2017-04-12 第193回国会 参議院 国際経済・外交に関する調査会 第4号
例えば、パリでは、パリの大使館のドイツ人の外交官とパリのエーベルト財団、アデナウアー財団の事務局の代表が一緒に相談したり一緒に仕事をしていることは多々あります。そういう意味では非常に近い間柄ではありますが、ドイツの場合は外交官が政治財団で働くことはまずないと思います。
例えば、パリでは、パリの大使館のドイツ人の外交官とパリのエーベルト財団、アデナウアー財団の事務局の代表が一緒に相談したり一緒に仕事をしていることは多々あります。そういう意味では非常に近い間柄ではありますが、ドイツの場合は外交官が政治財団で働くことはまずないと思います。
やっぱり、非常に大きいのはフリードリヒ・エーベルト財団とコンラート・アデナウアー財団。その二つは割と似たような構造でありまして、コンラート・アデナウアー財団も多分同じぐらいの割合の予算を海外との交流に入れていると思います。そして、アデナウアー財団とエーベルト財団は、両方百か国以上の国に拠点、事務所を持っております。 そのほかの四つの財団は、それぞれ規模が大分小さいんですね。
ドイツの政治財団ですと、エーベルト財団以外にはアデナウアー財団、コンラート・アデナウアー財団の事務所もありまして、割とエーベルト財団と同じような、シンポジウムを行ったり、ドイツの議員が日本に来たらこちら側の、日本側の議員と会わせたり、議員が参加するシンポジウムを企画したりしています。それが主なこの東京事務所の、アデナウアー財団もエーベルト財団も変わらない仕事の内容です。
この場所は、戦後、ドイツ、フランスの和解の橋渡しとなった場所で、四千人のドイツ人と二千人のフランス人、その中には、ドイツのアデナウアー首相、フランスのシューマン外相等も出席をされた、その和解の場所での話であります。読み上げます。どんな過ちがあっても他人を責めない。ここには、ごめんなさい、私が悪かったとありがとうという言葉しかなかった。
○笹田参考人 ちょっと違った角度から申しますと、日本と同じくドイツも敗戦国でありますが、ドイツが憲法制定過程で、後の首相になるアデナウアーは、やはり個人の独裁のみならず、議会多数派の独裁に対しても基本権侵害から必要な保護を個人に与える、人間の尊厳が議会から守られるべきだということを強く言って、これが基本的テーゼとなって、つまりドイツの体験、もちろん、敗戦国ですからそういうものからの影響力も受けますけれども
これは、実は東ドイツ、西ドイツのときに、西ドイツのアデナウアー首相が東ドイツの天気予報を流し続けているんですね。西ドイツの人たちに東ドイツもドイツ、我々の統一ドイツというか、そういう意識をこれは持たせたという意味では非常に大きい効果があったというふうに言われているのでありますけれども。
なお、この基本法施行と同時に、ボンを首府とし、アデナウアーを首相とする連邦共和国臨時政府が発足したのでありましたけれども、西ドイツの占領はその後も続き、西ドイツが主権の完全な回復を果たしたのは、それから六年後の一九五五年五月五日であったと言われております。 この意味では、我が国とは事情が異なりますが、ドイツの基本法も、占領下での制定であったと言えるかと存じます。
例えばアデナウアー財団というのもございますけれども、こういったことになっている。こうしたことで、政党の立法、行政監視機能というものをサポートすることを国費で行っているということもございます。
アデナウアー西独首相は次のように言った。この石炭鉄鋼共同体が口火となり他の分野でも類似の過程が進むであろう、そうなれば欧州のがんとも言うべきナショナリズムが壊滅的打撃を受けるであろう。 終戦当時の独仏の憎しみ合いは日中関係の比ではない。日本・中国関係も、憎しみ合いを越え複合的相互依存関係を樹立したフランス・ドイツ間の歴史を学ぶべきである。
ドイツ側は、先ほどおっしゃいましたようにGTZありKfWがありBMZですから三つ機関があって、ドイツ側は、今度JICAが一つになっていいなと、私たちももう少し一つになりたいなというような話がございましたんですが、そこに一つ加えましたのがアデナウアー・ファウンデーション、これはドイツの議員の方々のファウンデーションで、そのアデナウアー・ファウンデーションが加わりまして、あちら側からは議員の方々もお出になったんです
父の世代ではなくて、祖父の世代ということで、シャルル・ドゴールとアデナウアー、この二人。この二人がペースセッターになった。つまり、全国民を相手にして一九四五年の後、即、着ているものを変えただけで突然ドイツが良い民主主義の国民になるということではなかったわけです。それは十分分かっていたと。そして、アデナウアー氏が最も困難なステップを取ったと。
それは、確かにシュメルターさんがおっしゃったように、アデナウアー首相とドゴール大統領によってできました。この二人、ドゴールもアデナウアーも一次世界大戦、二次世界大戦を両方とも経験したことがあったんですね。二人とも、二度と三度と同じような戦争が起こらないように違うような仏独関係をつくらなければならない、違うようなヨーロッパをつくらなければならないというような考えでした。
そういった反省を踏まえて、一九六〇年代、特に一九六二年に行われたアデナウアー、ドゴールの間の首脳会談、これによって大きく流れが変わりまして、その後、劇的な独仏関係の改善があり、御承知のように、今やEU統合の中核となり、またさらには共通通貨が採用され、あるいはまた共通安全保障政策にまで発展するといった劇的な進展を見せておりまして、二十一世紀の日中関係はこの独仏関係を一つの参考にして進めることがぜひとも
それは、パリ・エリゼ宮において、ドゴール・フランス大統領とアデナウアー・ドイツ首相によって締結された条約ですけれども、これによって、長年にわたったフランス、ドイツ間の対立を解消して、両国間に友好関係を構築して、外交、軍事だけではなくて、教育、青少年制度などの政策調整とか共同作業をやっていこう、そういうことが決まったわけですね。
ドゴール、アデナウアーのもとで青少年交流が進んだということでありますが、基本的に、中国と韓国というのは我が国にとって非常に大事な二国間関係でありますし、バイの関係はもとより、日中韓という三つの交流というのも非常に大事だというふうに私どもも思っております。
私はたまたま、ちょうど一九六〇年代の初めにフランスにおりましたけれども、当時のドゴール大統領とアデナウアー首相との間で、独仏の和解を図る、そしてその上に新しい欧州を構築するという努力が、懸命な努力がなされたのを目の当たりにしております。
これは韓国ともやって二回シンポジウムを開きましたけれども、柳井参考人が言われた、ドイツとフランス、正にドゴールとアデナウアーが指導力を発揮して一九五〇年に教科書の改善プログラムというのを進めました。これも物すごい規模でやられました。それから、一九六三年には青少年の交流計画というのを、これも百万のオーダーで毎年プログラムをされました。
これは必ずしもドイツとの関係は、ミッテランというよりもむしろドゴールとアデナウアー、それからまた独仏枢軸ということで言えばミッテランとコールがよく言われますけれども、シュミットとジスカールデスタン、ジスカールデスタンなんかは言い出したのは自分が最初だというふうなことを言ったりしますけれども。 そのときに、地場とするときにパートナーとしてドイツそして独仏連帯というのがまず必要条件になると思います。
これは、特に一九六二年、当時、アデナウアー・ドイツ首相がフランスを訪問しドゴール大統領と会談して、ここから始まったと言われておりまして、その後、二つのことを特に力を入れた。一つは歴史対話です。もう一つは大規模な青少年交流です。この二つが大変、その後のEU発展に向けての流れをつくったと言われております。
先ほどのお話にあった日本と同様、ドイツも占領下、しかも三か国占領軍の下で、大変細かい条文上のあれこれの指示まで受けながらアデナウアーはドイツ基本法を作っていきました。その過程でも、この軍に関する規定は当初は置いておりませんでした。
まだ条約が結ばれているので判断しないと言ったんですけれども、場合によってはこれは違憲にするぞという態度を示したので、アデナウアーが仰天しまして、アデナウアーというのは憲法をつくったときの議長ですから、自分はそんなつもりで憲法をつくったんじゃないというふうに怒ったわけです。それで必死になりまして、三分の二の多数をとって、憲法を改正した。このときと、大連立のときの非常事態法制、これは違います。
その関連で、憲法を改正すべきかどうかということが問題になって、当初、アデナウアー政権は、改正しなくてもできるという姿勢だったんですが、一九五三年の総選挙で与党が圧勝いたしまして、その選挙の後に、幾つかの小さな政党と連立政権を樹立しまして、三分の二の多数を持つ政権を樹立いたしました。
ドイツは、御案内のとおり、集団的自衛権というものを認めてNATOに加盟をして、NATOの域内における行動について米軍とともに戦うということを決めているわけですが、これについてはアデナウアー・オプションというような言い方もされているようでございます。 そして、三番目が日米関係。五十年を迎えた当時の日米安全保障条約というのは、結局は占領の延長、そして同盟関係でいえば保護国としての対応でしかなかった。
それで、例えば東西ドイツでも、ホーネッカーとかアデナウアーはしきりに西の悪口を言い、東の悪口を言って国民に敵がい心を植えつけるんですけれども、ドイツ人そのものは本当に水面下で私たちは同じドイツ人なんだということで早く統一してほしい、統一してほしいと言い続けていた。 これは朝鮮でもそうなんですね。
私は、当時ドイツの大使館に勤務いたしておりまして、アデナウアー内閣のときに国内が大議論であったことは実はよく承知いたしているわけであります。 そして、現在は、雇用の不安をなくするためには、やはり最善の方法を追求しなきゃいけないわけでありますが、時にはいろいろな関係の調整ということも考えなければなりません。