2021-04-09 第204回国会 衆議院 安全保障委員会 第3号
岸大臣のお言葉に加えてというか、私の理解を少しだけ開陳させていただければと思いますが、「名将」という表現がある中で、明治天皇のときの「山県 大山 山本」という表現がございましたけれども、ここにおいて、やはり明治のときというのは、大臣に当たる方とか、あるいは軍というか、大尉なのか、トップに当たる方々がいわゆるリーダーシップを発揮されたときであったのかなというふうに思います。
岸大臣のお言葉に加えてというか、私の理解を少しだけ開陳させていただければと思いますが、「名将」という表現がある中で、明治天皇のときの「山県 大山 山本」という表現がございましたけれども、ここにおいて、やはり明治のときというのは、大臣に当たる方とか、あるいは軍というか、大尉なのか、トップに当たる方々がいわゆるリーダーシップを発揮されたときであったのかなというふうに思います。
国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど 先生とあまりにちがったことをいうことになるので ひかえて居ったことを ゆるしてくれ 敗因について一言いわしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には 山県
○国務大臣(茂木敏充君) 山県有朋首相当時の主権線、そして利益線という考え方、恐らくかなり、当時はそうでありますけど、地理的概念、これが中心のものだったと思っております。
一八九〇年十二月六日、第一回帝国議会で、山県有朋首相は、括弧ですね、国家独立自衛の道に二途あり、第一に主権線を守護すること、第二は利益線を保護することである、その主権線とは国の境域、境界内の土地という意味です、をいい、利益線とはその主権線の安危に、密着の関係ある区域を申したのである、およそ国として主権線及び利益線を保たぬ国はござりませぬ、方今列国の間に介立して一国の独立を維持するには、ただ主権線を守御
今でも残っているのは、山縣農場といって山県有朋さんの別荘ですね。私が住んでいるところは大山巌さんの領地だったところ。私が生まれた町の中心部は永田町という名前なんですよ、大山巌さんが付けたらしいんですけどね。赤坂はありませんけれども、永田町は今でも残っています。 結局、この明治の時代、大正、昭和の初期を通して、割とおおらかな時代だったと思うんですね。
○吉川国務大臣 岐阜県の山県市で起きました豚コレラの発生の件でありますが、飼養衛生管理基準の指導をさせていただきましたのが先月の、二月の十五日と私承知をいたしております。その後、飼養衛生管理基準を完璧に満たしていただいたのがいつであったのかということは、また後ほど事務方から答弁をさせたいと思います。
昨日、農場の近辺で野生イノシシの豚コレラ感染が確認されていた農場として監視を継続しておりました岐阜県山県市の農場から異状の報告がございました。これは毎日の監視の結果でございます。この異状の報告を受けまして、農場に家保が参りまして採材し、精密検査を昨晩からけさにかけて実施いたしましたところ、けさ、豚コレラの感染が確認されたところでございます。
感染の広がりによって、殺処分の頭数は四万七千三百六十六頭に達して、そして、きのう、新たに岐阜県の山県市で発生しました。岐阜、愛知の豚十頭に一頭がもう処分を受けているという状況にあります。更に感染が広がっています。 そして、きのう発表された山県市での感染は、ことし二月、国の飼養衛生管理基準を満たしている、農林水産省はそれを確認しているとの報道がもう出ていますよ。
無鄰菴は、もともと明治、大正の元老山県有朋の別荘であって、配付した資料、皆さんにお配りしているわけです、写真にあるように、無鄰菴庭園からの眺望をホテルが一部遮る形になります。これがそうなんですけれども、今お渡ししている、一番左端がホテルで、中央部が無鄰菴の建物で、視点AからFが無鄰菴庭園からの眺望であります。全ての地点からホテルが見える。
冒頭に、この場をかりまして、先般、地元の岐阜県山県市で一月十四日に発生をいたしました鳥インフルエンザの早期収拾に、総理を初め、関係大臣を初め皆さんに大変御尽力を賜り、迅速な対応のおかげで、去る二月八日に解除命令が出されました。岐阜県としても、初めてのことなものですから、課題も再確認いたしましたけれども、まずもって感謝を申し上げるとともに、予算支援などを今後ともよろしくお願い申し上げます。
なぜかと申しますと、これは戦前の歴史がございまして、大正デモクラシーという中で二大政党ができ、政友会と憲政会という二大政党ができて、それでいろんな政治の民主化が進んだわけではございますけど、その当時何が起きたかと申しますと、そもそも官僚制度を山県有朋がつくったときには、官僚というのは官僚で人事を決めていくというもの、それを変えたんですね。なぜかというと、政党が力を持ち始め、政党政治を始めた。
それで、少数代表制については山県有朋が導入した議論で、山県有朋というのは、戦前、政党というものが出てくることを極めて敵視した政治家でありまして、そういう人が考えた制度、それを復活していいものかということであります。 日本では、選挙制度を変えまして二十年近くたちますが、今、公然と中選挙区制復活論があるのは、私などからいいますととても理解がしにくいことであります。
高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎、伊藤博文、山県有朋とか、ここでもたくさんの人材を輩出したという。これはまさに水戸学にあるということだけ申し上げて、教育の重要性をお話ししたいと思います。 ありがとうございました。
山県有朋以来の知らしむべからず、よらしむべしという伝統を大転換すべきという平成十四年の、あなたなら賛同してもらえたであろう原則にのっとって、それではこれからそのビデオのことを聞きますよ。一つ一つ事実を確認したいと思います。
明治二十一年に山県有朋が内務卿のときに市制、町村制をつくるんですよ。本格的な地方自治制度を我が国に入れるんです。そのとき彼が言ったのは、この地方自治をやることは国民の教育になると、ここでみんながいわゆる議会政治というものを学ぶと。民主主義の学校ですよね。それはいいんだけれども、もう一つ彼が言ったのが、私は大変感心しているんです、山県有朋という人が。中央政治の影響を遮断するんだと。
明治の初期に山県有朋が市制町村制という法律を作って日本の地方自治制度を発足させるわけでありますが、そのときの考え方がこの考え方であります。 図表では、何でもやれるということが一番左の端に書いてあります。一番右には何もやれないというゼロが書いてあります。
この地域一帯は、御存じのように明治の元勲の山県有朋の別荘とか、あるいは明治以来の著名な経済人の別荘が並んでおりまして、西川社長の元の、住友別邸もありますし博物館もある、そういうすばらしいところなんですね。非常に極めて環境のいいところでもありますし、また都市計画上、非常に規制が厳しくて、公的機関が持つのが一番私はふさわしいんではないかと、このように思うわけでございます。
山県内閣は、一八九八年に、こういう政治介入を排した身分保障つきの官吏制度をつくりました。その前の内閣は、御案内のように大隈内閣ですね、これが政治任用をやった。ところが、四カ月で倒れちゃったわけであります。まさにその百十年前の発想を繰り返しておっしゃっておられるわけであります。多分これは本音のことですよ。
そして、これを勉強したのが山県有朋で、それで日本に帰って明治二十三年の市制町村制という制度をつくるわけであります。彼は非常にこれを急いで、枢密院がぐずぐず言うのを詩を送ってハッパを掛けて、百年の長計遅疑するなかれと、ぐずぐずするなというハッパを掛けてこの法律を通します。
私は、北海道の網走刑務所も、前のところと現在のところと両方行きましたけれども、山県有朋がかつてこういうことを言っています。二度とここには戻ってきたくないという場所でなければ犯罪は抑止できぬと。これは今でも当たっていると思います。
日本の歴史でいきますと、たしか大隈内閣のときに政治任用を導入をしたのだと思いますが、これが猟官制度と言われて内閣のとんざとともに、たしか次の内閣は山県内閣だったでしょうか、これが排除をされて、現行の原型となるメリットシステム、身分保障制度が確立をしたとどこかの教科書に書いてあったのを思い出します。 いずれにしても、我々が目指す公務員制度改革は、アメリカをモデルにするわけでもございません。
彼なんかもその川上冬崖と接触をしたということで、結局、多分この「アトラス伝説」を引くと、山県有朋が陸軍をフランス式をドイツ式に変えるののいけにえにされたということなんですが、そういう悲惨な最期を遂げただけに、川上冬崖の絵というのは本当に貴重品でして、長野県でも冬崖の絵というのはほとんどないと、長野県出身なのにというような話を昔から聞いておりましたけれども、この測量の歴史の中ひもといただけでもそういうものがあるわけですね
そうでなくて、本当はそうでなくて、裏で、それが出された形にして、それがまた封を切らないまんま山県有朋のところへ戻っていたと。それを山県有朋はしっかり握って大隈重信や板垣退助と政治的に対決して憲政を我がものにしたと、こういう歴史なんでありまして、これ測量の地図一つ取ってもなかなか生臭い話でありましてね。
教育勅語が発布されるのに様々な天皇側近の準備がありましたけれども、明治二十三年、一九八〇年の六月二十日、当時の政府の高官でありました井上毅、後の文部大臣になっておりますが、当時の山県有朋総理あての書簡を出しまして次のように述べております。この勅語は他の普通の政治上の勅語と同じようになってはいけません、今日の立憲政体主義に従えば、君主は臣民の心の自由に干渉しないのですというふうに述べておりました。
伊藤博文とか山県有朋は、これは議員でもあったとは思いますが、政治家というのは、世の中のために、より良くしよう、良い社会をつくろう、良い国をつくろうと頑張っておられる方、これはすべて私は政治家だと思うんですね。 この国にも在野に大変立派な、NPO活動とか、いろいろな活動をされている政治家も一杯いらっしゃると思いますが、我々議員でしかできない仕事というのがあると思っております。