2003-05-29 第156回国会 衆議院 憲法調査会 第7号
このとき、既につくべき政府をドイツ帝国、プロイセンに、その学者をドイツのベルリン大学教授ルドルフ・グナイストとオーストリアのウィーン大学教授ロレンツ・フォン・シュタインに内定したと伝えられています。 また、明治憲法は一八八九年制定ですが、パリ不戦条約は一九二八年、ロンドン軍縮会議は一九三〇年、満州事変が一九三一年、国際連盟脱退が一九三三年。
このとき、既につくべき政府をドイツ帝国、プロイセンに、その学者をドイツのベルリン大学教授ルドルフ・グナイストとオーストリアのウィーン大学教授ロレンツ・フォン・シュタインに内定したと伝えられています。 また、明治憲法は一八八九年制定ですが、パリ不戦条約は一九二八年、ロンドン軍縮会議は一九三〇年、満州事変が一九三一年、国際連盟脱退が一九三三年。
その際に、ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインという二人の学者に憲法について学ぶわけであります。しかし、伊藤は、この二人から憲法の中身を学んだというよりは、実は憲法をつくっていく上での姿勢、心構えの面であったということであります。 と申しますのは、伊藤は、帰国後、彼らの考えに全面的に依拠したわけではありません。
いろいろな時代がありましたが、グナイストに伊藤博文が指導を受けに行ったときに、維新後の日本はどうして運営していったらいいだろうかということを聞きましたら、あなた方の村々町々には氏神様があるじゃないか、その氏神様の先祖が天皇陛下だということにして、天皇親政をやれ、むしろ天皇で日本の明治維新以後の人心をまとめる役割をしてはどうかということをサジェスチョンをいただくといいますか、フランスは王様を殺してしまったからだめだ
日本最初の首相伊藤博文は、グナイストというドイツの学者のところへ憲法を習いに行って、明治維新後の日本はどうして治めたらいいだろうかと聞いています。グナイストが、おまえたちの村にはみんな氏神様があるじゃないか、その氏神様の頂点が天皇様だと言って、天皇制を中心にして日本を統治したらどうかということをドイツの学者に教えられた。それで、帰ってきてから、明治憲法第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。
それから、条約改正のために急いで明治憲法をつくったわけでありますが、そのときに伊藤博文が一番参考にしたのは、ベルリン大学のフォン・グナイストの逐条講義、プロイセンの憲法でございました。プロイセンの憲法はほとんどそっくり日本のもので、だから伊藤博文が講義を受けたのはほとんど秘密文書になりまして、昭和十四年まで一切出てきませんでした。
明治十三年、ドイツで行政裁判法を研究していた村田保は、その師たる行政裁判所長官グナイストに大いに啓発されて、海国日本の水産業は大いに振興せざるべからずと悟り、松原新之助と協力を誓ったことは有名な挿話であります。そして、今日の日本水産業は、ある意味で新生を迫られているのではありませんでしょうか。 長々と述べまして、御清聴を感謝いたします。(拍手)
の過程を見ましても、これはその前におけるイギリス流の会議中心の制度を実現しようとする大隈、福沢、小野梓先生らの進歩派と、プロシャ流の憲法を日本に押しつけようとする伊藤博文らの守旧派と、この対立が明治十四年に激化してあの政治的なクーデターとなり、そうしてあの憲法というものは全くプロシャ流の憲法としてつくられたものであり、明治十五年五月十六日伊藤博文はドイツに行ってビスマルクと会談し、ベルリン大学のグナイスト
国会がどうしても政府の提出の予算案を承認しない、ほうってしまう、しかし予算がなくちゃ困るというので、旧憲法は、前年度予算を施行すべしという、実はこれは伊藤博文がグナイストから知恵をつけられて、政府は実は国会で弱っているから、入れろということで入れられたわけです。従って、政府の方は旧憲法の方が非常に都合がよかったわけです。新年度の予算が通らなければ前年度の予算を施行できるのですから。
今歴史的事実となってみれば、御承知のように明治憲法は伊藤博文がドイツに留学して、ローレンス・フォン・シュタインに習って、グナイストにもアドバイスをもらって、大体プロシアの憲法をもらって帰ってきた。そしてこちらでもロイスレルその他が相談に乗ったのでありますが、大体プロシア憲法の直訳であります。
、その後わざわざ地方行政を視察のためにイギリスにもおいでになられたので、この頃は玄人になつておられると思うので御質問いたしたいと思いますが、今、日本の憲法がプロシヤの憲法のコツピーであつて、サゼツシヨンのままに作られたものであるということを申したのでありますが、日本の地方制度と申しますものも、これ又それと同じような形で作られて来たのでありまして、失礼なことを申上げることは省略したいと思いますが、グナイスト
明治憲法は、これは天野さんも御承知だろうと思いますが、伊藤公が明治天皇から憲法の作成を命ぜられまして、そうしてヨーロツパに一年足らずも向うへ同勢を引連れて留学いたしまして、そしてドイツのベルリン大学の公法学の教授でありましたグナイスト及びグナイストの代りといたしまして、その弟子でありますところのモツセなんかの憲法の、プロシヤ憲法を中心とする講義を聞きまして、又オーストリアの政治学者でありましたシユタイン
明治憲法を解釈する上におきまして、言うまでもなく天野さんもよく御存じのことだろうと思うのでありますが、伊藤博文が如何なる憲法を作るかということのために調査を命ぜられまして、二年ほどもドイツに滞在いたしまして、そうして官僚の俊秀を引連れて行きまして、いろろいと研究をいたし、向うではドイツの国法学者でありますところのシユタイン、或いはベルリン大学の教授でありましたところのグナイスト等の教えを受けて、又グナイスト