1988-03-15 第112回国会 参議院 予算委員会 第7号
代表的なものを挙げますと、一七〇三年の元禄地震、これは海洋型の代表的なもので、房総半島の南東沖といいますか、南部沖が震源地域でございました。次いで安政二年の一八五五年、安政江戸地震、これは内陸ですが、大変強い被害を下町中心に与えました。三つ目の代表が広く知られております関東大地震、一九二三年の地震でございます。
代表的なものを挙げますと、一七〇三年の元禄地震、これは海洋型の代表的なもので、房総半島の南東沖といいますか、南部沖が震源地域でございました。次いで安政二年の一八五五年、安政江戸地震、これは内陸ですが、大変強い被害を下町中心に与えました。三つ目の代表が広く知られております関東大地震、一九二三年の地震でございます。
なぜ外為法改正に踏み切ったか、これは正直言いまして、私も通産大臣になりましてからもう九回外遊をいたしましたが、アメリカヘ行きましてもヨーロッパヘ行きましても中国へ行きましても、どこへ行きましても、私も大正の人間でございますけれども、もう昭和元禄で四十二年間戦争なしで平和な世界、日本に住んできたわけですけれども、我々がおおよそ考えることのできないほど国防意識は各国強うございます。
日本だけが昭和元禄の今のままでいいのだろうかとつくづく思います。 まあお答えになったかどうか私にもちょっと自信がありませんが、あえて青山君の御意見に対して私の経験と心境を申し述べた次第であります。
平安朝やローマで……幾ら元禄時代があったとしても、あれはもう一部の貴族だけで、一般庶民はそうじゃなかったんですね。 そこで、ちょっとはしょりますけれども、現在GNPの問題で、四%だ三%言われるんですが、これは生産サイドの問題なんですよ。消費者サイドにとってはGNPにカウントされないものがうんと影響があるんですね。例えば土地の値段が幾ら上がったってこれはGNPに関係ないですよね。
さらに、そのもう一つの根拠は、関東地震のときに同時に小田原付近の地震も起こったのだ、それを一つと数えまして、それから七十年前に地震が起こった、もう一つ前に起こっている、そのうち二つは関東地震の前、元禄地震のときにも一緒に起こった、こう言っておるのであります。ですから、それが一緒に起こったといたしますと、確かに七十年に一遍起こっておるということになります。
いわゆる通学道路といっても、地図を見てもわかるけれども、昔の元禄時代の図面がうちの方にございますけれども、元禄の図面と道路はぴったりです。ただ、耕地整理をしたから新しい道路が少しできたけれども、市街地の道路は元禄の地図と比べればぴったりです。
しかし、慶長年間云々とか元禄年間の創立、創立二百三十年なんていうところは、二年や三年、五年や六年わかりませんよね。ところがはっきりしない、わからないほど古い、そういうのれんこそ誇るべきものであるということも言えるわけであります。 お亡くなりになりましたけれども、百二十歳の何とか重千代さん、あの人の生まれ日についてもいろいろ週刊誌等に書いてございました。
彼いわく、私は生まれてすぐカレンダーを見たわけでもないし、どうもそれはつまびらかでない、だけれども、親御さんから教わった日を生まれ日だと私は信じているのでありまして、しかし、警察さんに聞かれたらきちんと答えなくてはならぬと思って、おれはそういうふうに聞いた、こう答えたと言うのでありますが、建国の記念日のごときも、例えば古い慶長年間あるいは元禄年間の初めのころに我がお店は創業され、三百何十年と言っているところにそのお
これは言いにくいのですが、私の議員立法だから言いにくいのだけれども、しかし十三年たって、当時私は、防衛問題片手に昭和元禄生類哀れみの令をつくる大出俊代議士なんて写真を新聞にでかでかと載せられて弱った時代もあるのですけれども、今でも立法の趣旨はというと、政府がつくったんじゃないですから、提案理由の説明も質問の答弁も衆参ともに全部僕ですから、そんなことで非常にかかわりが切れないのですけれども。
その芝居の中で、これは堂島の米市ができたのは一六九七年、元禄時代だ。二百八十年ほど前です。宝暦四年はちょうど二百三十年ほど前でございますが、薩摩が大変資金調達に苦労いたしまして、堂島に出かけていってやるわけです。一方、薩摩が沖縄とかあるいは奄美を押さえて黒糖を調達しておる。
○青木茂君 そういたしますと、かつて四十年代でございますか、昭和元禄という言葉がはやりましたんですけれども、そこで貿易摩擦の問題、国際化の問題が一番大きなエンクロージャー的なものだとするならば、今はちょっと元禄じゃなくて文化・文政時代に近いような感じがするんではないか。そうすると、今の貿易摩擦というのは、あのときの黒船的なインパクトを与えるんじゃないかと。
○大出分科員 私はさっきから何遍か自分で苦労した話をしましたが、あんまりこんなことを言いたくないが、私の議員立法なんて知っている人は少ないけれども、当時昭和元禄生類哀れみの令をつくる大出代議士なんてでかでかと書かれましてね。
例えば有名なのは元禄とか天明、天保、こんなような時代がございます。最近も起きておりますけれども、江戸時代と比べますとその変動幅がかなり小さくなっているということがおわかりになると思います。
日本は昔、よく言うんですけれども、徳川時代の元禄時代は三千万人で、そのときは外国からの輸入とかそういうものを考えなくても元禄花見踊りでやあやめと、こういうふうにやれた。しかし、現在では一億一千万からの人口が集中しているわけですから、これ以上ふえてくるとなかなか大変だという、これが実態でございます。
つまり、文化が発達する国は、常に高成長の後成長率が急激に低下いたしますと、――現在の日本でいつでも文化、文政、元禄、いずれもそうでございますけれども、そのようなときに文化が開化していく、こういうことでございます。
元禄の貨幣の改鋳と同じで、これを益金だという考え方を持つと私は大変だと思うんですよ。たとえば千円でも一万円でもできるんですから、つくり出す気になれば。そうでしょう。
○丸谷金保君 これを益金と見る見方をしますと、これはまさに元禄時代の考え方と同じなんですよね。益金だと、原価がそんなにかからないんです。それでいいでしょうか。もう一回ここのところをはっきりさしてください。
それでまさに福田さんが昭和元禄と言われた、それに対応して、この機会に大臣の見解をお伺いしておきたいんですが、江戸幕府の勘定奉行で元禄時代の荻原車秀、この人はどういうふうな事績を持っておられる方か御存じでしょうか。
そういう意味では、かつて高度成長期の後半期あたりから、いわゆる昭和元禄と言われたあのあたり、確かに東京の二十三区の中で私の勤務する足立区というのは、地域的状況というのはきわめて恵まれない状況にあります。昔から子供の非行と無縁であった日は一日もない、そういったような学校で勤務しておりますけれども、しかし、あの昭和元禄の時代は、三年ほど警察補導ゼロといった時期もありました。
戦後の日本の平和な繁栄というものを見ますと、これは徳川時代以来いろんな時代があったけれども、あるいはその前の織豊時代あるいは元禄の文化あるいは明治維新以後の日本、大正の民主主義、そういういろんな中でも最も輝かしい時代が後であの時代であったと言われるのじゃないだろうか、それは汎国民性という面において元禄時代よりまさっているし、非軍事性という面において明治時代よりまさっているし、そのほかいろんな面において
それから慶長小判、元禄小判、天保小判、二分金、一分金、二朱金、一朱金など江戸以前のものが合わせて金貨四千四百九十四枚、それから銀貨が一万六千四百三十枚等々あるということで書いてありますが、違うのですか。あなたの言われた数字と大分違うようですが……。
○楢崎政府委員 さらに詳しく申し上げますと、享保大判が二枚、万延大判が一枚、天保五両判が一枚、慶長小判が二枚、元禄小判が一枚、宝永小判が二枚、享保小判が九枚、安政小判が二枚、正徳小判が一枚等々でございます。 〔大原(一)委員長代理退席、委員長着席〕
ですから、そういうドラマもあっていいと思うんですけれども、NHKの場合はやはりたくさんの方がごらんになるわけですから、子供たちが見ても、社会科の先生にああいう言葉遣いがあったんですかと聞いて、そんなものはありませんよ、あの元禄時代にかっこいいだとかそういう言葉を使うわけありませんよと言われることのないようにお願いをしておきたいと思います。