2015-05-12 第189回国会 参議院 厚生労働委員会 第10号
これは、一九五九年にカルカッタで結んだ在日朝鮮人の帰国に関する協定で行われたわけですけれども、一九六八年に一旦終わります。そこで今度は、中立的な立場で帰国の意思の確認のためにいた赤十字国際委員会の駐日代表団、ICRCのメンバーが日本を離れているわけですね。
これは、一九五九年にカルカッタで結んだ在日朝鮮人の帰国に関する協定で行われたわけですけれども、一九六八年に一旦終わります。そこで今度は、中立的な立場で帰国の意思の確認のためにいた赤十字国際委員会の駐日代表団、ICRCのメンバーが日本を離れているわけですね。
トータルで九万三千人程度の方々が帰国をされたわけですが、日本赤十字社と北朝鮮の赤十字会が在日朝鮮人の帰還に関するカルカッタ協定を結び、また、日本赤十字社が帰国希望者の登録やこの事業の運営を行って、赤十字国際委員会が助言という形で関与する、そして日本政府、北朝鮮政府がさまざまな形で関与しながら帰国事業を行っていたわけです。
それからいわゆるPM、粒子状物質ですと、カラチ、ニューデリー、ダッカ、カルカッタ、上海、北京というふうに並んでおります。
また、インドのカルカッタでオオカミに育てられた少女が発見されました。その少女を発見し教育したキング牧師が、最後にこう書いています。人間は人間の中でしか人間になれない。だから、子供にとっての最大の教育環境は教師自身である、このように職員に呼びかけて、子供のために我々が人間モデルにならなければいけない、こういうことをずっと述べてまいりました。
インドでは、デリーのほかコルカタ、これは旧カルカッタでございます。そしてチェンナイ、これは旧マドラスという名前でございました、の三都市及び周辺地域で調査を行いました。 まず、デリーでは、インド政府の官房長官に当たる首相府のチャバン大臣、ODAの窓口となる大蔵省等から意見の交換をするほか、スラム地域の小学校、国立小児病院、デリーメトロ、デリーの地下鉄でございますが、等を視察いたしました。
もう一つ、日本にとってという意味でいきますと、特に印象だったのがカルカッタ、コルカタの国立コレラ・下痢感染症研究所なんですけれども、普通、コレラの研究が日本にとって何の関係があるんだというふうに日本の国民は思うかも分かりませんが、この研究所は日本の研究者もかかわっておりまして、大変レベルの高い、感染症については非常にレベルの高い研究所でございます。
インドに行きましてカルカッタの伝染病病院に行きますと、コレラとか狂犬病とかもうごろごろあるんです。ですから、やはり日本の医者もそこに行って、日本で幾ら一カ月研修してもしようがない、そこに二、三日いて見てくればすごく違うわけでございます。
例えば、先ほどのカルカッタなんというのはコレラがはやっているわけですね。
カルカッタの港に置いてあった。そして、ステッカーを張った問題のシーンの撮影につきましては、ムスタンでの取材が全部完了した後に取材チームがカトマンズ経由でカルカッタに向かって、車を引き取って、そしてムスタンとは関係のないこのインド・ネパール国境地帯のビルガンジからカトマンズに通じる道路で行われたということですね。
これは、いつ日本を出てインドのカルカッタに陸揚げされたのか。その後ネパールに持っていって撮影したのはいつか。そして現在はどうなっているのか。このことをお伺いしたいと思います。
あるいはまたマザー・テレサ、ユーゴスラビア人ですけれども、カルカッタの地で難民救済あるいはその医療協力に当たっている。あるいはまた、ノルウェー人ですけれども、ナンセンといった人物、難民問題に大きな道を開いている。
まず第一の質問でございますが、大臣も御承知のとおり、実は北朝鮮にお帰りになった九万三千有余名の方々というのは、国交がないのにどうして帰れたのかなということになるのでございますが、御承知のとおり、カルカッタ協定というものに基づきまして、当時の藤山外務大臣の主唱によりまして閣議で了解事項となりまして、それから始まったのがこの帰還事業なのでございます。
それで、これは総理にも聞いておいてほしいと思うんだけれども、昭和三十四年の八月にカルカッタ協定ができて、それからあちらへ移るのがその年の十二月十四日から始まったんです。五十九年七月二十五日までに百八十七回、その間九万三千三百四十人が日本から出ていっているんです。その中に日本国籍を持った日本人というのが六千六百七十九人いるんです。そのうちいわゆる日本人妻と言われているのが千八百三十一人おるわけです。
さて、甘えて申し上げるのでありますが、昭和三十四年八月十三日に、藤山愛一郎外務大臣が人道問題だからひとつ何とかしてやろうじゃないかということで閣議決定をなさったことが一つの動機となりまして例のカルカッタ協定ができ上がったわけでございます。
既に開始以来、第一段階が八年間、いわゆるカルカッタ協定による協定期間でございます。その後の十九年間においてさらにまた二段階にわたる帰還が行われております。二段階目はいわゆる暫定措置、三段階目が事後措置と呼ばれておりまして、この事後措置は現在でも続いておるわけでございます。その三段階とも日本赤十字社と朝鮮赤十字会との間の協定あるいは合意によって行われておるわけでございます。
この問題は、昭和三十四年八月十三日のカルカッタ協定に始まっておりまして、この協定というのは、在日北鮮人の人たちが当時北鮮に帰りたい、祖国に帰りたいという願望を持っておりましたが、当時も今も国交がありませんので、そのことを人道問題としてとらえた当時の藤山愛一郎外務大臣がこれを閣議でお取り上げになりまして、閣議決定によって、人道問題だからひとつ送り帰してあげようではないかということになりました。
それで私は、この際、こういう二十七年三カ月たっても一歩も前進をしないこの問題を取り扱うのに、この昭和三十四年に帰還船が十二月に第一船が出るに至った、カルカッタ協定を結ぶに至った原動力は何かといったら、当時の閣議決定だったのです。国交はないけれども人道問題じゃないか、これは帰りたいと言う人は帰してあげようじゃないかという閣議決定があったから動き始めたのです。カルカッタ協定もできたのです。
最初にまず振り返ってみまして、この問題は日本赤十字社と北朝鮮赤十字会との間でもってカルカッタ協定が結ばれて、昭和三十四年の十二月の十四日に第一次の帰還船が新潟港から出港したわけなんです。それからこの北朝鮮帰還事業が開始をされてまいりまして、昨年の七月二十五日までに百八十七回にわたって輸送されていった出国者の総数は九万三千三百四十人。その中に日本国籍を持っている人が六千六百七十九人おります。
これはもう私が言わなくても御存じのはずですが、昭和三十四年の一月に、当時の藤山外務大臣が人道主義に基づいて北朝鮮帰還事業を開始するということを了解しまして、二月の閣議においてその実務を国際赤十字委員会に依頼をいたしまして、八月に日本赤十字社と北朝鮮赤十字会との間でカルカッタ協定が結ばれたことは御存じだと思います。
第一の段階がいわゆる協定帰還、カルカッタ協定そのものに基づく北鮮帰還でございました。次が暫定措置と言われている措置に基づく帰還、最後に事後措置と呼ばれているのが現在でも続いておるわけでございますけれども、第三の段階としてございます。
と同時に、いま一つは、大量なものを輸送するにつきまして、例えばインドのカルカッタならカルカッタの港へ一応着いたとします。着いても今度は配給機構がないわけですね。そうすると、そこでいわば黄変米になり、腐ってしまう。したがって、小さいところから小さい港へそれぞれ送ることによってやっと本当の食糧供給の実が上がる。
そのときに、略称カルカッタ協定と呼んでおりますが、人道的な立場から、国交がなくても帰りたい人は帰してあげましょう、こういうことになったのです。 それで、三十四年の十二月十四日ぐらいから第一船が北鮮から参りまして、それで舞鶴でお乗せしては向こうへ連れて帰るということを繰り返して、昨年の十月七日までに百八十七回送り返しております。
○政府委員(持永和見君) 先生御指摘のように在日朝鮮人の北朝鮮の帰還につきましては、昭和三十四年の八月の十三日に日本赤十字社と北朝鮮の赤十字社との間でカルカッタ協定が締結されまして、これによって十二月の十四日から帰還が始まっております。現在までの帰還者数は約九万三千人でございまして、このうち夫に随伴しましたいわゆる日本人妻と言われるこういった方たちが千八百二十八人と推定されております。
向こうの国の一部のいわゆる首脳の人たちといいますか、そういう方々は、大体もとのイギリスの植民地ですから、カルカッタ大学とかケンブリッジ大学とか出てきて英語をしゃべる。その一部の人たちとだけ接触をしてやっておるのですから、これでは本当の友好親善あるいは国民の期待しているものが何なのかということも理解できないわけですから、そういう点については根本的に改めるべきじゃないかと私は思っておるわけです。
一九五九年のカルカッタの協定によります北朝鮮への帰還問題は、当時の日本政府の方針にかかわる問題でございましたので、閣議了解を行ってこれを実施するということにいたした経緯がございますが、北朝鮮のいわゆる日本人妻の里帰りあるいは安否問題の調査、こういった問題に関しましては、現在では北朝鮮側の意向にかかわる点が非常に多く、政府の閣議決定にはなじまない面もあると私たちは思っております。
○小澤(潔)委員 一九五九年のカルカッタ協定のときには閣議で取り上げ、日赤と北朝鮮赤十字社との間に協定が結ばれたのでありますが、今回は、金日成主席の発言は公的発言であるとはっきり外相も先般の参議院の外務委員会で答弁をいたしておるところでありますから、この問題は国交が回復しておらない云々を言う前に、まずもって政府は早急に閣議で取り上げてはどうかと思いますが、その点お伺いいたしたいと存じます。
御承知のとおり、昭和三十四年の八月の十三日のカルカッタ協定によって三十四年の十二月の十四日、北朝鮮への第一次帰還船が出て以来早くも二十一年の歳月が流れたわけでございます。新天地での新しい人生を求めて出国をした人は約九万三千人余りと聞いております。ところが、その大半の方々からの音信が不通でありまして、消息が定かではない。