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137件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

1954-03-16 第19回国会 衆議院 議院運営委員会 第29号

当時の議員はみな自由民権のために闘つたために、相当疲弊困憊しておりまして、八百円が二千円になつては非常に大金を得ることになるので、みな喜んでおりましたけれども、田中正造がこれに強く反対した。しかし、この田中正造反対に対して、原案の二千円増額に賛成する者がいなかつたときに、星亨が敢然立つてこの賛成論をなしたために、この増額案が大多数をもつて可決せられたのであります。

野村秀雄

1953-11-06 第17回国会 衆議院 図書館運営委員会 第1号

たとえば明治二十四年ごろ国会開設当時に当選した福島県会津の生れの方で柴四郎という方、東海散史というペンネームの方が有名でありますが、この方が有名な自由民権運動を内容とした悲風惨雨世路日記という本を書いております。これは当時有名な本であります。将来長くわが国の自由民権運動史上におけるたつとい文学的文献と言いましようか、価値あるものであると私は考えております。そういうものなんか古本屋にございます。

庄司一郎

1953-07-29 第16回国会 衆議院 図書館運営委員会 第5号

それは、十五箇年の長い間国会図書館にお世話になつて参りました本員といたしまして気のついたことでございますが、国会図書館の中には、明治二十三年以降、具体的に申し上げると尾崎行雄先輩を初め国会会議員の各位が、自由民権とかあるいはルソーの民約説とか、その時代から翻訳あるいは創作、編纂なされたところの著書が相当多いと思うのであります。

庄司一郎

1950-07-29 第8回国会 衆議院 法務委員会 第8号

ところがその当時、監獄の名前が囚治監という時代に、大河原町に分監が開設されまして、有名な福島事件河野広中先生、あるいは佐藤清というような、当時の自由民権の鬪士が收監された分監でございます。その後明治二十三年ごろ廃止になりまして、旧刑法の改正と同時に、仙台宮城刑務所ということになつてしまいまして、大河原町にはこの分監がなくなりました。

庄司一郎

1950-06-15 第7回国会 衆議院 地方行政委員会 第36号

大体私どもが各新聞紙やその他のところから集めた情報は以上のようなものでありまして、こういうことは警察権力というものが、もう法律憲法も無規して、まるで暴力です、暴力をもつて民主主義運動平和運動弾圧する、こういうことは秦の始皇帝の坑儒焚書事件とか、徳川幕府の末期のやり方とか、あるいは自由民権運動に対する薩長軍閥政府弾圧やり方、あるいは東條、ヒトラー、ムッソリーニのやり方、あれとまつたく同じでございまして

池田峯雄

1950-06-15 第7回国会 衆議院 地方行政委員会 第36号

その自由民権運動を彈圧した。彈圧されたから、そこで武器をとつて圧制政府と闘わなければならぬということで加波山事件なつた。米騒動つて政府やり方が悪い。米の値段をどんどんつり上げて、穀屋にもうけさせるようなことをした。だからこれに対して民衆が大会を開き、そうして政府の反省を求めようとする。

池田峯雄

1950-02-10 第7回国会 衆議院 地方行政委員会 第4号

足尾銅山のストライキであるとか、あるいは米騒動に対してとか、あるいは大正大震災のときの朝鮮人の殺鐵であるとか、ずつと前にさかのぼりますと、憲法発布前の自由民権運動というようなものを日本軍隊が、薩長軍閥軍隊弾圧いたしましたけれども、そういう警察弾圧民衆が対抗いたしまして、結局曲りなりにもプロシャ憲法でありますけれども、憲法議会が開かれた、こういうことになつておるのであります。

池田峯雄

1949-04-19 第5回国会 衆議院 本会議 第19号

それは、私が今度の大藏委員会金議の経過におきまして、この條文の削除についきましては積極的なる主張を持ち、これは当然削除されるべきである、私は今まで長い間法律学もやりましたが、日本法制史をずつとひもといてみても、かりに明治の初年におきまして、あの條約改正に対して全國民が熱中しておるとき、治外法権撤廃のために皆樣方の祖先であるところの自由民権運動者が大いに闘つておるとき、つまり日本におきまして、まだ

風早八十二

1948-06-19 第2回国会 衆議院 議院運営委員会 第54号

自由民権を抑えるためにやつたというか、どういう歴史的事実があるかしらぬが、あれを草案した人は井上毅という人で、私は井上の友人という人から初めからのことをよく聴いておいたが、井上という人はあの時代において最も進歩的な人です。明治の御時世を開かれた明治天皇も、今の民権自由を圧迫したものでないということは、國会開設によつても明らかになつております。

工藤鐵男

1948-06-19 第2回国会 衆議院 議院運営委員会 第54号

それからもう一つは、もつと根本にさかのぼつていくのでありますが、自由民権運動が起りました当時、山縣内閣のとき、山縣さんが自由民権運動を彈圧するために、弾圧法令を出そうとして計画をしたのでありますけれども、非常な反対に遭いまして、その弾圧法令に代るものとして、ただいまの教育勅語をつくらせたという歴史的事実もあるのでありまして、それなども多少考慮に含めまして、この際主権在民民主主義精神から、少くとも学校

松本淳造

1948-05-27 第2回国会 参議院 文教委員会 第1号

さつき梅津委員からも歴史家に対する期待を述べられたのですが、これに対しても敬意を表しますが、御承知のように教育勅語はどういう歴史的事情の下に制定されたかといえば、明治二十年代に自由民権運動が盛んになり、日本國際的精神が高まつたその時に、憲法及び議会を制定するについて國民が民主主義的に進み過ぎはしないか、國際主義的に進み過ぎはしないかということに対する危惧の念から教育勅語が発布されたということは歴史上明

羽仁五郎

1948-04-05 第2回国会 衆議院 本会議 第39号

(拍手)  大石君は、明治十年、宮城縣登米郡石森町に生れられまして、自由民権の世論の澎湃たる中、帝国議会開設時代に成長せられたのであります。若くして東京日日新聞仙台支局長として新聞記者生活にはいられ、次いで明治四十二年、仙台市において日刊東北新聞を御創刊になりまして、その主幹となり、大いに健筆を揮つて立憲政治の進展のために御寄與に相なつたのでございます。

竹谷源太郎

1947-05-20 第1回国会 参議院 本会議 第1号

看板自由民権看板を掲げたが、中味は鎧兜を着た武士共であつた封建武士共であつた自由民権のヴエールをかけて、そうして多数の國民を搾り苦しめて來たのである。これからの政治お互い國民生活を守る政治でなくてはならない。人民による、人民のための、人民政治である。長い間、法律と、軍隊と、警察と、刑務所によつて守られておつた一部特権階級は、もう引込んでいい筈である。

松本治一郎