2014-11-05 第187回国会 衆議院 外務委員会 第5号
また、廖承志副団長は、世の中は道はない、歩く人が多ければ道となるという魯迅の話を引用し、歩き続ければ日中友好の道が開拓されることになると話されたと言われています。 代表団は、十三日間の滞在中、東京、名古屋、京都、大阪など六都市を訪問し、各地で交流した日本人は実に七、八万人を超えるとも言われております。
また、廖承志副団長は、世の中は道はない、歩く人が多ければ道となるという魯迅の話を引用し、歩き続ければ日中友好の道が開拓されることになると話されたと言われています。 代表団は、十三日間の滞在中、東京、名古屋、京都、大阪など六都市を訪問し、各地で交流した日本人は実に七、八万人を超えるとも言われております。
この一行は、十三日間日本に滞在し、日本各地を訪問され、この間、廖承志氏は、入閣前でありました高碕達之助さんともじっくりと話し合い、後に世に知られる日中貿易の原点となったLT貿易の基盤となる話し合いがなされたと言われています。
そして、あわせて御紹介がありました同訪日に同行した廖承志氏が、その後、高碕達之助氏との間でLT貿易を始められ、これを通じて拡大した民間の経済関係が日中国交正常化の背景の一つになったという意味で、この李徳全女史の訪日、これは日中関係の大きな節目であったと承知をいたします。
私は三十年、日中国交回復したその年の、翌月の一月に、今の島村君や与謝野君一緒に実は廖承志先生に招かれて、当時中曽根先生の秘書官同士として行ってまいりました。
○中馬委員 先ほど申しましたように、対中国の人的な交流、これが非常に大事なんですが、かつてのような、日本と中国のかなりトップレベルの、いや、それは政治的な意味ではなくて、周恩来さんが日本で留学したとか、あるいは廖承志さんや孫平化さん、こういったかなり影響力のある方と、日本のそれぞれ文化人やあるいはまた政治家が精神的なつながりまで持った関係を持っておりましたけれども、このごろは少し薄くなってきていることは
私ごとで恐縮ですが、無関係じゃないと廖承志さんが言ったのは、私の祖父が、田健治郎といいますが、台湾総督をかつて一九二〇年前後、五年ほどやっておりました。最初の文民総督であったことで印象がきっと台湾の人には強かったんだろうと思います。 大変わき道にそれましたけれども、そういうことからすると、現在国民党との間も共産党側からするとかつてのような意思疎通はないと。
もう一つ、そういう意味で言いますと、日中国交正常化交渉が成功したのは、一つはLT貿易と言われる高碕達之助さんと廖承志さんの名前をとって、そのお二人の個人的な事務所という形で貿易事務所を北京と東京に置いて、実はそれが大きな役割を果たした。 同時にもう一つ、記者交流ということをやりました。
台湾の問題も既に大分出ておりますが、二十年ほど前に廖承志さんが元気なころに、台湾の国民党の人たちは敵ではあるけれども抗日戦争を戦う意味で共通の敵を持った仲間であったから、かつては彼らが何を考えているか大体わかっていたけれども、ちょうど二十年前ぐらい、一九七〇年代終わりのころですが、最近は国民党も代がわりして彼らが何を考えているかよくわからなくなってきているという話をされて、田さんがもし台湾に行く機会
そういうことで、昭和三十年に当時の中日友好協会の会長でありました廖承志先生から、五十名代表を三十一年の春中国に招きたいという招請をいただいた。
○川崎(寛)委員 今答弁ございましたように日中経済覚書事務所、これは日中国交回復の前に、社会党がそのとき非常に努力をして、LT貿易という高碕・廖承志事務所というものをつくって、それが日中覚書事務所になったんですね。そしてこれが日中国交回復、こう参りました。このときにはこれは予算補助をしてきたわけです。当然のことだと思います、予算補助をいたしました。
という言葉を述べられて、中略いたしますけれども、私が大変感動したというのは、 日中正常化を実現された二十世紀の周恩来、廖承志、郭沫若などはいずれも日本で勉強したことのある人たちです。
かつて私は、高碕達之助先生のお供をしたりして、まだ廖承志さんとの間で細々としたパイプの、当時私は中国へ行って帰ってきて、日中議員連盟をつくったりしてやったわけですけれども、そういうときは見通しというものに自信があったし、先行きにも自信がありましたけれども、中東だけはちょっとどういうことか、もうちょっと勉強させてください。
それからもう一つ連関して、先日滋賀県の武村知事が訪朝いたしました際に金日成主席が、今後日朝間ではかつての日中間のように、ある時期の日中間のようにLT貿易ですね、廖承志・高碕達之助氏、LT貿易のような形で通商貿易関係を樹立する考えがあるというふうなことを正式に表明しておりますけれども、これについては外務大臣はどういうふうにお考えになりますか。
ちょっと私ごとになって大変恐縮なんですが、昭和三十一年に中華全国青年連合会、当時は廖承志さんが主席でしたが、日本の青年団協議会に対して五十名の招請がありました。
ところが当時なかなか難しい事情があって、当時廖承志さんが中日友好協会の会長をしておりましたが、そこらにもひとつ頼んで連絡をつけて、福井県だけで二十三家族ほど、昭和四十八年から五十年にかけて一時帰国の家族をお迎えしたことがあるのです。
特に、日中国交回復に至る過程では周恩来首相やあるいは先般亡くなった廖承志先生のような、非常に困難な時代に歴史の風雪に耐えて日中間のかけ橋になった方がたくさんおられまして、その方々のおかげで今日の日中関係というのは土台が固まったんだと思うのでありますけれども、今後はああいう形の方を見出していくということは非常に困難になってくると思うのでありまして、そういう意味で、何かいわば高度な留学生制度というのを我々
○河上委員 余り時間がございませんのでこの辺でやめますが、私は、戦後の日米関係の中でフルブライターが果たした役割というのは非常に大きいと思いますので、日中版フルブライト委員会みたいなものをつくって、第二の周恩来、第二の廖承志、あるいは日本の中国研究者として第二の吉川幸次郎のような人を出していくような留学生制度というのをやはりつくっていくことが必要ではないか、こんなふうに思っておりますので、これはここで
私自身は先般、二年ほど前でありますが、中国に参りましたときに、お亡くなりになりましたけれども廖承志先生がいらっしゃって、たまたま早稲田大学の先輩であるという意味で親しみもありましたので、正直申し上げて一番大事な漢字を粗末にしないでください、漢字には音ではなくて表意という意味で無言のいろいろな教えがある、私はとても大事な言葉だと思うし、特に今四十五億になりましたか、地球上の中で漢字にかかわり合いを持つ
私はいま国会を守る自由民権を口とし、民主主義を口とする人は多いけれども、だれが人民のために、——人民と言っちゃいけないと廖承志君が言った。私は烈々たる愛国者だと言って、一九六〇年に北京に行ったとき彼が言った。戸叶さんの日本の国で使っている言葉は国民だから、国民と翻訳を改めてくれと。廖承志君の偉さはその人の心をわかってくれることです。言葉じりで物を言っているんではない、気魄だ、人間の。
台湾問題というふうなことで相当突っ込んだ話をした相手は、中日友好協会の、会長は廖承志という人ですが、副会長の張香山という人がいるのです、この人は中日友好協会の実際上の中心的な実力者、こう私たちは見ておりますが、その人とのいろいろなやりとりの中でこの台湾の問題が出ました。
そこで、先日、日本の新聞協会代表団が中国に参りまして廖承志氏と会った際に、この代表団の団長は私の地元の西日本新聞の福田利光という社長でありますが、その際、廖承志氏から、台湾への武器売却問題で悪化した米中関係について、日本は中国、米国と深い関係にあり、政治的影響力を行使してアジア、世界の平和のために貢献することができるのではないか、日本として何らかの考えを表明すべき時期が来ているという趣旨の発言があったやに
中国はいままで、廖承志のお父さんの廖仲トウは暗殺されたけれども、国共合作をやって。ソ連とでも手を組まなければ軍閥を倒せないという必死の形においての中国のヤングチャイナの動き、それが兄弟党であるソ連に裏切られ、日本がドイツその他の帝国主義のまねをして、二十一カ条をたたきつけて親日から反日へ転換させた。
この間から中国の首脳部と総理は何回かにわたってお会いになりまして、鄧小平副首相、鄧頴超全人代常務副委員長、それから廖承志中日友好協会会長、三者いずれも総理の訪中を要望されたようにお伺いするわけであります。またそれと一緒に華国鋒主席が訪日する旨の意思表示が行われたように報道等によって承っているわけであります。