1954-04-19 第19回国会 参議院 水産委員会 第20号
又一方木材業者、従来ソヴィエトとの通商によつて何しておつた港、例えば新潟だとか、或いは滞水港であるとか、その他の貿易港を中心として木材の輸入については相当皆濃淡に活動せられております。最近ではこの要請が非常に多いのでこれを一本に一つ窓口をまとめてやるという段階にまで今昔運動しておられるようであります。
又一方木材業者、従来ソヴィエトとの通商によつて何しておつた港、例えば新潟だとか、或いは滞水港であるとか、その他の貿易港を中心として木材の輸入については相当皆濃淡に活動せられております。最近ではこの要請が非常に多いのでこれを一本に一つ窓口をまとめてやるという段階にまで今昔運動しておられるようであります。
○政府委員(黒田靜夫君) そこまで具体的に三年、二年、一年に分けますか、或いは三年、二年に分けますかは、でき上つた港務局が定款によつてきめるのであります。
ただ避難港につきましては一今まで政令でいろいろ基準を言ておりまして、われわれの方でもその条項に合つた港を避難港に指定しております。宗谷港につきましても十分そういうことの調査をやりたい。なおその一環といたしまして、本年度調査費を受けまして、港湾整備並びに避難港指定について十分検討調査したいと思つておりますから、御了承願います。 —————————————
ごういつた港の整備と二つの問題がありますが、これにつきましては、運輸省といたしましても各方面の要請をいれまして現在その具体的な実現策について研究をいたしておるのであります。 さらに国際的に考えまして、観光事業の見地からは日本船及び日本の飛行機による国際航路の開設ということが非常に大切ではないかと思うのであります。
○政府委員(下田武三君) 国際法というものは一国の一方的の信念でできるものではございませんで、若し或る国に送るという場合にはあらかじめ許可を求めますとともに、一体この船がお前の国の領水に入つた、港に入つた場合はどういう待遇を受けるかということはあらかじめ確かめる外交的措置が当然とられなければならないと思います。
この小値賀港と申しますのは元笛吹港と言つておつた港でありまして、小値賀港というよりは笛吹港と言つたほうが通りがいい港でございます。
○政府委員(今泉兼君) 漁港指定で残つている港についての御質問でございますが、二十五港の中にはすでに避難港に指定された、政令によつた港もございますが、或いは漁港が主でなくて、他の工業港的な性格の強いもの、或いは商業港的な性格の強いものが残つているかと存じますが、又一面比較的大きな港湾の中の一部に漁港としての働きをしている部面もあろうかと存ずるのでありますが、これらの面におきましては先般の港湾法の改正
上を躍り越えて来る波のために往往にして防波堤で囲つた港の中で船を割るのであります。そういう意味におきましてこの港はいわゆる陸地で以て囲つておるのであります。如何なる波もいわゆるこの入口を通じなければ奥のほうに侵入し得ないのであります。それで入口の防備を二段にして、又その奥のほうにおきまして更に波を受ける装置をいたしまして一番奥のほうには殆んど影響のないような條件を与えておるわけであります。
又港においても当時において造つた港が案外災害に対して平気である。ところが最近造つたところの港は、造つたが、壊れたが、という状態が非常に激しいわけである。いわゆる粗製濫造の気味があるんじやないか。
第三に、現行の港域の規定では、その基準となつている対象物の変化等によりまして、港域が明確でなくなつた港が生じて参つたことであります。最後に、港名を変更することが適当であると認められる港が生じて参つたことであります。 以上の理由によりまして、本法案を提出いたしました次第であります。何とぞ愼重御審議の上、すみやかに御可決あらんことをお願いいたします。 —————————————
第三に、現行の港域の規定では、その基準となつている対象物の変化等によりまして港域が明確でなくなつた港が生じて参つたことであります。最後に港名を変更することが適当であると認められる港が生じて参りたことであります。 以上の理由によりまして本案を提出いたしました次第であります。御審議の上御可決おらんことをお願いいたす次第であります。 次に港則法の一部を改正する法律案の提案理由を説明申上げます。
戰前において使用しておつた港で、今許されているとか、許されていないとかいうようなところがあるのですか、使つていいとか、使つて惡いとか、例えば横浜港なら横浜港の中で、このところは使つてはいかぬとか……。
ここにおいてタラワ島においてどんな残虐行爲が行われたか、こういうことについて、一々そのリンチの模様をここで発表するのは省略いたしますけれども、三千五百名程度おつた同胞である軍人軍属が、終戰少し後までにその約八割の者がこの残虐によつて死亡してしまつて、帰つた港は約三割ということであります。この岐阜縣の例をとりますと、八十七名おつた者がわずかに帰つた者八名という事件なのであります。
歴史も古いのでありまして、しかも戰爭以上においては相當殷賑を極めておつた港でございます。最近貿易再開に伴いまして大藏省からは税關を設置いたされまして、いわゆる貿易港としての形態を整えていただくというようなお話もあるやに承つております。さらにまた運輸省方面によりいたしましては、海上保安基地としてこれに必要な設備を整えていただくというようなことも承つておるのであります。