1982-04-22 第96回国会 参議院 外務委員会 第8号
そのたくらみの中心は、ルーズベルト周辺のエレノアさんや何かを中心としての迷いに迷い抜いた一つのやり方であって、この点はやがて資料が明らかにされるに従って、ああいうものはやはり清算さるべきが本当であって、アメリカ、イギリス、ソ連の軍部の軍事謀略的な要請を受けての勝てる国々の脱落行為、こういうものは戦争中にはかつてはよくあったことであるし、ウイーン会議において神聖ローマ帝国を代表し帝政ロシアやドイツ、オーストリア
そのたくらみの中心は、ルーズベルト周辺のエレノアさんや何かを中心としての迷いに迷い抜いた一つのやり方であって、この点はやがて資料が明らかにされるに従って、ああいうものはやはり清算さるべきが本当であって、アメリカ、イギリス、ソ連の軍部の軍事謀略的な要請を受けての勝てる国々の脱落行為、こういうものは戦争中にはかつてはよくあったことであるし、ウイーン会議において神聖ローマ帝国を代表し帝政ロシアやドイツ、オーストリア
サウジアラビアなども、そういう意見をヤマニ石油相、私が会ったときにも言っておりましたから、産油国自身の間にも、やはり石油の適正な価格というものは一体どういう水準できめるべきかということを、経済委員会などをつくって、ウイーン会議の中でも石油の価格についてこれを検討する委員会もできておるわけですから、したがって、また消費国自身としても、これはもういまのような高い水準でいけば石油の大量輸入国は国際収支の上
このウイーン会議の動向を非常に注視しておるわけでございますが、願わくは下がってもらいたいと思いますけれども、いまのような内部の情勢から見ますと、必ずしも下がるという保証はない、むしろ国際政治の中でこの問題はまだ漂うている、そういうのが現状ではないかと思って、私たちは、むしろあまり楽観しないでものを把握していこうと考えておるところでございます。
それで、いまお話がありましたように、十六日からウイーン会議が開かれるそうでありまするが、そういうのを見きわめられまして、そして石油製品価格の値上げを考えられるというようなことにはならないものかどうか。
したがいまして、来年のウイーン会議で、あるいはそれ以後の会議まで、会議の終結は伸びるのだろうと思われているのでございますが、といって、日本がその間最後まで何らの対策、あるいは確定した提案を持たずに臨むというわけにはまたまいらないわけでございます。
○近江委員 各委員のほうから石油問題につきましていろいろな質問があったわけですが、去る十八日にOPECのウイーン会議で、十二月の五%加重石油供給削減措置をきめたわけですが、まあ日本はその免除措置から除外されることになったわけです。
○安井分科員 いまの中立化地帯、ニュートラルゾーンの考え方は、最近はないけれども、歴史的には、ウイーン会議議定書による上部サヴォア地方のシャブレー、フォーシ二一両州をニュートラルゾーンに設定をした例もありますね。もう一つは、これは間近な例なのですが、ポーツマス平和条約によって樺太、それからベルサイユ平和条約によってライン川沿岸、これを中立化地帯に設定をした等の例があるようです。
そしていわゆるウイーン会議ですか、ウイーン条約というようなところでもそうしたことが論議の対象にはなった事実がありますが、しかし、何をもって事情変更とするかということについては国際的なよるべき通則がない。それから、ウイーン会議でもそれについての結論は出ていない。
そういう不文の法を成文化し、明確化と統一化をはかろうということで六一年に、外交関係に関するウイーン会議が開かれた。そこでいわゆるウイーン条約というものが成立したわけです。そこで、わが国がこのウイーン条約を批准したのが昭和三十九年、こうなっております。
しかも、ウイーン条約の二十七条では、通信の白山は大原則と前提しながらも、無線送信機の設置、使用については、ウイーン会議できわめてきびしい論議の結果、これを規制をするという条項が入れられて、そしてその条項を入れることについて、そういう趣旨の提案国になったものが、日本政府に一片の通知もなしに不法電波を発射しておる。
○矢山有作君 それだったら、ウイーン会議のときの審議の状況というものは、あなた知らぬとは言わぬでしょうね。通信の自由の第二十七条というのは、ウイーン会議では最大の議論になった一つの点なんです。議論に議論を重ね、修正案が出され、討議を重ね、その結果、第二十七条というものができた。通信の自由を大前提としてうたっておる。
それに関連いたしましては、世界各国においてもそういう考え方がだんだんできておりますので、実は来年の三月にウイーンにおいて第二回ウインナ・コングレス、第一回は一八一五年にウイーンでございまして、そのときに現在の外交官の特権とか地位とかがきまったわけでございますが、第二回のウイーン会議が国連の監督下に来年の春、ウイーンで開かれることになりまして、当然その際に大使館と公使館を区別して設置する理由があるのかどうかという
御存じでもございましようが、当時はかのメツテルニヒが指導いたしましたところのいわゆるウイーン会議のあとでありまして、ヨーロッパにおきましては新しい革命の風潮が、これを風靡しておつたというようなときでございます。