2015-06-04 第189回国会 参議院 法務委員会 第15号
昔、アメリカ映画で、「十二人の怒れる男」という陪審員制度をテーマにしたテレビドラマや映画がありましたが、最近では、日本で二〇〇九年に蜷川幸雄さんが演出して、「十二人の怒れる男」の芝居がありました。私もこれ見に行きましたが、極めてリアリティーがあり、臨場感もあって面白かったことを覚えております。
昔、アメリカ映画で、「十二人の怒れる男」という陪審員制度をテーマにしたテレビドラマや映画がありましたが、最近では、日本で二〇〇九年に蜷川幸雄さんが演出して、「十二人の怒れる男」の芝居がありました。私もこれ見に行きましたが、極めてリアリティーがあり、臨場感もあって面白かったことを覚えております。
実は私も京都出身でございまして、京都はかつて蜷川府政という共産党の知事が二十八年間も知事をされておられた。私はそういった中で京都の学校に通っておったんですが、物心付いたときから父親が自民党の政治家をしておりましたので、なかなかこっぴどく先生にいじめられたと、そんなこともございまして、やはり教育における政治的な中立性というのは子供心ながらに本当に染み付いている部分がございます。
国旗・国歌につきましては、私自身、京都のいわゆる昭和二十四年から昭和五十三年まで七期二十八年間、蜷川虎三という一人の知事で、最後には、共産党を骨まで愛するという本会議場の答弁まで出てくるようなそういう知事の下でおりましただけに、教職員組合を始め激しいまた組合活動に直面をいたしまして、必ず町長時代から国旗・国歌について交渉の矢面に立ち、また非常に苦い思いを続けてきた人間でありますので、この校長さんの痛
先生がお出ましになりました京都は、長い間、蜷川虎三さんが七期二十八年間おやりになったところでございますが、あの頃、京都府下に掲げられた表現は、憲法を暮らしの中に生かすという垂れ幕があらゆるところにございました。
私のところ、大阪の隣の京都だったら、蜷川さんは高校三原則守りますと、一方私たちは、子供の学力を向上させます、十五の春は泣かないけれども十八の春は泣かす、泣かせているのは蜷川じゃないかといって、教育が選挙の争点になっておったんですよ。つまり、もう完全に政治闘争だったんですね、教育が。ところが、一方、教育委員会制度になったら、いや政治は不介入やと。これはおかしいなと、こう思うんですがね。
昨日、文化勲章の受章が決まった蜷川幸雄さんや、俳優の西田敏行さん、上方落語協会会長の桂三枝師匠など実に多彩で、第一線で活躍されている文化人や芸術家が多数名を連ねておられます。 去る十月十七日には、人間国宝の野村萬さんやピアニストの中村さんなどが、みずから街頭に出て署名を呼びかけられました。これには大きな反響が寄せられたと聞いております。
そのことについてはこの演劇界の方たちも大変やっぱり憤慨をして、最初の新聞報道の中でも書かれておりますけれども、実際に今埼玉県の芸術文化振興財団の芸術監督をなさっている蜷川氏なんかも、新聞記事の一番下の中ほどですが、解任に近い性急な交代だ、鵜山さんが忙しくてコミュニケーションが取れないという理由はほとんど喜劇だと。
何が問題かということについては、やっぱり資料としてお付けしておりますが、二枚目に、「芸術監督選定プロセスの詳細開示を求める声明」ということで、下の方に声明を出された方々、井上ひさしさんとかほか有名な、蜷川幸雄さんとか、私でも知っているような演劇界の活躍されている著名な方々、それから劇作家協会等の団体からもこういった声明が出されている。
特に、京都の蜷川さんというのはスターリンみたいな人で、いや、本当にそうでしたよ。だから、野中なんて、よくあいつ闘ったよ、本当に、一人で。自民党で闘ったのは野中だけだったんだから。
私は今でも覚えておりますけれども、もし京都選出の議員さんに伺って、間違っていたら済みませんけれども、たしか蜷川知事が、十五の春は泣かせないという名ぜりふをして、高校全入を認めました。その結果何が起きたかというと、十八の春にみんな泣いた。みんなかどうか知りませんが、ややオーバーに言うと、十八の春に泣いた。
そのころ蜷川という知事がおられて、平家は二十七年で滅びましたが二十八年続いた。この人が全く東京に陳情にも来ずに、桂川の下水の処理が悪かったもので、そのころ大阪の知事は黒田といいましたが、淀川が真っ黒だと言われたときに、これは蜷川という川が流れ込むからだなんて冗談を言っておりました。これは、本当に公共投資の重要性というのは、そのころ大阪は塩素を入れて淀川の水をきれいにしなきゃならぬ。
私が大変印象的に思っておりますのは、初代の中小企業庁長官蜷川虎三さんなんです。長官時代にこういうことを言っておられるんですね。今、金融難である、金融難は経営難である、経営難の中には中小企業者の経営能力に問題がある場合が多いんだということを言っておられるんですね。ということは、そういう中小企業は救ってもむだではないかということを蜷川さんは指摘されているんです。
先ほど例に挙げました蜷川さんなんかは、二十八年間一回も東京に陳情に来なかった。そのかわり何もしなかった。ばらまき行政をやった。
特に、平家の治世というのは二十七年間、蜷川知事が二十八年間、平家の治世よりも一年間長かったというふうに聞いております。その間の公共投資が大変悪かったので、地下鉄は京都の場合大変おくれておりますし、それから、大阪はもう迷惑をしました。淀川が真っ黒になるのは蜷川が流れ込むからだなんて私なんか悪口を言っておったことがあるんでございます。
これはまだ始められたばかりで成果がはっきりしていないということでありますが、私の地元でも、蜷川さんが昔知事をやっておられましたときに、まだ全国の高校進学率が低い段階で、「十五の春は泣かせない」というキャッチフレーズで京都府立の高等学校をふやしまして、そして他府県に先駆けて進学率を九〇%に乗せたことがございます。
○奥田国務大臣 十五の春を泣かさないと言われたのは、長い間、七期にわたって京都府知事をお務めになった蜷川虎三さんでございます。
○吉田(治)分科員 今の答弁、本当に官僚的答弁で、私は、ある意味で私の先輩として非常に残念で、やはり胸中、あの蜷川府政の中で闘ってこられた先輩の思いを思いますと、そういうお答えしかできないというのは、私はある意味で残念この上ないということだけ申し上げまして、文部省予算に関しまして御質問をさせていただきたいと思います。
特にそのとき、先生が地方議会におられたときは、蜷川京都府政という俗に言う共産党府政のもとで大変御苦労されて、やはり地域というものがどれだけ重要か、民意というものがどれだけ大切かというのが十二分にわかっていらっしゃる大臣だと私は思っております。 そこにおきまして、まず冒頭に御質問させていただきたいことがございます。
ですから、私は、私京都ですから、「憲法を暮らしの中に」ということで、かつて蜷川さんが言われましたけれども、やはりそういう意味で言いますと、憲法を法の中にという精神で、しかもその大道の基本というものをしっかり据えるということが大事じゃないかと思うわけですね。
さらに、蜷川知事を支えるという立場もとられたこともあったそうですが、府議会議員に当選後は、「共産党を骨まで愛する」という蜷川知事の好敵手として定評があった林田知事の当選により、副知事に大抜てきをされたということで、大変異例なことであろうと私はこの経歴を見て感じたわけでございます。任期満了後、京都の二区の補欠選挙で激戦を勝ち抜いて中央政界にこまを進められた。時に昭和五十八年。
そして、一カ月たって私の昼飯代の請求書をくれと言いましたら、そうしたら、いや、京都府は蜷川さんの時代からずっと課長以上は昼食は公費で払っております、こう言うわけであります。
かつて社会党も多選禁止と言っておったが、京都に蜷川知事がおりましたね、彼にかわる者がいないから、多選禁止と言ったが、言い出した社会党もぐらぐらになっちゃったんですよ。そして、今、七期、八期なんかあるんですよね。これ、いけませんよ。選ばれたならば、四年間にきちっとやることやって、やれなかったら二期、三期と。細川さんが二期が限界だと言って知事を去ったということはやっぱり一つの見識だと思いますね。
そして、あるいは問題があるのかもわからないんですが、この例の、一九九三年だからことしの五月二十五日のアエラで、あなたは蜷川さんと対談しておられますね、アエラです、これ。 この中で、このことに関して、共産党の聴濤さんが参議院でこういうことを聞いてるんですね。
私は京都の選出でありまして、京都は昭和二十五年から五十三年まで二十八年間、日本の灯台だ、あるいは革新知事だと騒がれました蜷川三知事が君臨をされたところであります。したがいまして、そこで府会議員をやっておりましたので、いささか質問は野党的になることがあろうかと存じますが、よろしく御了承願いたいと思うのであります。