2012-06-14 第180回国会 参議院 農林水産委員会 第7号
なお、平成二十四年五月十八日から十九日に米国キャンプデービッドで行われたG8首脳会議の際は、日米首脳会談は行われていません。 以上、TPPに関する最近の状況についての御報告とさせていただきます。
なお、平成二十四年五月十八日から十九日に米国キャンプデービッドで行われたG8首脳会議の際は、日米首脳会談は行われていません。 以上、TPPに関する最近の状況についての御報告とさせていただきます。
この中で一つ興味深い事実がございまして、当時NSAの長官でありましたリチャード・アレンが、米国の政府、国務省なんでしょう、からこういう事実があったという緊急の連絡を電話で受けて、すぐにキャンプデービッドにいた当時のレーガン大統領に電話で連絡をしたそうであります。
一番下のところに、「規制改革イニシアティブは、ブッシュ大統領と小泉首相により二〇〇一年六月にキャンプデービッドで、「成長のための日米経済パートナーシップ」の重要な要素として立ち上げられた。」その中で、二段目であります。「これらの措置は、」「米国企業に対して日本市場を開放するものである。」
この委員会で渡辺喜美議員がバックアップ機能ということをよく御発言されまして、あるいはアメリカにはキャンプデービッド的なものもある。
また、キャンプデービッドへ移ってからもいろいろ率直に生き生きとした話ができたということ。それからドイツの統一問題、リトアニアの問題等では大きな前進はなかったけれども、意見の相違が縮小しつつあるという印象だった。
○中曽根内閣総理大臣 キャンプデービッドにおいてマル優問題を話したという記憶は今ありません。
総理は、昨年提言された直後、アメリカのレーガン大統領のキャンプデービッドに参りまして、世界の国の総理として私もキャンプデービッドに招かれるようになったということで、総理は大変誇りを持って行かれた。
○国務大臣(中曽根康弘君) キャンプデービッドにおきまして私とレーガン大統領夫妻と三人で会食をしておりました。いろいろよもやま話があった中に、その懇談の中に出てきたのがリビアの問題でありまして、大統領は、ベルリンのあのテロについてはリビア政府が関与している、そういう確実な証拠が出てきておる、それは事前においてもそうであったし、事後においてもそれをアメリカは確認しておると。
あなた自身も、キャンプデービッドでレーガン大統領から話があったが聞き流しておいた、こういうことになっておりまして、主体的な日本政府の責任者としての立場が全く明らかにされていないから、そこをお聞きしているのであります。
私は、自分で話の内容を用意していきまして、そして、キャンプデービッドのローレルという会議場で話しましたことも、あるいはアスペンという大統領の個人ロッジで話したこともちゃんといろいろ用意していったわけでありますが、大体、今自分の手元にたまたま持っておるこのメモに従って自分で話していったわけです。
それで日本としましては、やはりその一番基本になることは、キャンプデービッドの合意はできましたが、それをさらに進めてパレスチナ人の自決権といいますか、これには独立の国家をつくるという権限まで入っていていいと思うんですが、そういうパレスチナ人の自決権というものを認める。
○国務大臣(伊東正義君) 中東和平の基本がパレスチナ問題にあるということは私もよくわかりまして、アメリカへ行きましたときも、キャンプデービッドは第一歩じゃないかと。あれだけでは永続的な公正な和平は来ないと思うと。やはりパレスチナ問題を考えなければいかぬと。それには、パレスチナ人の自決権というか、国家までつくる権利も認め、そしてイスラエルがPLOも認めることだと。
○国務大臣(園田直君) いまの言葉遣いに間違いがあるかもわかりませんが、キャンプデービッドで相談された草案を基礎に今度のことがやられていることは間違いございませんけれども、御承知のとおり、あの際、その草案なり条項の解釈をめぐって両国間に対立点があったわけであります。その対立点の解釈を目的としたのが今度のカーター大統領の中東訪問であると考えます。
○説明員(堤功一君) キャンプデービッドにおきます合意、昨年十一月に合意を見たとされている草案につきまして、大きな見解の相違点が三つございましたというふうに承知しております。
それで、ただ一点、この和平条約の草案、キャンプデービッドのときに去年の十一月に出された草案、今回のものはまだ手に入れておりませんのでわかりませんけれども、その草案に基づきまして、そして今回エジプト外務省が発表した草案の内容というふうにして要点が出ております中で、私がどうも理解できない部分があります。
これは一九五九年の夏、キャンプデービッドに飛びましたフルシチョフは、モスクワに帰るなり直ちに北京に飛んだわけでございます。北京に飛びましたときに、これは五九年、大躍進の翌年でございます。米ソの平和共存が表面上始まった年でございます。この年にどうもフルシチョフは、台湾を平和的に解放せよというような、武力解放だけが台湾解放の道ではないというようなことで、北京の台湾政策を批判したようでございます。