2007-05-31 第166回国会 参議院 文教科学委員会 第16号
だから、大相撲では、力士が礼をして、そしてかしわ手を打って、ちりを切って、そして相戦うんですね。神聖な行事なんですよ。そして、勝っても負けても礼に始まって礼に終わると。今はそうじゃないんですけどね。かつては、勝っても負けても表情に喜怒哀楽を表さずに淡々として引き下がっていったんです。これが神殿での礼儀作法なんですね。それは相手を敬うということなんですよ。
だから、大相撲では、力士が礼をして、そしてかしわ手を打って、ちりを切って、そして相戦うんですね。神聖な行事なんですよ。そして、勝っても負けても礼に始まって礼に終わると。今はそうじゃないんですけどね。かつては、勝っても負けても表情に喜怒哀楽を表さずに淡々として引き下がっていったんです。これが神殿での礼儀作法なんですね。それは相手を敬うということなんですよ。
それから、寺に入っていって、行ったところで我が国では手を合わせて、神社へ行ったらかしわ手打ってというようなことは、我が民族の多神教の宗教的寛容性として一般的に行われてきたわけですね。 これら全体が、私が昭和二十六年、中学校の代用教員をやっていたころはこういう規制全然なかったんです、教育基本法あったんだけれども。
池田総理は、総理大臣官邸に参りまして総理大臣室に入りますと、いつも東の空に向かってかしわ手を打っておった。儒教、仏教精神の強い総理でありましたから、きょう一日が平和であってほしい、日本の国が世界に貢献できるような立場に早く立ちたいというような念願を込めて、別に神様がどうだというわけではないわけですけれども、その精神を込めてかしわ手を打っておった。
○河野国務大臣 まあちょうどかしわ手を打って手が鳴るようなもので、右手が鳴ったか左手が鳴ったか、どっちがイニシアチブかということではないんだろう。と思います。両方がぴしゃっと合わなきゃ音はしないということじゃないだろうかと思っております。
陛下はかしわ手も打たれない、玉ぐしも奉奠されない、いわゆる御先祖各霊に対して深く拝をなさるだけであります。つまり、中曽根前総理大臣が一昨々年か九段の靖国神社で行われたことと陛下がなされておりますることは同じであります。一方がこれは総理大臣が公務としてこれをやってもよろしい。一方が天皇陛下がこれをなさることはいわゆる私的な行為、宗教的な行為、こうされることはいかがなことでありますか。
八月十五日、毎年暑い夏、敗戦の記念日ということで迎えるわけでございますが、今回、靖国神社の参拝に当たりまして、内閣官房より留意事項ということで、参拝は一礼にとどめ二社二拍手、いわゆるかしわ手を打つことですが、二社二拍手一礼など神道形式は行わない、こういう指示があったそうでございますが、宮澤大蔵大臣はこの参拝形式はいかがであったのでしょうか。
この前のように、オイルショックが起こったらヤマニ様でかしわ手を打って拝むなんというのじゃ問題にならない。これを強く私ども提案いたしまして、これはもうみんなから、さもありなんというようなことで、大変御賛同をいただきました。
鳥居も神社も関係ありません、かしわ手二つ打つところを二つ打たないで一つ打ったから、だからあの神社を何も認めたことにもお参りしたことにもならない、ただ戦没者にお参りした、そんな宗教の解釈なんというものはありません。 いやしくも一国の総理大臣ともなったら、宗教の基礎要件は何だぐらいはちゃんと勉強しておかなくちゃだめだ、それは。
かしわ手の二つを一つにしたから神社のお参りにならない、神社の拝殿に入っていってかしわ手二つを一つにした、二つ下げる頭を一つにしたからお参りしたことにならぬ、そういう小汚いへ理屈はやめなさいと言うのだ。そういうことにこだわっているから、問題がますます火を噴いていくのです。 ただあなた、さっき言った。小林先生はいわゆる経験の深い政治歴の長い人だから、その点尊敬いたしますと言った。
それをこのインチキな答申書の中で、かしわ手を打たなければ宗教行事じゃないんだ、何とか料金を出さなければ宗教行事を否定したことになるという、あんなのは子供だましもインチキも甚だしいよ。あの神社の境内へ行くことそれ自体が、もはや宗教の容認なんだ。インチキなことを言うな、君は。そんな答弁はだめだ。
靖国神社にかしわ手を打たないなどの粉飾、すりかえを凝らし、また供花料と称して公費支出に踏み切ったことは、どんなに言葉を弄しても、宗教法人に対し首相、閣僚が公人の資格で参拝することは、憲法第二十条、第八十九条の信教の自由、政教分離の原則に抵触するもので、憲法違反であります。 総理が靖国神社への公式参拝に固執する意図は何ですか。
かしわ手を打つとか打たないとか、玉ぐし料を供花料と言いかえるとか、いかに小細工を用いても、靖国神社という宗教法人に国を代表する閣僚が公式に参拝することは、これまで政府みずからが認め、国会に対し政府統一見解として示してきたように、その違憲性は明らかであります。(拍手)それによって、国民の信仰の自由が奪われ、信仰を持たない自由も否定されるではありませんか。
それともかしわ手をぱんぱんと二回やるのをやめたから、それで違憲なものが合憲に変わったのか。私は一番最後のことだと思うんですよ。かしわ手が二回鳴ったときは憲法違反だったが、それをやめて玉ぐしの奉てんも自分でやらない、おじぎだけにした、深々と頭を下げられた、それで合憲になる。結局、突き詰めてくるとそこになるんじゃないか。
○内藤功君 いや、やはりかしわ手を打たないから合憲になったんですよ。そのほかのこともと言うけれども、そのほかのことはいわゆる理屈なんですね。あぶくみたいなものなんです。その本当の理屈は一つだけなんです。かしわ手を一打たない。そのことをいろんな装飾をつけて言っているだけの話だと私は思いますよ。 それで、総理の資格で公式参拝をして一礼したということが宗教的活動になる、ここのところが問題なんです。
どこが違うかというと結局、私はかしわ手のことを言いましたが、かしわ手を打たないで社前で、または本殿ですか、本殿において一礼をした、そこの違いだけじゃないですか。そうですね。そこの違いだけでしょう。それでもって合憲か違憲かが違ったということなんじゃないですか。そう承っていいですか。
今の、いずれを第一と考えるかというのは、これはたまたま今形の上でそういうことにこれなっておるので、人数が少ない方が多い方より大事ということもありませんし、また多い方が大事だということもありませんし、これはやはり、かしわ手を打つとき、右の手左の手のどっちから音が出たのかと、こうおっしゃられるのと同じように、これはいずれも重要な問題で、それを密接に、有効的に連携して効果を上げるというふうなお答えするしかないと
それに筧先生だとか、かしわ手を打ってから講義をする憲法の先生もいた。私は私学にいて、美濃部さんの講義をずっと二年、三年聞く機会を与えられた。いい教授は非常に横の交流があったな。今はもうそれがないんだね。一つの大学に、一つの会社の重役みたいに、一つの学校の中にもう閉じこもっちゃって、そういう実力のある著名なる教授の教えに幅広く横に接するという機会がない。
靖国神社に対しても、靖国神社の英霊をお祭りしたいと心の中で自然に祈ってうちの中で寝ているのと、こんちくしょうと思いながらも、靖国神社に行って、たいしたことねえやと言いながらかしわ手を打って頭を下げるのとどっちが本当かというんだ。これが主観論と客観論の極端な一つの解説だ。どっちが本当だ。わからないだろう。哲学を知らないからやんなっちゃうんだ。
〔委員長退席、石橋(一)委員長代理着席〕 その一部分でありますが、「かしわ手を打つことは神々によって導かれ、神々に近づくことなんだ。……祭政一致は皇道政治の根源じゃないか。我々(報国青年隊)隊員はかしわ手を打つことによって大和心に触れ、大和心を体験することに努めているのだ。」、このように述べて、いわゆる反日的な友達に対して一生懸命言いわけをしている若い学生のせりふがございます。
その礼拝も神道式のやり方、玉ぐしを奉奠してかしわ手を打って、十字を切ることは絶対ありません。つまり、礼拝というのは神道の最大の宗教的活動なんです。そう理解してよろしゅうございますね。
この天皇機関説が、帝国大学の筧さんがいたり、かしわ手を打って憲法を論ずる学者もいたんだが、その中で三十年間天皇機関説というものは定着をした。それを一夜にして、これはいわゆる治安維持法に違反するとか皇室法に違反するとか尊厳を冒涜するとかいって犯罪を構成するというこの危険性、これは一体ないのかどうか。何も私は牽強付会であなたの憲法改正論に結びつけるわけじゃないのですよ。
○大出委員 これは神だなに上げて、それこそかしわ手でも打たなければならぬですな。三年四カ月兵隊に行ってきて、一時恩給で今度改正をいたします、幾らくれるのですかと聞いたら一万七千百円。これは昭和十七年から兵隊に行きまして、二十年九月一日にやっと二等兵曹になって、二十年十二月二十八日に帰ってきた。三年四カ月。
昔は、戦争などということになると伊勢神宮にお参りをして、かしわ手を打って、み国のたてとなり、ほことなるといって出ていったけれども、ああいう形をともするとそのまま残そうとするような間違いをおかす。河野一郎先生は、元旦にどうしても伊勢神宮にお参りしなければ気が済まないといってお参りする。