1957-02-20 第26回国会 衆議院 商工委員会 第5号
爲治君 工業技術院長 黒川 眞武君 委員外の出席者 外務事務官 (経済局次長) 佐藤 健輔君 通商産業事務官 (通商局次長) 樋詰 誠明君 通商産業事務官 (重工業局鉄鉱 業務課長) 井上 亮君 通商産業技官 (重工業局製鉄 課長
爲治君 工業技術院長 黒川 眞武君 委員外の出席者 外務事務官 (経済局次長) 佐藤 健輔君 通商産業事務官 (通商局次長) 樋詰 誠明君 通商産業事務官 (重工業局鉄鉱 業務課長) 井上 亮君 通商産業技官 (重工業局製鉄 課長
○鈴木(義)政府委員 これはたしかこの前製鉄課長からもお話があって、あるところにおいては相当研究は進んでおるというふうに報告があったかと思います。なお、技術的な問題でありますので、もう一ぺん確かめまして報告さしていただきたいと思います。
○大堀説明員 ただいま製鉄課長から御説明申し上げましたように、お手元にお配りいたしております資料でおわかりと思いますが、現在の能力は総計で月二万一千七百五十トンあるわけでございますが、実績は一万一千百十一トン、こういったことでキャパシティからいいますと余力があるわけでございます。この総体の設備の内容が次ページに出ております。
伊藤卯四郎君 多賀谷真稔君 出席政府委員 通商産業事務官 (公益事業局 長) 川上 爲治君 小委員外の出席者 議 員 宇田 耕一君 通商産業事務官 (重工業局次 長) 大堀 弘君 通商産業技官 (重工業局製鉄 課長
○鈴木(義)政府委員 私その当時の経緯をよく存じ上げておりませんので、製鉄課長から知っておる限りのことをお説明いたします。
ところが未だこれらに及ばんというようなお話があつて、更に今製鉄課長のお話で、非常に事が明らかになつて、彼我比較ができたわけです。我々が考えまするには、他の条件が同じならば、労賃の安い日本としては当然に、むしろ向うよりもコストが引下げられる、こういうことが考えられるわけであります。
天田 勝正君 武藤 常介君 委員外議員 小林 政夫君 事務局側 常任委員会専門 員 林 誠一君 常任委員会専門 員 山木友太郎君 常任委員会専門 員 小田橋貞寿君 説明員 通商産業省重工 業局長 鈴木 義雄君 通商産業省重工 業局製鉄課長
○天田勝正君 そういたしますと、製鉄課長に伺いますが、さつき最後に銑鉄の価格の比、鋼塊の価格の比等をずつと申されましたけれども、これで言うと、やや太刀打ちできる状態になりつつあるのですけれども、なお銑鉄において、英国等から見れば非常な開きがある、これを縮めるには、端的にどこを合理化したならばよろしいでしようか。
○委員長(小林政夫君) 今の製鉄課長の話を聞いて、非常に嬉しくなつたわけですがね、明るいので、そこは而も石炭局長の言われるように非常に困難があるけれども、単価が二割も下るということであれば、国際価格というか、西欧価格よりも少くともマニユフアクチヤリング・コストにおいては日本のほうが安くなるというふうなことも見込まれるというようなんですね。
そうしますといわゆる製鉄課長のほうから言いましたような独占禁止法、現在の独占禁止法の範囲内でやれるであろうかどうであろうかという疑問が出て参ります。その辺をどういうふりに調整するか、これは法律の問題になりますが、検討しておるというところでございます。
委員長 小林 政夫君 理事 岩沢 忠恭君 笹森 順造君 岡田 宗司君 八木 秀次君 説明員 経済審議庁次長 石原 武夫君 通商産業省企業 局企業第一課長 川出 千速君 通商産業省重工 業局製鉄課長 三井 太佶君 通商産業省石炭 局長 齋藤 正年君
帆足 計君 中崎 敏君 川上 貫一君 出席政府委員 通商産業政務次 官 古池 信三君 委員外の出席者 議 員 山口シヅエ君 外務事務官 (アジア局第一 課長) 宇山 厚君 通商産業事務官 (重工業局製鉄 課長
従いまして私もときどきお話を申し上げておる通り、どうやつたならば日本という国は完全に生きて行くことができるかといえば、すなわち地下資源を完全に生かすことではないかということでございまして、こういう点についてただいま齋藤さんがいろいろ御質問なさいましたから、もう私の申し上げるところはございませんし、あとまだ抱えておりますから何ですが、ただいま製鉄課長の答弁中に、電力の開発と相まつて、日本の銑鉄がずつと
その前と申しますのは、先ほど申し上げました私が商工省の製鉄課長をやつておりましたころ、当時アメリカが資金凍結をして、日本に対するいろいろ重要物資の輸出を停止したころでありますが、そのころ藤澤氏がアメリカにおりまして、当時私は製鉄課長として日本にスクラツプが買える間にうんと買付けをしようというので、たくさん屑鉄を買う処置をとつたことがございますが、その仕事を藤澤氏がしておりまして、それからこつちへ帰つてきましてからは
私が昭和十何年でありましたか、商工省の製鉄課長を一年半ばかりやつておつたことがあります。そのときに淺野良三氏を知つたのであります。