1981-03-20 第94回国会 衆議院 環境委員会 第3号
それからさらに、私どもつぶさに現地を調査させるようにいたしまして、いま先生おっしゃいました、そういう農園はダバオ周辺にございますので、ダバオを中心に数カ所の農場を現地に立ち入りをしましていろいろと調査をしたわけでございます。その結果、実際のジッパーあるいは生産者という方々等といろいろお話をした結果、現在は使っていないというふうなお話でございました。 以上でございます。
それからさらに、私どもつぶさに現地を調査させるようにいたしまして、いま先生おっしゃいました、そういう農園はダバオ周辺にございますので、ダバオを中心に数カ所の農場を現地に立ち入りをしましていろいろと調査をしたわけでございます。その結果、実際のジッパーあるいは生産者という方々等といろいろお話をした結果、現在は使っていないというふうなお話でございました。 以上でございます。
たとえば安宅産業はダバオで三年前から試験栽培をしてまいりましたが、ことしは千五百トン、昨年は二百トンでございますから、大幅に上回るショウガの輸入を計画をいたしております。もっとも、安宅産業が伊藤忠商事との合併後は日綿実業が窓口となりまして、つけものメーカーの西出食品、これは本社は大阪にございますが、ここが一手輸入加工販売に乗り出すという体制をとっております。
○宮澤国務大臣 詳しいことを後ほど政府委員から申し上げますが、事件が発生いたしましてから、私どもとしては現地の沢木大使を初めダバオの領事館館員等々、最大限に動員をし、かつ、マルコス大統領初めフィリピンの政府、軍の要人ともきわめて密接に連絡をとりつつ、邦人の身の安全を図りたいと努力をいたしておるわけでございます。
時間がありませんから、具体的な一つの例を出しますと、たとえば木材、それもラワン材、つまりベニヤ板に向くような良質なラワン材に限って言いますと、フィリピンのミンダナオ島のダバオ積みの場合に、日本木材輸入協会南洋材部会と南洋材輸送協定との協定価格運賃は、たとえば四十七年五月から九月まで七ドル四十五セントであった、これは立米当たりであります。十月から四十八年の九月まで七ドル五十五セントであった。
ということは、先般私のところに、ダバオで生まれて、ようやく昨年民間で初めて二十三回忌に親の死んだところに行った。ダバオの自分の生まれ故郷に行った。それに対して何回政府にかけ合っても、政府のほうは、やれフィリピンの対日感情が悪いとかなんとかいってやってくれない。ついに民間団体で八十名の人を編成して昨年の八月十五日に行った。
フィリピンにおきまして税関の設置されました開港場といたしましては、ガガヤン州のアパリ、バタンガス州のバタンガス、ミサミス・オリエンタル州のカガヤン・デ・オロ、セプ州のセブ、ダバオ州のダバオ、ネグロス・オリエンタル州のドウマグエテ、イロイロ州のイロイロ、スール州のホロ、カマリネス・ノルテ州のホセ・パンガニバン、アルバィ州のレガスピー、マニラ市のマ二ラ、ラ・ウニオン州のサン・フエルナンド、サマール州のサン・ホセ
従って、こういうところでは移住とともに、相当の資本と経営組織というものも一緒に持ち出す企業的な移住進出という方法が、どうしても必要でございまして、実は現在エクアドルに対しましては、マニラ麻の栽培をあすこでやってはどうか、これはマニラ麻につきましては、戦前ダバオで古川拓殖等がやっておりましたので、全技術者も日本に帰ってきている。
それが戦争中にほとんどなくなりましたので、極端な例を申しますと、ダバオからマニラに行く運賃の方が、ダバオから横浜に来る運賃より高いというような不合理な実情が起きておるのであります。
ビサヤ班は、一月三十日に銀河丸でマニラを出航いたしまして、レイテ島のオルモック、同じくタクロバン、ミンダナオ島のダバオ、ザンボアンガ、ホロ、ズマゲテ、セブ、バコロド、イロイロ、プェルトプリンセサの各地区で収骨及びズマゲテ以外の各地区で追悼式を行い、またスリガオ海峡で洋上追悼式を行なったのであります。
フィリピンのダバオには二万からの沖繩人がおったが、全部追い帰された。その他インドネシア、マレー半島におった沖繩人も全部追い帰されて人口が非常に稠密となった。しかるに一方においては土地を取り上げる。これでは沖繩人が全島をあげて反対するのが当然だと思う。
特にダバオにおける麻の栽培のごときは太田興業がやっておられた時代と全然比較にならぬ。生産額は三分の一になってしまった、こういうことを先方もよく知っておられまして、できるだけ早い機会にこういうものは日本から来てもらいたい。従いましてこういう方面の移民、もちろんこれは労働の移民というよりも、日本では労働者自体をりっぱなテクニシアンとして入れたい、こういう希望であります。
なおダバオのマニラ麻の栽培が現在は非常に荒廃いたしておるということを聞いております。これは結局日本人でベンデット工事に行った人があそこに居ついてあのマニラ麻の栽培をやった。フィリピンの土着の人もずいぶんあそこで仕事をさせられておったというふうな状況であります。
それから第二の点は、東南アジアの方面に送った移民は、フィリピンのダバオと北ボルネオのタワオでありますが、ダバオの移民が非常に成功したというのは、あそこに太田興業の経営によるマニラ麻という特産物があった。その特産物があったがために、沖縄方面の人を中心にして二万数千の人があそこに定住するに至ったことは御承知の通りなのです。従って熱帯方面の移民で何も特産物がない場合は必ず失敗するのです。
たとえて申しますれば、フィリピンのダバオのマニラ麻、このマニラ麻が成功したがために二万以上の移民が戦前には行っておったのであります。サンパウロのコーヒー、このコーヒーを中心に多数の日本人のコロノが行き、今日の盛況をいたしたことは御承知の通りであります。
特にフィリピンのダバオに、四十年前にマニラ麻を作るために入った人が、ベレンの郊外に一家族、モンテアレグレに一家族、アグアフリアに一家族あります。その人たちの体験を聞いてみますと、四十年前にダバオに入ったときの自分たちの生活条件、入植条件から考えるならば、現在のアマゾン移民の条件は非常にいい、こうい結論を出しております。
そうしてまた、移民問題は、幾つも小団体が分裂して取扱うがごときことがございますと、かつてブラジルにおいて、あるいはフィリピン、ダバオにおいて見た通り、いろいろの対立を見ることがあるのであります。そこで、この再出発にあたつては、海外に渡航するのに、ぜひとも一つの力強い団体の手によつて送り出されることが必要であると、こう考えるのであります。
それから南の方にミンダナオ島という、ちようど日本の北海道と同じぐらいの大きさの島がありまして、昔日本がダバオ麻を開拓したなごりの場所があるのですが、このミンダナオ島には敵が上陸しなかつたので、ここにおつた者は一中豫とか一中隊とか団体を組んで、士族の酋長などを連れて、アボ山という山の中にどんどん入つて行つたというのです。
それからミンダナオ島に二千名いるの、四千名いるのということをよく人は言つておるようですけれども——なぜかなれば、ダバオ付近は日本人がたくさん住んでおつた場所で、その付近は四里四方ぐらい麻畑で、いいところです。
たとえばレイテ島の米軍が上陸した付近とか、あるいはマニラ郊外の激戰地、それからミンダナオの米軍が上陸したダバオ付近、そういうところの遺骨は、米軍がある程度整理したのではないかと思うのであります。これは想像でありますが、やはり復興状況に関連しまして清掃もやつておりますから、そこで残つているものは、やはり山の中の部落なんかには間々風雨にさらされておるのだろうと思います。
次に、第二に米軍地区でございますが、比島におきましては、御承知の通り一般邦人はダバオ、マニラに相当おりまして、ダバオには一万九千、そのうち約五千死亡したと傳えられております。