1953-10-17 第16回国会 衆議院 農林委員会 第37号
しかも大臣は前回の委員会において、昭和九年に時の農林大臣山崎達之輔氏が災害地をくまなく踏査して、そうして適切なる人情味のある施策の手を延ばしたということを敷衍しておるわけですが、きよう大臣にお目にかかつて、大臣が東北のあの深刻な冷害の様を見てどれだけの大きな感銘を受けて、現在の施策の上にそれを集現しようという熱意がどこにあるか、まつたく判断に苦しむのであります。
しかも大臣は前回の委員会において、昭和九年に時の農林大臣山崎達之輔氏が災害地をくまなく踏査して、そうして適切なる人情味のある施策の手を延ばしたということを敷衍しておるわけですが、きよう大臣にお目にかかつて、大臣が東北のあの深刻な冷害の様を見てどれだけの大きな感銘を受けて、現在の施策の上にそれを集現しようという熱意がどこにあるか、まつたく判断に苦しむのであります。
○安藤(覺)委員 私はここに広量かつ友愛に富まれる委員長並びに同僚委員諸君の御理解とお許しをいただいて、かつて私の親しく尊敬してやまなかつた故人山崎達之輔先生の最愛の弟子ともいうべき保利農林大臣、そうしてまことに私のかけがえのない親友として多くの恩義を重ねておつたあなたに対して、今ここに野党対与党の立場において、あなたの農政問題に取組まれる根本的な信念と、そうして基本的な政策についてお尋ねする機会を
第一点の質問は農林省はもと満業総裁の高崎達之輔氏に日魯、日水、大洋、この三社の行き方から、いつまでも平行線であるという理由で調停を依頼したとかいうような風評が飛んでいるのでありますが、それが事実であるかどうか。
かく考えますときに、少々とも明治六年に宗教についての勅令が出まして、その後明治十年、十七年と二回改正になりましたが、その後先ほど安藤さんが申し上げたことでありますが、大正十四年の加藤内閣のとき、岡田良平文部大臣のときに、宗教法案が議会に提出されましたが、当時は水野錬太郎、花井卓藏の引延ばし戰術によつて、とうとうあの厖大な質疑をされまして、安藤正純さんは多分その当時参與官であつて、山崎達之輔さんは政務次官
御決定になつたようでありますが、あの場所は多分昭和八年だと記憶いたしておりますが、北見に国有種馬場の設置をしたいというので相当な苦難な途を辿つて、丁度山崎達之輔氏が農林大臣の当時に、我々も何十日も上京いたします。そうしてそのあげくできた種馬場なのでありました。ところが御承知のように種馬場の必要がなくなりまして、あの場所には農家が十七戸おつたと記憶いたしております。