○参考人(竹内理三君) 学問的評価というのは、それぞれの個人個人によっていろいろあるわけでございますが、私個人の意見を申しますれば、斎藤忠君のをただいまお読みになった意見に近いのでありまして、木簡はあの平城宮址からも非常にたくさん、数万点あるいは二万点近いといわれておりますが、出たのでございますが、まあ、地方で木簡が出たというのは、その平城宮址から出まして以来十数カ所に及んでおるのであります。しかし
○参考人(竹内理三君) 私、「伊場遺跡を守る会」の代表者となっております関係上私が申し述べますわけでありますが、これは会そのものの意見でもあると考えているんですが、とりあえず読売新聞紙上に私書きましたのでございますが、とにかくこの遺跡は非常に、今日までに見られた遺跡では類のない非常に雑舎的な八世紀から十世紀にかけて国家の地方官衙、地方行政府の遺跡であると、そういうふうにわれわれは判断したわけで、それでまあ
○竹内参考人 昨日も神奈川県で聞いた話ですけれども、鎌倉の周辺に、昔鎌倉武士が鎌倉に通った道があるわけてありますが、そのうちの一つに、名越切り通しというのがあるわけであります。それが数ある切り通しのうちで特別史跡指定になっておるのだそうでありますけれども、昨日、鎌倉の方のお話によりますと、指定された区域だけが残されて、その周辺がすっかり宅地に造成されたので、その史跡の意義がなくなってしまったということを
○竹内参考人 ただいまたいへんうれしい御意見を承りました。九州は、御承知のように、日本の歴史にとってはいわば歴史の門戸であって、古代史におきましてもただいまお話しのように非常に重要な遺跡が現存しておりますし、ずっとそれ以来、古代史に続いて近世になればいわゆる長崎、日本の窓口だった長崎があります。ぜひ九州地区にこういう国立の古文化研究所をつくっていただければ、日本の歴史をもっとよくはっきりさせることになるのではないかと
○竹内参考人 大体藤原京のことにつきましては、両先生からただいまお話しになりましたことでもありますし、皆さんもいろいろ議論を重ねられておると思いますが、実は私、終戦直後でございますが、九州大学に赴任した際でございます。当時は、御承知の蒙古襲来に備えるために、当時の武士が築きましたところの土塁のあとがなおあちこちに残っておったのでございます。ところが、私が満十年九州大学に在職しまして東京大学に帰りました