2011-11-29 第179回国会 参議院 法務委員会 第5号
○参考人(近藤恒夫君) 間もなく、山梨ダルクの話ですが、山梨ダルクはこの三年間ずっと山梨県警とソフトボール大会をやっております。警察の方はボランティアなのかも分かりませんね。いろんなユニフォームとか貸していただいて、いろんな人たちがそこで刑務所から出てくるような人たちと一緒にソフトボールをやっていて、とても警察の人から見ると異質な人たちですね。頼むから今度は長い長袖着てきてくれよとか、いろいろな注文
○参考人(近藤恒夫君) 間もなく、山梨ダルクの話ですが、山梨ダルクはこの三年間ずっと山梨県警とソフトボール大会をやっております。警察の方はボランティアなのかも分かりませんね。いろんなユニフォームとか貸していただいて、いろんな人たちがそこで刑務所から出てくるような人たちと一緒にソフトボールをやっていて、とても警察の人から見ると異質な人たちですね。頼むから今度は長い長袖着てきてくれよとか、いろいろな注文
○参考人(近藤恒夫君) 大変ですね、これは。離婚ということになるでしょうね。つまり、その人と一緒に、依存を持った人たちが一緒に住んだり生活しながら薬だけやめていくということはまず奇跡に近いと思います。私は分離させた方がいいと思いますね。しかし、それは期限がありますね。治療がちゃんと、自分である程度プログラムがきちんと入れば、自然とそういうふうに変わってきます。その間は約五年間ですね、元に戻るのは。私
○参考人(近藤恒夫君) 私は、日本ダルクという民間の薬物依存のリハビリテーション施設を二十六年前に東京の荒川というところで始めました。ですから、薬物依存症の人たちの回復、良くなる、悪くなっていく、そういうのを毎日のように見てまいりまして、この法案に反対するか、賛成するかというところでは私は意見を差し控えたい。つまり、私の仕事はそういう仕事でありますので、依存症のことをちょっと皆さんに理解していただきたいなというふうに
○近藤参考人 ダルクのない社会ができればすばらしいことです。しかし現実には、二十年前から考えますと、増殖に増殖を重ねてほとんどの都道府県にダルクができてしまいました。つまり、ダルクがあるということは、その地域の中のニーズがあるんだろうというふうに思います。 ダルクは当事者活動です。つまり、ダルクには先生はいないんですよ。みんな仲間として、そういう治療共同体ですね。その穏やかな、緩やかな中で、では、
○近藤参考人 例えば、この時代になって、再発防止はリハビリテーションが必要だということは、皆さんもう周知の事実だと思います。刑務所に何年もいて、急に出て、あなた、すぐ働きなさい、それは、結核の人に、もうあなたは退院したから、すぐあしたから十時間労働しなさいと言っているのと同じことです。 つまり、出所者の人たちは出所一週間前から興奮状態に入ります。出てからまた興奮状態に入ります。今まで飲まなかったコーヒー
○近藤参考人 近藤です。きょうはお呼びいただいてありがとうございます。 私は、荒川区というところで二十数年前に民間の、名もない、薬物依存のリハビリテーションセンターを設立いたしました。モデルはありませんでしたから、その当時、刑務所か少年院か精神病院、そういうかぎのかかる場所しかない、何とか社会の中で回復できるシステムはできないものかどうか、ずっと考えておりました。 荒川区というところはとても貧乏
○近藤参考人 とてもすばらしい、うれしいですね。もうこれだけで十分ですけれども。 確かに、アメリカの宣教会からお金が投げられました。それから、大分前に、多分、ブッシュさんが来日したときに、何でお金を置いていったのか私もよくわかりませんけれども、アメリカのコンピューター会社のプログラムマネジャーが来て、何か必要なものがありませんかと言うから、お金が必要ですと言ったら、ああ、そうですかと小切手を切っていったんですね
○近藤参考人 私たちのところでは、当然、半分以上は家族が最初に登場してきます。本人が直接ダルクに来るわけじゃないですね。半数以上は、家族が子供たちを引っ張ってくるわけです。 これはとてもアジア的なんですけれども、私たち家族が困るから子供をダルクに入れてくださいという考え方ですね。これはおかしいでしょう。ダルクは、本人がよくなりたいから、アイ・ニード・ヘルプ、私が薬がとまらないから助けてくださいという
○近藤参考人 日本ダルクと申しましても、とても貧弱な施設でございます。現在、二十六カ所に増殖しました。つまり、たくさん薬物依存者がふえたということよりも、行く場がない人たちがどんどんふえてまいりました。 十七年前のちょうど今の時期に、第一号のダルクが荒川区東日暮里に誕生しました。古い一軒家を借りて、そこで共同生活をしながら、お互いに励まし合ったり、ミーティングをしました。一九八五年のことでした。