2001-05-14 第151回国会 参議院 共生社会に関する調査会 第6号
最初、私、鉄筋ガラスの天井とは何だろうと思ったんですが、グラスシーリングというのは目に見えない頭打ちということでガラスの天井と言われているんですが、日本の場合はそれが鉄筋で補強されているように非常に強いものだというふうに言っていて、日本のエリート大学を出た女性、女子学生が技術系の会社の就職面接めぐりをしていくんだけれども、実際には何を聞かれるかというと、日本にコンビニは幾つあるかとか、いわゆる彼女たちの
最初、私、鉄筋ガラスの天井とは何だろうと思ったんですが、グラスシーリングというのは目に見えない頭打ちということでガラスの天井と言われているんですが、日本の場合はそれが鉄筋で補強されているように非常に強いものだというふうに言っていて、日本のエリート大学を出た女性、女子学生が技術系の会社の就職面接めぐりをしていくんだけれども、実際には何を聞かれるかというと、日本にコンビニは幾つあるかとか、いわゆる彼女たちの
もちろん卒業試験も受けなくちゃいけない、エリート大学であっても。私、たまたまイギリスの大学だった、四十年前。もちろんみんな卒業させますけれども、エリートだから。しかし、卒業試験は厳しくて、五月、それで自分の成績表を持って企業とか官庁を回って見せなくちゃいけないんです。オックスフォード大学を卒業しても、成績はCとかDだったら評価されないんです。地方の大学へ入って成績よければ評価されるんです。
○太田(昭)分科員 今、大臣からせっかくお話がありましたから、私、順番を変えてお話をいたしますが、どうも今までの日本は、教育という出発の時点から、エリート大学がいい、そして大きな企業がいいと。
○石田(勝)委員 今回の事件を見ていまして、オウム真理教の幹部の人たちは大学もエリート大学の出身の人もかなり多いようでありまして、そういう連中の行動あるいは報道される状況を見ておって、私は、知識と技術の習得というのは、有効性がある反面、危険性が生じるおそれが非常にあるんだということを痛切に感じた一人であります。
アメリカ、イギリス、西ドイツ等の比較をして、それはやはりなるほど大体同水準にあると思いますけれども、例えばあるアメリカの統計によりますと、あなたはよき大学というか、エリート大学といいましょうか、を出たときにそれは将来の社会生活について必要不可欠なものと考えるかという質問がございます。それに対して、名門大学を出るとやはり社会的に地位を高めるために必要だということについてはアメリカは七%。
エリート大学が自分らの大学にいい生徒をとりたいということのために採用した分離分割が全部に波及していくというのは、チャンスがふえるとか後にやればいい生徒が来るであろうというような、それは後で解釈するのであって、きっかけはまさに競争を激化させていくという構造の中であらわれた現象形態だと私は思うのです。 そこで、もとに返りましょう。私がこの大学入試問題を議論したのは昭和五十二年でございます。
大学院重点大学として、まあこの席にもそれぞれ地方の選挙区をお持ちの方多々おられますけれども、国立大学の中でも旧帝国大学、旧帝国大学の中でもとりわけ東大をエリート大学化していこうとかということで、東大よりもさらに上と、こういうことらしいですが、一方、教養学部の未来がどうなるかということで、これのレベルダウン、事実上の短大化、短大のような位置になってしまうんじゃないか。
これは大多数の大学には劣悪な研究教育条件を押しつけながら、少数の特定大学をエリート大学化しようという臨教審方針の先取りであります。また、寄附講座として新日鉄、NTT、NECなどが乗り出し、真理探求と国民のための教育研究機関としての大学の任務を、財界奉仕の方向に変質させようとしています。そして、軍事研究導入の危険も強めています。
○稲葉参考人 幾つか数字なども持っておりますが、余り時間もございませんので省かせていただきますが、奨学金の変質というようなことで、一つは、先ほどもちょっと触れましたレジャーセンター化していってアルバイトでというような、その中で、じゃ奨学金がどうだという問題と、私自身がいわゆるエリート大学にいて感じますのは、エリート大学に来る父母あるいは保護者とでもいいますか、その年収が次第に上がってきていて、そこでは
現在、大学が非常にエリート大学からマスの大学へ、またはユニバーサルの大学へ変化しておりまして、そのために大学教育ということもユニバーサルの大学である、エリートの大学ではないということが言われまして、大学人の中でも、最近では、もっと教育の方に重点を置くべきではないかという傾向が強くなってきつつあるわけです。
エリート大学的な意味の筑波ではなくて、今度は大衆レベルの教育要求を新構想大学で囲い込んでしまう。そのときに筑波と同じような学問、思想の自由が問題になるようなことになると、これは非常に大変な重大な意味を持ってくることを恐れるわけです。そうなると言っているのじゃないです、まだ教官がだれになるかわからないのですから。
昔から東京大学と京都大学というのは、エリート大学という意味では似たような大学であったかもしれませんけれども、たとえば京都大学には河上さんが講義しているから、近衛文麿さんがその大学を慕っていったとか、西田哲学があるからこれを慕っていったというのが特色であって、俗にやっぱり東京学派と京都学派というふうにも言われたわけだ。
むしろこういう立場から実は御質問を申し上げたいとさえ思っているところでございますが、しかし、君が代の国歌化とかあるいは教員エリート大学、こういうかっこうになってきますと、当然のことながらいま言った危惧が出てまいり、それが不信感につながる。
これは新聞紙の報道するところによりますれば、エリート大学の育成あるいは英才児の育成ということを非常に高く考えもし実施しているようであります。
ところが、二次試験は、おれの大学は特徴あるエリート大学であることを示すためにはきちっとした試験をしようということになってくれば同じことなんであります。だから、二次試験は、少なくとも学科目単位のペーパーテストはこれを行わないというぐらいのことが出されてもよいのじゃないかと思うんです。
私は、いま福田さんはそういうふうにおっしゃるけれども、結局はもし本当に高卒や大学を卒業——エリート大学を卒業していなくても、人間には能力があるんだと、その能力は努力して、そしてそれを花開かせることができるんだというそういう前提に立つならば、そしてそれが正しく評価されているということがもし言えるならば、結果的にこういう露骨な、極端な結果には絶対なるはずがないと私は思います。
第三番目の問題としまして、ハーバード大学教授のジェローム・コーエンという人、ハーバード大学というのはエリート大学ですが、この教授が、しかもワシントンのプレスクラブで、このワシントンのプレスクラブというのは非常に権威がある。これは世界の権威あるジャーナリストが集まっている。
いわゆるエリート大学と言われる大学ほど外国の翻訳みたいなことをたくさんやっておられる方がどうもあるようでございます。東大教授はみんなアメリカの方に目を向け、地方大学の教授はみんな東大が何しているかに目を向ける、したがって、日本には日本固有の文化も育たなければ学問も育たぬ、地方には地方固有の文化も育たないということがあるのじゃないか。
そういうことによってエリート大学をますますエリート化している。こういうことが今日の文教行政でとられておるということであります。さらに、七旧帝大の大学関係、この大学につきましても、教官研究費などはほかの大学に比べて四倍から五倍にわたって与えられています。特別待遇を与えられているんです。
御承知のように、戦後の大学改革の特色の一つは、駅弁大学ということばがあるように、全国各地に大学が設置をされて、エリート大学から国民大衆の大学へと門戸が開放されたことであります。