1974-05-31 第72回国会 参議院 内閣委員会 第25号
そういう意味において、田中さんはブルドーザーだから非常に勇気をもって暴走しておりますけれども、この暴走の結果というものが、今日これでは何とかしなけりゃいけない、ばく進するだけじゃなく、もっと調整というものが必要だということは国民全体が考え、また内閣においてもその反省があらわれたんだと思いますが、やはり議会政治のもとにおける、十八世紀末におけるイギリスのウオルポールの二十年政権の時代にキャビネットとしての
そういう意味において、田中さんはブルドーザーだから非常に勇気をもって暴走しておりますけれども、この暴走の結果というものが、今日これでは何とかしなけりゃいけない、ばく進するだけじゃなく、もっと調整というものが必要だということは国民全体が考え、また内閣においてもその反省があらわれたんだと思いますが、やはり議会政治のもとにおける、十八世紀末におけるイギリスのウオルポールの二十年政権の時代にキャビネットとしての
ウオルポールの二十年の長期政権の時代を経て責任内閣制は確立せられ、その後しばらく過ぎてから、一八六七年の選挙法改正後において、グラッドストンからディスレリーの十八年間におけるこの二大政党対立の時代から、この政権の時代から責任内閣制が発足したというのがだれも認めているところでありますが、そこで私はこの責任内閣制のあり方に対して第一に承わりたい。
吉田首相は、英国に内閣制を樹立せしめたウオルポール及びチヤーチルにも似た、日本人としては大政治家であります。その晩年における進退が大切であります。ウオルポールの長期政権も、ウイリアム・ピツトの腐敗政権弾劾に席を譲らなければなりませんでした。又チヤーチルは、曾つて反対党たる労働党に政権を托した後、アメリカに個人の資格で外遊したため大歓迎を受けたのであります。
イギリスにおきまして、ウオルポールがプライム・ミニスターとなつて、内閣制度を確立いたしましたその当時におけるところの責任内閣制の基礎というものは、少くとも予算案に対する発案権なり、提出権というものは政府が持つて、この予算案に関しては政府が全責任を持たなければならんという原則をあの市民革命を経た後において私は確立して来たと思うのであります。