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241件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

1994-11-16 第131回国会 参議院 地方行政委員会,大蔵委員会連合審査会 第1号

段階にわたる前段階税額控除方式消費型付加価値税地方税として導入したことは先進諸国では今回の日本が初めてであり、一九四九年のシャウプ勧告による都道府県付加価値税の提案が、付加価値計算における控除法加算法の不統一、ドッジラインによるデフレによって価格転嫁が困難となり、企業課税化することを恐れた事業者の反対で延期、廃案となって以来のことでありまして、関係者の御苦労をねぎらいたいと思うのであります

岩崎昭弥

1994-10-24 第131回国会 衆議院 税制改革に関する特別委員会 第3号

そのときに、ドッジライン昭和二十三年にGHQで指令された。税収の範囲内で予算は編成しろ、それの税収シャウプ勧告でこのように徴収しろ、こういうような経過をたどって今次の税制があるわけですが、それに戦後の経済復興、それがための資本蓄積資本優遇、これが加味されて今日に来ておると思う。  

渡辺嘉藏

1994-04-05 第129回国会 衆議院 本会議 第14号

復員後、直ちに大蔵省に復帰された先生は、新しい国家体制のもとでドッジラインシャウプ勧告に基づく国家財政立て直し税制の再構築に尽力されました。  その先生政治の世界に飛び込むきっかけの一つとなったのは、昭和三十年、鳩山内閣総理大臣秘書官に任じられたことでございました。  この約二年間にわたる総理秘書官時代に、先生は幾多の政治家とじかに接する機会を得られました。

大出俊

1993-11-10 第128回国会 衆議院 大蔵委員会 第3号

一時的なドッジデフレ的なことはありましたが、構造的に何年もデフレ的状態が続くというのは一応戦後初めての状態で、我々の経験ではほとんど対応ができない。  確かに実質のGNPがマイナスに落ちたことはオイルショックの後、七四年から七五年に一年間だけマイナスの落ち込みがありました。そのとき地価も戦後初めて下がったわけですが、それは実はインフレだったわけです。

宮尾尊弘

1989-04-26 第114回国会 衆議院 予算委員会 第13号

戦後を考えてみますと、一番大きかったのは、やはり何といってもドッジが一ドル三百六十円と決めた、これは大きかったと思います。それで、一ドル三百六十円に合わせて企業が全部努力していった。当時は八百円のものもありましょうし、五百円のものもあったでしょうが、三百六十円で合わせ二合理化を図ったわけで、これは大変なものだと思います。  

村山達雄

1988-05-16 第112回国会 参議院 決算委員会 第5号

政府委員寺村信行君) 先ほども申し上げましたけれども、過去の予備費計上割合、戦後の推移を見ますと、実は昭和二十四年にドッジ勧告によります緊縮予算計上いたしましたとき、当時は必要とする経費はすべて当初予算計上し、追加予算計上を必要としないという建前で予算が編成されましたので、そのときには予備費の当初予算計上はございませんでした。

寺村信行

1988-03-29 第112回国会 衆議院 法務委員会 第6号

それからまた、皆さん御承知のように、戦後アメリカからドッジが来て非常な緊縮財政を強行した。その前に日本の財、政、官界のほとんどすべての人がひれ伏しました。ひとり硬骨をもって鳴って、ドッジをして日本にもこの人ありと言わしめたのが小林中氏だ。その小林中氏ですら拷問を受けないでうその自白に追い込まれるのであります。

後藤昌次郎

1987-09-03 第109回国会 参議院 商工委員会 第4号

それから、日本の場合は、一九四六年に新田に切りかえて五百円以上の預金を封鎖して、そしてやったんですけれども、結局産業復興資金の貸し出しが続いてインフレを収束することはできなくて、ドッジ博士がやってきてようやく抑えた。抑えだということは、一つには占領軍の権力をもって抑えたというところがあったと思います。そのように金融政策一つとっても西ドイツというのは非常に先見性がある。  

田村元

1987-08-28 第109回国会 衆議院 大蔵委員会 第8号

宮澤国務大臣 シャウプ博士日本に来てもらいました直接の動因は、当時非常に不評判でございましたいわゆる取引高税吉田内閣廃止する選挙公約をいたしまして選挙に勝ったのでございますが、ドッジラインが始まりましてその廃止ができないということから、専門家であるシャウプ博士に来てもらうということをドッジ氏が決めてくれたわけでございます。

宮澤喜一

1987-04-06 第108回国会 衆議院 決算委員会 第2号

宮澤国務大臣 これは、昭和二十三年の暮れの選挙吉田内閣取引高税廃止ということをいわば選挙公約にされまして、その選挙で勝ったわけでございますけれども、二十四年になりましてドッジ氏が参りまして、そういう時期でないということですぐには廃止になりませんでした。しかし、そのかわりに、シャウプ氏を招いて全体の検討をする、そういう経緯があったわけでございます。  

宮澤喜一

1986-01-31 第104回国会 参議院 本会議 第4号

第一回目が昭和二十五年、ドッジデフレ、だが朝鮮動乱によって我が国は特需収入を得、経済回復の端緒をつかんだのであります。第二回目が昭和三十七年、池田内閣高度成長政策であります。今日の発展の基礎がそこで築かれました。第三回目が昭和四十九年、オイルショックであります。一バレル二ドル五十セントだった油が一挙に十ドルに上がりました。狂乱物価となりましたが、そのときに日本人の英知が働いたのです。

斎藤栄三郎

1985-06-14 第102回国会 参議院 大蔵委員会 第18号

ところが、この証券民主化株式の分散、大衆化ということが図られたのに対しまして、ドッジ不況であるとか、それを原因とします株価下落等で、株式大衆化は結果的にはややしぼんだ形になっております。  また、昭和三十七、八年ごろの株価低迷期株価対策増資対策としての自社株購入推進運動が起こりまして、これは従業員も対象にしたということですが、大部分は継続性がなかったというわけであります。  

荒井勇

1985-04-10 第102回国会 衆議院 大蔵委員会 第17号

過去、戦後間もなくドッジによるところの財政改革が行われたときがあります。そして、これによって地方団体赤字財政に転化しまして、財政再建に私は非常な苦労をした経験があります。その立て直し相当年数を要しましたが、そういうことの起こらないように第二には要望したいということでございます。

赤澤善二郎

1984-02-18 第101回国会 衆議院 予算委員会 第7号

例えば身体障害者福祉法をつくられたとき、厚生省の松木征二さんという方が薄かれたこのいきさつを見ても、当時身体障害者福祉法になぜ精神障害者などを入れなかったかというと、当時ドッジラインなどで財政が非常に苦しい、当時も入れるべきだという意見が非常に多かった、だけれども残念ながら入れられなかったから、その後入れる予定にした。三十数年間たってしまったわけであります。

工藤晃

1983-03-04 第98回国会 衆議院 予算委員会第六分科会 第1号

まあドッジ政策をやったときくらいでございましょう。のんべんだらりとやってきた自民党政権のもとで、ともかくこれだけ膨大な行政経費が出てくるようになってきた。もちろん、戦前と比べまして内地人口が大体倍になる。その上へもってまいりまして、福祉とかそういうような大きい行政のニーズが出てきたのであるから、人件費がふくれ上がるのはこれまた当然だと私は思います。

井上普方