1956-03-30 第24回国会 衆議院 文教委員会 第23号
——立正交成会の教義は「法華教に基いて日蓮上人の教を奉じ、大曼陀羅を本尊とし、先祖の冥福を祈り、因果の実相を教えるが、そのために姓名判断などによって戒名や姓名を改めたりする。」こういう教義をつけて宗教法人の認証を求めております。しこうして、法華教といえばわが仏教の一大聖典であり、日蓮上人の教えも正しいことでございますから、それで認証されたものと思うのであります。
——立正交成会の教義は「法華教に基いて日蓮上人の教を奉じ、大曼陀羅を本尊とし、先祖の冥福を祈り、因果の実相を教えるが、そのために姓名判断などによって戒名や姓名を改めたりする。」こういう教義をつけて宗教法人の認証を求めております。しこうして、法華教といえばわが仏教の一大聖典であり、日蓮上人の教えも正しいことでございますから、それで認証されたものと思うのであります。
ソ連の言う理想あるいはアメリカの言うがごとき理想ならば、あるいはマホメットとかイエスキリストとか、釈迦とか、日本においては親鸞、法然、日蓮のごとき人ならばこれはけんかのない世界が生れることであろう。ものがなければ食わんでおろうというガンジーの気持ならば――。しかしそういうわけにはいかない。人間は欲がある。戦争は何から始まつたかと聞かれたならば、色と欲ということは定義であります。
一方農林大臣は粉食の奨励とか何とか、ばかの一つ覚えのよりに、まるで日蓮様が南無妙法蓮華経でもやつているようにほうぼうで粉食奨励をやつている。粉食とは私が言うまでもなく畜産が主体である。
それは私は最大の愛国者は、宗教的には六百年前の日蓮上人だと思つております。当時の制度その他において、今日はかけ離れておりますが、あの二十二歳の愛国者日蓮が、ときの北条幕府に対して、首をはねられることを覚悟して訴えられた日蓮の立正安国論を見ると、「所詮天下泰平に国土安穏ならんこと君臣の楽ふ所、土民の思ふ所なり。夫れ国は法に依て昌へ」――「法に依て昌へ」とは仏法であります。
あの人たちは、日蓮上人が国難に殉じたと同じ至情を持つて、今日破壊されようとしているところの祖国の平和と独立を守らんと太鼓を打ち続けるものであります。労働者、市民も又、誤まつた講和の結果、再び祖国が戰禍に省き込まれることを憂えて、中和擁護の旗の下に平和運動を推し進めているのであります。これすべて、民族の至情、愛国心の発露であります。首相はこの人民の至情をすら彈圧し去らんとするのか。
かつて北條政権のもとで、弾圧を受けながら日蓮上人がその教義を弘布して行つたということもありますが、戦時中を見ましても、天理教の中心的な教義であると思うのでありますが「泥海古記」というふうな聖典が問題になり、それから、私も読んでみましたが、日蓮上人遺文集というものが、やはり不敬罪を構成して弾圧され、それからその他教義上に対してのみいろいろな問題が起きるだけではなく、その教義が広められなければならぬという
あの日蓮も、親鸞も、イエスも、ルーテルも、その他昔のあらゆる名僧は、その信仰は受難と苦闘の中につちかわれ、血のにじむような修行を行つて、みずからさとりをひらいて来ている。そうして大衆に対して教義を広めて来たのであります。
おそらく親鸞や日蓮は今日の仏教をつくらなかつたのだろう、こう考えられます。もともと私は宗教家ではないのでありますが、最近の世相を見て、いかに宗教家の使命が重いかということについて、所管官庁である文部当局が、予算面にも、あるいはその他行政面にも特別の御注意をお拂い願いたい、かように思いますので、いま一度御信念をお伺いしておきたいと思います。
あの最も封建的な時代である鎌倉幕府時代に、日蓮上人が三十二歳で立正安国論を幕府にたたきつけたときに、相当の信念を持つて護国の精神を論いておるのです。ところがあなたはちようどその年輩でおられる。
そうして最高の学府を出た教育者として、ことに三十二歳という思慮分別のしつかりした精神のあるとき、往年の日蓮上人を思い出してここにはつきりしていただきたい。
過般のこの特別委員会でもお呼びになりました日蓮協の人、それから各金融機関等にも大蔵省から依頼をいたしまして、日蓮協に政府支拂いの遅延の実況を報告してもらつたこともございます。
それから第二に、その機構を改め、またいろいろな法規を改める上において、非常な障害になるものとして、私有物の件と、もう一つは宗教云々の件があつたようでありますが、この宗教の周囲につきましては、なるほど法隆寺については昔から佛教徒、新しい宗派のものでも、たとえば日蓮にせよ、あるいは親鸞の場合にせよ、そういうような人でも、この法隆寺に対しては非常に大きな敬意をささげていた。
寺泊という町は新潟縣即ち越後と佐渡の文化の発祥地でありまして、一番新潟縣で古い港であり、町であつたのでありまして、順徳天皇がお流されになりますときも、日蓮上人が佐渡に渡られるときにも、すべて佐渡との交通は、皆寺泊から出て寺泊に到着するようなことになつておつたのでありまして、從いまして歴史的の各然の遺跡が多いのみならず、佐渡との交通においては最も近く、最も便利な港として在來利用されておつたのであります