1954-03-26 第19回国会 参議院 厚生委員会 第19号
というのはロシアでは皆スープ、それからカーシヤといいましてお粥ですが、これが主食で、これを主に食べます。そうしてそのほいろいろな副食物はありますが、非常にテーブルの上に飾られたものはそう美しくない。色が一色ですが、日本の料理を見ますると赤だの何かで、さしみなどをお食べになりますと非常に麗わしい。結局これは余計なものを、食べたくなくてもつい箸が出て食べてしまう。
というのはロシアでは皆スープ、それからカーシヤといいましてお粥ですが、これが主食で、これを主に食べます。そうしてそのほいろいろな副食物はありますが、非常にテーブルの上に飾られたものはそう美しくない。色が一色ですが、日本の料理を見ますると赤だの何かで、さしみなどをお食べになりますと非常に麗わしい。結局これは余計なものを、食べたくなくてもつい箸が出て食べてしまう。
又スープ以外に大体二百グラムぐらいのカーシヤ、カーシヤと申しますとお粥です。お粥を頂いていたのであります。併し仕事が非常につらいのでありまして、それだけの食物では全然足りないので、自分が経験したところでは、投げてあるいもの皮をつついてストーブの上で焼いて食べたことも何回かあつたのであります。
私どものときは、金は全然くれませんで、作業成績によりましてパンの増食、あるいはおかゆのようなどろどろとしたカーシヤというものの増食がありましたが、現在は金もくれておるようであります。 そこを出ましてハバロフスクに集まりましたのは、これは第一次の集結であります。この集結をいたしました者は、おおむねいざというときにはすぐ本国送還をし得る者として準備せられたと私は考えたのであります。
普通に働いている者はカランチンと称する食事——パンが七百グラム、スープが朝昼番五百グラムずつ、カーシヤが二百グラム朝と晩だけという食事であります。カーシヤと申しますのは穀類をかゆみたいに煮たものでありまして、二百グラムと申しますと大体ここにあるコップに一ぱいあるかないかぐらいの状態であります。五百グラムのスープというのは、朝は魚をまぜた程度のスープでありまして、このコツプに二はい半ぐらい。
エンガシから、二十三年の六月、カンシユク管轄のカーシヤというところにまた入れかわつたのです。カーシヤに六箇月おつて九号にまた行つたのであります。その九号には、日本人は百七十四名でしたかおりました。そこに二箇月おつて、今度は六号というところへ来たのであります。六号には、病人の收容所があつて、三百二十名ばかりおりました。そこに六箇月おりまして、満期になつたのであります。
けれども釜が日本のような釜がございませんので、結局カーシヤーというお粥でございますが、ぼた餅にするようなべたつとしたようなものを食べておる。日本人の口に調理が伴わないようなことはございました。併し量としてはさつき申しましたように我々には大体において十分であつたと思います。ナホトカが我々が十二名おつたときにそれだけのものを受取つて参りまして十二名のために一人は日本兵を附けて呉れたのであります。
固いという点については、向うでカーシヤーというロシア人の主食としておりますもので、お粥の固いものを貰つて、日本人は成る程固い飯で糠喜じはしたものの実際の量から言つて、私は船中生活でありますから、定量までは行きませんが、実際定量と比べて少いということは切実に感じました。