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85件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

1993-03-26 第126回国会 参議院 地方行政委員会 第3号

そして、人口増はその間例えば薩長と言われた鹿児島県や山口県は一・八倍程度なんです。そして東京は約十倍です。だから、空から見るとどんどん人が東京に集まってくるということがわかるわけですが、一極集中もこういうふうな過程で行われたということにはある意味で経済的あるいは行政的な必然性があった。  

村田敬次郎

1993-02-23 第126回国会 衆議院 地方行政委員会 第3号

その証拠には、明治初年の鹿児島県の人口山口県の人口、いわゆる薩長土肥と言われる明治維新を起こした地域の人口と現在を比較してみますと、山口県、鹿児島県では二倍になっておりません。一・八九倍程度でございます。ところが、東京圏は十倍になっておる、一番ふえたのは北海道でありますが。そういういろいろな一極集中がこの間に行われたということは明らかであります。  

村田敬次郎

1992-04-21 第123回国会 衆議院 建設委員会地方行政委員会農林水産委員会商工委員会逓信委員会土地問題等に関する特別委員会連合審査会 第2号

これは、私自身の例をとって申しわけありませんが、私の郷里でも百二十年間、我がふるさと会津明治維新のときに薩長戦争で負けたために大学がないということで、大学をつくる運動をやっておりまして、最初国立大学ということで、これはもう国立大学は新設しないのだということであきらめて、県立四年制の大学が認められて、これは今建設中でありますけれども、また私学の地方分散問題等もありますし、ただ、この法律の主務大臣

渡部恒三

1988-10-26 第113回国会 参議院 国民生活に関する調査会 第3号

さらにさかのぼって申し上げますと、明治維新の際に、長岡藩戊辰戦争で新政府軍というのですか、薩長軍との戦いに敗れ、焦土と化したわけです。その中から町興しをし、そしてさらに第二次大戦の末期になりまして、昭和二十年の八月に空襲により再び全市が焼けるというような状況であったわけです。

丸山博

1988-03-22 第112回国会 衆議院 本会議 第9号

(拍手)  かの動乱の幕末期薩長土肥四藩の連合を果たし、維新の夜明けに身を投じましたあの土佐藩下級武士坂本竜馬の生きざまに、今私は限りない政治へのロマンをかき立て、この命生きる限りおのれの務めを最後まで果たしてまいる存念でございます。  どうぞこれからも皆さん方の御指導をよろしくお願いを申し上げ、謝辞にかえたいと存じます。きょうはまことにありがとうございました。

楢崎弥之助

1986-11-05 第107回国会 参議院 国民生活に関する調査会 第2号

私どもが今ここでこうしてお話し申し上げている言葉というのは、大体幕末薩長とお公家さんと、それから東京、当時の江戸でございますが、江戸の土着の言葉との合成語でございまして、このございます調の言葉というのは、大体明治維新以後しばらくして定着した公家言葉の連続と見てよろしいんじゃないか。これが正しいかといえば決してそうじゃありません。

加藤秀俊

1985-08-20 第102回国会 衆議院 内閣委員会 第18号

この明治二年に設立されたというのは、戊辰の役の戦死者、当時の天皇軍隊、違った言い方をすれば当時の権力を握っておりました薩長政権軍隊、ここで天皇の軍並びにその権力機椎の軍に所属しておった人たちだけを祭ったのです。したがって天皇に対していわゆる忠誠を誓った人たち。国内において意見が違った者たちはここから排除されておる。

小川仁一

1983-11-24 第100回国会 参議院 法務委員会 第2号

しかし、暴動が起きたら、その後、長州と——暴動を奨励するようなこと言っちゃまずいんだけれども、要するにその後は薩長横暴は静まったことは事実ですよ。私は警視総監になってびっくりしたんだけれども、歴代警視総監薩摩ばっかりなんですよ、明治時代は。薩長横暴だった。ところが、大正からこっちになるとそうでないのが出てきた、こういう歴史的事実がある。だから、大衆運動もいいこともあるんだ。

秦野章

1982-07-01 第96回国会 参議院 外務委員会 第12号

それだけでなく、百年の計は、貧乏人でも勉強ができるような、日本インチキ教育と違って、本当の教育大衆に、政府責任を負うようなものをつくり上げなけりゃならぬというところへ発想の転換が来たということは、苦労したかいがあって、中国は、日本明治維新の後におけるああいう官僚軍閥の、薩長藩閥明治政府自由民権をつぶしてきたものと違って、中国革命進展過程において幾多の試行錯誤はあったけれども、現在、内部調整段階

戸叶武

1981-09-08 第94回国会 参議院 外務委員会 閉会後第1号

だけは削減させないように注意しろという、苦労の足りない、ビスマルクにだけ心酔したウィルヘルム一世が、明治十六年八月の二十八日と思いますが、ベルリンで伊藤博文にそのことを注意しておりますが、ビスマルクを神格化して大宰相としてあがめていたあの苦労の足りないカイザー及び日本自由民権論者が、大隈にしても福沢諭吉にしても、イギリス流責任内閣制を理想としたイギリス憲法的なものを日本に受け入れようとしたのに、薩長

戸叶武

1981-06-02 第94回国会 参議院 外務委員会 第11号

軍国主義国家のビスマルクに傾倒して視野の狭かったウィルヘルム一世のカイザー明治三十六年八月の二十六日でしたかな、あのカイザーに説得されて、大変自由民権イギリス流憲法を追い落とすことによって、薩長藩閥政府を樹立した手前上、ドイツ憲法制定の地と選んであの時分軍国主義の赫々たる威力を発揮したドイツにまねをして、イギリス憲法もヨーロッパの歴史も知らない、それが天皇の名によるところの軍隊宣戦布告はすべて

戸叶武

1978-04-18 第84回国会 参議院 外務委員会 第15号

満州事変から中国戦争への道、統帥権というような非民主的なものが薩長軍閥によって明治憲法の中にあったことと、日本の体質がブレーキのきかなくなっていたことと、日清戦争日露戦争のような廉潔な武人がなくて、立身出世にこだわったこと、今日の政党も、政権をとって大臣の禄でもはもうというろくでなしが多くなってきたから、そこにやたらに総理大臣でもかえて揺すぶり専門の政治家が出てきた。

戸叶武

1976-08-27 第77回国会 参議院 ロッキード問題に関する調査特別委員会 閉会後第26号

私も一つたとえ話を出さしていただきますと、薩長連合軍江戸幕府を攻めに上ってきたわけですね。ちょうど、二十四日の時点というのは、品川にとまって、そして砲門を江戸城に向けて、その威圧を、つまり威力を見せたと、それが二百七十数名の数だったと私は思いますね。

木島則夫

1974-04-04 第72回国会 参議院 文教委員会 第7号

しかし、まとめた論文なんかを見るというと、まるで騒然としたというようなこともあるようでありますけれども、ただし徳川幕府に対する、あるいは薩長とかなんとかというような、そういう雄藩に対する考え方というものは、庶民の心として、庶民の一部、二万人の人間に聞いたらすぐわかるというような状況にはなかった。葵が枯れて菊が栄えるなんてことを考えた者はなかなかなかった。これがやっぱり世の中だと思います。

小林武

1972-10-31 第70回国会 衆議院 本会議 第4号

ここに明治二年一月元旦、薩長土肥の四藩主は、時の朝廷に向かってみずから版籍の奉還を行ないましたが、その建白書は、土地所有権のあり方を論じ、「其ノ与フ可キハ之ヲ与ヘ、其ノ奪フ可キハコレヲ奪ヒ」とし、さらに、「列藩ノ封土悉ク収メテコレヲ改メムベシ」と、土地利用の公理に徹した建議を行なっておりますが、これこそは土地政策の核心を的確に指摘したものと申さねばなりません。  

春日一幸

1972-06-01 第68回国会 参議院 内閣委員会 第16号

そんなことはわかり切っていることなんであって、私が申し上げるのは、これは北が南をどうしたとか、南が北をどうしたかということじゃなくて、少なくともベトナムの統一、このことについては民族自決の問題であって、そのために、明治維新のときに薩長連合軍幕府が戦ったと、これはアジアの平和を脅かすからといって、もしイギリスなりフランスなり日本を攻撃したらどうします。おんなじことじゃないですか。

水口宏三