1969-11-21 第61回国会 衆議院 大蔵委員会 第53号
だから学生でも、学生運動のああいう現象面だけ見て、ゲバ棒をかついでいるのはけしかるとかけしからぬとか、火炎びんを投げるのがどうとかこうとかいうことだけでは、私は本質的な問題は解決しないと思う。きょうはそういう問題じゃありませんからしませんけれども、やはり人間自体が考える思考方法でも倒錯した、何が善なり悪なり、何が正義なり不正義なりわからない、こういう社会というものができてきつつある。
だから学生でも、学生運動のああいう現象面だけ見て、ゲバ棒をかついでいるのはけしかるとかけしからぬとか、火炎びんを投げるのがどうとかこうとかいうことだけでは、私は本質的な問題は解決しないと思う。きょうはそういう問題じゃありませんからしませんけれども、やはり人間自体が考える思考方法でも倒錯した、何が善なり悪なり、何が正義なり不正義なりわからない、こういう社会というものができてきつつある。
しかし私は、だからといって、君らがここでもってそれに乗ぜられて、ゲバ棒を持ったり鉄かぶとをかぶったりするようになったら、君らの希望というものは実現しないぞ、世論は離れていくぞ、警察はどうであろうとも、まだ隠忍自重しなさいというふうに、私は学生諸君に言った。それを聞いてくれたかどうか知らぬけれども、以来まだそういうものに対するあのときのような気持ちを出してはいないのですよ。
○三井説明員 最近、いわゆる過激派の学生が学園内であるいは学園の外、街頭においてゲバ棒を持つ過激な行動をやっておるわけでございますが、これが暴力であることはだれの目にも明らかでございます。しかしながら、これが長い間続いておりますために、あれだけが暴力であって、あそこまで至らないものは暴力のないというような傾向が生じてまいりますと、これは法律上においてゆゆしい問題だと思うわけでございます。
○小林委員 ゲバ棒を持って行動しておるときだけが暴力ではない、確かにそのとおりであります。しかし、そこまで至らぬようにお互い関係する者は気をつけて、これを制圧しなければいけないわけなんですよ。だが、それを制圧することがよけいに刺激をしてゲバ棒を持つようにするというごとも、また考えなければならぬことだと思うのです。
そんなことをしておるから大学にゲバ棒が入ってくる。そういう責任はやはり三権を主管するものが負わねばならぬ。こう考えましたときに、私はやはり行財政の全体につきましてもっと深刻に批判するような機構と運用とあってしかるべきであると思います。こういう観点からいかねばならぬと思いのです。
ゲバ棒の学生があったり、乱闘的な国会があったりすることは、まだしも清新はつらつたる感じがして気持ちがいい。日本をヨーロッパやイギリスのような国にしてはいけない。もしこれがいけなかったら、あなたのほうから大宅壮一さんのほうにひとつ横やりを入れて、異議をおっしゃっていただきたいと思うが、まさかそうはおっしゃらないと思う。警察当局は長官もおかわりになった。
私どもは、学生のゲバ棒を絶対容認するものではありません。問題を何ら解決するものでないからであります。なかんずく、いわゆる内ゲバは、学生運動を退廃させるものでしかありません。 以上のような観点で、全国の大学にこの結論を送付いたしましたところ、数多くの大学の御賛同を得ております。また、東大や学術会議の結論も、私どもの主張とほぼ同じ趣旨であります。
○前川旦君 衆議院で公明党の伊藤委員ですか、の質問に対してあなたお答えになっていらっしゃいますが、たとえば対象とする集団がゲバ棒とか火炎びん程度のものじゃなくて、ライフル銃のようなものをかなり多数備えているような場合、これは質の問題ですね。それからそうでなくて、非常に長い間全国的に長期にわたって騒乱がある場合、これは量の問題といいますか、そういうことだろうと思います。
主権在民のもとにおいて、国民から選ばれた国会がつくる法律、これはやはり国民の意思だと考えていただいていいと思いますし、これと対等に、ゲバ棒対ゲバ棒だというような考え方から、力の対決という論理は間違いではないか。
まあゲバ棒の論理などということもいわれますけれども、そういうことの中にも、やはり自分自身で何か言いたい、それが場合によってはゲバ棒という暴力的な形をとることもあれば、あるいは大衆団交の要求ということにもなってあらわれてくる。それから第三には、おとなの政治社会に対する不信感。
ただ現実には、あの場合におきましても、御承知のように数千名のゲバ棒連中によって護衛されておる。その中の出現であったのであります。これをもし持凶器強盗でもつかまえる、体当たりでその一人を、どんなことが起ころうとも断じてつかまえるという覚悟であるならば、私は不可能ではないんじゃないかとさえ疑問を持ちました。聞けば、警察比例の原則ということが厳然と守られながら運営されておると承知をいたします。
大学と暴力は無縁であるとともに、ゲバ棒もヘルメットも覆面も無縁だと思うのです。ゲバ棒やヘルメットを当然のごとく認めておくということ自体に、やはり教育環境の場としては不適切な要素がある。ゲバ棒がなくてヘルメットがなくて、あるいは火炎びんがなくて石がなければ暴力もそう起こらない。素手の暴力となりますと限界があります。
これは一朝一夕に――それは、いまでこそあの連中、ゲバ棒まがいのことをやるかもしれませんが、最初からそんな乱暴な百姓でもなければ何でもなかった。世間一般の普通の百姓ですよ。その諸君が今日まで追い込められて、さんざんいためられて、そして腹の底から怒り切っている。だからそういう不信感というものが出てきたんです。
ゲバ棒と称されている学生集団は単に大学に反抗しているだけではなく、日本国憲法の規定している秩序の破壊を企て、それを堂々と公言しています。理性を基礎として話し合うというのではなく、一方的に力を行使し、現体制を破壊しようとしているのでありますから、これに対し、大学自治を云々して公権の発動を妨げるのは破壊行為を扇動し、国民に迷惑をかけるだけであります。
いまのゲバ棒をふるっている青年と同じように二十一から五でございます。非常におとなに見えますけれども、全く子供でございます。
(拍手) ゲバ棒と称されておる学生集団は、単に大学に反抗しているだけではなく、日本國憲法の規定しておる秩序の破壊を企て、それを堂々と公言しております。理性を基礎として話し合うというのではなく、一方的に力を行使し、現体制を破壊しようとしておるのでありますから、これに対し大学自治を云々して公権の発動を妨げるのは、破壊行為を扇動し、国民に迷惑をかけるだけであります。
おっしゃることは、通称ゲバルト、学生にあるまじきゲバ棒を持って人をなぐり回すというあの不届き者がどうして起こったかというお尋ねかと存じます。
○説明員(丸山昂君) ただいまの事情でございますが、二十七日の零時二十五分に札幌の北署の北十条西交番に食堂を経営しておる中野さんという方から電話がございまして、現場付近で助けてくれという声が聞こえたために、声の方向に向かおうとした際、ジープが一台停車しておったので、その運転手に何があったのかと尋ねたところが、ゲバ棒を持った学生十数名が一人に暴行を加えていると、学生同士のけんかだろうということであったので
暴徒がゲバ棒とか火炎びん程度のものであれば、現在ときどき行なわれているような騒擾程度であれば、警察力で十分対処してまいりましたし、これからも対処し得るだろうと思います。
こういう住宅事情が、したがって、建設委員会のワクを越えて、若い人がゲバ棒をふるったり何かするそういう政治不信の問題に非常に響くのですね。一つ重要な政治課題になっている。それほど重大な問題なんです。国の政治を非常に大きく動かす重大な問題なんです。 そこでお聞きしますけれども、今度の都市再開発法というのが通って、参議院で附帯決議がつきました。その附帯決議については建設大臣よく御存じだと思うのです。
私はこういうことをやらしちゃいかぬと思うんですよ、反代々木系のゲバ棒と違うんだから、だれだって基地反対の意思表示はすることができるんだから。そういうことをやると、だんだんエスカレートする。近ごろベ平連がおかしい、反戦がおかしいというので、いろいろねらいをつけてやるかもしれないけれども、一応法治国ですから、法に従ってやらなければならぬと私は思う。
そうして北口駅前で集会をして、それから出発をした非常に小さいデモでありまして、もちろんゲバ棒もないしヘルメットもないというような状態で、中には子供をおんぶした者あるいは子供の手を引いた者もいたそうであります。ところが、初めからどうも警察の態度は規制をするという態度で、サンドイッチで初めからやって、最後の場になりまして、ちょうど交差点でゴー・ストップがある。
○佐田一郎君 ただいまの報告の中で、さらに学生がゲバ棒その他の凶器を使用した学校の数はどのくらいか、あるいはまた参加した学生数がおよそどのくらいかわかりますか。
大学問題はきょう出しませんが、文部大臣呼んでいませんから言わないのだが、単にゲバ棒ふるうからと、あれを現象的なものだと思ったら大間違いです。こういう点も私は触れませんが、こういう税制自体も考えなくちゃいかぬ。
一部の学生がゲバ棒を持ってあばれるような世の中であります。したがって、そのような世の中においてモラル、モラルということだけで、良心だけにおいてこれは解決するというふうな、そういういまの社会体制ではないと私は思う。
そうすると、結局ゲバ棒にも発展しかねない、無理解な学長あるいは幹部だと、そういったことになるおそれがあるわけでありまして、この点、ひとつどういうふうに指導、助言をするのか、できるのか、その辺を最後にお聞きしたい。