1985-03-08 第102回国会 衆議院 予算委員会第五分科会 第2号
そういうようなことである限りは、いわゆるやみ米屋さん、不正規業者というのは絶対に解消することはできない、こういうように私は思っておるわけです。
そういうようなことである限りは、いわゆるやみ米屋さん、不正規業者というのは絶対に解消することはできない、こういうように私は思っておるわけです。
○和田(貞)分科員 これは大臣、末端の不正規業者というのは、やみ米屋ということで食糧管理法違反をしているだけじゃないのですね。消費者に対して非常に迷惑をかけている、いわゆる不当表示の問題になってくるのです。ササニシキだとかコシヒカリだとか、とにかく同じ米をササニシキの袋に入れたりコシヒカリの袋に入れて、消費者は中身よりも袋で買うんやということをおめおめと言っているのです。
これはやみ米屋さん。大阪でコシヒカリ、ササニシキをこんな値段で売っているのですよ。これで売れるはずがないでしょう。こういうようなことがあるから結果的には消費者に迷惑をかける。だから厳重に、ただ行政指導だということだけで終わるのじゃなくて、どこかの店を一つぴしゃっとやれば、これはうかうかしてられぬな、改正食管法によって処断されるなどいうことで襟を正すことになりはしないかと私は思うのです。
ところが一方では、許可を受けておらない、やみ米屋さんというか無許可業者というか、その店には米が山積みされておる、こういう姿は一体どういうことかと言いたいのです。一体何のために法が改正されたのかということを言いたいわけです。 大阪の不正規流通で最も特徴的なのは、他県に見られないような、許可卸売業者と許可小売業者との間に実に百四十六に及ぶ中間卸という制度がある。
大規模小売業者は正規の業者ではありますけれども、しかしながら、その業者の扱いでいわゆるやみ米屋と申しますか不正規の流通を行っている米屋にこれが流れるといけないということで、かなりきつい警告の処分もいたしておりますし、さらに加えまして、私の知っている範囲内におきましてはたしか二件であると思いましたけれども、実際に政府米あるいは自主流通米の販売を制限するといったような非常にきつい措置もとって処理をしているはずでございます
昨年はやみ米屋が横行するとか、各地の農協の倉庫の新しい米はどんどん出ていってしまって、六月にはもう空になります。私のところの、ある意味では日本一の米どころと言われる北蒲原の倉庫が空になるような事態に立ち至っておるわけであります。農協の幹部連中も、こんなことは初めてだ、こう言っておるのですが、私は不安を持たざるを得ない。食糧は大体大丈夫だという自信を大臣は持っておられるのですか。
現在現実に二段米価が行われて、やみ米屋が横行しているわけだ。こういうような状態をつくり出しているということは、どう見てももう食管法は壊れてしまって、政令の方が上回っちゃっているようにしか思えない。これは農林省だけじゃなくて、労働省や各省にも本法を上回ったように政令が横行しているところがある。そうして、それがあたかもあたりまえのようになっていて、本法が忘れられてしまう。
そこへもってきてやみ米屋が入ってきて、また買い出してきた。一方においてはやみを育成するような状態がある。こういうような状態の中で、これはいま政治問題になっている。行政からいえばもうどうにもならないことだけれども、政治的に見て、いまつくった米を政府が全量を買い上げるかどうか。現在、食管法のたてまえからするならば、米は全量国が買わなければならぬことになっている。
私が申したいのは、正しいまじめな意味での業者をどんどんとふやしていただくということは非常にけっこうなんだけれども、そういうやみ米屋であっても何であっても、ほとんどおかまいなしに認可に踏み切っていくというふうな方向であるようにも見受けられるわけであります。
それが余ったという段階では、いろいろな農協なりあるいは業者なりあるいはやみ米屋さんなり、みんないい米は自分のところに入れる、余ったものだけが政府に入ってくる、悪いものだけが政府に入ってくる、したがって政府の米は売れ残る、こういうことがあるのじゃないのか。そういたしますと、今度は政府のほうでは、一千百六十五万トンではまだ多過ぎたからまた減らすのだ、こんなふうになることを私はおそれるわけであります。
ところが、いつしか、どういうかげんか存じませんが、実際上は、配給店ですらその配給のしかたの規則の守り方が乱れ、それからある地区等においては、もう配給店あるやなしや、やみ米というものが多く、そのやみ米屋さんがどういうお値段をおつけになるか知りませんけれども、ある年は高く、最近は、ずっとやみ米のほうが配給米よりも下回って、しかも、持ち込まれる品質についてはおいしいというふうな、そういう現状のほうが先にあちらこちらであらわれてきている
私はこの十年の間、やみ米という生活をして来たのでありまするが、もっともあの終戦の直後においてはある程度やむを得なかったと思うのでありますが、もう十年になりますのに、いまだに上野の駅、どこの駅でもって、やみ米屋がひっつかまって、百俵とられたとか、二百俵とられたといっておるのですが、こんなみばの悪いことを続けたらいけないと思う。