2000-04-26 第147回国会 参議院 決算委員会 第1号
桂離宮は、約三百八十年前に造営され、回遊式庭園と純日本風建築物から構成されております。離宮の管理に当たっては、最新の技術を駆使した建築物の分解・補修や原形に忠実な再建等が行われているとのことでありました。また、京都御所は、約百四十年前に再建されたものであり、その面積は十一万平方メートルに及んでおります。
桂離宮は、約三百八十年前に造営され、回遊式庭園と純日本風建築物から構成されております。離宮の管理に当たっては、最新の技術を駆使した建築物の分解・補修や原形に忠実な再建等が行われているとのことでありました。また、京都御所は、約百四十年前に再建されたものであり、その面積は十一万平方メートルに及んでおります。
この遺跡は、日本書紀に宮の東の石垣として記述があります斉明天皇の大規模造営の跡ではないか、このように推測されている遺跡でございます。
これは、地図にある名前ではなくて、ちょうど近畿の中央の位置に、高原と呼んでおりますが、五百メートル程度の高さの高原地帯でございまして、なおまたそこが盆地を幾つかつくっており、谷合いとともに幾つかの山で分断されているような格好になっている高原でございまして、そこに七四三年に聖武天皇によって紫香楽宮というのが造営されたという歴史を持つ地域でございます。
八世紀に奈良の地に造営された平城京は、中国の都市をモデルにつくられたアジア的な古代都市でした。平安京に都が移された後は消滅しましたが、建物跡はそのまま地下に残り、また東部の春日大社周辺の東大寺、興福寺、春日大社などの社寺を中心に南都と呼ばれる中世都市が形成されました。
○寺澤芳男君 今から約千三百年前の話ですが、藤原京とかあるいは平城京造営のために大量の木を切り出された山がありました。江戸時代以来の砂防事業にもかかわらず、このはげ山はもとの姿に戻るまであと半世紀の時間が必要であると言われております。一度失われた緑を回復することは本当に難しいと思います。 この山は田上山と言いまして、滋賀県の大津市にあります。
○説明員(田尾秀夫君) お話がございました大津市の田上山の荒廃地につきましては、お話がありましたように、奈良、平安時代に藤原京の造営などのために大量の木材が伐採されまして荒廃したわけであります。江戸時代にその復旧が試みられまして、明治以降は治山事業によりまして森林の再生に努めてきたところでございます。
○政府委員(宮尾盤君) 大嘗祭についての意義あるいはその儀式の位置づけということについては、政府の即位の礼準備委員会で結論を得ておりますそのことを先ほど官房長官の方から申し上げたわけでございますが、具体的に申し上げますと、この秋に予定されております大嘗祭は、皇居東御苑に造営を予定しております大嘗祭におきまして、本年十一月二十二日から二十三日にかけて行われる予定でございまして、悠紀殿供饌の儀及び主基殿供饌
ここは徳川家康を祭るため二代将軍秀忠が造営させたもので、日光東照宮に比べるとやや地味ではあるものの、桃山時代の技法をも取り入れた江戸時代初期の代表的建造物として国の重要文化財に指定されております。また、同宮博物館では家康の遺品を初め同宮が所蔵する宝物を展示しており、その中には貴重な多くの国の重要文化財が含まれております。 次いで東海大学海洋科学博物館を視察いたしました。
歴史的にはいろいろありますが、時間が余りありませんから申し上げませんけれども、登極令や旧皇室典範の考え方でいけば、そして今一般に言われておりますのは、天皇の一世に一度行われる大嘗祭というのは、登極令は新嘗祭と同じ性格の同じ神事なのだけれども、全国から二カ所の国に悠紀田、主基田と呼ぶ斎田を定めて、その田で成育した新穀を大嘗祭の御饌として献納させる、特別の神域を定め、そこに悠紀殿、主基殿などの大嘗宮を造営
私たちは、公営住宅の家賃というのは造営物の使用料として存在しているわけでありますし、いわゆる公団家賃というものは個別原価主義で決められる、それぞれ性格が違うものであるからこれによる比較というのはどだい無理じゃないだろうかという考えを持っておるんですが、その点はどのようにお考えでございましょうか。
これらの留学生や留学僧を通じて我が国は律令制度や首都の造営、仏典、仏寺、仏像から儒教思想、漢字、詩歌、美術工芸、音楽、天文暦法、医学と、広範な文物を惜しみなく与えられ、それを基礎として我が国独自のけんらんたる文化を形成し得たのではありませんか。
そのほかに、その時期ちょうど内裏の造営をやっておりまして、七、八十万両かかります。結局、出る方は、二百十万両から二百二十万両要るのに対して、収入の方は四十六、七万両しかない。百七十万両から百八十万両のお金が不足をいたします。御先代綱吉の時代から、支出は収入の倍ありました。
片句という漁協があるがそこの漁業振興資金として二千万円、それから五十五年の三月、鹿島町の武道振興会というのを通じて武道館の建設費として五千万円、それから五十五年から五十六年にかけて、県道御津恵曇港線ですね、それから片句の漁港整備事業、こういうことで鹿島町に二億二千六百万円、島根県に二億六百万円、それから五十五年の十一月、町文化財保護協会というのを通じて、地元の佐太神社というお宮があるが、これの再建造営費二千万円
○佐藤三吾君 しかし、もともとこの制度ができたのは、最低制限価格制度というのは、皇居の造営における間組の入札が契機でしょう、三十八年ですか。それが契機でこういう制度が生まれたわけでしょう。やっぱりいまあなたが言うように工事の適正検査の問題もあるでしょう。
私は、世界のトップ水準をいっているすばらしい技術で、あんなにりっぱな美しい優秀な造営物やその地やってくれておる建設業界に、なぜこんなにイメージが暗いのか。談合、贈賄、汚職、政治献金、すべてのマイナスイメージをこの業界が背負っておると言ってもいいような気がする。それは、決して正常なことじゃないので、この業界の発展のためにもいいことではないわけです。
さしあたって、いまなら私たちが平城京造営長官に抗議を申し込むということになるわけなんですが、しかし、一方また平城京内に杉山古墳を残しておりまして、あと二、三古墳を残しておるんです。
その前にいろいろ書かれていますが、なお書きで、「なお、昭和三十八年、造営中にあたり宮内庁より旧二重橋御旧材の御下賜も頂き社殿前の高欄として設置、光彩をそえている」と、こうなっている。だから、少しばかり記念品として上げたものではない。高欄として設置をされている。そして、護国神社としては、それによって光彩を放っている。だから、あなたの方は宮内庁の財産だと言う。
○山崎昇君 そこであなたにお聞きしますが、この護国神社の報告によると、「昭和三十八年、造営中にあたり宮内庁より旧二重橋御旧材の御下賜も頂き社殿前の高欄として設置、光彩をそえている」と、こうある。一体宮内庁は、二重橋のそういうものを護国神社にこれを「御下賜」と、こうなっていますから、宮内庁がやったんだと思う。これは一体どういう理由で、これは財産処分なのか。
植樹事業、それからマツクイムシの枯れ木抜き、それから市の公営造営物のペンキ塗り、小修理です、これをやっている。これはまあ知れたものです。市として失業者吸収のための公共事業の試算をしてみますと、六万六千九百人の労働者を吸収するために十二億四千万円の予算が必要である、こういう計算が出ております。しかし、税収の落ち込んだ中でその財源確保の道がない、一自治体では手がつかぬ、こう言うのです。
あの衆議院の議員さんは、これは公共の施設は何にもやられていないし、水が去った後は何にも跡形を残してないのだから下水の問題が第一だ、それからもう一つは上流の鉄砲水の問題だ、残りの四割はあの大体今度の事業対象になる六キロ地点より上からやってきた鉄砲水でやられておる、このくらいの水は、何しろ三百何十年も前にこの町というのは造営された町ですから、このくらいの雨が来ることはあっても、いままではやられなかった状況
それからもう一つ、これは防止対策ではございませんが、岩塩を使いまして誘引をする効果があるかどうかを調査しましたけれども、人工造営物に食塩を載せておったために、余り誘引効果がなかったといったような結果が出ております。
それと同時に、公営住宅との比較でございますが、これは公営住宅と公団住宅の家賃の比較論というそのものは、私は公営住宅の家賃というものが造営物の使用料として存在しているわけでありますし、いわゆる公団家賃というものは個別原価主義で家賃が決められている、こういうふうにそれぞれの性格が異なるものを比較することそのものに大きな無理があるのではないか、こういうふうに考えるわけですが、その点はどのようにお考えですか