1988-12-13 第113回国会 参議院 税制問題等に関する調査特別委員会 第10号
証人問題というようなことになりますと、昭和二十二年でございますか、占領軍からホイットニーさんがあの当時お見えになりまして、そして、占領政策とは勝者が敗者を治めるものである、されど勝者といえども敗者が飢え死にしないように、また凍え死にしないようにしなきゃならぬ。
証人問題というようなことになりますと、昭和二十二年でございますか、占領軍からホイットニーさんがあの当時お見えになりまして、そして、占領政策とは勝者が敗者を治めるものである、されど勝者といえども敗者が飢え死にしないように、また凍え死にしないようにしなきゃならぬ。
一方では、飢え死にをする人民が全く無視されている。こういう構図になっているのではないかと思います。ですから、ウルグアイ・ラウンドで農業の基本問題まで立ち入るということになっているわけですから、農業問題だけではなしに食糧問題という観点で進めていくという問題提起をしてはどうかという点であります。 四番目には、もっと戦術を駆使していただきたい。
駅の地下道では飢え死にの死体をまたいで歩いた。そのころのことをふと思い出して、何とも言うに言えない気持ちになって、別に決して帝国主義的でもなければ負け惜しみでも何でもない、何でもなく今昔の感という気持ちから涙滂沱としてとどむるあたわなかったことでございました。
戦争中私が飢え死にしかかったジャングルの中なんですけれども、二十を過ぎたばかりの若い女の人が一人で、師範学校でしょうね、そこで体操の指導をしている。それを見て私は大変感激いたしまして、何か最近の日本の若い者たちはマイホーム主義で自分のことしか考えない、このごろの若い者はだめだというふうな考え方をしておりましたけれども、それは大変な認識不足であるということを非常に痛感したわけです。
もう一つの問題は、二年前に当委員会で取り上げました、すぐれた日本の予防ワクチンを使って、開発途上国で年間五百万人の子供が亡くなっている、これは飢え死にだというふうに食糧不足の点だけが強調されてまいりましたが実は感染症である、この感染症対策を行うことによって年間五百万人の子供たちの命が救える。これは具体的に申し上げると、破傷風、ジフテリア、百日ぜき、結核、ポリオ、はしか、以上六種類。
一方に飢え死にしている人には食糧が行かないで、飽食でもう腹が膨れて困っている人にもっと食べろ、こういう構図が今地球の上で行われているわけですよ。ですから本来は、余っている食糧があるなら、それはその五億人の人たちに上げたらどうですか。それが本当だと思うのです。宇宙船地球号に住んでいる全体の立場からすれば、私どもはそうだと思うのですよ。しかし、その飢えている人たちの方は支払いの能力がないわけです。
昨年の一月、札幌の母子家庭の母親が、生活保護を窓口で拒否され、三人の子供を残したまま飢え死にした痛ましい事件を初め、東京の荒川区では、生活保護を一方的に打ち切られた老婦人が抗議の遺書を残して自殺するなど、次々と悲劇を生み出しています。日本国憲法において、国は社会福祉、社会保障の増進に努めなければならないと明記されております。このような不当な支給制限を直ちに取り払うべきであります。
いわば本当に飢え死にする環境がないというのがあるいは激変にも耐えてきたことの一つであるのかな、革命が起こらなかった一つでもあるのかな、こういうことを常日ごろ思っております。 もちろん財政法を改正しなきゃいかぬわけですが、仕分けして言うならば、赤字公債の依存体質からの脱却、そして一方、建設国債というのは期限を切った永久国債にしろというわけですよね、借りかえ借りかえで。
で、私が後で問題にしたいのは、このまま食糧危機が起こったら都市サラリーマンは片っ端から飢え死にしなきゃいかぬわけですね。こういうのじゃ困るんで、早く米だけでも自立してもらわなければいかぬというのが私の一つの目的なわけですね。
世界にああして飢え死にしている人があるならば、世界じゅうの人々、つまり日本人をも含めて、それぞれできようはずの食糧をあそこに、有料、無償は別、とにかく食べて生き延びてください、そうしてあなたの国々もひとつ再建、繁栄してくださいということにならなくてはいかぬじゃありませんか。それが国際的に云々ということは、外交の弱さじゃありませんか。
そうすると、外国に頼るかという選択を迫られるわけですよ、実際に飢え死にするかどうかの立場になった場合。こういうことから、私はもう結論的に言って、まず今の休耕田を全部復活する。そこに米を全部つくる。フル生産する。それで、平時はササニシキとかコシヒカリとか、収量の少ないうまいのをつくっておいて、余ったものはアフリカなんかに援助で出す。
○公述人(加藤秀俊君) 大変重要で深刻な問題でございまして、これはお話し申し上げていたら切りがないと思うのでございますけれども、結局、人類社会全体を振り返ってみまして、飢え死にする人間がいなくなったということが最大の原因であろうと私は思っております。つまり、貧困な国にももちろん非行はございますけれども、非行が一番目立っているのは豊かな社会でございます。
きっと臨調で言われているのは、もう余り飢え死にする人もなくなった、大体富が行き渡って、国民の九割が中流意識を持っているというような、何となくぼんやりしたもので言っていられると思うのですが、ともかく富があるということは、その分配において貧富の差がなくて、所得の再分配がうまくいっているということが成熟の条件だと思うのですね。けれども、そういう意味では成熟していないと私は思います。
ところが一方目を南の国の方、いわゆる開発途上国の方に向けていくというと、もう食べる物がなくて餓死していく、飢え死にしていくという気の毒な方々が何億もいると一いったような状態、それほど世界全部から、地球上全部から考えるというと、これは余っているんじゃなくて、穀物が非常に不足をしておる、こういうことなんですね。
というのは、飢え死にをしている人が地球上にいるわけですよ。それを、食糧が余っている国が、こっちも腹いっぱい食べている日本に買え買えというのですから。もっと飢え死にをしている人をどうするかということを考えることの方が、グローバルな意味の食糧問題ではないのでしょうかね。その観点が全くないのは、私はきわめて奇妙なありようではなかろうかと思うわけです。
そして、そのうち毎年五千万の人間が餓死しておる、一日十五万の人が飢え死にしておる、こういうことでございます。その三割が子供である。そういう報告が国連から出されております。昨年の十月のカンクンの南北サミットにおきましても、このことが南側の代表から真剣に提案をされました。
そういうところへ行きますと、これは環境だけ守れと言うと、おれたちは一体いつまでも飢え死にするようなことでいいのかと、それもあるわけですから、そういう場合も環境を守ることとそこの開発が一体となって進めるというようなことでこれから進んでいかなくてはならぬのじゃないかと思います。
そこで私は、いま世界で飢餓の状態にある人たちが四億五千万あると、これは国連の調べでありますから間違いない統計だと思いますが、そして毎年五千万の人がそのために死んでおると、こういう深刻な状態になっておるわけでありまして、この人たちをとにかく飢え死にさせないということのためには六、七十億ドルあればそれだけの食糧が確保できる。
ところが、昭和二十二年といいますと終戦後問もなくでありまして、飢え死にするかどうか、何百万人が飢え死にするおそれがあるというふうなことが言われておった当時でありますし、またすべての商品が不足をして、物価統制令等によってほとんどの物が価格統制がされておったと、こういう時代でありましたから、三十五年後の現在では大幅にというか、文字どおり今昔の感にたえないというほど変化をしておると、こう思います。
ですから、われわれが、後進国から飢え死にが出ているというようなそういう状況に対して、金に飽かせてアメリカ、カナダ等の食糧を買いあさっていく。これは本来はあの飢え死にをする子供たちに食わせる穀物であるかもしれません。それを横取りをして日本は家畜のえさにして乳や肉を食べているということであります。これこそまさに先進国の責任に反するやり方ではないかと思います。
ですから、置いておけば古くなる、しかも古くなった米ほど喜ばれる面があるわけですから、そういうものは、やはり飢え死にしている人たちが世界にあるわけなんで、そういう人たちにどんどん日本が提供することによって——有償ではありがたがられない、無償だからありがたがられる、今後はぜひ真っ正面から少し取り組んでいただきたいと思う、これは要望しておきます。