1975-03-06 第75回国会 衆議院 農林水産委員会 第11号
静岡はお茶屋がたくさんあります。私は静岡ですのでずいぶん調べましたけれども、表示されているものをいまだ見つけたことがないんです。一生懸命探しました。どうですか。やられていますか。
静岡はお茶屋がたくさんあります。私は静岡ですのでずいぶん調べましたけれども、表示されているものをいまだ見つけたことがないんです。一生懸命探しました。どうですか。やられていますか。
そういう事情で、ある程度の銘柄としてのなにを持っておるお茶屋さんなんですが、もう全面的にお得意さんもなくなってしまった。そうして、この方はある程度、山も二十町歩くらい持っておりまするし、いまも申しましたように百姓をやらなくても、それだけでやれるくらいに商売もやってきているものですから、この金繰りはそう不自由はしていなかったわけです。
そういうときにはお話も聞かしていただきたいと思っておりますし、技官の方々が悪意でやったんじゃないので、善意でやったんだけれども、こういう結果が出たということによって、一定の責任をとるということは気の毒でございますけれども、ことさらにその人を悪意でやったものとして私は見ておりませんから、それはそういう改良普及員の方に対して、善良な配慮を皆さんがしてやってくださることをお願いしますけれども、しかし一方において、お茶屋
ただ問題は、当、不当の問題、社会的通念からいって妥当であるかどうかという問題でありまして、お茶屋に寄ってはいけないということにはなかなかなるまいというふうに思うわけです。したがってこれは、行政上の措置として適当であるかどうかということをわれわれとしては考える。一応先生の御趣旨を踏まえて検討はしてみたいと思います。
これはもち屋にもちの話やお茶屋にお茶の話をするようなことになるのですが、もう新潟のどの川を見ても、融雪増水が各地に出ております。特に荒川のような荒れたあとの川では、水を防ぐことができない。たいへんな問題です。この融雪と同時に、同時というよりもまず第一に、降った雪の量です。降った雪の量と増水とはほとんど並行して進んでおる。魚野川の水の流れも、そろそろ融水が来ております。
○栗原委員 たとえば病院等で、病院に勤務するお医者あるいは病院に勤務する看護婦、こういうものはお茶屋と芸者屋と検番、こういう関係より以上に、これは人命に関する緊密な関係があろうと思いますが、こういうものは申請してくればすべて必要ありとして許しますか。
○畠山政府委員 これは京都の祇園におきまして、いわゆる土地のことばで申しますとお茶屋と芸妓というそうでございますが、その間が業務上緊密な関係があるということを認定いたしまして、第四条五号に基づきます、いわゆる私設有線電気通信設備の設置を許可いたした次第でございます。これは昨年の六月に許可申請がございまして、九月に許可いたしました。そういう状態でございます。
四条の五号によるところの、いま言った祇園のお茶屋の電話みたいなものが全国で何ぼあるか、こう聞いておるわけだ。あなたは一体法律をよく読んでいるのかね。いまあなたが言った国鉄、通運その他については法律にある程度明確にあるわけだ。そういうふうに法律に明確にあるものを私は聞いておるわけじゃない。
○畠山政府委員 この私設有線電気通信設備が設置されておりますのは、お茶屋の組合とお茶屋及び芸妓の家ということになっておりますが、この加入電話は三百十加入ございます。軒数、世帯数で申しますと二百六十軒でございます。したがって、二百六十軒について三百十の公社電話がついております。
○政府委員(畠山一郎君) これはいわば同業者相互間ということになると思いますが、この場合には一般的な同業者相互間と違いまして、お客の取り合いは絶対にしないとか、あるいはあるお茶屋へほかのお茶屋のお客さんが見えますと、必ずその本来のお茶屋へ案内するとか、そういうならわしになっている、そういう説明をいろいろ聞きまして認定をした、こういうことのようでございます。
○政府委員(畠山一郎君) 祇園新地甲部組合の行ないます事務は、規約などによりますと、たとえば関係官庁の命令、通知の周知伝達に関する事務、祇園甲部芸妓組合との花代等の析衝に関する事務、お茶屋の開業、廃業の手続に関する事務、花代の微収に関する事務、お茶屋の加入する健康保険組合に関する事務などであります。
○久保等君 だからこそ検番とその芸妓なり、検番と少なくともお茶屋、これとの緊密なる関係ということの理由にはなっても、芸妓間あるいは置き屋間、あるいはお茶屋さん間、そういったものの関係というものは、これは何も特別な緊密なる業務関係にあるわけじゃないでしょう。
○説明員(武田輝雄君) いま先生お尋ねの祇園におきます状況でございますが、お茶屋とか置き屋といいましたところには、大体、私が承知しております限りは、必ず加入電話はついておるというふうに聞いております。それからなお祇園地区の電話の状況でございますが、祇園全体で、祇園局全体で大体二千四百くらいの積滞がございます。
おとうふ屋へ行くとおとうふしか売っていない、お茶屋へ行くとお茶しか売っていないというわけです。大昔はもっとひどいので、明治の初めごろは酒屋へ行くと酒だけ、甘酒屋へ行くと甘酒だけとか、それからみそ屋、しょうゆ屋、お砂糖屋というふうにある。こうやって、つまり薬局でもかぜ薬薬局とか、胃腸薬局とか分けていったら、商品の数だけ店の数が要るのですから、これは幾ら店の数があってもたまったものではない。
今は料亭となっておりまして、ただ、この法律ができた昭和二十三年当時は、通常待合といっておったようでございますが、関西の方に行きますと、それをお茶屋といいますか、何かいろいろ、同じような業態でも、地方によって呼び方が違ったり、それぞれにまた自分で勝手な名前をつけております。
ただどこがいけないかということについては、日本橋の事件につきましては、その調べられた方がごく狭い店でもって、表に人通りがある、お茶屋と駄菓子屋さんで、お茶の看貫までなされておる。大っぴらに税務署で調べられているんだということは、通りがかりの人、そこを訪問したお客様にわかっておる。
、撞木町、橋本の八カ所と、郡部六カ所すなわち月見、猪崎、朝代、龍宮、丸山、新浜の六カ所に分けられますが、営業者及び従業婦の数において、京都市一帯は全体の八割以上を占め、昭和三十二年十月末現在、京都府警察本部の調査によりますれば、京都府赤線業者一千二十人、従業婦二千四百八人に対し、京都市一帯のそれは業者八百八十七人、従業婦二千九十四人で、業者一人に対し従業婦数は平均二、三人の計算となり、業種は貸席、お茶屋等
最近日本橋で特調を受けられたお茶屋の御主人が、自殺をなさったそうであります。私は、この事件を例に引いて全斑を律することには間違いがあるとは思いますが、また実情を聞いてみますと、必ずしも税務職員の強制的な脅迫とか、そういう事実はなかったように思います。けれども、この調査なり、あるいは特調なり、あるいは査察が国民に与える影響というものは、心理的にきわめて大きなものがあります。
そういうことでありまするとか、それから葉山の方の海岸のお茶屋が非常にいたんでいる。そういう所を直すとか、あるいは東宮仮御所のじゅうたんが非常にいたんでしまっている、それを入れかえる。そうしたいろいろの経費が合わさってそういうことになっております。
もし私の記憶が間違いでなければ、地方制度調査会の二十八年度の答申のときには、そういう意味のことを答申しておりはせぬかと思うのですが、時の政府はそういうことがないでもなかったけれども、料理屋のおかみさんとか、お茶屋のおかみさんというのが与党の幹部を包囲攻撃して、そういうことのないように陳情したということがとうとう実を結んで遊興飲食税を置き去りにされた、入場税だけが国税に移されたというふうに私は記憶する
だから眠っておったか、眠っておらなかったか、それは何に使ってしまったか、旅費に使ったか、お茶屋で使ったか知らぬけれども、いずれにしても余剰が生じたという関係は、やはり非常に大事な重要視しなければならぬことと思うのであります。
しかし、昔は吉原のお茶屋で遊女には正月にむしろの上で雑煮を祝わしたといことであります。それは遊女というものは身請けをされれば、りっぱな武家や町家の奥方ともなるべき身分であるから、自分の家のようないわゆる娼家の雑煮を祝わせてはいけないという、これは楼主の非常にみずから卑下した処置であったということであります。
これらをぎゆうぎゆう取上げても金額においてはわずかなもので、片一方は払えるんだが、払うような課税対象はなく、従つてお茶屋さんだの大きなお料理屋さんなどでは、国の方で所得税を調べると非常に大きいものですから、それから売上げが多いはずだと算定されるのでありますが、これは所得は多いのかもしれませんが、遊興飲食税の対象になるようなものは少い。
○大石委員 あなた方は遊興飲食税をおとりになつているけれども、料理屋やお茶屋はたいてい、ごまかして政府に納税しないんです。これはよく御存じでしよう、あなた方もよく飲みに行かれるからね。そこで病人が入湯したからといつてそれに対して入湯税をとることはあんまりではないか。 〔委員長退席、佐藤(親)委員長代理着席〕 それから荷車税をとる。
どこかのお茶屋に行つて話したとか、その辺の茶飲み話で話したということならこれは我々は了承できるのです。天野個人がそういうことを考えていようがどうしようが、それは我々は余り問題にはならないことであるが、併しあなたは現に教育界、教員を集めた会合において話されたということではないですか。これは天野個人とか何とか言い逃れをつけられようと、これははつきり言えば半公式的なものである。