1949-04-16 第5回国会 衆議院 労働委員会 第5号
それから、その大きな勢力を持つておりまする人は、その町の消防團長を勤めておる。町長は自分たちの身内から当選せしめておる。殺された人はたまたま町長選挙に敗れた人である。
それから、その大きな勢力を持つておりまする人は、その町の消防團長を勤めておる。町長は自分たちの身内から当選せしめておる。殺された人はたまたま町長選挙に敗れた人である。
北鮮丸の梯團長であります。それでその席上で梯團のいろいろな行事がありまして船に乘る場合になつたのでありますが、その船に飜つておつた日の丸には全く頭が下りました。ただ幾ら待てども待てども船は來ません。そのうちに遂に雨が降つて兵隊が濡れて行く、側には空の倉庫がある。何とかあすこに入れてくれ、幹部は何をやつているかという喧々囂々たる声が聞えて來ました。
○證人(長谷川貞雄君) 最後の收容所に入つてから自分はその船の北鮮丸の梯團長をやりました。それであすこの包で今梯團編成の相談をしたいるから、あすこに行つて君らは梯團を編成してくれと言われたので、その場に行つて見たら、四五人の人がおつて何やら話をしておつたようでありました。
で、結局アマガランにおつたり待機しておつたりして、吉村隊に入りましたのは、先程申しましたような、昭和二十年の十二月十日頃でありましたが、やはり私が日本軍の憲兵であつたということをどなたかの誰かを通じて吉村隊長の耳に入つたものと見え、そして話して行きますと、私が上等兵のときに仕えた牛島満大佐、二、二六事件直後東辺道寛旬におられ、その後少將に進級の上、都城の師團長になつて、五島で上陸演習をされた。
その際この船の中に吉村、もう一人橋本という輸送團長がありました。この二人については特に申述べたいが、この事件に関係がないから今暫く橋本の件は拔きます。吉村の件については、私達が帰還直前、三ケ月間における轉属された事実を体験したに過ぎません。併しその中に私達の作業に從事した石切りのノルマ、生活の状況や待遇、それらの一切のものが余りに他の收容所に比してひど過ぎるという点であります。
尚官吏等が加害者を煽動したという事実は、指導官が引揚船に乘り組みまして、船中で引揚についての準備を指導中、この引揚船は騷ぎもなく結構であるという旨を梯團長に語つたのを、暗に反動分子を煽動せんとしたものであるとか、又或る者が多人数の中に坐らされて謝罪せしめられている側を過ぎた巡査が、何らの処置を講じなかつたのは不当である等の証言もありましたが、これらに対しては、それぞれ又反対の証言もなされたのであります
それから軍隊組織で行つたということを開きましたが、それは千島におりました堤という師團長がおりました。二十二年の夏頃に私の方に参りました。それは皆んなと一緒におつたのでございますが、師團長も旅團長も皆一緒でそこに兵隊も皆おつて非常に心強かつた。その外は聞きません。後は將校ばかりでカザンというところにおつた。兵隊は兵隊でおつたということでありました。
團長には加藤藤一郎という人が團長になつております。そういう公の調査團体であります。東京からのそれに加わつております。それが宮田警察局長と会つてのお話であります。それの問答が記録されております。それによつて私が質問をしておるのであります。
○証人(中川澄雄君) 梯團本部は梯團長が件という軍医少佐、それから副梯團長二名、自分ともう一人高橋君、その外に人事係、給養係、それから作業係ですね。それから……。
梯團長の外。
それからそういつた話は、私たちが梯團本部におりまして、梯團長とそれから人事、被服そうした係りの者ばかりで、それも皆んな寢てからずつと起きておりましたし、事務は殆んど船に乘つている間ずつとぶつ続けで復員官の方の手傳いなんです。そうした書類とかいろいろなものをやりました。
大概梯團を組んで帰つておりますので、その梯團長が持つて参りますところの資料、並びに残務整理として最後まで残りましたところの居留民團の人達、或いは領事館の人達、そういう人達の資料を集めましたならば、團体の誰がどういうような状況で死亡したというようなことは当然明らかにされるのであります。
それから先般休会中に名古屋方面まで、例えば電化問題、港湾の問題、或いは商船学校の問題について議員を派遣したわけでありまするが、私は差支があつて行きませんので、その際小野君が團長としておいでになりましたので、小野君から一つ大体の報告をお願いいたします。
○説明員(伊東厚坪君) 元満洲七虎力開拓團の團長をやつておりました伊東厚坪でございます。私たちのために貴重なるお時間をお割き下さいまして、私たちの心持を述べさせて頂く機会をお作り下さいましたことに対しまして、誠に有難く御礼を申上げます。私は昨年の十一月の初めにソ聯から引揚げて参つた者であります。
○淺岡信夫君 全國開拓民自興会の満洲地区にありましての十四、五の團体の代表者の方のが、或いは曽つての開拓團長でありましたり、或いは開拓團の主腦部だつたり、又は実際に第一線に携わつておつた方々が國会に見えられまして、この將來の問題、今後の日本の建設の問題に対しまして、身を挺してやつて行くという点につきましての陳情がございますので、この陳情を代表者の方々から十分に当委員会は聽取いたしまして、この國会におきまして
そのときは十人程も参りまして、團君が御專門でもあり、旁々その團長でおいでになつたのであります。そうして帰りましてから二十二年の十一月の十一日の日に、時の文部大臣を初めとしまして、当局の方の御出席を願つて、團長からそのときの視察の報告をして御注意すべき点を多々御注意申上げてあるはずでありまして、これは文部省としても御承知であると思います。
而もその名簿に、名簿といいますかそういうような誹諦したようなものなんですけけども、その中に松浦正隆が長町だつたか、どこかに妾を囲つておる、而も彼の行状は、更生團を名前にして私の利益を図つておるようないわゆる團長である。それから彼は元松浦天外と言いましたが、天外というような名前は金山活牛から受けた名前であるが、彼の行状にいわゆる反感を持つて金山活牛が止めたというようなこと。
又戰爭にもなりましたし、又カフエーになりましてから自警團長などになりました。成る程東京方面では、随分足を洗うとか、盃を交すとかいうようなことがあるそうでございますが、私はそういう本当の根からの遊び人でないのでございます。
そういう関係から私は自警團長並びに公会長、続いて自治会長、衞生組合長などを経ました関係から、兎角梅原さんの家庭は有力な家庭の関係で、いろいろ御援助を願わなければならん、こういう関係で、そのお家との関係はそういう関係になつております。と同時に梅原順治君は当時幹事として役員関係で、その中に加えられておるのであります。
○証人(梅原順治君) それは加藤という、あのときは荻原さんの方の事件か何かだつたと思いますが、その事件の内容と言いますと、ただ何か一万円荻原さんから貰つたとか貰わないとか、その点までは私は分らないのですが、私はよく澁谷さんとか加藤さんというのは、うちの近所で、その関係でよく知つておるもので、警防團長とか公会長を元やつたものですから、その関係でうちと昵懇にしておるわけであります。
だからその点においては十分委員長を初め、その出張するところの團長及び團員が申合せ等のことを、やはりやつて置く必要があると私は思う。若しも現在においてそんな物議を生ずるようなことがあるとしたら、当然その責任を負うということは、予め議会運営委員会としては、自省的に申合せをして置く必要があろうと私は思います。
経済復興計画委員会としての基本方針は、現在活溌に檢討を加えられつつあり、総司令部よりフアイン博士を團長とする使節團が米國に派遣され陸軍省当局と打合せ中であると報道されておるのみならず、経済復興計画の初年度たる昭和二十四年度はすでに目前に迫り、而も初年度の一計画は、実施計画的性格を與えることが強く要請されておることに鑑みましても、政府としてはその政策の上に具体化すべき任務を持つことに思いをいたすときに
さきに一九四五年にポーレー大使以下が日本にやつて來て、いろいろ調査をして報告書を提出されておりまするし、その後一九四七年には、アメリカ政府の依頼によつて対外調査相談所がいわゆるストライク委員会を日本に派遣をして、相当精密なる報告書を提出しておるのでありますが、なおまた陸軍次官のドレーパーを使節團長として、日本の工業能力、今後における日本の産業水準、賠償の程度、そういうような点について、いわゆるジヨンストン
上野陽一氏は、当年六十六才になられるのでありますが、明治四十一年東京帝國大学文科大学本科を卒業し、大正十年欧米における労働者の労働状況調査のため海外に出張し、帰朝後日本大学講師となり、能率増進に関する講習、能率調査研究等の仕事に当つておりましたが、昭和四年パリにおける第四回國際管理法会議に日本代表として出席し、さらにアメリカ産業視察團團長となり、アメリカ産業の事務能率を研究視察して帰朝いたしました。
これの調査でございますが、只今お話の通り厚生省におきまして、直ちに調査のための委員会を作りまして、特に小林予防衞生研究所長を委員長としまして、講師の方々の御参集を願いまして、特に中村敬三博士を團長としまして、現地に派遣をいたしまして調査をいたしました。谷口議員からお話もありましたが、毒素であるという推定がいたされたのであります。
地方の要望を言いますと、これはまつたく逆であつて、こういう場合には、地方の消防團長にもこういう権限を與えてもらいたい。そうしなければ実際活動の上に非常に困難であるという意見が強いのであります。こういうふうに直して参りますと、実際的意見は全然葬り去られてしまつて、形式的のことだけの問題であつて、消防活動に大きな障害ができると私は考えます。この点はどういうふうに考えておられますか。