2019-03-22 第198回国会 参議院 外交防衛委員会 第5号
「第二条 今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし」、「安政元年十二月二十一日」。
「第二条 今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし」、「安政元年十二月二十一日」。
このため、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。 一八五五年、我が国はロシアとの間に通好条約を締結しましたが、条約調印に際し、ロシア側の全権代表プチャーチン提督も、将来の紛争を避けるため細心の調査を行った結果、択捉島は日本国の領土であることが証明されたと述べています。
今の古本先生の御質問に関して言えば、南樺太、サハリン及び千島列島、ウルップ島以北の島々となっていますが、その領域主権を有していた日本が、サンフランシスコ平和条約によりすべての権利、権原、請求権を放棄したものというふうに承知はいたしております。 しかし、そのサンフランシスコ平和条約に、まずソ連、ロシアは締約国ではありません。
日露通好百五十周年に当たり日露関係の飛躍的発展に関する決議案 一八五五年に日魯通好条約が調印され、両国の間に公式な関係が樹立されるとともに、択捉島とウルップ島の間に両国の国境が平和裡に画定された。同条約の調印から、本年は百五十周年に当たる。日露両国の先人は、粘り強い交渉を通じて信頼関係を構築し、この日魯通好条約に調印したが、以来百五十年の両国間の歴史を想い、国民とともに深い感慨を覚える。
日露修好百五十周年に当たり、日露関係の飛躍的発展に関する決議案 千八百五十五年に日魯通好条約が調印され、両国の間に公式な関係が樹立されるとともに、択捉島とウルップ島の間に両国の国境が平和裡に確定された。同条約の調印から、本年で百五十周年を迎える。
それから、択捉島以北、破線で国境を示しておりますけれども、ウルップ島以北は全部片仮名表記の島の名前になっています。 そのウルップ島に床丹という漢字文字が二文字あります。ここが私の生まれたところでございます。私は釧路のアイヌでありますけれども、祖父母などが千島で働いておりました。農林省のお雇いで島の密漁監視員という仕事をしていたために、私は千島で生まれました。
これは、既に当委員会では参考資料として同僚委員が出しておりまして、特に三枚目の「日本側からの歩み寄り」、九八年と書いてありますが、「ウルップ択捉間に国境を確定しぎりぎりの平和条約を探求。」と。このぎりぎりとは何だ、あるいは日本側からの歩み寄りとは何だというような形での指摘が当委員会でもありました。
「ウルップ択捉間に国境を確定しぎりぎりの平和条約を探求」すると。日本側からどうして歩み寄りをする必要があるのか。あるいは、この「ぎりぎりの平和条約」とはどういうことなのか。 恐らくこれは川奈提案のことを言っているんではないか。国境線をまずつくります、画定させてください、あとのことはもう言いませんということを言っているのか。果たしてこんなことを約束したのか。
「クリル諸島への日本人の進出が南から、ロシア人の進出が北から行われた結果、一九世紀半ばまでに択捉島とウルップ島との間に日露の国境線が形成された。一八五五年二月七日付けの日魯通好条約」、これは下田条約でございますが、「この国境線が法的に画定され、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島は日本領、ウルップ島以北の諸島はロシア領として平和裡に確定した。」、こういうことでございます。
それは、いわゆる四島というのは、択捉とウルップの間に線を引かなければ四島が我が国の固有の領土としてないわけでございますが、それ以外のところに線を引くような提案というふうに読んでみますると、そのことは少なくとも一億二千万我が国の国民がそのことを納得する案だとは思いませんし、東京宣言そのものが四島一括と四島の帰属を定められておることから考えますと、私はそうしたことは至極常識的に考えてもあり得ない案ではないか
○笹野貞子君 それでは、北方問題について、今の大臣の御意見と要するに私は同じ趣旨になっちゃうと思うんですが、先ほどの毎日新聞一面トップに出ました、川奈での会合のときに、お互いに今の硬直した状況を大胆に発想を転換して、国後とウルップの間に国境線を引いて、こういうふうに大きな新聞記事が出まして、私もこれを見ました。
○高野博師君 それではもう一つ、最近の報道によりますと、エリツィン大統領が日本に来られたときの橋本総理の領土問題に関する新提案でございますが、これは各紙に出ておりますように、国境は国後・ウルップ間に引くと。それで、四島一括返還には固執しないということでロシア側から何らかの譲歩を引き出そうという日本側の配慮というか考えがある、そういう報道がされておりますが、これは事実でしょうか。
その「序文」がございまして、先生御案内のとおりだと思いますけれども、そこの中でこの順番と申しますかに沿った記述がございまして、「一八五五年二月七日付けの日魯通好条約により、この国境線が法的に画定され、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島は日本領、ウルップ島以北の諸島はロシア領として平和裡に確定した。」そういう記述がございます。
あるいは、帝政ロシア時代に修好条約を結んだときか何かに訓令を出しまして、千島列島のウルップ島まではロシアのものだと、こう言っていることがはっきりしているわけですから、そういうものをまず認めさせるということが手順のまず始まりなんです。 それで、一方においては交渉を続けていく、作業部会も発足させる、信頼関係をともかくつくっていくということで、両面からやらなきゃならぬ。
既に百三十数年前に結ばれた日露通商友好条約でウルップ島から以南は日本の領土であるということを日露間で話し合いができた、つまり公認の古来の領土であります。そういうことから考えますと、これを当然返還を要求するのは日本の権利である、私はそのように認識をしております。
もちろんウルップと択捉の間は、これは六百メーター以上ありますから通過できるわけですから、そういう意味じゃ水路的な意味、特に日本が三海峡封鎖なんて言いますから、そこが非常に重要になってきていたわけなんですが、これが移動して基地が変わっていくとなると、この四島の戦略的な地位といいますか、意味というのが割と薄らいでくるだろう、こういうことも裏にはあるんじゃないか、私はそう思っているんです。
日露通好条約につきましては、ウルップ島全島、それより北の方がクリル諸島であるということが明確でございますし、樺太・千島交換条約についても、同じように択捉、国後を除いた地域というものがクリル群島として千島、樺太交換の対象になっているわけでございます。さらに、歴史的な関係については、先ほど大臣から御答弁したとおりであります。
これはもう百三十年も前に、安政元年、一八五五年に、日本と当時のロシアとの通好条約で、ウルップ島以北がいわゆるソ連領である、択捉島から以南は日本領であると、はっきりそこで調印しておるわけでございます。したがって、私どもはこの一括返還を求めまして今後も粘り強く話を継続する必要がある。
○政府委員(西山健彦君) 条約の解釈ですので後に条約局長からもお答えを申し上げたいと思いますけれども、私どもの考え方といたしましては、いわゆる千島列島というのはウルップ島とそれからその他の島々から成る島の一部である、そういう前提に立ちましてウルップ島については特記されたと、しかしその他のものについては、先生がおっしゃいました「その他」「les autres」というような言葉でもって一括したということでございまして
しかし、現在外国語の方を見ますと、これはウルップ島とそれからそのほかの千島列島、つまりクリル列島ということで、そのウルップ島及びその他の島々それ全体をクリル島と呼ぶというつもりで解釈していたと。したがって、日本語の場合には「ウルップ全島夫より北の方クリル諸島」と言えば外国語でもって「その他」と言っている部分はそれによってカバーされると、恐らくそう考えて訳したのではなかろうかというふうに思います。
○政府委員(西山健彦君) この安政元年の日魯通好条約、通称下田条約と申すものでございますが、これの第二条にございます文言は「今より後日本國と魯西亜國との境ヱトロプ島とウルップ島との間にあるへしヱトロプ全島は日本に属しウルップ全島夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す」こういうふうに規定してございまして、したがいまして、「ウルップ全島」を含みそれより北の方がクリル諸島という名前であるということがこの条文
今現実に二百海里になって、旧千島列島、今ウルップ諸島とこう言っておりますが、あの遠い最果ての地まで漁業が出向かなければならない。一方アフリカでは、マグロの漁業など、何千海里向こうにまで遠海漁業に立ち向かっている。こういう悪条件で、二百海里時代を迎えて漁民が非常な苦労をしている。こういう実態なんですよ。 こういう実態についてどういう御認識をしているのかということを私はお伺いします。
特に、そこで北方領土、ソ連の占領のあり方は、八月十五日に第二次世界大戦は終わったが、二日後の十七日午後、ソ連軍はカムチャッカ半島の突端からずっと上陸をして、「千島列島ぞいにウルップ島まで南下し、一度は引きかえしましたが択捉島などにアメリカ軍が入っていないことを知って、ふたたび行動をはじめ択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島を占領し、九月三日までに北方領土の占領をすべて終わりました。」