1988-01-28 第112回国会 衆議院 本会議 第4号
教育荒廃に悩む父母、国民の心情と全く遊離したものだったからです。偏差値でいうできる子もできない子も、子供は子供なりの人間としての生き方を強く求めています。去年の大みそかから元旦にかけて学習塾でテスト攻めに遭っている小学生の姿を映したテレビを見た方も多いでありましょう。あの進学塾の姿に我が国の教育の現状が浮かび上がっています。塾を批判するのは容易です。
教育荒廃に悩む父母、国民の心情と全く遊離したものだったからです。偏差値でいうできる子もできない子も、子供は子供なりの人間としての生き方を強く求めています。去年の大みそかから元旦にかけて学習塾でテスト攻めに遭っている小学生の姿を映したテレビを見た方も多いでありましょう。あの進学塾の姿に我が国の教育の現状が浮かび上がっています。塾を批判するのは容易です。
そういう点では、四週六休制を実施します前提条件とか、教育上の諸問題、あるいは父母、国民の教育に対する期待といった諸般の状況を勘案しながら、今後検討をしていくべき事柄だと考えております。
今月二十二日に明らかにされました臨教審の審議経過の概要は、依然として父母、国民の切実な要求と疑問にこたえておりません。それどころか、教育が悪いのは教師にのみ責任があるかのような議論を展開していることは極めて遺憾であります。しかし私は、教師に全然責任がないと言っておるのではありません。
これは臨調が言う国の各種補助金の見直し、地方への財政負担の肩がわり、国民の自助努力、父母、国民の受益者負担の増、こういう発想につながるのではないかというふうに心配しているのですけれども、この辺はどうなんでしょう。時間になりましたので、以上二点だけ質問します。
その中を見ますと、冒頭のあいさつで「教育荒廃の状況を一日も早くなんとかしてほしいというのが、父母、国民が切実に願い、期待していること」と述べ、そして「教職員集団として自ら反省することが私たちの教育改革運動の出発点」、こういうふうに非常に謙虚に反省をされておるわけであります。
首相はかねてみずからを改憲論者と称し、行政改革の次は教育改革を行うことが憲法改正への道であると発言しており、今回の提案は、父母、国民が求める教育改革とは出発点において決定的に異なった危険な政治的意図に基づくものであると言わざるを得ません。さらに、みずからの政権を維持するために教育改革を利用するという 不純な意図さえ各方面から指摘されているのであります。
首相はかねてみずからを改憲論者と称し、行政改革の次は教育改革を行うことが憲法改正への道であると発言しており、今回の提案は、父母、国民が求める教育改革とは出発点において決定的に異なった危険な政治的意図に基づくものであると言わざるを得ません。さらに、みずからの政権を維持するために教育改革を利用するという意図さえ各方面から指摘されているのであります。
つまり、今、父母、国民は重い教育費負担に随分悩んでいるわけで、この改善、軽減こそが教育改革の最大の課題の一つである、こういうふうに受けとめているわけです。
四十人学級の停止は、長年の父母、国民の願いがやっと昭和五十五年度から実現したばかりのものであり、欧米先進国では一学級の児童数は三十人前後であり、四十五人を十二年間で四十人にするというささやかな計画をやめるなど、経済大国のとるべきことではありません。
に反するものにならざるを得ず、父母、国民の願いとは逆に、一層深刻な受験地獄を生み出すことでありましょう。 今日行政のとるべき立場は、国民の教育要求に対応し、受験地獄を解消するために、大学進学率の上昇に見合った国公立大学の新増設の推進と地方大学の拡充、また国公・私立大学間の格差是正のための補助金の増額であって、国立・私立の新増設の抑制ではありません。
したがいまして、私は繰り返して申し上げますけれども、この多くの父母、国民の教育要求にこたえて、どうしても、第一には小・中の四十五名の学級基準を四十人以下に下げてもらいたい、高校全日制については普通科を四十人以内、あるいは職業科を三十五人、定時制を三十人。二番目には教員の週担当授業時間数を、小・中学校の場合には十八時間、高等学校の場合には全日制十五時間、定時制十時間。
この学校給食に対する特別枠の割り当て量をふやせばこの多くの父母、国民の要求が実現できるわけです。これに対してどうなんでしょうか、倍ほど欲しいと現場も言っている、文部省も言っている、農林省にお願いをしている、煮沸肉の調理の仕方なども講習をしたりしながらやっている、これに対して農林省はどうでしょうか。お答えいただきたいと思います。
いま東京の場合と大阪の場合とは高校で若干様相が違いますけれども、私学の方はいわば野放しで、一方だけこう決まって、そして読めるようになったというような状況というのは、聞いていて余り楽しい状況じゃないというふうに考えますと、この入試問題について過大な幻想を少なくとも父母、国民に与えるべきじゃない。
、あるいは 「わたしたち教育労働者は、この岐阜集会で「教え子を再び戦場に送らない」決意をあらたにし、父母・国民の批判に正しくこたえ、正しい教育実践を、いっそう強めなければならない」、それから「教育過程編成権は学校の教師集団にある」、こういうようなことが、そして最後のところには 「教育を国民の手にとりもどし、「国民の、国民による、国民のための、国民教育の創造」に向かって、」云々とあるのですけれども
あれだけの教職員や父母、国民がエネルギーを使ってこの問題に非常に苦労した。ああいう混乱を起こさなかっただけでも、京都府民はむしろ感謝をしているのではないか。だからこそ、蜷川府政というものが京都府民の支持を得ているのではないか。京都府教育委員会の教育行政というものが、京都府民の支持を得ているのではないかと思うのですよ。
昨年末、高等学校生徒の急増期を迎え、第二年目に当たる本年も、高校進学難をめぐって種々の問題が、全国各地に起こり、当該の子供たちはもとより、父母国民の深い憂いとなっていることは、御承知のとおりであります。 この事態に対処するための、高等学校急増対策につきましては、政府もさきに昭和三十六年から四十年にわたる五カ年計画を立てたのであります。
いわばそれは二十世紀の民主主義ともいうべき非常に幅広いものでございますから、この倫理綱領の思想的な基本的性格から申しますならば、政治的見解、宗教的信条のいかんを問わず、広く教師のみならず国民に、父母、国民の支持を得ることができるはずのものであるというふうに考えておると、御本人は述べておるわけです。あなたはそういう学者のあれを一方的に容共革命的と述べられた。その点についてひとつお伺いしたい。