1999-11-09 第146回国会 衆議院 文教委員会 第2号
そして、ある意味で、以前国連が提唱してできなかったような、エスペラント語のような、それにかわるものになっちゃっている。これは、好むと好まざるとにかかわらず、実態として、英語は今世界語になっています。 例えば、ヨーロッパのEUの会議でもほとんど共通語は英語なんですね。
そして、ある意味で、以前国連が提唱してできなかったような、エスペラント語のような、それにかわるものになっちゃっている。これは、好むと好まざるとにかかわらず、実態として、英語は今世界語になっています。 例えば、ヨーロッパのEUの会議でもほとんど共通語は英語なんですね。
○与謝野国務大臣 実は、技術や学問の世界でここ五十年の非常に大きな特徴というのは、英語がエスペラント語になったということだろうと私は思っております。これは、技術の世界も例えば医学の世界も、そういう科学分野の世界というのは、いわば世界の共通語というのは実は英語になってしまった。これは事実の問題としてそうなっているわけです。
言葉で覚え込ませるとすれば、それは日本語なのか英語なのか、エスペラント語の方が非常に覚えやすいとか、いろいろな話があるわけですが、専門的なことで大変恐縮ですが、どこまでいっておるのか、その辺私どもよくわかりませんので、ある意味では将来を見通す意味で知っておきたいと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。
少し詳しいことを、ここにあるのを言ってもいいのですけれども、ちまたに言われる第五世代コンピューターというものだって、開発されれば、それこそ人間の言葉を解釈して、英語になるのかエスペラント語になるのかわかりませんが、そういうものによってプログラムを組んでいけるという時代がまさに来ようとしておるわけです。
そうなりますから、英語と日本語で話をするように、間へ通訳が入らないとわからないということではなくて、エスペラント語みたいなものですわ。共通の言語を持っているわけですから、コンピューター同士は。
あるいはエスペラント語を使えばという学者もおられます。確かに万国共通で非常に論理的なんでございましょうけれども、それはしょせん一部の学者やそういう人たちの中にとどまっておって、実際の言葉としての生きる力を持っていない。
将来、人類が国際共通語を研究して、大民族が小民族を支配する手段になる民族語でなくて、たとえば現実にエスペラント語がありますが、これも欠点はあるでしょう。それに限定しないで、こういう国連大学の付属の研究施設に国際語研究施設というもの、二十年、三十年、百年後に完成するとしても、これに着手すべきではないか。
同(山崎拓君紹介)(第一〇七六六 号) 三三四 同(池田禎治君紹介)(第一〇八五五 号) 三三五 同(稻富稜人君紹介)(第一〇八五六 号) 三三六 同(木島喜兵衛君紹介)(第一〇八五 七号) 三三七 同(宮田早苗君紹介)(第一〇八五八 号) 三三八 同外二件(吉田法晴君紹介)(第一〇 八五九号) 三三九 学校教育におけるエスペラント語
細谷治嘉君紹介)(第一〇七六三号) 同(三原朝雄君紹介)(第一〇七六四号) 同(山崎平八郎君紹介)(第一〇七六五号) 同(山崎拓君紹介)(第一〇七六六号) 同(池田禎治君紹介)(第一〇八五五号) 同(稲富稜人君紹介)(第一〇八五六号) 同(木島喜兵衞君紹介)(第一〇八五七号) 同(宮田早苗君紹介)(第一〇八五八号) 同外二件(吉田法晴君紹介)(第一〇八五九号) 学校教育におけるエスペラント語
いま世界語としてあるのはエスペラント語なんです。実は私がまだ学生時代に、いまから三十五、六年前でありましたか、エスペラント語が一時流行したことがあるのです。私も夜学へ行きましてエスペラント語を習った。半年習ったらもう卒業なんです。それは非常に簡準なんです。半年といっても月水金ですから一週間に三日しか行かない。一時間ずつやって半年やったら、卒業しちゃった。もうやることがない。
したがって、いまエスペラント語、たいへん御熱意をお持ちでございまして、私ども敬意を表しまするけれども、現在のところはエスペラント語を国語として扱っておる国はないわけでございますし、そういうような立場からいいますと、現在直ちにこれを中学校の必修にするということは非常に私は困難ではないかと思います。
それからずっと英語を――ぼくらも中学から大学を出るまでずいぶん英語をやったけれども、さっぱり役に立たぬ現状でありますが、この中学校の一年生で英語をやるかわりに、エスペラント語をやったらどうかと思うのです。これは私の経験で言うと、半年エスペラント語を習ったあと、ほかのことばをやるのが非常に入りやすいのです。
そういう実態を思うときには、幸いいまあるエスペラント語などを教育用語にして、そうして日本の国語をもって教育すればやはり日本が大東亜共栄圏のように権力支配という不信感を持たれるので、この機会に一つの共通用語としてエスペラント語を教育用語にして国際大学をつくり、ほんとうのアジア民族の共通の広場をつくり、ヨーロッパ共同圏と同じようにアジアの共同圏を考えるくらいの雄大な教育理想を持った国際大学のイメージを出
○伊藤説明員 激励を賜わりまして、さように感じている一人でございますが、先生のお話しのエスペラント語につきましては、アジアの特に高等教育機関を考えるような場合には、これを教育語にしたらいいのではないかというお説も承っております。われわれ国際会議等に出ましても、日本語というのは使われませんし、あるいはアジアの諸国民の土着語というものは生きておりません。
○三木国務大臣 私も、エスペラント語がいまどういうふうな状態になっておるかということは、この議場でいま承ったわけであります。私は、これはなかなかものにならないのではないかとあきらめる気持ちのほうが多かったことは、正直に申して事実であった次第です。
エスペラント語というのは、非常に国際的な、ほんとうに好きな人の小部分の組織ではあるが、歴史を持ち、そして現在エスペラント語だけでも、同好者のところを歩いていけば世界旅行もできるわけです。それから、文芸作品においても、あるいは学問的なものにしても、相当エスペラント語で翻訳されておる。
○三木国務大臣 エスペラント語は、一時、われわれの学生時代、非常にやかましくいわれた時期がありまして、私はこれの将来に非常に刮目をしたわけです。
そのときに、私は、日本社会党の文教政策の一項の中にも、民族を越えた世界共通語というものをやはり提案をすべきであるという考えを持っておりましたが、幸いに、国際用語であるエスペラント語があるんだから、エスペラント語というものを用いる、もう各民族の区分を越えて、美しい国語をみな持って——同時にアジアはなかなか統一しないが、ユネスコの主張しておるところのエスペラント語をその学校の用語として、それでアジアの各国
したがって、ほんとうの意味の平和、総理大臣の平和に徹するという信念が政治的ビジョンに出るならば、エスペラント語はすでに一つの歴史を持ち、世界的に一つの組織を持っているものだから、それを各民族を越えた共通語として使うアジア大学というのを持てば、ほんとうの意味の、民族のことばの壁を越えた、アジアは一つであるという一つのものが生まれてき、日本が、いわゆる昔の専制的な指導者というものを越えたものができるじゃないかと
こういう点で、いまエスペラント語によるアジア大学をつくったらどうかというお話であります。アジアの総合大学というものは非常に興味のある御提案だと思います。そういう総合大学がアジアにできるということは、アジアの教育の普及にも、あるいは文化の発展にも寄与する、これは一つの御提案である。研究をいたします。
教育課程におきましては、外国のことばとともに、それぞれの外国の歴史あるいは風俗の理解に資するという目的で選択、ある段階では必修に課せられるわけでございまして、現在のところ、人為語でございますエスペラント語を教育課程の中で正規に取り入れるという考え方はございません。
例えば先ほど例にも挙げられましたように、日本の社会生活からいうと、衣食住各方面において和洋折衷いろいろなものが雑多に存在しますが、これがだんだんに融和せられて将来どこへ落付くか、これは随分問題でございましようが、一時にこれを法律で何年何月以降は和服着用罷りならん、何年何月以降は日本語の使用はならん、エスペラント語を使わなくちやならん、英語に統一しろということはこれは恐らくなかなか無理ではないか、程度
○委員長(山本勇造君) それはエスペラント語とそれから世界歴とは大分違うところが僕はあると思いますが、併し世界暦の實施期の日にち等があるので、果して一九五〇年から行われるかどうか、この點がまだ相當問題じやないかと思うのですけれども、尚そういう基準についてお話合いをして置くことは……
例を取つて見ますると、世界にエスペラント語というものがある。エスペラント語というものが若し世界で用いられたならば、世界へどれだけ利益し、どれだけ便利があるかということが考えられますが、このエスペラント語というものが敷衍され。
言葉においても國際語とかエスペラント語を最も強調することがいいのか、それともその主たる、今日國際的にはむしろ日本の教育において第二外國語としては英語を第一にしたらいいか、ということも考えられると思います。そういうふうに本委員會におきまして、その國語といい、國字といい、大きく先ず方途について論じ合うことが必要かと考えます。