2021-04-16 第204回国会 衆議院 環境委員会 第5号
大西政務官、お伺いしますけれども、福岡市が官民挙げて板付基地返還促進協議会をつくって、もう六十五年になります。六十五年にわたって、この福岡空港米軍施設の全面返還を求めています。承知されていると思いますけれども、この声に応えて米国側に要請してもらえぬですか。
大西政務官、お伺いしますけれども、福岡市が官民挙げて板付基地返還促進協議会をつくって、もう六十五年になります。六十五年にわたって、この福岡空港米軍施設の全面返還を求めています。承知されていると思いますけれども、この声に応えて米国側に要請してもらえぬですか。
昭和四十七年、米軍板付飛行場の返還に際し、防衛省は、関係機関と協議の結果、米軍から返還された土地建物及び工作物といった財産について、そのまま、当時の運輸省に対して引継ぎを行いました。
昭和四十七年の米軍板付飛行場の返還に際し、防衛省は、関係機関と協議の結果、米軍から返還された土地建物及び工作物といった財産について、そのまま当時の運輸省に引き継ぎました。 その財産管理については、現在の国土交通省が行ってきておりまして、返還当時のパイプラインが敷設されていた付近から汚染が確認されているものの、汚染の原因特定には至っていないと承知しております。
そういった意味では、私どもとしては、プロモーションとかいろんなことをやりましたし、多言語の受入れとかいろんな形で随分とこういったようなものに関しましても、外国人観光客向きに少なくとも英語しか書いていなかったような、私どものところで、そうですね、板付空港なんというのを英語で書いてあったので、ここに来るお客の一番多いのは中国人じゃないの、次は韓国人だろうと、その点から、何だったら、外国人の紹介、まずは中国語
お尋ねの板付飛行場につきましては、米軍が今、九州地域における輸送拠点としてほかの米軍基地との間の物資や人員の輸送などのためにこの飛行場を使用していることから、直ちに返還することは困難との立場をアメリカ側は取っているというのが現状でございます。
○国務大臣(岩屋毅君) ただいま国交省からも答弁がありましたとおり、また委員御指摘のとおり、板付における米軍機の使用回数が他の民間空港と比較して多くなっているということについては私ども重く受け止めたいと思っております。
○国務大臣(岩屋毅君) 板付の飛行場について地元から返還要望があることは承知をいたしております。 防衛省としては、機会があるごとに返還の可能性について米側に確認をしてきているところですが、米側からは、今外務大臣から御答弁いただいたように、そういう理由で、すぐに返還することは難しいという説明を受けております。
背景はもう極めて簡単で、古賀先生の御地元でもありますけれども、福岡の板付空港に来る飛行機の数だと大体一機三百人ですけど、今現実問題、福岡港というのは、日本に泊まりますクルーズ船の一番は博多の港が一番で、一隻着きますと約三千人、飛行機の十倍の人数が降りてくるというのが実態ですから、とてもじゃないけど税関の現状、今までの職員では対応し切れないというのが非常に大きな問題になっておりますのが実情で、これは過剰
板付から移すわけ。これはとてもじゃない、足りないということになって、えらいことになっているという実態を、地元にいれば知っている、余り知っている顔じゃないけれども、こういうことになっているんですよ、実態として。これは非常に深刻なの。私どもにとってはこれは物すごく過剰ワークになっていますから。だから、こういったものに大増員せざるを得なくなる。
○仁比聡平君 だから、板付は、板付というのは、つまり福岡空港はかつて米軍板付基地なんですよ。那覇空港は米軍の直接統治下にあったわけでしょう。つまり、佐賀空港を日米地位協定で米軍に提供するとすれば、それは前代未聞の初めてのことなんです。それを今のように言を左右にして曖昧にする。そんなやり方で県民の理解を得られるはずなんて絶対ありませんよ。
それが、いきなり板付満杯、もう全然入れない、したがってみんなチャーター便は全部佐賀に降りるんです。佐賀には税関ありませんから、そうすると、どうしているかといえば、それを、板付空港から人をその着くときだけ移動させる、またこっちへ戻すと、物すごいことになってきて、過重労働というのは大都市空港だけじゃありません。それが実態です。
そういったような形になっていますので、私どもとしてはこれに対応しなくちゃいかぬというのでやっておるんですけれども、問題は、板付空港とか博多港じゃなくて、みんな佐賀におりていくんですね、すいていますから。佐賀空港にチャーターで。
佐賀空港、静岡空港、みんなもう、羽田におりられないから、成田におりられないから、板付におりられないからといってみんなそっちに来ちゃうものですから、チャーター便でお見えになりますものですから、そちらの方が黒になった。
そして、山内が言うことがうそと思うんでしたら、福岡、福岡出身いらっしゃいませんか、今の福岡空港はその前は板付空港なんです。その前は、旧軍が接収したときは席田と言っているんです、席田飛行場なんです。ここはやはり約束どおり旧地主に返還をして、名義も移してからその所属部隊は解散をしておるんですね。
そのものは後から日本に持ち込めばすぐに核兵器ができるということになっていたんですが、それを沖縄から常時、飛行機を飛ばして、十二機編成でしたか、板付と横田と三沢の三カ所に嘉手納から飛行機を順繰り、しょっちゅう回していれば、常時で瞬間がずっと継続していけば日本に核兵器がある、そこは航空機に載っけておれば貯蔵でもないし、航空機に搭載したままであれば関係ないということで検討したんですが、国務省の反対に遭って
これは結構、板付の周辺やら何やら、基地になった地域はほかにもございますので、そういった気持ちは私もわからぬわけではないんですけれども、その土地が私どものところに返ってきたときというのは、その地域におられた方は随分喜んでおられた記憶がありますので、そういった意味では、今言われたように、日米地位協定に基づいていろいろ履行をしておられるというのが双方の立場なんだ、私はそのように理解をしております。
こんな中で、私の選挙区には、板付遺跡という、お米が初めて縄文時代の末期から弥生時代の頭にとれた、そんな遺跡がありますけれども、この文化についてどうとらえるのか。
博多区には、吉塚西とか堅粕とか千代町とか吉塚、那珂、板付南、諸岡、月隈、東月隈、板付、博多とか、十何個ある。 また、東区の方にも二十個ぐらいありまして、それぞれの地域でコミュニティーをつくっています。
しかし、それだからといって、沖縄だけが戦後レジームの中でというような感じで、そこだけと言われると、これはほかの基地のあるところ、いろいろ皆それぞれ、その地域地域におきましては非常にいろいろ御負担をいただくところもお持ちですし、私どもも福岡というところにおりますんで、そこには、ずっと米軍の基地の多くはあったところにおりましたんで、板付、築城、雁ノ巣、いろいろございましたんで、そういった意味では私どももそういった
御存じのように、板付の場合は都心まで十五分という、大きな政令都市の周りにある飛行場としては日本じゃ一番近いぐらいの飛行場に私どもの場合おりますので、あれの持っておりますいわゆるアドバンテージ、有利さというのは極めて大きいと私はそう思っております。
しかし、板付米軍基地の近くに生まれ育ったこともあって、たしか四歳になる前の三歳のときだったと思います、灯火管制があったのをしっかり覚えています。それは、朝鮮戦争の折に、事実、灯火管制があったのです。そして私は、そういうこともあってか、小学生のとき、戦争をしないことを憲法で決めた、憲法第九条を学んだときのその鮮烈な印象は、今なお残っています。
福岡県の水防計画で位置づけられている水位観測所は、河口から七キロにあります板付橋水位観測所でございます。この板付橋水位観測所には観測人が配置されておりまして、いわゆる人間が張りついておりまして、水位情報等は県の水防本部に逐次報告されていたと報告を受けています。
東宝劇場、板付基地、砂川基地など。しかし、それ以後は、新規の土地について、米軍用地特措法による使用申請もしていなければ裁決も出ていない。おくれることも何もありはせぬ。 ところが、何にもないのですよ、わかっておるのに、それを今何で出してきたのかと言っておるのです。必要性も何もありはせぬじゃないですか。おくれたらいかぬからと。
そして、その前線基地の福岡の辺のことについて書いてあるのですが、板付空軍基地では二十九日午後十時十五分警戒警報が発せられて、灯火管制下に戦闘機が飛び立つなど基地は緊張に包まれた云々というのがあります。そしてまた、米軍当局は警報発令と同時に万一を考えて、数台の拡声器つきトラックを福岡市内に出動して、市民に警告を与えた。
私どもも当時の防衛庁の文書を入手しておりますが、それを国会の質問でも使いましたけれども、国内の民間港湾施設では、この地域では福岡港が挙がっており、そして民間飛行場という点では、全国八つの空港が挙がる中で、福岡、板付、宮崎、鹿児島、那覇と五つの空港が御当地にかかわるようなところでは挙がっているという状況があります。
○諫山博君 朝鮮戦争のころの福岡県の米軍基地というのは、一つは福岡市の板付空港、もう一つは遠賀郡の芦屋の基地、もう一つは小倉の基地でした。このすべてがもう戦争状態と言っていいような非常な混乱時期になっております。 例えば福岡市を例にとります。朝鮮戦争が始まって四日目に福岡市には警戒警報が発せられました。灯火管制も命令されました。