1982-07-01 第96回国会 参議院 外務委員会 第12号
私は、安部磯雄先生に質素なる生活、永遠の心という教えを受けましたが、大逆事件や何かいろいろな波乱万丈の中にいて、一貫して社会主義の道を守った安部磯雄さんには特徴的なものはないけれども、実証主義的な政治形態を早稲田の伝統につくった点においては、大山郁夫教授と同じく、小野梓先生と同じく、非常に私はりっぱなものが残されていると思います。
私は、安部磯雄先生に質素なる生活、永遠の心という教えを受けましたが、大逆事件や何かいろいろな波乱万丈の中にいて、一貫して社会主義の道を守った安部磯雄さんには特徴的なものはないけれども、実証主義的な政治形態を早稲田の伝統につくった点においては、大山郁夫教授と同じく、小野梓先生と同じく、非常に私はりっぱなものが残されていると思います。
○国務大臣(森下元晴君) 過去の中医協の運営につきまして、いま御指摘のようにいろいろ波乱万丈の歴史がございます。
国会の先生方は、波乱万丈ずいぶん御苦労になっている方でございますから、どうか先生、私の言葉の足りないところは御了承賜りたいのです。
におけるいろいろな社会党グループとかあるいは保守党のグループとかいう集まりがありましたが、その中でやはり共産党グループに参加した方は、党の立場かどうかはわかりませんが、やはりアフガン問題に対しては割り切って、とにかくフランス共産党とは違うように、日本の共産党の支持を受けている人はやはりあの問題はあの問題として軍事介入に反対というような意思表示を当時しておりましたが、日本の共産党にもいろいろないままでの破乱万丈
この間日本の地方自治は、波乱万丈の中ではありましたが、相当の発展、成熟を見て、新しい憲法のもとに民主主義を支える主要な柱として成長をしてきたと思うのであります。また、二十年を迎えた自治省にいたしましても、地方自治体の利害を代弁して地方制度を保障する立場を本来の任務とする省であるべく、その重要性を増してきていると思うのであります。
しかして、この波乱万丈のこの二十五年を顧みますれば、私どもはもちろん感慨深く、感無量なるものがありますが、今日このような栄誉に浴しますことは、これひとえに御指導を賜りました先輩各位、同僚各位の御厚情と、長年にわたる郷土の皆さん方の御理解ある御協力、御支援のおかげでありまして、この御恩は終生忘れ得るものではなく、改めて心から厚くお礼を申し上げる次第であります。
この間に、私が昭和二十四年から所属しておりました日本社会党は、二十六年には左右に分裂、そして三十年には再統一、さらに三十年にはついに民社党が分離誕生と、波乱万丈でございました。私も政党人として苦難と曲折の道を歩まなければなりませんでした。
君の万丈の人生は、ここにその原型を得たと言うべきでありましょう。 地元の玉名中学校では、君は抜群の秀才としての誉れを高くされました。やがて君は地元熊本の旧制第五高等学校に進みます。自由と剛気の気風に富む第五高等学校では、君は豊かな才能を文学に託し、多くの詩文を物されたこともいまに語りぐさであります。
やはり一国の外交は、光明に背面なしで、権謀術策に陥ることは慎むべきでありますけれども、表に出た表現と腹の中で何を考えているかぐらいを読み取るだけのものを持たないと、この波乱万丈の国際関係の中にあって、福田さんはよく日本丸と言うが、右に左に激浪にぶつかって揺れるのは構いませんが、かじを取る者が波をかぶって沈没することのないように、やはりその揺れ方にも心した揺れ方が必要だと私は思うのであります。
すなわち、過熱景気が一挙に冷やされた年でございまして、波乱万丈の年であったと思います。 そこで、現在新聞等を読みますと、倒産件数がまだ増加の傾向にございますけれども、景気回復の問題と今後の経済見通しの問題につきまして、初めに通産大臣に、時間がございませんので簡明で結構でございますから、見通しについて、まずお尋ねしたいと思います。
その第一の昭和年代五十年の半世紀は実に起伏万丈であったわけでございますが、戦後のあの虚無感からだれもこの今日を予想し得た者はおらぬと思います。それにつけても、私は昭和という年号の問題をここでひとつ提起してみたいと思います。 象徴天皇制が国民の間には私は定着しているというふうに思います。もはや国民世論の動向も定まっておるのじゃないだろうか。
県会議員時代を含め、荒舩君の三十数年に及ぶ政治遍歴はまさに波乱万丈であり、かくかくたる功績もあれば、これまた幾つかの失敗もあるのであります。 その一つは、昭和四十六年十一月二十六日、衆議院本会議において行なわれた荒舩副議長不信任決議案の上程もその一つであります。沖繩国会において、議運理事会を無視し、職権をもって本会議を強行し、理事会無視の悪例を残した行為によって不信任を受けたのであります。
そのときに波乱万丈いたすと同時に、わが社会党の当時の執行委員長佐々木更三、当時の書記長成田知巳氏が、政府の公約違反のために、ついに下部の代議士諸君の突き上げを受けて内閣を投げ出すという悲惨なる大きな犠牲まで受けるという混乱の状態におちいったんだ。
誇張すれば黄塵万丈というところですね。総合的な計画、総合的な開発というものは全然行なわれていない。交通機関もない。「総合交通体系について(要約)」にたいへんうまいこと書いてあるんですね。これはまことに私は感心しました。よくまとめてあります。けれども実態は、全然これとはおよそかけ離れたことのみであります。そういう点について運輸省はどういうお考えを持っていらっしゃるのか。
確かに医師会という——きょうは厚生省お見えになっておらないでしょうからどういうことになっているのだかわかりませんけれども、医師会という強力な圧力団体があるわけでありますから、二十九年にこの制度を設けられたときにもたいへんに波乱万丈の末こういうことになったということでありますけれども、いまこれをやはり国民心情からいって、納得のできるようなものにするということは、これはもうそういう、何といいますかね、診療拒否
特に人命尊重をうたっている佐藤内閣が、ほとんど人命尊重でないというところでもってたった一人万丈の気を吐いているのは環境庁長官だ、こういうふうにいわれておるわけですからもう公害あるいはまたそういったものを解決するのは環境庁長官しかいないのだという国民の一番大きな期待をになっているわけですから、ひとつ後退をしないようにやっていただきたい。
私は、いまこの壇上に立って、四十有余年の波乱万丈の政治生活を静かに閉じてゆかれた君の姿が眼前にほうふつとし、万感胸に迫るを覚えるものであります。(拍手) 七〇年代を迎えたわが国は、内外ともに全く新しい情勢に直面いたしております。
われわれ象徴天皇としてこの陛下を仰いでおる立場から見ても、この陛下の御一生ほど波乱万丈、曲折多岐にわたった人生、しかもよく耐え抜いてこれらた。終始平和主義に徹して、終戦の平和への強い願いがあの終戦の裁断となったことなどもわれわれはよく知っている。
そこを大量のトラックが岩石を運ぶために道路を非常に破損をし、舗装がありませんから夏場は黄塵万丈であります。雨が降りますと津土が付近の住宅にはね返りまして、砂利を採取しておりますところの山道は家はみな閉じております。戸でみな囲っておりまして、私どもが参りましても、住むことば不可能にひとしいような状況下にあります。
しかして、先覚者としては避けることのできない宿命であったのでありましょうか、その生涯は、文字どおり悪戦苦闘、波乱万丈の連続であり、幾多の試練に遭遇されました。しかし、不正と不義を最も憎み、みずからを信ずることの厚かった先生は、逆境におちいるたびに一そうの勇気をふるい起こし、難関を打ち破り、障害を踏み越え、一身の力をもってその運命を切り開いてこられたのであります。