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22件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2011-03-23 第177回国会 衆議院 文部科学委員会 第3号

WCOTP、これは世界教職員団体総連合の略称ですけれども、この総会においてウィルヘルムイーバートという会長が言っているのですが、「四十名の群と、二十名の集団の間には雲泥の差がある。この相違はゆきとどいた教育と、名前も認定できないほど多数に対する教育、参加することにだけ意義を認める教育相違である。

宮本岳志

1992-04-14 第123回国会 参議院 外務委員会 第4号

これは何か去年「ドイツ日本外国人労働者」というシンポジウムがあったその新聞記事なのですけれども、そこでドイツウィルヘルム大学のトレンハルト教授という方ですが、国際化された時代に必要なのは「「その国民は同じルーツであるべきだ」という認識と決別すること」ですと言っています。労働事情からだけではなく時代の本質から外国人の就労、国籍、人権をとらえ直すべきではないか。

堂本暁子

1981-09-08 第94回国会 参議院 外務委員会 閉会後第1号

ドイツにおける議会においては、社会民主党がそれを削減することに成功しているので、この問題だけは削減させないように注意しろという、苦労の足りない、ビスマルクにだけ心酔したウィルヘルム一世が、明治十六年八月の二十八日と思いますが、ベルリン伊藤博文にそのことを注意しておりますが、ビスマルクを神格化して大宰相としてあがめていたあの苦労の足りないカイザー及び日本自由民権論者が、大隈にしても福沢諭吉にしても

戸叶武

1981-06-02 第94回国会 参議院 外務委員会 第11号

軍国主義国家ビスマルクに傾倒して視野の狭かったウィルヘルム一世のカイザー明治三十六年八月の二十六日でしたかな、あのカイザーに説得されて、大変自由民権イギリス流憲法を追い落とすことによって、薩長の藩閥政府を樹立した手前上、ドイツ憲法制定の地と選んであの時分軍国主義の赫々たる威力を発揮したドイツにまねをして、イギリス憲法ヨーロッパの歴史も知らない、それが天皇の名によるところの軍隊、宣戦布告はすべて

戸叶武

1980-11-13 第93回国会 参議院 外務委員会 第4号

伊藤博文明治憲法を、ビスマルクに心酔していたウィルヘルム一世に示唆されてあの超帝国主義的な憲法をつくったばかりに、イギリス憲法の流れも日本にあったのにそんなことを顧みないで、プロシア憲法よりも超帝国主義的な憲法をつくったばかりに、日本戦争に入ってからもこれを終結するだけの政治的な手も打てず、どうすることもできない、収拾することができずに無条件降伏の恥ずかしい屈辱をなめてきた原点というのは明治憲法

戸叶武

1980-11-05 第93回国会 衆議院 安全保障特別委員会 第4号

帝政ドイツはどうかというと、皇帝ウィルヘルム二世の言うならば親政といいますか、親政といいます意味はみずから統治するという意味ですが、親政ということになっておったのですけれども、宰相はベートマン・ホルヴェークと申す非常に弱体な人で、そして皇帝は、重大な事態が起こりますと常に、首都ベルリンを避けてどこかに逃避するという妙なくせを持っておりまして、あの危機のときも、ノルウェーのフィヨルドあたりで難を避けられたといったような

猪木正道

1980-10-16 第93回国会 参議院 外務委員会 第1号

改憲論者は、おおむね現行憲法マッカーサー憲法と称して、マッカーサーから押しつけられたという理解の上に立っておるようでありますが、明治憲法は原文もドイツ文であり、明治十六年八月二十三日にウィルヘルム一世から押しつけられた伊藤博文ビスマルク的憲法であり、それはマッカーサー憲法どころではない。

戸叶武

1980-04-09 第91回国会 衆議院 文教委員会 第10号

これはいつも使われることですけれども、WCOTP総会におきまして、ウィルヘルムイーバートという会長が言っているのですが、「私達は、詰め込みが学習過程を無力にしたりあるいは抹殺するような状況に寛容であってはならない。すべての教員が経験から知っているように、四十名の群と、二十名の集団の間には雲泥の差がある。

山原健二郎

1980-04-08 第91回国会 参議院 外務委員会 第5号

あれが政党なんかで議会でできないようにするため、憲法の中に統帥権のようなものを入れないと、ドイツの失敗を招くおそれがあると説かれ、カイザーウィルヘルムビスマルクのような非常に古い形のマキャベリストによって与えられた考え方を、浅薄な伊藤博文日本に持ってきて、明治憲法をつくってしまった。

戸叶武

1978-10-18 第85回国会 参議院 外務委員会 第5号

明治憲法制定者伊藤博文は、明治十六年八月二十八日、いまから九十五年前にベルリンウィルヘルム一世からその挿入の必要を勧告され、ゆがんだ憲法をつくり上げてしまったのであります。  また、有事立法のねらいの危険さは、戦争勃発の際にシビリアンコントロールが不可能になるおそれがあることであります。

戸叶武

1976-07-14 第77回国会 衆議院 内閣委員会 第12号

植木国務大臣 過去の例でございますけれども、非常に古いものといたしましては、ドイツにおきましてウィルヘルム一世の二十五年記念祝賀式典がございます。これは明治十九年のことでございます。イギリスビクトリア女王が五十年式典明治二十年、また六十年を明治三十年に祝っておられます。エチオピアにおきましては、昭和三十年に二十五年祝賀式典がございました。

植木光教

1974-03-22 第72回国会 参議院 予算委員会 第14号

明らかに——だれかつくったかということを大正デモクラシーの吉野さんが生涯をかけてそれを知りたいためにずいぶん苦労しましたが、憲法の番人といって枢密院に立てこもっていた伊東巳代治もその秘密を明かさなかったけれども、   〔理事西村尚治君退席、委員長着席伊藤博文松方公に寄せた手紙の中に、明らかに、明治十五年ベルリンにおいてウィルヘルム一世に会ったときに、ドイツには社会民主党というものができてしまって

戸叶武

1973-06-26 第71回国会 衆議院 公害対策並びに環境保全特別委員会 第31号

ドイツ連邦共和国西ドイツです、そのウィルヘルム・G・グレーべ駐日大使が去る十六日に北海道へ行ったのです。これはそのときの新聞なんです。札幌と苫小牧とアイヌのいるあの白老、この方面を視察しているのです。これは「昨年八月に札幌とミュンヘンが姉妹都市となったことに対するあいさつを兼ねて来道した」こういうふうにいわれておるわけです。そしてその離道に際して語っていることばが新聞に載っているわけです。

島本虎三

1962-08-17 第41回国会 衆議院 大蔵委員会 第2号

そこで、実は私どもは一九五七年に、ちょうど同僚の春日君と有馬君と、それに自民党の山本勝市さん、この四名でヨーロッパを回りました際に、例のブンテス・バンクの――当時はバンク・ドイッチェル・レンダーですか、その総裁であるウィルヘルムホッケに会見を申し込んだ。なかなか人ぎらいですから会わぬのですけれども、幸いにしまして会うことができました。

平岡忠次郎

1962-03-28 第40回国会 衆議院 外務委員会 第18号

学説的に申しますと、ウィルヘルムヘフター、このヘフターというのは、明治初年におきまして日本文でも翻訳されておる有名な学者でありますが、その著者の国際法の私は八版を読んだのでありますが、二百十八ページに、契約によらない義務のうち許された法律事実として準契約、クワジ・コントラクトというものを、私法理論を類推して公法で認めてもよろしい、こう書いてあります。

大平善梧

1962-02-09 第40回国会 衆議院 大蔵委員会 第8号

たしか一昨々年でしたと思うのですが、西独のブンデス・バンクの元総裁ウィルヘルムホッケをあなたは招致せられたわけであります。ウィルヘルムホッケは、財政金融はおのずから別個の使命をになうものという所信に立って、マルクの価値維持をして、西独の経済の復興と発展に寄与した人であります。これは理屈でなく彼の実績なのです。

平岡忠次郎

1961-06-06 第38回国会 参議院 本会議 第35号

ウィルヘルム・リープクネヒトは、あらゆる農政問題の窮極は農地の問題になると言っているのでありますが、この農地に関する法律も、審議は衆参とも未着手であります。農民は、みずからの組織である農協の自主的な活動によってみずからを守らなければなりませんが、そのよりどころである農協法改正も、政府農業基本法一本やり審議でおくれて、今日は日の目を見ないようであります。

東隆

1960-03-10 第34回国会 衆議院 大蔵委員会 第10号

そこで、日本円価値維持につきまして、日本銀行法改正等をめぐって、私は、今申し上げましたケインズ的な立場が推進さるべきか、あるいは西独ウィルヘルムフォッケのような、財政金融とはおのおの職分、使命が違うのだという分離論的な立場が推進さるべきか、この点につきましての御所見をまずお伺いしたいと思います。

平岡忠次郎

1959-12-11 第33回国会 衆議院 大蔵委員会 第9号

昨年も、平岡委員山本委員と一緒に、やはり西ドイツ中央銀行総裁であったウィルヘルムフォッケさんにも会って、そのときもいろいろ意見を聞きました。私たちは、寡聞でありますから、あまり詳しいことはわかりませんけれども、やはりオランダとかあるいは西ドイツには、そういうような有名な、いわゆる中央銀行総裁として相当力のある人がどんどん出てきておる。

佐藤觀次郎

1959-04-01 第31回国会 衆議院 文教委員会 第19号

たんに法令として紙の上できめられているだけなら、フリートリッヒ・ウィルヘルム一世は一七一七年にプロイセン全土児童就学義務を定めた法令を出している。また新大陸においては、すでに早く一六四二年、清教徒神政下のマサチューセッツが児童一般就学義務を規定した法令を出している。」……     〔「その読み方じゃ丙だぞ」と呼び、その他発言する者多し〕

西村力弥

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