2007-05-16 第166回国会 衆議院 外務委員会 第12号
本当に、そういう方々というのは、例えば恩給はどうなっているんだろうかとか、あるいは、インドネシア独立戦争に参加して現地に帰化した方の中には、日本の書類に敵前逃亡と書かれてしまったというふうに怒っておられる方がいらっしゃるということも聞いたこともございますし、いろいろまた新たな事実が判明をしてくるというふうに考えておりますので、ぜひよろしくお願いしたいと思うんです。
本当に、そういう方々というのは、例えば恩給はどうなっているんだろうかとか、あるいは、インドネシア独立戦争に参加して現地に帰化した方の中には、日本の書類に敵前逃亡と書かれてしまったというふうに怒っておられる方がいらっしゃるということも聞いたこともございますし、いろいろまた新たな事実が判明をしてくるというふうに考えておりますので、ぜひよろしくお願いしたいと思うんです。
スハルト大統領は、PETA、インドネシア独立義勇軍のもとで、今でも沼津に御存命の土屋陸軍大尉に指導を受けた方ですから、その大使館前を毎日通る、そして日本はどうなっているんだと言うらしいです。なぜか。大使館の菊の御紋章が真っ黒で汚れたまま。こういうことです。
この英雄墓地には、インドネシア独立戦争で戦死をしたインドネシアの青年約二千名の中に、これはそこのジャカルタだけでありますが、十六名の旧日本軍人が独立戦争をともに戦い、英雄と言われる戦い、戦死を遂げてそこに祭られているわけですね。そこに橋本総理が参拝をされたということについて大変現地が歓迎して喜んでおると、こういうことなんですね。
ちょうどこれはインドネシアにおきまして現地で復員、除隊いたしましてインドネシア独立軍に参加して戦かった方と非常にケースがよく似ておるわけでございます。ただ、そういった方々の中で、私どもその後の調査によりましてできるだけ解釈を広げて救済しておるケースもございますので、具体的にお名前等教えていただければさっそく調べて措置したいと思います。
右の残留元軍人、軍属は、大部分インドネシア独立軍に投じ、インドネシアがオランダから主権を移譲された一九四九年十二月後退役しているものであります。
それで自分たちは、オランダ人の申し送りを経て、造兵廠関係の者は造兵廠に入り、あるいは各人が任務につきながら、独立が完成するまで任務に邁進して、五二年までインドネシア独立義勇軍として勤務しておりました。 その後、大体オランダ人やいろいろな者がそこから追放されて、軍の方は、ほとんどオランダの軍人は一人もいなくなって、インドネシアの軍隊ばかりになりました。
こういう憲法のもとにおいて、インドネシア独立——日本軍が撤退いたしましたあと、インドネシア独立に、残留の日本人が参加いたしまして、インドネシアの国軍の軍人としてオランダ軍と戦ったのでありまして、中にはそのために戦死をしておる者もございますし、また、負傷した日本人もおりまするし、現在無事に残っておりまする者も相当おるのでございます。
スカルノ氏とハッタ氏との間にはインドネシア独立に対する考え方というものについては全く一致して、そうして植民地主義から脱却して、インドネシアを健全な独立国家に育て上げるということについては全く意見が一致し、また長く両氏が共時の動作をとって今日に至っていることも、世間周知の事実であります。
長年の問題が解決いたしたことでありますし、ことに、インドネシアの現下の経済事情からいたしまして、インドネシア側におきましても、これを有効に使用して、インドネシア独立の経済的基盤を固めたい意向を持っております。
○高碕国務大臣 まあ日本としてそういうふうな見方をすることも、あるいは考え方とすれば無理ない点かと思いますが、しからば日本がインドネシア独立のためにあれだけの戦争をやったかといえば、それはそうでもないということになりますし、これは見方々々によって違うことでございます。
また他の二名はインドネシア独立戦に参加したが、独立後のインドネシアの現状から、日本への帰還を希望して、今回の日昌丸に便船を得て引き揚げたとのことであります。ジャワからの引揚者二名中一名は沖繩出身者であります。
これらの日本人は元日本軍人で、日本降服後、インドネシア独立軍に参加し、相当の功績のあつた者であります。中には現在各種の事業を経営し、成功している者もあります。これらの日本人は、大部分現地婦人を妻とし、すでに一家をなしております。 スラバヤにおいては省長、州長、市長等に面会いたしました。東部ジヤワは、一体に独立意欲の旺盛なところで、対日感情が最もいいところであると感じました。
これは新聞記事ですからあるいは違うかもしれませんけれども、「日本国民はインドネシア独立の意味をあまり理解していないように思われる。われわれは日本との協力を切望しているが、戦時中ここを占領していた日本軍及び官憲の態度と戦後来た日本人の態度は少しもかわつていない。このほど来た倭島アジア局長の態度はその典型的なもので、依然として植民地的態度をとり、われわれをいたく失望させた。」
これらの人たちは、戰後のインドネシア独立運動に参加しておつたという形のものが大部分のようでございます。これらの人々は、大体服装その他も今までよその地域から帰つて来た人よりさつぱりした服装等もしておりまして相当の様子であつたように感ぜられるのであります。