時間、日ソ間の問題についていろいろ議論をいたしたわけでありまして、櫻内さんから、北方領土問題を解決して日ソ平和条約を締結する、これが真の日ソ友好の基本的なスタートになるという立場から、日本側の主張をされたことは当然のことでございます

角屋堅次郎

1985-03-28 第102回国会 衆議院 内閣委員会 第8号

そういった中で、弔問外交ではございますが、米ソの間で首脳会談が持たれる、そしてこれから、今も安倍外務大臣答弁のように、グロムイコ外務大臣の懸案の訪日日程を秋までに実現させるということは大きな意味を持っておると思います。  グロムイコ外務大臣は、御案内のとおり一九〇九年生まれ、七十五歳という年齢と承知しておりますし、新しく登場いたしましたゴルバチョフさんは五十四歳という若さで書記長として登場する。

角屋堅次郎

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