1993-04-26 第126回国会 衆議院 政治改革に関する調査特別委員会 第11号
ちょうど明治維新のときに、薩長土肥というものが統合して対幕府という勢力をつくりました。そういう歴史がやはりございましたよ。そのときにだれが薩長土肥をまとめていったのかという、この運動がやはり私は今野党の各党の中にできてくるべきが当然だろうと思うのです。
ちょうど明治維新のときに、薩長土肥というものが統合して対幕府という勢力をつくりました。そういう歴史がやはりございましたよ。そのときにだれが薩長土肥をまとめていったのかという、この運動がやはり私は今野党の各党の中にできてくるべきが当然だろうと思うのです。
そして、人口増はその間例えば薩長と言われた鹿児島県や山口県は一・八倍程度なんです。そして東京は約十倍です。だから、空から見るとどんどん人が東京に集まってくるということがわかるわけですが、一極集中もこういうふうな過程で行われたということにはある意味で経済的あるいは行政的な必然性があった。
その証拠には、明治初年の鹿児島県の人口、山口県の人口、いわゆる薩長土肥と言われる明治維新を起こした地域の人口と現在を比較してみますと、山口県、鹿児島県では二倍になっておりません。一・八九倍程度でございます。ところが、東京圏は十倍になっておる、一番ふえたのは北海道でありますが。そういういろいろな一極集中がこの間に行われたということは明らかであります。
これは、私自身の例をとって申しわけありませんが、私の郷里でも百二十年間、我がふるさと会津は明治維新のときに薩長に戦争で負けたために大学がないということで、大学をつくる運動をやっておりまして、最初国立大学ということで、これはもう国立大学は新設しないのだということであきらめて、県立四年制の大学が認められて、これは今建設中でありますけれども、また私学の地方分散の問題等もありますし、ただ、この法律の主務大臣
さらにさかのぼって申し上げますと、明治維新の際に、長岡藩は戊辰戦争で新政府軍というのですか、薩長軍との戦いに敗れ、焦土と化したわけです。その中から町興しをし、そしてさらに第二次大戦の末期になりまして、昭和二十年の八月に空襲により再び全市が焼けるというような状況であったわけです。
(拍手) かの動乱の幕末期に薩長土肥四藩の連合を果たし、維新の夜明けに身を投じましたあの土佐藩下級武士坂本竜馬の生きざまに、今私は限りない政治へのロマンをかき立て、この命生きる限りおのれの務めを最後まで果たしてまいる存念でございます。 どうぞこれからも皆さん方の御指導をよろしくお願いを申し上げ、謝辞にかえたいと存じます。きょうはまことにありがとうございました。
私どもが今ここでこうしてお話し申し上げている言葉というのは、大体幕末に薩長とお公家さんと、それから東京、当時の江戸でございますが、江戸の土着の言葉との合成語でございまして、このございます調の言葉というのは、大体明治維新以後しばらくして定着した公家言葉の連続と見てよろしいんじゃないか。これが正しいかといえば決してそうじゃありません。
この明治二年に設立されたというのは、戊辰の役の戦死者、当時の天皇の軍隊、違った言い方をすれば当時の権力を握っておりました薩長政権の軍隊、ここで天皇の軍並びにその権力機椎の軍に所属しておった人たちだけを祭ったのです。したがって天皇に対していわゆる忠誠を誓った人たち。国内において意見が違った者たちはここから排除されておる。
しかし、暴動が起きたら、その後、長州と——暴動を奨励するようなこと言っちゃまずいんだけれども、要するにその後は薩長横暴は静まったことは事実ですよ。私は警視総監になってびっくりしたんだけれども、歴代警視総監は薩摩ばっかりなんですよ、明治時代は。薩長横暴だった。ところが、大正からこっちになるとそうでないのが出てきた、こういう歴史的事実がある。だから、大衆運動もいいこともあるんだ。
それだけでなく、百年の計は、貧乏人でも勉強ができるような、日本のインチキ教育と違って、本当の教育を大衆に、政府が責任を負うようなものをつくり上げなけりゃならぬというところへ発想の転換が来たということは、苦労したかいがあって、中国は、日本の明治維新の後におけるああいう官僚、軍閥の、薩長藩閥の明治政府の自由民権をつぶしてきたものと違って、中国革命の進展過程において幾多の試行錯誤はあったけれども、現在、内部調整段階
伊藤博文などというのは、ドイツのカイザーやビスマルク——ビスマルクの方が少し気がきいているけれども、あれらにおだてられて、何にも知らないで薩長がプロシア的な一つのドイツ連邦における役割りを果たすために押しつけたそれよりも絶対主義的な憲法であって、通用しない憲法であります。
だけは削減させないように注意しろという、苦労の足りない、ビスマルクにだけ心酔したウィルヘルム一世が、明治十六年八月の二十八日と思いますが、ベルリンで伊藤博文にそのことを注意しておりますが、ビスマルクを神格化して大宰相としてあがめていたあの苦労の足りないカイザー及び日本の自由民権論者が、大隈にしても福沢諭吉にしても、イギリス流の責任内閣制を理想としたイギリス憲法的なものを日本に受け入れようとしたのに、薩長及
軍国主義国家のビスマルクに傾倒して視野の狭かったウィルヘルム一世のカイザー、明治三十六年八月の二十六日でしたかな、あのカイザーに説得されて、大変自由民権のイギリス流の憲法を追い落とすことによって、薩長の藩閥政府を樹立した手前上、ドイツを憲法制定の地と選んであの時分軍国主義の赫々たる威力を発揮したドイツにまねをして、イギリス憲法もヨーロッパの歴史も知らない、それが天皇の名によるところの軍隊、宣戦布告はすべて
私なんかに言わせれば、明治百年この方、何かもう薩長が世の中取っちゃって——大体東北の方は、雪国の方は、徳川についたばっかりにもう百年間ひどい目に遭っているという感じだってあるんですからね。この暖国政治を弾劾する意味においてもこれは直さぬといかぬ。大臣どうですか。
満州事変から中国戦争への道、統帥権というような非民主的なものが薩長軍閥によって明治憲法の中にあったことと、日本の体質がブレーキのきかなくなっていたことと、日清戦争や日露戦争のような廉潔な武人がなくて、立身出世にこだわったこと、今日の政党も、政権をとって大臣の禄でもはもうというろくでなしが多くなってきたから、そこにやたらに総理大臣でもかえて揺すぶり専門の政治家が出てきた。
しかも、その後、第一次世界戦争が起きるや、そのどさくさに、いわゆる薩長閥の軍閥官僚の親玉の山県が、桂が薩摩と民党と組んで倒された後、今度は民党と組んで山本権兵衛内閣を倒した。
私も一つたとえ話を出さしていただきますと、薩長連合軍が江戸幕府を攻めに上ってきたわけですね。ちょうど、二十四日の時点というのは、品川にとまって、そして砲門を江戸城に向けて、その威圧を、つまり威力を見せたと、それが二百七十数名の数だったと私は思いますね。
しかし、まとめた論文なんかを見るというと、まるで騒然としたというようなこともあるようでありますけれども、ただし徳川幕府に対する、あるいは薩長とかなんとかというような、そういう雄藩に対する考え方というものは、庶民の心として、庶民の一部、二万人の人間に聞いたらすぐわかるというような状況にはなかった。葵が枯れて菊が栄えるなんてことを考えた者はなかなかなかった。これがやっぱり世の中だと思います。
ここに明治二年一月元旦、薩長土肥の四藩主は、時の朝廷に向かってみずから版籍の奉還を行ないましたが、その建白書は、土地所有権のあり方を論じ、「其ノ与フ可キハ之ヲ与ヘ、其ノ奪フ可キハコレヲ奪ヒ」とし、さらに、「列藩ノ封土悉ク収メテコレヲ改メ定ムベシ」と、土地利用の公理に徹した建議を行なっておりますが、これこそは土地政策の核心を的確に指摘したものと申さねばなりません。
そんなことはわかり切っていることなんであって、私が申し上げるのは、これは北が南をどうしたとか、南が北をどうしたかということじゃなくて、少なくともベトナムの統一、このことについては民族自決の問題であって、そのために、明治維新のときに薩長連合軍と幕府が戦ったと、これはアジアの平和を脅かすからといって、もしイギリスなりフランスなりが日本を攻撃したらどうします。おんなじことじゃないですか。