1949-04-25 第5回国会 衆議院 運輸委員会 第11号
從来現行法におきましては、港長の錨地の指定と申しまする、船の碇泊する位置を指定しまする権能が、あらゆる場合においてこれを定められておつたのでありますけれども、港湾の施設の経営者、管理者が行つてよろしいような錨地の決定、すなわち船が入つて参ります場合に、港湾の施設の経営者との間に、どこの埠頭に着くということが契約できるのでありますが、そういう点まで立ち入つて港長がこれをさらに行政的に規定する必要はなかろうというので
從来現行法におきましては、港長の錨地の指定と申しまする、船の碇泊する位置を指定しまする権能が、あらゆる場合においてこれを定められておつたのでありますけれども、港湾の施設の経営者、管理者が行つてよろしいような錨地の決定、すなわち船が入つて参ります場合に、港湾の施設の経営者との間に、どこの埠頭に着くということが契約できるのでありますが、そういう点まで立ち入つて港長がこれをさらに行政的に規定する必要はなかろうというので
本請願の要旨は、北海道上磯郡知内村は津軽海峽に面しまして、豊富なる魚田を眼前に控えてはおりますが、適当なる漁船の碇泊地がないために、思うような漁獲物をあげ得ないような実情であります。ついては最もその立地條件に惠まれた本村の湧元に船入澗を築設してもらいたいというのであります。
同港は二十三年度から工事施行をすることになつておるが、南堤と北堤は防波する何物もないので、強風の場合波浪を眞正面から受け、漁船の出入、碇泊不能又出漁操業もできず、無盡の魚田を傍観するばかりであるから、速かに築設を完成されたいというのであります。 請願第三十七号は浦河漁港修築に関する請願であります。
さらにまた請願第三六二号といたしまして、この請願の要旨は北海道三石郡三石船入まはその被履面積狹小かつ水深浅く、機船の出入碇泊に危險を伴い、一朝高浪時には繋留がまつたくできない、また三石村字鳧輸は、港湾として天與の地形に惠まれ、若干の人工を加えることにより良港となることは疑いない、ついては本道魚田開発のため、三石船入まの拡張工事の施行並びに鳧舞に船入まを築設されたいというのであります。
これも本村の北東海岸にある山麓に、毎日約三千トンから流出する水を、近所に碇泊する船に供給しておるので、これをまとめてりつぱな貯水池をこしらえたい。第三には現在ありますところの給油施設を拡充して、りつぱな給油施設に変えたい。この三つを含めた意味合いにおいて、いわゆる避難港としての設備をしてもらいたいという陳情をしてきておるような次第であります。
五箇年計画といたしましては、現在西、東の埠頭内港は廣さわずかに三万五千坪で、ようやく百トン以下の船を入れ得るのみでありまして、それ以上の船舶は外港に碇泊して、はしけで積みおろしをしておるような現状であります。
現在舞鶴は一日一萬一千、函館一日六千二百計一萬七千二百人、月に五十一萬六千人、これを四日間碇泊しているものとして計算して、月に十二萬九千人の收容能力がございます。佐世保は指令になかつたのでここに準備しておりません。併し佐世保港の能力は一日二萬、一ケ月六十萬、實際には十五萬人であります。以上を合計すれば、一ケ月二十七萬九千人の受入能力を有しているわけであります。
特に政府の意向を質して見ますと、政府の指定する開港場では、船舶の出入りから、船の碇泊場所の指定から、碇泊場所の変更に至るまで、そりような港湾の管理運営に密接不可分なものまでも、この二十一條によつてこれを取上げて、國家機関の手に移そうとすをのでありまして、私共は先日の知事会議の席上で、政府の出先機関を整理するということを約束された芦田内閣が、このような出先機関の強化、出先の國家機関の強化の法案を出されたということは
その目的のために船舶の出入、碇泊に関し保安上必要な定を設けましたり、あるいは港内交通安全のための船舶の遵守すべき航法を規定し、あるいは港内の危險物の取締りに関し必要なる規定を設けたり、漂流物、沈没物の除去その他水路保安に関する規定を設け、あるいは航燈及び信号に必要なる規則を設け、その他特に港内において起るような事項につき、交通安全上必要なる制限を設けることになつておるのであります。
貿易関係者の往來も漸く繁くなつて参り、殊に又最近はアメリカン・プレジデント・ラインの船が横浜に碇泊中に、その乗客はバスを連ねて、或いは鎌倉或いは東京などの見物を始めて來ております。講和会議開催の時期は延びましても、日米間の平和的交通は日に日に繁くなり、観光客の大々的來訪も近くこれを迎え得る情勢が窺われるのであります。この時に当つて我が國の観光客受入態勢はどうなつておるのでありませうか。
一面港内状況は天然の岩礁、港内五萬坪が起伏し、これを利用する一萬餘坪の埋立地及び外港工事は比較的容易な築造を可能とし、これが完成の曉は三千トン級船舶の碇泊も容易であり、大和礁の寶庫も二百海里の短距離にあり、また戰災長岡市への直線コース十六キロは中永線隧道八百餘メートルの開發をまつときは、帝都が日本海岸に結ぶ最短地點となり、佐渡物産はもちろん、海上運輸による裏日本北海道地方物資の本土集散地としても、當港
從つて河口も相當の水深と幅もあつて百石積の荷船さえ自由に出入碇泊することができた良港であつたのですが、歳月を經るとともに、御堂崎の崎壁も自然崩壞するに伴い、海水の壓迫を受け、河口も淺くなり、荷積船はおろか、漁船の出入もできなくなつたのであります。
しかるに終戰以來陸上輸送の隘路によつて魚津港の海運は日に月に伸展し、沿岸航路、機帆船の入港碇泊と、それら揚陸貨物の集散に往時を凌ぐ活況を呈するに至り、ここに再び伏木、直江津兩港に比肩する重要性を加へつつある現況に至つたのである。
本竃港と申しまするのは、長崎縣五島列島の中間に位する樺島村の本竃港になつておるのでありまして、港の口が西の方向に向いておりまする關係上、冬の季節が波に打込みまして、漁船が碇泊するに非常に不便であるばかりでなく、風が出ると一々小舟等も引揚作業をやらなければならないというような、すこぶる地の利に惠まれない港に相なつておるわけであります。
小濱漁港は福井縣若狭灣に臨み、昭和三年内務省直轄施行にかかる南川、北川改修工事の實施せられた機會に、舊南川廢川地域を利用して漁港とすべく、時局匡救事業をもつて、小濱橋下流兩岸の一部を埋立て、その全面に水面幅八〇メートルを有する繋船岸壁を築き、港内水面積二七、九四一平方メートル、水深二、五メートルに浚渫をなし、發動機漁船の碇泊に便ならしむる計畫のもとに、昭和七年十一月著手し、昭和九年七月完成いたしたものであります
昭和二十年の八月終戰となりましてからは、米國進駐重の鑑船が多數碇泊いたしまして、昭和二十年の暮からは、米國より軍用石油を積載した大小の油槽船が出入いたしまして、共同企業會社の油槽を使用することに相なりました。現在はこれら多數の大小船舶のほかに、木材船及び避難船が入港し、さらに別に石油輸入も漸次活況を呈しておるような次第であります。なおまた復員船の六隻が補水のために入港しております。
しかるに近年ようやく港内に砂泥などが堆積してまいりまして、船舶の碇泊に危險を感じ遭難またしばしば起るというような状態であります。殊に今日船舶の建造きわめて困難な事情のもとにおいて、船舶保護の見地より、これが改修は一日もゆるかせにすることのできない状態であります。
外國の艦が日本の港に碇泊している場合、それに侵入するという場合があるのであります。但しこの艦船の艦は省くということも考慮いたします。
その事實の現われとして、船をつくつて根據地へ囘送をする途中で沈没をしてしまつた、あるいは航行不能になつて途中で碇泊して修繕をする。全然改造しなければ漁業に從事できないというものが多數にあるのでありまするが、これらの船舶に對しては、どのような御監督竝びに指示をされておつたのでありましようか。そういう點も承つておきたいのであります。