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1978-05-09 第84回国会 参議院 文教委員会 第10号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十三年五月九日(火曜日)    午前十時六分開会     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         吉田  実君     理 事                 後藤 正夫君                 世耕 政隆君                 粕谷 照美君                 小巻 敏雄君     委員                 岩上 二郎君                 山東 昭子君                 高橋 誉冨君                 内藤誉三郎君                 二木 謙吾君                 増田  盛君                 勝又 武一君                 久保  亘君                 松前 達郎君                 宮之原貞光君                 柏原 ヤス君                 白木義一郎君                 田渕 哲也君                 有田 一寿君    政府委員        文部政務次官   近藤 鉄雄君        文部大臣官房長  宮地 貫一君    事務局側        常任委員会専門        員        瀧  嘉衛君    参考人        早稲田大学教授        放送大学創設準        備に関する調査        研究会議委員   清水  司君        東京大学教授        大学設置審議会        大学基準分科会        大学通信教育・        放送大学特別委        員会主査     伊藤 正己君        明星大学学長        私立大学通信教        育協会放送大学        研究委員会委員        長        児玉 三夫君        立教大学教授        日本教育学会教        員養成問題研究        委員会準備委員        会委員長        東京学芸大学学        長        長尾十三二君        日本教育大学協        会会長      太田 善麿君        文教大学学長   小尾 乕雄君        名古屋大学教授        前国立大学協会        教員養成制度特        別委員会委員長  飯島 宗一君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法  の一部を改正する法律案内閣提出、衆議院送  付)     —————————————
  2. 吉田実

    委員長吉田実君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案議題といたします。  本法律案の審査に当たり、特に、放送教育開発センター問題について意見を聴取するため、本日、早稲田大学教授で、放送大学創設準備に関する調査研究会議委員清水司君。  東京大学教授で、大学設置審議会大学基準分科会大学通信教育放送大学特別委員会主査伊藤正己君。  明星大学学長で、私立大学通信教育協会放送大学研究委員会委員長児玉三夫君。  以上三君の方々参考人としてお招きいたしております。  この際、参考人方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、お忙しいところを本委員会に御出席いただきましてありがとうございます。  それでは、議事の進め方について申し上げます。  ただいま議題といたしております国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案放送教育開発センター問題について、忌憚のない御意見をお述べ願いたいと存じます。  議事の都合上、御意見を述べていただく時間は、お一人十五分以内にお願いいたしたいと存じます。  なお、参考人意見陳述の後で、各委員から質疑がございますので、お答えいただけますようお願い申し上げます。  それではまず清水参考人からお願いをいたします。
  3. 清水司

    参考人清水司君) 清水でございます。  放送教育開発センター設置に関します御審議をいただいているそうでございますが、関連いたしまして、放送大学問題等も含めまして、私の意見を述べさせていただきまして、御参考にさせていただければ幸いと思うわけでございます。  まず初めに、一言申し上げておきたいことは、放送教育開発センターにいたしましても、また放送大学ということにいたしましても、頭に放送という大変技術的な名称が仮称としてつけられております。そういった関係から、御承知のようにラジオテレビその他いろいろなVTRとか、テープレコーダーも含めまして、マスメディアの中で大きな媒体としてある放送をとらえ、その何か技術的な問題としてお考えをいただくと、大変私どもといたしまして特にお考えをいただきたいところと思うわけでございます。と申しますのは、現在御承知のように科学技術の進歩、また高度な技術を生かしたいろいろな形での社会の中での活用ということもさることながら、教育界におきまして教育を近代化するということの一つとして、ただいま申し上げましたようなものが、象徴として出されていると私は考えるわけでございます。ですから、放送というのは、その高度な科学技術も含め、社会の中で、特に教育が果たさなければならない役割りを、もう一度見直すその手だてになるという手段ということで、放送というまず言葉をひとつ御理解をいただければと思うわけでございます。新しい時代における社会の中での、特に知的活動センターとして、高等教育機関がある役割りを果たそうとするならば、そういった試みがなされなければならないし、また考えられなければならないということがまず要点でございます。そういった意味で、放送大学はいままでありますような形での単なる一つ教育機関ではなくて、新しい構想の新しい試みを行う大学というふうに私どもはとらえたいと、こう思うわけでございます。  御承知のように、大学は大変多様な価値観能力と、これが混在することによりましてある一つ役割りを果たしております。そういった意味から、大学学生諸君に、みずからなすことによって学ぶといったことを奨励し、そのための施設、設備の充実と、その効果的利用ということを私どもは常日ごろ考えておるわけでありますが、初等中等教育に比べまして、御案内のように大学教育における教育方法改善といった面では、まだまだおくれをとっているということがはっきり言えるわけであります。もちろん大学には幾つかの機能がございます。教育研究、そしてよく言われますところの社会に対する奉仕、この三つがよく大学機能として挙げられておりますが、特に日本大学におきましては、教育研究、また研究の自由を保障するといった、自由とそれからただいま申し上げましたような意味での教育役割りということとの調和の問題が一つ大きくあるわけでございます。そういったことを考えますと、私どもといたしましては、何らかの形で社会に開かれた大学教育考えたいといたしますと、ただいま申し上げました放送大学といったような構想が、その中から出てくるわけであります。  御審議いただいておりますのは、放送教育開発センターに関することでございますが、私はこういった意味で、放送教育開発センター大学のこれからの教育内容また方法、そういったものを今後研究開発いただくということでございますが、その成果期待をいたしているわけでございます。私は、理工系でございますので、若干科学技術関係する分野研究いたしている者でございます。諸先生方案内のとおり、現在の日本を築き上げてまいりました、また世界の経済を支えてきた科学技術の目覚ましい発展とその成果は、私どもにある程度の物質的な豊かさをもたらしてくれたわけであります。しかしその反面、急激な社会変革というようなものが伴ってまいりましたことは御案内のとおりでございまして、その中に生じました、その過程において生れたいろいろなゆがみ、ひずみ、たとえば人間の疎外であるとか、世代間の断絶であるとか、複雑なそういった人間関係の問題から、御案内のとおりの公害問題、都市問題、エネルギー問題、資源問題といったような多種多様な、かつては予測し得なかったような幾つかの問題が生まれつつあることは御案内のとおりでございます。  まあ私ども振り返って考えますに、社会変革スピードというものが、産業革命来急速に行われたわけでございますが、かくも急激な変革があった時代は余りなかったと思うわけでございます。そういった意味で、私ども教育に携わって感じることは、自分たち社会人になる前に、子供の成長段階に応じての教育だけでいいんだろうかという反省でございます。社会変革スピードのおそかった時代には、それなりに個人の持っております英知と、それから努力と、これによって変革を吸収し、調和を保つといったようなことが可能であったと思います。しかし、私ども自分たちの一生の中で、さらにこれからの社会に生きる者は、そういった意味で、この変革スピードが、個人知恵能力だけでは吸収しきれないというところに、大きなひずみが出てくる可能性があるわけでございます。そういったことを考えますと、先ほども申し上げましたように、大学のもう一つ役割りとして、教育研究以外に、社会奉仕社会の中で現実の世代に役立つといった教育活動が展開される必要があるのではないかと思うわけでございます。  現在いろいろな社会の中で、知的活動が活発に行われております。そういったものも含めて、大学が理論的に体系づけ、そしてそれをさらに役立つ形で社会人たち利用していただく、そういったことが大学社会の中に知的活動中心として位置づける大きな役割りを果たすのではないかと思うわけでございます。この問題は、放送教育開発センター設置に関しまして、概要のところにもございますように、大学開放の推進という役割りを担う大きなゆえんでございます。私はそういった意味で、教育の問題というのは国家百年の大計とよく言われます。次の時代を担う者を育て上げるという意味では確かにそうでございますが、これは学校教育制度の中で考えたときではないかと思うわけでございます。小学校、中学校、高等学校そして大学と、社会人になるまでの養成ということを考えますと、いま申し上げたことが当たるわけでございますが、特に大学における教育研究、特に研究成果先ほど申し上げました社会知恵とあわせ育ってくるところの成果、これを社会人たちと一緒に役立たせていく、そういった役割り大学大学なりに機能し得るのではないかと思うわけでございます。  現在御案内のとおり、大学はきわめて学生数も多く、そういった社会的なニーズがあることを理解しながらも、そういった手だてを知ることが、また使うことができていなかったというのが実情でございます。放送大学が検討される過程におきまして、ただいま申し上げましたようなことも十分に議論され、私もその主張をした一人でございますが、単なる教育機関考えるということではなくて、そういった手だてを現在あります国・公・私立大学すべてにサービスをする、提供する、そういった機関一つ必要ではないか、これが実はこの放送教育開発センターにつながるというふうに私は理解をしております。先ほど申し上げましたように、大学でいままで余り扱われなかった、余り考えられなかった教育方法改善と、新しい試みといったことを、このセンターで十分御研究いただき、国・公・私立大学利用を可能にしていただくということが、私は大変重要なことじゃないかと思うわけでございます。  そういった意味で、放送教育開発センター設置の目的として「放送利用大学教育に関する研究及び開発」ということがございますが、これは放送大学一つにかかわる問題ではなくて、国・公・私立大学のすべての教育機関研究機関が必要とする分野ということを御理解をいただきたいと、こう思うわけでございます。そういった意味で、このセンター理解され、またこのセンターが、今後いままで検討されてまいりました放送大学創設準備の事業も進めるということのようでございますので、私どもとしては大いにそれについて期待をいたしたいと、こう考えているわけでございます。  余り細部のことに触れませんで、大変失礼でございましたが、とりあえず私の最初の発言にさせていただきたいと思います。
  4. 吉田実

    委員長吉田実君) ありがとうございました。  それでは次に伊藤参考人にお願いいたします。
  5. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) 大学教育に対して放送利用するという問題につきまして、平素関心を持っております私が、この放送教育開発センター中心意見を述べる機会を与えられまして、非常に光栄に存じております。放送という媒体は、御案内のとおり大量の受け手に対して、同時に、そのお茶の間に豊富な情報を送り込むということ、特にテレビの場合には視聴覚に訴えるということで、大きな影響力を持つということは申すまでもないのでございますが、電子工学などを中心にした科学技術の非常な発展というものが目覚ましいものですから、最近では御承知のとおり有線テレビ同軸ケーブル放送衛星多重放送等々、ますます利用方法が豊かになってまいったわけでございます。そういう意味では放送というものが一つの大きな社会的な重要性を持ってきたことは申すまでもないのでございますが、それを教育利用するということは当然に考えられていいことだと思うわけであります。すでに初等教育中等教育におきましてはこれは大いに利用されているわけで、実績も上がっているかと思います。これを高等教育大学教育に効果的に利用するにはどうしたらいいか、これまた私たち当然に考えなければならない点だと思うのでございます。  現在までのところ、私には大学教育に対する放送利用というのには、三つタイプがあるというふうに考えております。  第一が、いわゆる社会教育面における放送、それで大学教育高等教育を行うということでございまして、NHKがやっております市民大学講座どもその例であろうかと思います。すぐれた内容の高度に学問的基礎のある番組が提供される、一般人たち茶の間でその成果を受け取ることができ、国民の教養、知識の向上に役立つということが言えるかと思います。  第二が、各大学講義放送を通じて公開するという役割りであります。いわば大学の拡張といいますか、大学のエクステンションと言われているものでございまして、すでに実験放送で広島大学、あるいは東北大学がその公開講座放送を通じて一般に広く開放しているという例がございます。場合によっては、アメリカなどでは非常に狭い範囲で、あるいは有線の方がいいのかもしれませんが、大学講義、あるいは演習をそのまま放送で送り出す、そして職場などで集まっておりましてその放送を聞く。これまた放送と違うのは、一方的な傾向がありますが、この場合は電話線が通じておりまして、すぐ質問が出る。そうしますと、その講義をしている先生が、また放送を通じてすぐ即座にその質問に答える。これは文字どおり大学教室なり、演習室なり、実験室なりが拡大されると、そういう利用方法があるかと思います。  第三が、日本でも構想されております放送大学でございまして、イギリスの公開大学、オープン・ユニバーシティーというものがすでに発足して成果を上げておりますが、それ以上に日本放送大学の場合には放送を主たる教育手段とする正規の大学をつくろうということで、非常に注目をされているわけでございます。  このように、大学教育に対して放送利用するには多様な形態タイプがあるということが言えますが、これらを通じて私はいろんな利点メリットがそこにあるというふうに思われるのでございます。これは清水参考人もすでに指摘をされたことでございまして、常識的にもすぐ思い浮かべることがございますが、念のために私が考えることを列挙してみますと、第一に、学問が非常に高度に発達をしてまいったわけでございますが、その成果をやはり国民に提供するという意味があろうかと思います。いままではどちらかというと学問学会、あるいは学会と直接結びついているような範囲にのみ提供されることが多かったのでありますし、また学問内容によっては、なかなか一般の人には理解ができない、近づき得ないというものもあるかと思いますが、恐らく現代の学問というものは、大学だけにおさまらないで、国民に公開されるということが望ましいのではないか。これに対してはやはり放送が一番適当ではないかという点が一つであります。  それから第二に、教育面において、大学教育は閉鎖的であるという時代は過ぎてまいったと思います。大学教育社会に広く開放して、だれにもこれに接近できるというものにするには、何よりも放送が最適であろうと思うのであります。特に、これから日本教育は、中央教育審議会でも問題になっておりますように、学校教育と並んで生涯教育というものが重要視されているわけでありまして、そういう社会にまあ暇ができた主婦であるとか、あるいはもっと重要なことは、社会人として活動しておられる方々が、新しい学問を学びたいという意欲は非常に高まっているわけであります。そういう人たち通学制大学ではどうしてもこれは無理でございます。放送あるいはビデオを利用するというようなことで、生涯教育を希望する人たち大学教育を与えるというためには、放送というものは最も適当であろうと思うわけであります。  それから第三に、放送という、科学技術先ほども申しましたように非常に進んでまいりました。これをやはり大学教育利用しないという理由はないと思うのであります。私は大学教授として、広い大きな教室講義をすることがあるんですが、後ろの方の学生はオペラグラス、双眼鏡でながめているというような教室が多いのであります。それよりは身近にテレビを通じてすぐ目の前に先生講義を聞くことができるという放送の妙味もございましょう。これは非常にささいなことでありますが、送放教材がだんだんと製作の技術が進んでくるということになりますと、これは大きな意味を持つのではないかと思います。  それから第四番目に、大学教育方法に対して大きな影響を与えるのではないかと思います。日本大学先生は、講義内容にはいろいろ熱心でありますが、教育方法については必ずしも熱心でございません。むしろそれに対して口を出すのは講義の自由、大学の自由を侵害するのではないかという受け取り方すらありまして、大げさに言えばある講義などは明治以来の旧態依然たる講義が行われている。これに対して外国などでは、学会ではもう非常に教育方法をどうするかということが大きな議論になるわけですが、日本学会では余りそういうことは問題にならないわけであります。ここに放送利用するということは、教育方法改善につながるわけでありまして、少なくとも、改善でなくても、教育方法考えるという機会大学先生たちに与えるという意味では大きな意味があるんではないかと思います。  それから第五番目に、放送教材というものを放送大学教育をやる場合にはつくらなければなりませんが、これは一人の先生考え講義をするというのではなくて、場合によっては多くの教官協力をする、あるいは放送番組を制作する技術陣もこれに関係するということでありまして、学問一般的にわかりやすい形で提供されるのみならず、いわば学際的な多くの先生協力による講義というものができるという利点があるんではないかと思います。  第六番目に、国・公・私立大学連携協力ということが、ことに放送大学をつくったような場合には非常に促進されるのではないかと思います。日本では大学の間の協力が必ずしも進んでおりません。大学独自性を主張するのでありますが、放送利用するということになりますと、おのずからこの大学間の協力連携が促進される可能性が非常に大きいというふうに思うのであります。放送大学の場合になりますと、これはもうそういう協力がなければやっていけないという形の大学ではないかと思います。  また、後で児玉参考人からお話があると思いますが、通信制大学というものが多くの私立大学努力によって今日まで発展してまいったわけでございますが、放送通信制大学利用するということによって、通信制大学がまた充実いたしましょうし、また通信制大学同士協力というものが進むと思うのであります。また、一部には、放送大学ができると通信制大学と利害が反するのではないかという意見がありましたが、放送大学通信制大学がまた連携協力することによって、双方ともに利益を受けるのではないかと思うわけでございます。  以上、ざっと考えましても、放送大学教育利用するについては、非常なメリットがあるというふうに思うのでございまして、本日は放送大学特別対象にする御審議ではないかと思いますが、私の見るところでは、放送大学というのは以上のような利点を最も鮮明にする放送利用形態ではないかというふうに思いまして、その意味で私は放送大学ができるだけ早く創設されることを望んでいるわけでございます。  ところが、大学教育放送利用すると、いま以上の利点を挙げたんですが、すぐ利用すればすべてその利点が直ちに実現されるかということになると、そうではございませんで、やはりそこにはいろいろ検討すべき問題点がございます。それらを考えた上で、やはり放送利用というものを促進する必要があるかと思うわけであります。  今回御審議対象になっております放送教育開発センターというものは、そういう問題を十分に検討する役割りを担うものではないかと思うのであります。  どういう問題があるかと、若干の例を挙げてみますと、第一に大学教育放送利用する場合の方法内容をどうするかという問題があります。視聴覚教育については、かなりわが国の研究は進んでいるのでありますが、主としては初中教育に対する視聴覚教育でありまして、大学教育の場合にどうするかということはまだ十分検討されておりません。放送教材をどのようなものにするか。一方では視聴覚の粋を、教育研究の粋を集めかものがいいだろうという意見もあります。いや、そうではなくて、大学教育の場合には、むしろすぐれた講義をそのままやって、余り手を加えない方がいいというような意見もありますが、そういうのをどう考えたらいいかという点もございましょう。また、学問分野によって、そういった放送教材をどのように使うか。これは、内容方法は必ずしも同じではないと思います。ある講義ラジオの方がむしろテレビよりよいという場合もありましょう。そういう研究は全く私は未開拓だと思うのでございまして、今後そういう放送番組をこのセンターが試作をするということを通じて、そういう問題を進めていく必要があろうかと思います。  さらに、教育面についてもこの放送利用する場合に、放送しっ放しというわけにはいかないと思うわけであります。たとえば、印刷教材をどう準備するかという問題があります。通信制教育については、これは印刷教材が最も中心でありますが、それと違った形で放送利用する場合の印刷教材をどうするかというような問題があります。  また、放送というものは一方的に送られるという性格をどうしても免れませんが、教官受け手からどういう反応を受ける方法があるか。学ぶ側の質問などにどうこたえていくのだろうか。そういう教官学生、学ぶ人との接触方法、あるいは大学教育にとって必要な学生同士接触方法、こういう問題を放送利用の場合にどう考えたらいいか、こういうことも非常に検討が必要であります。これはすでに調査会議などでいろいろ議論があったのでありますが、このセンターにおいて専任の人が専門的に検討するに値する事項ではないかと思います。  そうして、さらに広くは放送というものが、こういう勉強する人にどのような訴え方をするのであろうかという問題、あるいは放送による情報伝達はどういう意味を持っているんだろうかというような放送学的な検討、総合研究もこのセンター期待されるのではないかというふうに思うわけであります。  あるいはまた、放送制度面からもいろいろな問題があることは御案内のとおりであります。放送法による規制と、大学講義の自由をどうかかわりを持たせるのだろうか、こういう重要な問題。これは放送大学を結びつけますと、どうしても起こってくる問題でありますが、こういう問題についても検討を必要とするのではないかというふうに思うのでございます。  私は、放送教育開発センターというものが、放送大学の準備ももちろん進めていただきたいと思いますし、さらには教育工学的ないろんな検討も進めていただきたいと思います。さらに、広く放送大学利用に関するいろんな問題、さらに進んでは新しい形態大学教育はいかにあるべきか、そういう重要な問題をも取り上げていくべきではないかというふうに思うわけであります。  このような実績を上げることによりまして、このセンター日本における特色のある研究、共同利用機関になるのではないかというふうに期待をするわけであります。  放送大学ができましたとき、これがどうなるかという問題もございますが、私は放送大学形態にもよりましょうが、そのときは放送大学一つ研究機関研究施設というものになっていくことによって、放送大学にもメリットがあり、また、このセンターも非常な大きな発展を遂げるのではないかというふうに思うわけでございます。  率直に言いますと、このセンターができると聞きましたとき、私としては放送大学が最初につくられて、放送大学研究施設としてこういうセンターが置かれるということが望ましいんじゃないかと考えたことがあるんですが、御案内のとおりのいろんな事情で、放送大学が早期に発足しないという段階になりましたとき、よく考えてみますと、この開発センターによっていろんな準備と研究が行われることによって、よりよい放送大学ができ上がるのではないかというふうな期待を持っているのでございます。私の最初の話はこれで終わることにいたします。
  6. 吉田実

    委員長吉田実君) ありがとうございました。  次に、児玉参考人にお願いします。
  7. 児玉三夫

    参考人児玉三夫君) 私は私立大学通信教育協会の理事をいたしておりまして、その方の代表としてお伺いいたしております。  文部大臣の御提案の理由の第七にございます、放送教育開発センターを新設するに関して参考意見を述べてほしいということで、その件に関しまして意見を申し上げたいと思います。  この法案を見ますと、国立大学の施設としてお考えになっておられる中に、国立大学以外の大学にもこれを利用させるというようなことがございますが、この中には大臣の衆議院の文教委員会での御説明とか、あるいは文部省からいただきました御説明の中には、はっきりと国・公・私立大学ということが明記されておりますが、法案そのものには国立大学のこれは施設であって、これをその他の大学にも利用させると、こういうことになっています。この点につきまして、私どもの方の協会の大学の者が、これは文教委員会で文部大臣が衆議院で御説明になったんだから、まさかうそではないだろうと、法案には書いてないが、このくらいは御信用していいんじゃないかと、こういうことを申しておりました。  それでこの法案や、それからこの文部省からいただいた「放送教育開発センターの概要について」と、これを見ますと、結局は放送大学のことをこれはあらかじめ考えて、その上でこういうセンターを設けられるということに私は間違いないと、これも私の方の協会の大学の者が申しましたが、放送教育開発センターとなぜ遠慮されたのかと、放送大学開発センターとされたらどうだ、こういうことを申しておりました。私もそれ聞いて、なるほどこれはなかなかうがったことを言うわいというふうに感心いたしたんでございますが、そういう放送大学の問題が、私ども通信教育協会の非常に大きな関心になってきております。それはお話には四十二年ころからと聞いておりますが、大臣の衆議院で述べられたところでは、四十六年となっておりますが、いずれにしましても、相当な期間をかけて放送大学構想が打ち出され、すでにもう実現に至ろうと、こういうような状況になっているかと思いますが、私どもの方の私立大学の通信教育と申しますのは、こういうのが昨年の暮れ印刷されたんでございますが、お手元にございますでございましょうか。初めてこういう戦後の概況のわかるものを印刷いたしまして、これのほかこの放送大学に関するいろいろな問題について、文部省関係の方へいろいろな私どもの協会の立場としての要望書を数回出しております。この写しも差し上げてあると、こういうことでございました。  現在、この私大通信教育の状況について申し上げますと、私立大学の通信教育は戦後の教育改革で新制の大学が始まる前から通信教育という、こういう教育を行っていることは御承知かと思うんですね。昨年三十周年の記念の行事をいたしました。最初の通信教育を始めた大学としましては、たとえば法政大学であるとか、慶応大学であるとか、あるいは日大であるとか、中央大学であるとか、さらには日本女子大学であるとか、そういう先輩の大学が三十年近い以前に、戦後、通信教育によって本当に教育を、大学教育をひとつやってみたいという、そういう熱意のもとに出発されまして、その後私どものようなささやかな学校でございますが、そういうものを含めまして、現在四年制の大学は十二の大学を数えます。短大が七つ、合計で十九の大学で協会をつくって、いろいろそれぞれの情報を持ち寄って、私立大学の通信教育のますますの発展のために、ひとつお互いに努力しようという、そういうことを申し合わせてやっております。五十一年にこの協会が法人化いたしまして、財団法人私立大学通信教育協会と、こういうことになりました。これは文部省の御当局を初め、その御支援によって、こういう協会ができたということを聞いておりますが、大変この点においてはいろいろお世話になっているようでございます。現在この十九の大学学生の数は大体十四万人と、こう申しております。このパンフレットを見ていただきますと、大体その概況が御理解願えるかと思うんでございますが、うち大学につきましては、大体その四〇%近くが女子の学生、こういうことになっております。それから通信教育大学を卒業しました学生の数は、現在までに大体六万人と、こういうふうに言われております。で、この通信教育を行っている私立大学は、それぞれ大学のキャンパスがありまして、これを母体にして通信教育という仕事を行っているわけでございます。したがって、各大学教育上のいろいろな特質というものがこの通信教育にも生かされてきている。十九の通信教育を行っている大学がございますけれども、それぞれその方法上、また内容上の特色を出しているかと思うんでございます。それぞれの大学の伝統に従って、特色のあるそういう教育内容を慕って学生が入学をしてまいるのでございます。そういった通信教育大学のこの三十年に及ぶ歩みと業績というものが、いままで余りにも顧みられなかったのではないだろうか、ことに放送大学の計画、構想までのプロセスで、この私立大学の通信教育との関連性、あるいはそれに対する協力性についての議論というものが、私は非常に少なかったんではなかろうかと、こういうふうに思います。私立大学の通信教育では、放送大学の創設計画の途中で、初めて放送大学テレビのUHF及び短波の唯一の残された電波を、これを全面的に使用すると、文字どおりの放送大学であるということが私どもにやはりわかってまいったんでございます。  イギリスにおきましては、御承知のように、先ほど伊藤参考人さんからお話がございましたように、オープンユニバーシティーというのが現在活動いたしております。このオープンユニバーシティーになる前はユニバーシティー・オブ・ジ・エア——つまり放送大学だったんでございますが、それがやはりオープンユニバーシティー、公開大学と、こういうふうに名前を変えて現在活動いたしておりますが、この放送を担当しているのがイギリスの御承知のBBCでございます。私も放送大学の問題や、また今後の私立大学の通信教育のこともございますので、三年ほど前にイギリスに参りまして、たしかロンドンから五十キロぐらい行った丘陵地帯にございましたが、ウォルトンホールと申しましたか、りっぱなセンターを持っております。図書館もまたその教授、スタッフの方の宿舎も、非常に簡素なものではございますが、りっぱなものをつくっております。そこに行きまして、センター放送大学のいろいろな問題について伺ってまいりましたが、また泊っている宿屋でも、朝一週間ばかり続けて、そのBBCの放送を聞きました。大体はかってみますと、一日四時間ないし多い日で五時間くらい、とても一日じゅうその電波を流しているということはございません。そういう意味で、私は放送大学がどうしても電波を全部使うんだ、残された唯一の電波を使うんだ、これは郵政省と文部省との間の約束でこれを使わせるということになっているという、私はどうもこれ理解ができないんです。一体電波というものはだれのものでございますか。これは文部大臣の恐らく御回答によれば、それは国民のものであると、納税者のものだと、こういうふうにおっしゃるに違いない、私もまさしくそうだと思うんですね。この三十年に及ぶ私立大学の通信教育が、本当に苦労して今日まで来ている、これには電波をちっとも渡さぬと、こうおっしゃる。けれども先ほどちょっと伊藤参考人さんのお話を聞きましたら、どうもまた少し私どもが聞いていることと違って、何か国・公立の学校とも電波を共通に使わしていただけるというような、ちょっとそういうふうにとれるお言葉がありましたので、またこれは本当によくなるなと思って聞いていたんでございますが、ぜひ私どもにもそういった電波を少しでも割り当てていただきたい。御承知のように、この電波と申しますのは、もう非常に強力な映像をもって視聴する人に迫ってくるんですね。いま世間では小学生や幼稚園生がテレビを見まして、NHKよりも民放がおもしろい、民放をずいぶん見るそうですが、十五分ごとにいろいろな宣伝が入ってくる、そうすると十五分ごとに自分のその生活時間が何か区切られていくんだそうですね。そんなことを聞きましたが、大変なこれは大きな力を持ってきているなというふうに思いました。  そういうことで、ぜひひとつ放送大学に連なる、この放送教育開発センターにおかれましても、従来の長い間の私立大学の通信教育の三十年の歩みと、その業績とを買っていただいて、ぜひひとつ忘れないでいろいろなお仕事をしていただき、また、私ども私立大学通信教育にもいろいろな効果が出るように御指導を願いたいと思います。  ちょうど昨夜、きょうこちらで御意見申し上げるんだということで、十数校の私どもの方の関係大学の者が集まりまして、いろいろな要望を出しております。私もそれを聞いてまいりまして、まとめました事柄を二、三申し上げて終わりにしたいと思います。  放送教育開発センター、イコール放送大学と、このセンター放送大学と通信教育との制度的、法的な措置を何らかの形で保障していただきたいと、こういうことが大きな一つの問題として出ております。  それから、このセンターではその研究成果を国立大学だけでなく、私立大学とも等距離で分有できるように制度化していただきたいと。  それから、放送大学を一方的に志向する放送教育開発センターでなく、通信教育を含めた開かれた大学教育という広い視点での研究センターであってほしいと、こういう三つの希望が出ております。大変失礼いたしました。
  8. 吉田実

    委員長吉田実君) ありがとうございました。  以上で参考人方々の御意見の開陳を終わります。  これより質疑を行います。質疑のある方は順次御発言を願います。
  9. 松前達郎

    ○松前達郎君 社会党の松前でございます。  きょうは参考人先生方から大変貴重な御意見をいまお伺いをいたしたわけでございまして、どうもありがとうございました。  私自身も現在まで、FM放送という媒体を使って教育を行う、これは高等学校教育ですけれども、そちらの方の仕事もやった経験もございます。最近、電波を使っての、いわゆる大量な情報を流すための方式というのが大いに開発されてきたわけなんですけれども、これを今回は、今度放送による大学ということで、大学教育まで放送を使っていったらどうだろうかというのが基本となって、恐らく、いま児玉先生おっしゃいましたが、放送教育開発センターというのができたんじゃないかと私は考えるわけです。  放送大学というのは昭和四十九年ごろから創設を見込まれておったと、こういうふうに記録されておりますけれども、基本構想が四十九年に報告されまして、五十年に施設等に着工して、五十一年度に開校する、五十二年に学生を受け入れるというスケジュールでたしか進んできたんですが、予算その他の都合で、どうもそれができなかったんだと。そのかわり文部省としては省内に放送大学創設準備室という、名前がちょっと違っているかもしれませんが、こういった機関をつくって、五十三年七月には特殊法人を設立して、放送局の設置認可申請を行って、五十五年四月から学生を受け入れよう、こういう計画で行われてきたんだと私は理解をいたしておるわけなんです。しかし、その間、国の機関が独自に電波を出すということは、これは放送法に触れるという問題もございますし、したがって、文部省がやるとすれば、文部省の方ではおそらく放送のみを既存施設に委嘱する、あるいは関係法の改正を行って、何とか国立大学が電波を持って放送を行えるようにしよう、こういうふうにするとか、あるいは従来のとおりの特殊法人にしようとか、いろいろな案があったんじゃないかと私思うんです。しかしこれも、特殊法人の場合、郵政省と文部省の両方の管轄に入るわけであり、国立大学となれば文部省の専門の管轄になるわけなんで、その辺がいろいろと問題があったんじゃないかと思うんですが、その結果生まれたのが放送教育開発センター、ですから当然この主たる目的は、放送大学設置に対しての基本的な問題をここで検討するんだと、先ほど伊藤参考人がたしかおっしゃっておられたと思います。そういうことでこのセンター設置を計画されているんだと私は思っておるんですが、さてそこで、放送大学という電波を使って教育をし、しかも機会均等であり、社会教育の一助にもなるし、働いている人たちもその放送を聞いて単位を取っていけるんだと、非常にこれは発想としては、各国それぞれやっておりますけれども、わが国においては新しい発想で大変結構だと私は思うんですけれども、これにいろいろな問題があると思うんですね。これについて参考人の皆さん方から御意見をお伺いしたいと思うんですけれども、まず最初に、放送大学を目指すということは私間違いないと思うんですが、そういたしますと、今後電波で、テレビ、FMを使って教育を行う場合のネックになる問題ですね、現在ネックとして考えられている点、これは一体どういう点があるんでしょうか。その点について清水先生伊藤先生から御意見をお伺いいたしたいと思います。
  10. 清水司

    参考人清水司君) 放送によって教育を行う、そういった場合のネックになるものといいますと、私どもがこの検討の段階で、まず考えられましたことは、個別の学習を強化するための手段一つございます。また、特に、ただいま松前議員から御指摘ございましたように、教育機会均等をと、学校教育の一環という形で高等学校卒業者を迎え、そして教育をするといったことになりますと、言うならば勤労学徒ということでその学習の機会がある制限を受ける、その中で、学校教育、全日制の学校と同じように、何らかの形で学習指導、また課外活動をも含め、豊かな学生生活を送らせるということをどうするかということが、一番の大きな問題だというふうに私ども考えるわけでございます。そういう意味で、放送大学に関しましては、それに対する十分な手当てを、各地域別に学習センター、地域センターといったようなもので強化をする。簡単に申し上げますと、現在の大学教室が主になっております。そこで、大きな講義先ほど伊藤参考人からもお話ございましたようにございます。そのほかに個別学習、あるいは集団学習を支えるゼミその他がございます。実験、実習、演習等も含めてございます。そういったものを十分に手当てをし、必要なときに、自由な時間に学習できる体制をつくるということがなければならないということが一つだと私は考えるわけでございます。とりあえず私考えます大きな問題点一つ挙げさせていただきました。
  11. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) 私、最初のお話でも多少触れましたように、この構想、ことに放送大学構想は私は非常に賛成しているのでありますが、松前先生おっしゃったように、いわゆるネックと申しますか、問題点というものはあることは確かでございます。簡単に挙げてみますと、まず第一が、私もちょっと触れましたように、教育面でどうあるか、放送というのは一方的に送り出すという一方向性を持っているものでございます。しかし、教育というものはそれで足りるかどうか、大教室講義などはそれに近いのでございますが、それでも先生にいつでも行って質問ができる、講義の後質問をするということもできるわけでございますが、放送になりますとそれができない。一体大学教育というのはやっぱりキャンパスというものが必要なんだろうかということが考えられます。そこで先生とも接触し、またことに重要なのは、学生同士接触をしていろいろ勉強をする、これが放送でありますと非常にむずかしいという点がございます。そこで調査会などでも審議がありましたように、やはりそれを補うものがどうしても放送の場合は必要だろう、そこで清水参考人がおっしゃいましたような、各地域における学習センター、実習センター演習センターというものを整備しなければならない。そこで学生が行って、学生同士接触し、また教えるチューターのような人に接触をするということが必要だろうと思います。通信教育の場合にも御承知のとおり面接授業、スクーリングというものを非常に重視しておられるわけでありますから、放送大学あるいは放送による大学教育の場合に、この点をどうするかということが非常に重要な問題かと思います。  それから放送制度の面から言って、御指摘のとおりのいろんな問題がございます。これは設置主体をどうするかという問題が非常にむずかしいのも、放送制度と絡んでくるわけでありますが、それを別にいたしますと、先ほどもちょっと触れましたように、放送法四十四条三項にあるような、放送内容については放送法の規制がございます。政治的公平、それから論争のある問題についてはできるだけ多角的に論じなければならない、これが放送大学放送についても恐らくは適用されるのではないか。その場合に、一方では大学教授というものは講義の自由というものがある。現在普通の大学については何らの法的規制がないわけでありますが、これをどう放送の場合に考えたらいいかという問題があろうかと思います。  それから、だんだん細かくはなりますが、私がいま関係しておりますのでは、設置基準であります。放送大学もまた正規の大学であるということになりますと、どうしても設置基準で認められたものでなければならない。ところが、設置基準をそのまま適用いたしますと、なかなかむずかしい点がございます。校地、校舎をどうするかなんと言いましても、これは放送大学の場合非常に違うわけでございます。その他もいろいろ問題がございますので、そういう設置基準との関連をどうしたらいいだろうか、そういう細かい問題もこれから検討しなければならないのではないか。そして、先ほど児玉参考人がおっしゃいましたように、通信教育との関係をどうするか、現在文部省の設置審議会では、放送大学と通信大学を一緒にして設置基準を検討しておりますのも、その辺の関係をも十分検討しなければならないんじゃないか。簡単に申しますと、そういった問題点といいますか、ネックというものがあるんじゃないかと思います。
  12. 松前達郎

    ○松前達郎君 いまのお話お伺いしますと、やはりどうも実際に実行する場合に一番問題となるのがスクーリング、いわゆるいまの通信教育体制の中で言われているスクーリングですね、これが一番問題になるんじゃないかと私思っておるんです。この超マンモス大学ですから、たしか調査によると三百二十万人ぐらいを予測しているというふうな、そういう数字も上がっているのですが、この学生をスクーリングをやるというのは非常に大変なことだと思う。しかも、スクーリングとなりますと、たとえばテレビで話をした、講義をした先生がその場に行って学生と対話をするんじゃないわけですね。どっかその地域のセンターなり、大学なりに委託をすると、そういうふうなことになりますから、直接の対話がない。したがって、その委託を受けた方はまるで請負制度みたいなものでして、悪くいえばそういうことになりがちである、そういう点が非常に問題じゃなかろうか。これはいまでも恐らく通信教育、あるいは高等学校放送による教育をやっているところでも問題になっている点であろうと私は思うのです。そういうふうな点について、いまいろいろと申されましたけれども、それが恐らくネックであろうと、ネックというか問題であろうとお考えのことは私も同感でございますけれども、この点について児玉先生、現在通信教育をやっておられる立場から、このスクーリングというのが一体どういう現状であって、どういうふうにすべきだというふうな御意見がありましたら、ひとつお聞かせいただきたいと思います。
  13. 児玉三夫

    参考人児玉三夫君) このスクーリングの模様は、このパンフレットの中にもごく概括的なことが載っているかと思うんでございますが、私どもの方の大学でも、やはりスクーリングを毎夏やっておりまして、大体ここに概括されていることとほとんど同じようなことだと思いますので、やはりみずから体験したような、そういうことをもとにして申し上げた方が参考になるんじゃないかと思いますが、通信教育のやはり一番大事な、何と申しますかね、大学側でもスクーリングに参ります学生はいろいろ経済的な問題とか、特に単身で家族と離れて東京に来るといったようなことで、多少のあれはございますが、ただ一月くらいのスクーリングを終えて帰るときの、本当によかったという、本当に感激でございますね、これはやはり通信教育というものがふだんは非常に遠く離れていて、そして、もっぱら郵便でもってお互いの意思を通じ合う、そういうことを常態にいたしておりますが、それでも添削の場合とか、あるいは質問をしてまいりますときに、添作指導者がいろいろなやはり血の通ったような指導を文字にあらわして指導いたしておりますが、やはりスクーリングのときはそれとまた違った、本当にいろいろな難関を経てスクーリングやってくれたと、そのやった後の、何といいますか、学生大学先生方との間というものが、私の方で最後に学長以下出ましてお別れの会をいたすのでございますが、本当に皆感激して帰ってくれますですね。そういう意味で、実際にスクーリングの期間中は、手とり足とりいろいろやはり教えます。特にスクーリングでないと指導できないような科目がいろいろございます。たとえば体育なんというのは、これはどうしてもスクーリングでないとこれはやれないのです。その講義とか、そういうものについては多少の情報を伝えることはもちろんできるわけでございますが、そのほか実験、実習というようなことを中心にするやはりスクーリング、これなどもやはり欠かせないものではないかと、こういうふうに思っておりますが、通信教育をやっている学校にとっては、非常にこれは学校当局も大変な仕事なんでございますが、事務局を担当している中にはこれを少し半分ぐらいに減らしたらどうかということを言っている学校も、実は通信教育の中にもいるんでございます。けれども、やはり四分の一程度はどうしてもこのスクーリングをやりませんと、やはり正規の大学学生として扱う以上は、最低やはり四分の一ぐらいはスクーリングをやはりやらせたいと、単位をとらせたいと、こういうようなことで、相当厳しくいたしているわけでございますが、私はスクーリングというものは通信教育にとっては非常に大事なものだと、こういうふうに思っております。
  14. 松前達郎

    ○松前達郎君 スクーリングが非常に重要な学生、生徒との接触の場であると、これは私も実は体験をいたしておりまして、日曜日に生徒が出てきますと、これはもうまるではしゃぎ回るようにして、非常に楽しくやってくるわけなんです。ここにやはり教えた先生と直接対面できるという非常に大きな効果があるんだろうと私は思うんですね。この放送大学の場合非常に範囲が広いですから、当然こういうことはとてもできないだろうと思うのです。その点をどういうふうに解決するかという問題が一つあるんじゃないかと。かつての大学問題一つ考えても、先生学生との疎外という問題から、意思疎通がなかなかないという問題から、いろんな問題に発展してきた、そういう根本に返ってみますと、どうもその辺が解決できないような気もするわけなんです。これも今後の課題として残るんじゃないかと私思っておるわけでございます。  それともう一つは、今後目指す大学内容ですけれども、さしあたって教養学的なコースからやるんだというふうなことでスタートするということであろうと思うんですが、先ほどのお話の中で学際的な問題もこれ取り扱えるのだと、これは最近の学問発展というのは非常にスピードも速いし、幅も広くて、いろんな左右の交絡が非常に多くなったと、そういうことから学際的な問題も取り入れますからこれは大変結構なことだと思うんです。こういったことを考えてみますと、この大学内容というものを、一体どういうふうなところに目標を置くべきであろうか。いままでの大学の制度でいきますと、たとえば文学部ですとか、あるいは理工系の学部ですとか、あるいは政治・経済系の学部ですとか、いろいろ古いしきたりの分け方があるわけなんですが、それを恐らく超越して、新たな大学として考えるということになるんじゃないかと思うんですが、それについて、たとえば理工系まで手を広げることができるんだろうかどうか。その点について御意見ありましたら、清水先生伊藤先生、ひとつよろしく。
  15. 清水司

    参考人清水司君) 現在考えられております放送大学は、お手元の「放送教育開発センターの概要について」の中にもございますように、大学一般教育の充実に寄与したいということが一つございます。  ただいま御質問にございましたように、理工系あるいは文学、法学、まあ伊藤参考人分野——社会科学系につきましても、ある専門領域を深く突っ込んでいくということもある程度私は可能だとは思います。ただ、放送といったメディアを利用し、先ほど児玉参考人からもございましたように、広く、大学を出るための学習だけではなくて、個別に必要とする学問領域を——学問領域と申しますか、学習を進めていきたいといった、社会に開かれた大学ということを志向いたしますと、放送というメディアの公共性ともあわせ考えますと、少なくとも、私が先ほど申し上げましたような、大学が新しい社会の中で、物の見方、考え方として、知的活動を活発にする、そこに生きがいを感ずる、またその生きがいが社会に還元し、社会を活発なものとする、そういった循環作用を持つような志向、内容といったようなことがまず中心考えられるべきだと。ただいま松前議員から御指摘のございましたような、たとえば学際領域を含めて物の見方、考え方を考えるということになりますと、たとえば理工系といった個別的な技術習得のための機関ということは、現在の段階ではまだ考えるべきではないのではないかということから、現在大学一般教育課程にいろいろな批判がございます。これはそれなりの問題を抱えているわけでございますが、それとは違った形で御理解をいただきたい。一般教育——教養学部という新しいものを考えたい、こういうわけでございます。
  16. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) 簡単にお答えしたいと思いますが、従来の大学というのは、ことに私の属している東京大学などは非常に学部の壁が強いのでありまして、なかなか学際研究というものは十分行われない。しかし、御案内のとおり最近は既成の大学についても、総合科学部であるとか、そういういわゆる学部の壁を取り払った新しい教育体系というものをつくっていきたいというふうに考えているわけでございますが、私はこの放送大学がもしできましたら、その理想的な、いわば総合科学部のようなものをつくっていけるのではないだろうか。それには非常に多くの一流の先生方講義に参画される、そして、しかもそれが教養学部という名前をとっておりますけれども、非常に広い範囲にわたって学際的な研究が行われ、学際的な講義が行われるのではないかというふうに思っているわけでございます。ただ、やはり放送大学の特色、性質から申しまして、どうしてもここではむずかしい科目があることは事実だと思います。先ほど理工系が挙げられましたが、理工系についても若干のものは触れられると思いますが、実験、実習を非常に十分やらなければならない工学系、さらには医学系の教育などというのは、これはちょっと放送大学では無理だろうと思いますが、しかしある自然科学系をも含めた総合的な教育というものが行われるのではないかというふうに考えます。  ただ、非常に多くの科目を提供いたしますから、学生の方にとっては、自分はしかし法律なら法律をやりたい、経済なら経済を中心にやりたいという人は、やはりそこに傾斜してとれるような、自分はそういった特定の方向のものを重点を置きたいという学生には、それに応ずるような科目を提供するということも、これは可能ではないかというふうに思っております。
  17. 松前達郎

    ○松前達郎君 いまの私申し上げたことで、どうも学際領域の問題、これは大変な重要な問題ではあるんですけれども、だんだん大学の方もそういう傾向になってきつつある。今度計画にされておった放送大学によれば、これは科目といいますか、大きく分けて生活科学、産業・社会、人文・自然ですね、こういうふうに分けておられる。これは総括すれば現代文明全体について、われわれの先祖がどういうふうに今日の社会を築いてきたかということと、それに至る歴史的経過ですとか、あるいは現代社会の仕組みですとか、今後どういうふうにあるべきかという問題も踏まえて、そういった現代文明全体についての問題を取り扱うんだというふうに私は理解しておるわけなんです。これは恐らく今後の大学の、何も放送大学だけじゃなくて、大学の全体の方向としてはこういう方向に進むべきじゃないかと思うわけなんですが、そういうふうに考えてみますと、こういう理解をした学生をさらに、先ほど申し上げましたスクーリング等の問題もあって、教養課程といいますか、一般教育の課程が終わった時期に現存の大学ですね、それぞれの大学に単位認定してどんどん入れていく、そういうことも一つ考えられる手じゃないかと。一遍に卒業までの全部やってしまうということよりも、段階的にそういう方向をまずやって、それからいろいろ問題があれば直していくのがいいんじゃないかと私は思うんですけれども、そういう方法、そのほかにいろいろな方法考えられておられると思うんですが、そういう点で何かございましたら御意見ひとつお伺いいたしたいと思います。
  18. 清水司

    参考人清水司君) すでにいろいろな場で大学間の交流ということが、現在の大学でも検討されております。単位互換の問題といったようなこともございます。先ほど伊藤参考人からお話ございましたように、放送大学大学設置基準に合うものとして設置をするということになりますと、その範囲内に入るわけでございまして、そういう意味での単位交流ということが十分可能になってくるわけで、これは広く広がっていくものではないかと思います。また、ただいま御指摘がございましたように、この大学がどちらかというと教養学部的なものとしていま志向されておりますので、その課程を経てさらに個別科学に対して挑戦しようという者が、現在の大学に編入をしていくというようなことは当然可能であるかと思います。ですから、そういった意味では放送大学日本全体のコミュニティーカレッジというような役割りを果たし、個別科学は現存する既存の大学が受け持つというような形も一つの段階としてはあり得るのではないかというふうに私は理解されるわけでございます。
  19. 松前達郎

    ○松前達郎君 時間が参りましたので、最後に一つだけ。児玉先生に御意見をお伺いしたいと思うんです。いままでのことで、教養学という範疇でやっていったらどうかといういろいろの御意見があるわけですが、設置基準の中でも教養学部というのが一番あいまいなんですね、ですから、設置基準をやはりはっきりしませんと、法律的というか、そういう規定の上での問題が解決できないんじゃないか。日本の中でも教養学部を持っている大学というのはそう数たくさんございません。そういう問題もあると思いますが、児玉先生に御意見をお伺いしたいのは、通信教育ですね、これと本質的にどこが違うか。ディメンションが一つテレビという見る感覚が一つふえているということなんですね。やり方その他も大体同じようなやり方だというふうに私は思っておるんですが、通信教育と本質的にどこが変わっているか、その点をひとつ最後に御意見をお伺いしたいと思います。
  20. 児玉三夫

    参考人児玉三夫君) 松前委員はよく御承知じゃないかと思うんでございますけれども、私の学校ではまだ教養学部というのはつくっておりませんが、大変それにちょっと近いようなあれで人文学部という、これは社会科学も含めたりいろいろ、できております大学も国立、私立あるんでございますが、皆それぞれ事情が違うようですけれども、やはり人文学部というようなものは、私の方の学校でやっておりますのを見ますと、大変いいような気がするんでございますがね、効果があるような。理工学部という、また複合学部的なあれもあるのでございますが、明星大学ではどうも複合的なものばかりつくっているななんていってときどき言われるんですけれども、理工学部をつくりましたときも、やはりどうしても理学と工学とを何とか関係させたいと、こういう考えから出発しておりますし、また人文学部も文学部的な色彩で最初始まったんでございますが、それにやはり経済学とか、そういうものを増設をいたしまして、特色を出したいということでやってきております。私は放送大学でお考えになっている教養学部的な内容というものは、非常にこれはよく検討されているんじゃないかというような、伺った範囲ではそういう考えでございます。従来の学部学科という編成と違って、何か学部学科によらない編成の一つの例だと思うんでございますが、いわゆる教養学部というそういう構想で、いろいろな先ほどのそういう文明関係のことなども含めてお考えになっているようで、私はもしこれが実現する段階になったら、大変私ども参考になるものではなかろうかと、こういうふうに思っています。
  21. 松前達郎

    ○松前達郎君 どうもありがとうございました。終わります。
  22. 後藤正夫

    ○後藤正夫君 後藤でございます。  三人の参考人先生方から有益な、しかも放送教育に関連する幅広い問題について御説明、御意見を伺い大変参考になり、ありがたく感謝いたしております。  私が一番やはり関心をもって御質問を申し上げ、御意見を伺いたいと思っておりましたことの二つの点について、先ほど松前委員の方からすでに御質問があって、それについていろいろと御意見を承ることができましたので、その点は重複するので避けさしていただきたいと思います。  そこで、最初に伺いたいのは、先ほどの松前委員の御質問とも関連いたしますけれども放送教育内容の問題について、いろいろ学際研究その他幅広いいろんな問題が出てきておりますので、そういう問題にどう対応していくかということ、これには先ほど触れての御意見がございましたけれども、知識の幅、あるいは知識の量というものがますます拡大されていて、現在の大学教育の中ではそれを十分にこなしていくことがもうできないような分野が非常に多くなってきていると思います。したがって、先ほど伊藤先生の御意見の中にもありました中で総合科学部という、広島大学がその例であると思いますけれども、新しい分野についての開発といいますか、そういう問題が検討されていることは大変結構だと思いますけれども、今後量的にも拡大されております新しいいろんな知識の問題に、どう対応していくかということについて、放送大学については格別のひとつ御研究と御努力を願わなければならないと思いますが、この開発センターの問題を扱っておられます先生方として、そういう問題についてのお考えをもう少し伺いたいと思います。清水先生伊藤先生にお願いいたしたいと思います。
  23. 清水司

    参考人清水司君) ただいま後藤委員御指摘のとおり、この知識の量の急速な拡大、これにどう対処するかということは、私どもの日常現在ございます大学の中でも問題がございます。現在大学の中で、現状を申し上げますと、若干個別的に違うところもございますけれども、新しい科目、新しい研究、そういったようなものがどんどんふえてきているということは、御承知のとおりでございますが、先ほど伊藤参考人からお話ございましたように、そういったものをさらに集約し、エッセンスを抜き出し、何が基本かということをもう一回問い直し、枝葉をつけていくという作業は、現在の大学の中ではなかなかしにくい状況にあることは御案内のとおりでございます。放送大学あるいはまた放送開発センターにおきましては、特にそういった問題が中心になって、これはグループで、チームである一つのテーマを中心にしながら、そこには何を基本としての手法を考えなければならないのかということから出発いたしまして、知識の整理をするということが、一つの大きな役割りかと思います。単なる教育技術だけではなくて、そういった面が、先ほど伊藤参考人からもございましたように、講義として公開されるということが新しい知的社会の中で、大きく位置づけられるというふうに私は理解するわけでございます。
  24. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) もういま清水参考人がおっしゃったことと同じなんでございますが、一般大学でございますと、一人の教授が講義をするということになりますと、自分の研究内容というものを講義に訴えていくということで、非常に深いけれども、狭いというものになりがちな点がよくあるわけでございます。ところが、この放送大字の場合は、清水参考人がおっしゃいましたように、コースチームをつくって放送教材をつくる。講義をする先生もむろん中心になられるでしょうけれども、多くの先生がそれに協力をする。さらに製作技術者も協力をしていくということで、おのずからその放送番組をつくる場合に非常に総合性が出てくるのではないか。したがって、通常の科目においても非常な総合性というものが出てくるのではないかと思います。そして、全体として一応先ほど、生活科学その他の三つのコースがございますけれども、相互の連関というものを十分注意をいたしますと、ある講義とある講義との間の総合性というようなものが、この放送大学の場合には実現できるのではないかと思います。さらに、いまの構想ですと、四年次あたりに提供するものとして総合科目というようなものを考えているわけでありまして、たとえば都市問題というような講義を非常に多くのすぐれた専門家の人が協力をしてつくっていく、そういう意味では、放送大学講義というものがいわば学際的というか、総合的といいますか、そういう非常に広い講義内容を伝えることができるのではないかと私は考えております。
  25. 後藤正夫

    ○後藤正夫君 私も実は放送大学の問題については、国立大学協会の仕事をしておりました当時から、これをぜひ早く実現したいということを大変強く望んで、また協力をしてまいりましたけれども、今般放送大学という形では実現できないで、放送教育開発センターという形でようやく幾らか日の目を見るということになると、非常にこれは一歩前進ではあるかもしれませんけれども、大変残念な結果だったというふうに思っておりますが、この問題をさらに前進させて、放送大学を一日も早く実現させるためには、いろんな制度上の問題とか、法律上の問題とか、あるいは先ほど児玉先生も非常に強く御主張になっていた電波のチャンネルの開放の問題とか、いろいろあると思うんですけれども、いま一番どういう努力をするべきかというような、どういう努力をするのが一番必要なのかというような問題について、三人の先生方からそれぞれ御意見を伺えればありがたいと思っております。
  26. 清水司

    参考人清水司君) これは法律上の問題、先ほどお話ございました電波法の問題等がございまして、私はどうも法律の方は素人でよくはわかりませんけれども、極端なことを申し上げますと、その問題を何とか克服をしていただきたい。そして私どもがただいま申し上げておりましたような形で、とにかく放送大学が運営できるようにさせていただきたいということでございますが、これは大変卑俗な例でございますが、電波法の持っております放送内容に対する規制と申しますか、これは郵便その他と違った公開制といった問題から、その電波法ができ上がっているかと思います。しかし、大学というところはすでに御案内のように、教育の面では、あるいは研究の面でもすでに公開されるべきであり、そうでなければならないところでございます。そういったような意味から、もし法律的に国立大学が国の機関としての位置づけされるということから電波の認可が持ち得ないということではなしに、ある程度その点の御検討ができるかどうか、これをひとつ御考慮いただけないか、またできないとすれば、私どもの希望しております特殊法人としての位置づけを、再度御検討いただきたいというふうに考えるわけでございます。
  27. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) また清水参考人と同じようなことになるかもしれませんが、私も後藤先生おっしゃいましたように、放送大学はできるだけ早く設置していただきたいというふうに考えるわけでございますが、先ほどもお話がありましたように、いろんな問題点がございます。その問題点一つ一つセンターによって解決していただきたいと思いますが、一番重要なことは、やはり国の大きな資金を投ずるわけでございますから、国民の方がやっぱりこの放送大学は必要だというふうに感じてもらうことが必要だろうと思うのであります。現在まで無論いろいろな努力によりまして、放送大学の必要性というものは広く論じられているわけでございますが、やはり国民の中から放送大学というものをぜひ早く欲しいと、そういうふうな気持ちを持たせるための努力というものが必要かと思います。  それからもう一つは非常に具体的な、いま清水参考人からお話ありましたような法的措置の問題、これは立法府の方にお願いをするほかないと思うんですが、私は放送制度などもいろいろ勉強しておりますが、果たして放送大学が特殊法人か国立大学か、これ非常にむずかしい問題だと思うんですが、たとえば特殊法人でなければならない、特殊法人でないと発足できないとするならば、私は現在の行政管理庁あたりの御方針もございますけれども、これは何とか切り抜けてほしいような気もいたすわけでございます。しかし特殊法人がどうしてもだめならば国立大学はどうか、これにつきましても放送法の現在のたてまえから申しますと、国営放送は認められない、国が電波を持てないという大原則になっておりますが、これは確かに国営放送というものは日本放送制度から許されないのだということはよくわかるのでございますが、これはやはり普通の国の機関ではなくて、大学でございますから、大学というものはやはり大学としての自主性を持っておりまして、何も国の意見を代弁するものではございません。したがって、多少の手直しをすればこういう国立大学としても、法的にも可能な道が開けるのではないだろうかというふうに考えているわけでございまして、われわれの方もこのセンターのできましたときには検討いたしましょうし、立法府の方でも十分御検討いただけたらというふうに考えております。
  28. 児玉三夫

    参考人児玉三夫君) 先ほど学際的な問題いろいろお話出ましたのですが、戦後の日本の小学校や中学校の教育で単元学習というのがございまして、これ従来、つまり戦前の第何課何々といったようなことじゃなくって、もう少し子供の生活に一つのまとまりを持ったそういうユニットを中心にして学習を進めていきたい。しかもそれは経験単元、つまり子供の生活にできるだけ密着した、そういう単元を中心に学習活動をさせていきたいという。そういうことがずっともう先生方の間にずいぶん広がってきておりまして、ただしかし、それがともすると何か断片的な、その場的な、そういうものに終わっちまう。そこでやはりそれとともに系統的な学習というものも必要だと、こういうことで、やはりその両方を学校の先生方は皆心得ておいでになって、また学習指導要領あたりもやはりそういうことをよくどちらに偏るということがないような指導を、ひとつ先生方が工夫してやれと、こういうようなことを毎回おっしゃっておりますですが、そういうことを放送大学あたりでも、本当に知識の量というものは量的にはものすごい拡大をしているだろうと思うんですが、そこはどういうふうにそれは何というか、模範化するといいますか、代表化するといいますかね、それの代表化し、模範化したものが、これが本当の教育の材料、いわゆる教材になるわけです。そういう本当の教材というものを、大学先生から小学校の先生に至るまで、一生懸命に研究していかなくちゃいかぬ、そういうもう時代にきていると思うんですね。  実は放送大学につきまして、特殊法人ということで私どもも聞いていたんでございますが、いまからもう四年くらい前になりますか、放送大学の大きな研究調査会の中に、放送大学の組織及び運営に関する何か専門委員会というのができまして、私どもの方の通信教育の協会から二人ほど来いということで参ったんでございますが、そのとき私ども個人のこれは意見書でありますけれども、出ました二人が意見書を出しているのでございます。これは多分お手元に参っている。プリントの中に入っているのじゃないかと思うんでございますが、そのときに私はやはり特殊法人で、電波を——これは通信教育も、それから放送大学も電波なくしてはこれから本当の教育はできませんですよ、そういう意味で電波というのは非常に大事なんで、これをひとつ教育用に管理する特別な法人、財団をつくりまして、それが放送大学一つの模範を示される新しい放送大学だからこれを割り当てる。それから現在までやっている通信教育大学にもそのあれを割り当てる。それで多少は取っておいて、これからまた国・公立で何か新しい大学が、そういう通信をもとにする大学ができようかと、多少はそれも取っておくというようなことで、そういうことでおやりになったらどうだろうか。それでその理事者は文部大臣が任命されりゃいいんで、いろいろな各界の代表者を理事者になっていただけりゃ、運営も偏らぬでいいんじゃないですかということで案を出したのですけれども会議の席で一回読んだ切りであと全然だめですね、問題にされない。ああいうことをもうちょっと真剣にやっていただきますと、私はもうできているのじゃないかと思うのです、放送大学は。四年前ですよ。去年かことしか知らぬけれども、特殊法人を認めぬというような政策に変わったというのですけれども。通信教育をやっている本当に微々たる者の一意見ですけれども、やっぱり三十年の歴史を持った団体の中の代表として来ているのですから、そういうときには、謙虚な気持ちで、ああそうか、これもひとつよく検討してみるからというようなことをおっしゃってくださると、私はこれこそ本当の放送大学ができるのじゃないかと思ったのですが。そういうようなこともございまして、これから三十年の伝統と業績を持っている通信教育放送大学をお進めになる御関係方々、ひとつぜひ密接な連絡をとって、本当にこれで電波を全部握って放送大学ができますと、通信教育のいろんな人の意見を聞きますと、とてもこれは大変なことになるぞという評判になっているのです。恐らく私大の通信教育はある程度つぶれるのが出るのじゃないかと。けれども、電波を持っておやりになる放送大学も、これも初めておやりになるので、果たしてこれが成功するかしないか、これは非常に大きな問題です。しかも、相当な費用を使っておやりになって、これがごくわずかしか来ないとか、どうも思ったとおりいかなかったというようなことは、これは許されないことですから、こうなった場合に、やはりある程度そういった経験を持つ私立大学のやっている通信教育というものと、手と手を握り合って、電波がもうどうのこうの言うんじゃない。お互いにひとつ分け合って、日本の通信教育放送教育をよくやっていこうじゃないかという、そういう気持ちになっていただくのが私はいま一番必要なときじゃなかろうか、こういうようなことを思っております。
  29. 白木義一郎

    白木義一郎君 私ども公明党といたしましては、昭和四十三年十一月、大学・高校問題特別委員会設置いたしまして、大学紛争の真っ最中に、大学改革案を提示いたしまして、テレビ等による大学放送講座の利用を提唱してまいりました、当時と現在を比較いたしまして、それほどの違いがあるかどうかはわかりませんが、マスプロの教育という実態が指摘されており、マンネリ化した授業が批判されていたと当時は記憶しております。私ども大学での教育研究の質を高めるにはどうしたらよいのかを検討してきたわけでございますが、本日三人の先生方から貴重な御意見を伺いまして、また伺いながら、これは相当慎重に検討、研究をしなければならない問題というのが私の感想でございます。  国民の側といたしましては、自分は大学へ行けなかった、しかし今度は放送大学ができれば、働きながら勉強できる、安く勉強ができて、しかも大学卒業の資格を得られるぞというような感じを持つと同時に、大きな希望を持つのも無理からぬことだろうと思います。  そこで、それにつきまして、放送大学設立の準備を先生方長年やっていらしたということから、それではこの放送大学ができたといたしますと、入学資格はどうなんだ、それからどういう方法で入学できるのか。そこから先はいまいろいろ御意見がありまして、大変な難関があるわけですが、今度はどういう方法で卒業の資格が得られるのかというようなことが、実際問題として国民の側では気になるところじゃないかと思います。  そこで、長年研究、御検討いただいて、現在、御説明もありましたように、放送教育開発センターを設けて、いよいよ本格的に、放送大学を設けるかどうか、あるいはもっと幅広い社会教育の面で放送教育を検討するのかということを、このセンターでこれから十分御審議研究をしていただくというような御説明にも伺いましたが、とりあえず現在まで、先ほど申しましたとおり、放送大学へ入りたいという希望者に対して、アウトラインを、いままでの大方のあれでは、こういう入学資格者、あるいはこういうテストをするとか、あるいはこういう方法で卒業させたらよかろう、資格を与えたらよかろう、そんな御審議もなさったかと思うのですが、その点お答えいただければと思います。
  30. 清水司

    参考人清水司君) ただいまの御質問にございましたように、入学資格をどうするか、また入学の方法と申しますか、また教育課程を経て、大学卒の資格をどういう形で与えるのかということについても種々検討が進められております。まだ最終的にどうしたらという煮詰めまではいっておりませんが、先ほど伊藤参考人からもお話がございましたように、大学設置基準にのっとる大学であるということがまず大前提でございます。そう考えますと、現在の学校教育制度では、高等学校卒業ということになっております。ただ、高等学校卒業程度ということで他の資格試験云々と、現在凍結された状態でございますが、そういった大学入試資格制度、大学の入学の資格を付与することが可能な条項はございます。しかし、これは現在実施をされているところはほとんどございません。特別の旧制の中学あるいは小学校、そういった時代方々が、経過措置として扱われたということでございます。そういうことから考えますと、放送大学は、先ほど来申し上げておりますように、広く国民の皆様に高等教育を受ける機会は均等に与える、しかしそれにはある程度資格ということがいま申し上げたような意味では必要になってまいりまして、現在は高等学校卒業程度とこうしております。また、高等学校を卒業した者は一応選抜ということを考えずに、全員学生として登録をさせることができる。あとは本人の学習の能力、それに応じて所定の単位を修得すれば学士号を出すということになります。ただ、ただいま申し上げました、それでは高等学校を卒業しないで能力のある者をどうするかという問題が一つまだ残されております。しかし、それに対しては、少なくとも学習の機会を与え、単位の認定はしていこう、ただ、その単位を大学の卒業単位として認めるかどうかというところはまだ詰まっておりません。そういうような意味で、現在の学校教育制度にのっとる大学として全く同じ条件で教育を進めるということが、現在の段階での一応お答えということになろうと思います。
  31. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) いまの清水参考人のお答えで十分尽きているかと思いますが、多少補足させていただきますと、まず、入学資格はお話になったとおりでございますが、選考につきましてどうするか。これは非常に多くの希望者があり、一方から言うと、放送で聞くのだから学生数たくさんどんどん来ても、入れていいじゃないか、希望者は全部入れたらいいじゃないかという御意見もあるかと思いますが、それはやはり適当でないと私は思うのであります。これは、まず、一つはやはり事務的な事情もございましょう。何百万人の学生を抱えたのでは十分なことができない。一番重要な点は、先ほどお話がありました地方におけるスクーリング、学習センター、ここで非常にきめの細かい教育をするためには、やはり数は限られる。したがって、どうしてもやはり学生を選考するということが必要になってくると思います。この選考方法についていろいろ議論はしているのでございますが、まあ私の意見を含めて申しますと、これは、入学試験をやるということは適当でないだろうというふうに思います。ああいうペーパーテストで、入学試験で選考するのは適当でない。それじゃどういう選考の方法があるかということになりますと、私は、この大学学生がやはりある程度バランスがとれた構成であるということが必要ではないか。たとえば職業なんかにつきましても、ある特殊の職業だけにかたまるということは適当ではないんじゃないか。あるいは地域なんかでも、やはりある特定の地域だけにかたまるということはどうだろうかというふうに思うわけです。その他いろんな点を考慮いたしまして、バランスのとれたような学生構成にするような選考をするということが適当ではないだろうかというふうに考えております。  それから、卒業資格につきましては、これはあくまで正規の大学でございますから、設置基準に決められましたような単位数というものは普通の大学と同じように取得するというのが、学生卒業の要件だと思います。場合によりましては、通信制の場合もそうですが、四年では卒業できないということがあるかもしれませんが、やはりその単位数を必要とする、それからまた、試験なども厳格にやるということによって単位を認定して、この放送大学の卒業生というものの、何といいますか、社会的評価を下げないように、むしろ高めるような方法で卒業させるということが必要かと思います。ただ、私が想像しておりますのは、非常にたくさんの学生が来ますが、全科履修制と申しますか、正規の必要単位をとって、学士号を得るという学生がどの程度か。むしろ専科、ある特定の科目を選択をして、特定に傾斜した勉強をするという学生もかなり多いのではないかと思いますが、そういうのには専科の履修制の一定の資格を与える。学士ではないんですが、別の資格を与えると。恐らくそういう方たちはすでに学士号を持っていて、新しい学問を勉強したいというような方が多いと思いますので、むしろそれほど学士号にこだわらないというような方が多いかと思いますが、いろんな、多彩な学生に応じた教育をし、卒業を決めていくということになろうかと思っております。
  32. 白木義一郎

    白木義一郎君 そこで、この大学が充実した段階でスタートいたしますと、どうしてもこの通信教育の問題が包括されてしまうんじゃないかと、放送大学が充実すればするほどそうなるんじゃないか。先ほど児玉先生もその点を大変御心配なすって、また伊藤先生もそれは心配ないんだと、大いに協調してやっていかれると、こういう御説明をいただいたわけですが、伺ってますと、心配なのはこの通信教育放送大学に含まれちゃうと、勉強する方の側から言えばそういうふうになる心配があるんですが、そこで、今後このセンターに、通信教育研究をされてきた方々の御意見を十二分に反映する機会を設けるべきじゃないかと、このように思いますが、まあ児玉先生先ほどからも大変あれで、これから準備される伊藤先生あるいは清水先生の方からお答えを願いたいと思います。
  33. 清水司

    参考人清水司君) 教育方法、それから大学教育内容、そういった問題について十分これからセンターが検討を進める段階において、ただいま御指摘のとおり、やはりある程度学生側の条件といたしましては、通信制の現在の大学ということと似通っております。まあ同じと申し上げてもいいかと思います。そういう意味で、長年の御経験を十分に研究開発の段階から参加をし、また一緒にやっていっていただくということが、私の考えといたしましては、大変望ましいことではないかと思います。  それからもう一つ、いまの御指摘の中の前半でございますが、通信教育が包括されてしまうのではないかといった御指摘に対しましては、私は少なくとも、先ほど申し上げましたように、この大学が違った形での領域の学問、これを国民全体のものに共有するような形にできるような形にすると、そういった意味伊藤参考人からも学際的とか、いろいろ表現での御説明がございました。しかし、やはり現在ございますたとえば資格試験につながるもの、あるいは特別な分野での学問領域となっている技術、そういったようなものは、やはり個別科学としていままで以上にまた大事であることも同じでございます。そういうことを考えますと、現在計画されております放送大学は、大きく言えば二つ教室を持った大学でございます。放送というメディアを、ラジオテレビ、それ以外に学習センター教育活動というのがございますが、先ほど伊藤参考人からもお話ございましたように、あるやはり限られた個別領域の専門家を養成するというわけにはいかないわけでございまして、そういった意味で、通信制教育の個別大学で計画されております、これはそれなりにまた意義が再認識されるということに私はなるのではないかと思うのでございます。そういった意味で、通信のメディアとして放送が広く通信制に使われることは、通信制大学の中でも使い得るように考えることは、非常に大切なことだとは思いますけれども、お互いに協力関係を保ちながら、個々の特性を生かして、社会の中での大学教育活動としての位置づけをするということが十分可能だというふうに私は考えております。
  34. 白木義一郎

    白木義一郎君 私がいま申し上げたことは、実は当委員会でも十分過ぎるくらい審議をしたことがございます。それは、国立大学共通一次入試を実施するために設立されました入試センターですね、この問題についていろいろ論議されたわけですが、いつやるかという点について、先生方はいろいろ検討した結果十二月で大丈夫だと、文部省も大丈夫だと言ってスタートしたわけです。ところが、まあ間もなく高校の先生方やなんかから、とてもじゃないけどそんなことされたんじゃたまらないというんで、できたと思ったらもうすぐに方針を変更せざるを得なかったという、見切り発車的なことをわれわれ経験しておりますので、そこで、この放送大学、もしこれから審議されるならば、この通信教育のいろんな面も最高度に検討されるべきじゃないかと、こんなことからお尋ねをしたわけです。  最後に、放送大学ができますと、放送大学卒業生、それから東京大学卒業、それから早稲田大学卒業、それから明星大学卒業と、こういう資格を持った卒業生が生まれるわけですが、これも今後のいろんな検討、研究の結果ということになるわけですが、現時点で予想される質といいますか、卒業生の実力といいますか、どういうふうにお考えになっているでしょうか〇一番望ましい大学教育、その私大の卒業、それから国立大学、それから通信制度で卒業した、それから新しくできるであろう放送大学を卒業した人間、まあこれは非常に現時点では現実離れしたあれですけれども、やはり国民の側に立って考えますと、どれがよかろうかというようなことも気になるんで、最後にお伺いする次第でございます。
  35. 清水司

    参考人清水司君) どういうタイプの、どういうカラーのということは、まだ私どもはっきりとしたイメージが得られないわけでございますが、少なくとも質の面では最高のものをと、ただし質とは何だという御質問がまたはね返るのではないかと思いますが、やはり教育の環境といたしまして、先ほど児玉参考人からも御指摘がありましたように、全日制の大学とは異なっております。しかし、それなりに社会の中で自分の知恵と知識を生かす、そういった意欲のある人間をつくり上げていくということが逆にできるのではないかというふうに私は考えるわけでございます。
  36. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) 簡単に申し上げますと、これはやはりどういう学生がまず来てくれるかという問題、それから最も重要な点は、放送大学をつくったときの大学関係者の努力であろうというふうに思うんでございますが、私たち考えておりますこと、これはできてみないと予測はできませんけれども放送大学の与える教育が、先ほどもいろいろお話がございましたように、非常に幅の広い教養というものを身につけるということでありまして、もちろん既成の大学についてもそれは行われておりますが、そういった従来の学問分野にとらわれない非常に幅の広い知識、教養をつけた学生が出ていく、これからの社会はそれを相当に要求しているのではないかと思います。  それからまた、これは既成の大学でもできることでありましょうけれども学問が非常に発達しておりますと、新しい学問というものが要求されてまいります。そういう新しい学問を身につけた卒業生というものが放送大学から出てきてくれるのではないだろうかというふうに思うのでありまして、何分とも放送大学の卒業生は、まあ率直に申して一段下だということになることはどうしても防がなければならない。やはり正規の大学として、既成の大学の卒業生と肩を並べるような学生というものを生み出す必要があるだろうというふうに思っております。
  37. 児玉三夫

    参考人児玉三夫君) 大変むずかしい御質問で弱りましたが、放送大学も含めまして、いろいろ特色のある大学の卒業生がそれぞれ出てくるんじゃないかと思うんですが、私の方の大学もそうでございますけれども大学がいろいろ最近変わってきているんじゃないかということを私思うんですがね。  私、ちょっと個人的なことでございますが、この三月末まで早稲田大学の教授を十八年間いたしておりました。この三月末で退職をいたしたのでございますが、非常に大きな大学で伝統もあるように思うんですが、どうも大隈先生はそういうつもりでお建てになったのかなと思うような、何か、私は東大出で決して早稲田の出身じゃないんですが、どうも私学の雄だというようなことで、東大にちょっと感じが似たような、学生の中にもそんな気持ちを持っておるような学生がいるんじゃないかなと思うような、非常に私は残念に思うんです。私は早稲田大学はもう私立の中じゃ一番いい大学だと思って、小さいときからそう思っておりましてね。そういうことでずいぶん大きな大学が、いろいろなことがあるんでしょう。やはり指導される方のあれになりますか、大分国立大学的な、そういうどうも考えが相当出てきているんじゃないかというように思う。これは本当に残念なことであります。  それから私の方の学校は、前の学長がやはり教育の根本は人間性を養うことだと、これが根本だと、こういう考えで出発をいたしております。ただ、やはり大学でありますから、学問を一生懸命しなくちゃいかぬと、決められたカリキュラムのやはり学問というものを一生懸命にして、成績を上げるということ、けれども、これはやはり人間性というものをみずから養っていく、そういうことを無視してはこれは本当の教育ではないと、こういうようなことを言っておりまして、早稲田のような大きな大学の卒業生にはちょっと能力的にかなわないと思うんですが、ただ人間性という点では決して負けないんじゃなかろうかと、こういうような自負をいたしておりますが、まあこの辺が正直なところの考えでございます。
  38. 白木義一郎

    白木義一郎君 いま学歴社会という問題が非常に大きくクローズアップされているので、学生やそれから父兄の方から見ると、この四つの大学ができたと、どれがいいかという選択ということも考えまして、まあ愚問のようなあれをしたわけですが、ちょっと最後に一つ清水先生にお伺いしたいんですが、科学技術の面で大変貢献をされてこられたと承っているんですが、その科学技術の最高峰で、核という問題について、世界じゅうの人があらゆる教育を受けた結果、これをさらに人類の平和のために、この最高の科学技術成果利用すべきであるという人と、それからこれを人殺しに使うべきだという人と最後に出てくるわけですね。以前はどこかのあれできれいな原爆と汚れた原子爆弾というようなことが言われました。下火になってまいりましたけれども、またこのごろきれいなのと汚いのとあるんだと、きれいな科学技術の最高峰と、汚いのとあるんだというようなことがちらほら出てまいりました。これも教育成果じゃないかと、こう思うんですが、どこかに間違いが、あるいは足りないところがありゃしないかと思うんですが、科学者としての先生の立場で、もしよろしければお教え願いたいし、お答えいただけなくても結構でございます。
  39. 清水司

    参考人清水司君) お答えにならないかもしれませんが、御審議いただいております放送大学関係のあれと関連いたしまして申し上げさしていただきますと、現在までの教育が、そういった個別科学に焦点を置き、さらに細分化し発達してきたというところに実は問題があるかと思います。  いま御指摘のございましたような、同じものも人類にとって幸せの道具になるか、不幸なものをもたらす結果になるか、これはやはり人間知恵だと思います。しかし、そういったことをどういうふうに理解をするのかということを、むしろ広く物を見、考えることができる、また中心になるものをしっかり握ることができる、そういったことが教育の中では一番大事なわけでございまして、放送大学がそういった役割りを私は担うのではないかというふうに思います。現在の混乱はまさに知識が非常に量的に拡大を続けておりますが、その知識を十分に把握し理解をしているといった知恵がない、そこに問題があるのではないかと、まあお答えになってないかもしれませんが、そういうふうに私は考える、感じるわけでございます。
  40. 白木義一郎

    白木義一郎君 どうもありがとうございました。
  41. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 共産党の小巻でございます。  先生方にお伺いするわけでございますが、まあ私どもの党といたしましても、このいま言われている目的にもうたわれているわけですけれども、勤学青年、社会人高等教育、これの機会を付与をするということは非常に今日段階で重要なことだというふうに考えておりまして、一昨年、五十一年にも教育提言などをいたします中では、夜間大学というものはもっと発展させなければならない、こういう点ですでに昭和二十二年、この学校教育法の五十四条なんかに出ておる問題について、国の取り組みは不十分であるというような点を第一に挙げるとともに、通信大学設置、これについても国立で取り組みがなされてこなかったというような点を批判をするとともに、特に旧制帝大等を中心に、通信大学というのは設置されるべきだ、これが長年苦労してこられた私学とともに並行して広く国民に対して教育の門を開かなければならぬというふうな考えを持ってきたわけであります。それに関連しながら、特に今日の問題になっております放送大学が、どういう性格で、どのように具体的に実行されていくかということについては、非常に強い関心を寄せておるわけでございますし、今日までに発表された基本構想、それにさらに付随して出てまいりました文書等読んだ限りでは、まだ納得のいきかねる点もあり、これを直ちにこの形で実行していくのが最善かどうかという点では、いまのところさまざまな問題を感じておるわけでございます。特に、ここで問題になるセンターの前提になるところの放送大学というのは、学士号を付与し、大学設置基準に基づく独立大学として構想されておるわけでございますが、新構想という段になると、これはずっとさまざまな新しい風を持ち込むとともに、ともすれば、従来から学問の自由、研究の自由を堅持されてました大学の理念との間に、もろもろの問題が生じてくるということは事実だと思うわけであります。特に放送大学が教養講座として学位付与等にかかわりなく進められる場合には、これは余り問題も出てこないかと思うわけですけれども、専任教官をやはり中心とする独立大学ということになり、学位付与ということになれば、私は古いのかもしれませんけれども、とりあえず教授会ある大学、講座制、そして演習、実験と、こうして試験というようなものが頭に浮かんでくるわけでございまして、これが今日の放送というメディアを利用していけば、つぎ込む方は、これは大量に行うことができるでしょうけれども、後始末の方はどうなるのか、なかなか今日まで聞かしていただいたところでは、十分に腹に落ちてきにくい点があるわけであります。  こういうようなことを踏まえながらお伺いをするわけでございますが、清水先生の御意見の中にも、学問研究の自由の問題と、社会奉仕といったような問題には、現実には矛盾が存在するのであって、これを克服して、調整をして新しい領域を広げるというふうに言われておるわけであります。今度の具体化の中で、こういう点についてはどのような方法で解決をするというところから、一歩進んで中身の方に入ってお伺いをしたいと思うわけであります。  伊藤先生の御説明の中でも問題点幾つかあって、たとえば印刷教材というようなものとの関連は考慮しなければならない、こう言われるわけであります。通信大学の場合には、単独大学というのはいままでのところありませんし、まあ確かに通常の大学とは違って、文書による通信制をとっておって、印刷教材を使っておるわけでありますが、これはやっぱりそれなりに高校でも通信教育というのがございまして、私はこの中身にはある程度タッチをしてきたこともあるわけですけれども、それなりにやっぱり教授と学生との間が通信の糸でつながれておるわけですね。こういったふうな点考えてみますと、確かに印刷教材教官学生接触、こういうものをかなり大きく取り込むことなしに、大学というものが果たして成り立つのか、このような点が浮かび上がってくるわけであります。これらの具体的な中身についても、現段階でお考えになっておられますことをひとつ聞かせていただきたいと思うわけでございます。とりあえず、それをお伺いしたいと思います。
  42. 清水司

    参考人清水司君) 先ほど私が初めに申し上げました、ただいま御指摘の大学における教育研究の自由と、またもう一つの、これから十分日本大学考え、また取り入れていかなければならない役割りとしての社会奉仕、その間の調整の問題ということがいまの御指摘かと思います。  その前半のところでの教育研究の自由の中で、実は放送大学には研究の自由と教育におけるある制約、そういったものがどういうふうに調整されなければならないかという問題が一つございます。これがまず第一点じゃないかと思います。これにつきましては、先ほど来、放送大学の今後の研究活動のあり方と、その成果教育として社会に広く公開をしていくといった、その二つの役割りの中で、それをどういうふうにつくり上げていくかということの中で、調整がなされるわけです。簡単に申し上げますと、先ほど来申し上げておりますように、この大学は、少なくともある目的を持って、あるテーマに従って、違った領域の人たちが共同研究をする場がまず先になければいけない。そこによって得られた成果が、教育という機関を通して社会に公開されるという形になるかと思います。そういう意味で、発達段階における学校教育と同じように、同時に、社会におられる方々が直接的な現代における利益、その時代における利益と申しますか、学習が可能になるということで、第三番目の社会とのかかわり合い、あるいは社会に対する機能という役割りを果たすのではないかということでございます。放送という特別なメディアを利用するといった意味で、大学がいままで考えておりましたような、あらゆる意味においての教育研究の自由ということとどうかかわり合いを調整をしていくかということが、ただいま申し上げましたような教育研究機関、たとえば真っ先にこの放送教育開発センターでは、内容の問題から取り上げてまいりますと、そこに研究というのが存在をするわけでございまして、これから検討しなければならない大きな問題というふうに私は考えております。はっきりとしたお答えにはならなかったかと存じますが、御理解願いたいと思います。
  43. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) 一番初めに出された問題、非常に重要な問題でございまして、従来の大学の理念とこの放送大学がどうかかわるかということであります。私は、大学といっても一色ではなくて、いろいろなタイプ大学があり得ると思いますし、放送大学は確かに既成の大学とは多少違った性格を持つ大学であるというふうに思うんですが、やはりそれは大学である以上は、やはり大学の本質的なものは、これはどこまでも維持しなければならないというふうに思うわけです。もしこれが崩れますと、恐らく放送大学をつくっても、あれは大学ではないだろうというふうに言われるわけでありますから、研究教育の自由というものを、新しい放送大学を担っていく人たちはここで十分考えなければならないと思うわけです。もちろん、放送を使うというところからの制約はありましょう。しかし、その制約もあくまで大学の理念と両立したものでなければ放送大学はうまくいかないんだろうというふうに思うわけでございます。それが一つでありまして、もう一つ印刷教材のお話が出ましたが、確かに通信制と違った印刷教材、これはどうであるべきかという点は、放送大学をつくりますと、印刷教材だけではございませんが、そういう学習センターにおける接触も含めて、どうやったらこの放送大学のいわゆる教育が成功するかということは、これは非常に重要だと。いまもう実験放送で多少はやられておりますけれども、これからこの開発センターによって、この点は十分深めていかなければならないというふうに考えております。
  44. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 特に児玉先生にお伺いしたいわけでございますが、すでに衆議院の中でも若干の審議を行った上で、どうしても尽くされたとは思いませんけれども、いまセンターの問題を含めて、参議院で審議をしておるわけですが、この設置基準についてはどういう基準が設けられるかというのは、これは非常に大きな問題だと思うんです。文部側のいままでに表明された見解では、これは別枠のようなものを設けて、基準の枠外大学というようなことにはしないで、一口に言えば放送大学というのは通信大学一つ形態なんだから、既設の通信制を併置しておられる大学も私学の方にあるわけですから、これらの問題も一緒にながめながら、全通信制大学の基準について見直しをやり、新しい検討をしようと、こういうふうになっておるわけであります。この際に、こういう状況の中で、原点たる勤労青年、社会人に対して高等教育機会を付与するという点で、特に何を望まれるかという点をお伺いをしておきたいと思いまずし、二番目には、既設大学と密接な連携をとり、相互に補い合って機能するということがずいぶんとうたわれるわけですね。しかし、これがどのように機能し、補い合うのかというのは十分にわからないわけですが、この中で文部省等のさまざまな発言の中でも単位の互換制の問題なんかも、新しくできた放送大学が既設大学にいわば柔軟な構造変革の刺激をするんだというようなことも言っておるわけです。現実に児玉先生大学の学長やっておられるわけですが、私学として既存大学との単位の互換制の問題なり、密接な連携、相互補完の機能についての御意見を聞かしていただきたいと、そういうことでございます。
  45. 児玉三夫

    参考人児玉三夫君) これは伊藤先生の方が、先生ちょうど放送大学と通信教育の基準を決める分科会の主査をされておりまして、私もその委員の末席を汚しておりますので、その点でそれじゃちょっと考えますところを申し上げたいと思うんですが、大学設置基準というものは、当然放送大学もこれをやはり受けなくちゃいかぬと思います。やはり放送大学も単独のつまり通信教育大学でありますけれども、やはり大学である以上はその大学としての基準を満たさなくちゃいけないんじゃないかと思います。私どもの通信教育の方は一応母体になります大学がございまして、これが何といいますか、キーステーションワークみたいなものかもしれませんし、またもう少し勤労青年や社会人のためにそのいい点をもう少し広げていきたいと、こういうことでもあろうかと思いますが、そういう併設の通信教育ですね、これとやはり単独で放送大学をおやりになるものとはずいぶん違っているんですが、ただ両方ともやはり大学でございますので、その大学設置基準の最低は満たさなくちゃ、これはやはりいけないんじゃないかと、こういうふうに思っております。  それから、その次の御質問でございますが、私はこういうことを考えてみたらどうかと思いますのは、通信教育も、それからこの放送大学もそうなんですが、このいろいろ特に若い勤労青年といいますか、ずいぶん参るわけなんですが、恐らく放送大学にはいろいろな御調査では、卒業生の何十%が行くだろうというような調査までされているそうですけれども、いいことだと思いますが、そういうこの勤労青年とか、あるいは私の方なぞにはよく教職者ですね、学校の先生が来るんでございます。そういうときに何かこう社会的な保障といいますかね、これは雇用者からいいますとだんだん雇用しなくなるんですね。ですから、これは何か国か何かでそういう勉強したいというそういう者に、企業に変わって、非常に勉強しようといういい希望ですからね、何かこう国でそれを満たしてやるような、保障してやるような、そういうようなことをぜひお考えいただいたらどうだろうかと。特に放送大学が相当大きな規模になってまいりますと、まあそういうことをぜひお考えになったらどうだろうかと思うんでございますが、私どもの通信教育もそれは同じようにやはり恩恵を受けさしていただきたいと思うんですけれども、そういうことを考えております。
  46. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 民社党の田渕でございます。  先ほど先生方の御説明や、あるいはその後の質疑を通じまして、大体理解できてきたわけでありますけれども一つだけきわめてこれ素朴な質問かもわかりませんけれども放送というきわめて強力なメディアを教育に使うというのは、これは当然考えるべきことだというふうに考えるわけです。ただ、先ほど伊藤先生もおっしゃいましたように、放送利用する教育方法にもいろいろある。一つ社会教育的なものがある。それからもう一つ大学の講座の開放である。それからもう一つとして放送大学構想を挙げられたわけですけれども私立大学通信教育協会のこの放送大学に対する意見の中で、今日要請されておることは、放送大学ではなくて大学放送である。大学放送というのは大学放送利用できるように開放することである。このような御意見があるわけです。確かに放送というメディアを教育に使うということが、イコール放送大学ということにはならないと思うんですね。今回この放送大学というものを設けなければならない、あるいは設けようというその理由並びに意義について清水伊藤先生にお伺いをしたいと思います。
  47. 清水司

    参考人清水司君) これは幾つか挙げられるかと思いますが、先ほどカリキュラムの編成の仕方、そして学問領域として新しい学際領域を含めた知識の見直し、そういったようなことを中心として考えるときに、やはりそこに関係をしていただく教職員の、特に教官の数はいろんな分野方々を含めて相当なものとなると思います。そういった方々の共同研究成果を広く公開する、そういった機能を果たすことができるのはやはりこの強力なマスメディアと言われる放送利用するということが一つ手段としてあり得るかと思います。これは先ほど来お話の中にもございましたように、現在の大学が個別科学、あるいは個別領域の中で細分化し、またそれなりに重要な役割りを果たしてきているもの、それと相携えて発展し得る新しい領域と、そういうふうに考えるわけでございまして、単なる一大学、既存の大学においてそれがなし得ればよろしいといったようなものでもないというふうに私ども考えるわけでございます。いまお話のございました大学の開放という意味では、他の手段ということも十分あり得るわけでございます。この放送大学というのは、もちろん大学設置基準にのっとった、十分に手当てされたところの大学でございますので、名称の上では確かに放送大学となっておりますが、これはやはり放送を通じて大学の持っている知識、これを公開していくということにあるわけでございまして、そういう意味では広くそういったものを供用し得る一つ手段としてやはり放送ということを教育界の中にぜひ取り入れたい。小中校でやっておりますけれども、これはこれからの社会では特に生涯教育を含め考える場合に、大学放送でも結構でございますが、そういう形で高等教育機関の中に放送を持ち込むということを考える必要があるんではないかというふうに理解をしております。
  48. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) おっしゃいましたとおり、放送利用するにはいろんなタイプがございまして、私が挙げました三つともに学問の開放、あるいは大学の開放に大いに役立つというふうに思いますから、この三つ方法ともに私はこれから推進すべきだと思うんですが、たとえば第二の大学のエクステンションとして講義を、講座を開放するというのは、受け手から申しますと、やはり自分はこの科目を聞きたいと、これについてある大学講義接触したいというのには非常に好適な方法だろうと思うんですが、そこにはやはり系統立った全体を通じた必要な教育というものが十分行われないということになろうかと思います。ある自然科学の講義、この先生講義大学に行かないで聞くという人には便利でありますが、全体としての系統立った大学教育を受けるということになりますと、それが十分ではございませんので、この放送大学はやはり正規の大学としてつくり、放送を通じていわば体系づけられた教育というものを行う。勤労青年あるいは社会人、それらにとって非常に有益な学問を体系づけて与えるというところに、これはやっぱり放送大学をつくらないとできないのではないだろうかというふうに思いますし、それだけの社会的なニーズといいますか、そういうものが日本社会にはあるのではないかというふうに考えているわけでございます。
  49. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 そうしますと、いままでの既存の大学は、放送というメディアを使った大学教育には適していないということが言えるわけですね。あるいは、その放送というメディアを使って大学教育を効果的にするためには、やはり別に独立した大学をつくらなくてはその成果は期しがたいと、そういうお考えですか。
  50. 伊藤正己

    参考人伊藤正己君) 私の言葉が足りなかったかもしれませんが、ある特定の科目について、既存の大学放送を使って開放するというのは非常に有意義でありますし、これは既存の大学でもできるかというふうに思いますが、たとえば四年間いろんな科目をとって、一つの幅の広い教養を与えて、大学卒業資格を与えるというのは、いまの既存の大学で行うのは非常にむずかしいんじゃないかというふうに思います。やはり既存の大学は何と言っても、通学制を基礎にしておりますから、そういう教育方法を重視するわけでありまして、そうではなくて、やっぱり放送を主体にした大学教育ということになりますと、このような大学設置する必要があるんじゃないかと思います。
  51. 吉田実

    委員長吉田実君) 以上をもって参考人に対する質疑は終了いたしました。  参考人方々に一言御礼を申し上げます。  本日は長時間にわたり、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。本案に対する質疑は、午前中はこの程度にとどめます。午後一時四十分から再開することとし、休憩いたします。    午後零時三十五分休憩      —————・—————    午後一時四十三分開会
  52. 吉田実

    委員長吉田実君) ただいまから文教委員会を再開いたします。  休憩前に引き続き、国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案議題といたします。  本法律案の審査に当たり、特に教員大学問題について意見を聴取するため、本日、立教大学教授で、日本教育学会教員養成問題研究委員会準備委員会委員長の長尾十三二君。  東京学芸大学学長で、日本教育大学協会会長の太田善麿君。  文教大学学長の小尾乕雄君。  名古屋大学教授で、前国立大学協会教員養成制度特委員会委員長の飯島宗一君。以上四名の方々参考人としてお招きいたしております。  この際、参考人方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、お忙しいところを本委員会に御出席いただきましてありがとうございます。  それでは、議事の進め方について申し上げます。  ただいま議題といたしております国立学校設置法及び国立養護教諭養成所設置法の一部を改正する法律案中、教員大学問題について忌憚のない御意見をお述べ願いたいと存じます。  議事の都合上、御意見を述べていただく時間は、お一人十五分以内にお願いをいたしたいと存じます。  なお、参考人意見陳述の後で、各委員から質疑がございますので、お答えいただきますようお願い申し上げます。  それではまず長尾参考人からお願いいたします。
  53. 長尾十三二

    参考人(長尾十三二君) 教員養成あるいは教師教育の問題は、結局、望ましい質の教員をどれだけの量確保することができるかどうかという問題であろうかと思います。教員の量を確保するということにつきましては、開放制免許制度という戦後の制度と、それから人材確保法による待遇の改善ということもございまして、小学校の教員につきまして、多少の問題点はあるにしても、この問題は、つまり量の問題は、一応保障されている状態である、そんなふうに考えていいのではないかと思います。結局、現在私たち考えなければなりませんことは質の問題でございます。良質の教員というものをどう考えるかということについては、意見が分かれるかと思いますけれども、やはりどのように考えるにしてみたところで、教師としての専門的な能力が高くあってほしいということについては変わりはないだろうと思うんですが、しかしまた、その専門的な能力とは一体何であるかということになりますと、これも意見が分かれると思います。そして、ごく一般的な考え方に立って申しますならば、やはり教員の専門的な能力というものは、教育学に支えられた専門的な能力であってほしいということについては、恐らく意見が一致するのではないかと思います。ところが、教育学、あるいは教育諸科学というものの歴史的な役割り、あるいは学問的な性格というようなものを考えてみますと、そこに大変むずかしい問題があるわけでございます。私は近代の欧米の教育史を専攻してきた者といたしまして、教育学、特に近代の教育史の立場から、教育学という学問技術学的な性格を持っていること、そのことから生ずるさまざまな問題が、今回の教員大学院問題とどのようにかかわってくるのかという問題について考え、次に、近代の教育制度史的な観点から、今回予定されております教員大学院というものが、将来の時点において既設の教育大学は充実をされるということでございますけれども、それと非常に近い性格のものに将来はなっていくのではないか、そうなった場合に生ずる問題点、この二つほどについて簡単にお話しをして、最後に日本教育学会研究の現状から指摘される問題というようなことをお話ししたいと思います。  まず、教育学という学問は、語源的に見ましても、成立の事情から見ましても、技術学としての性格を帯びてまいりました。それは現在においても変わりありませんし、それなりに意味のあることであろうと思います。ただし、教育学が技術学的な性格を帯びておったということは、どうしてもこれが一種の処方せん教育学として、能率主義あるいは効率主義と結びつきやすいという傾向を持っておったということを私たちは否定するわけにはいかないと思います。能率主義あるいは効率主義に流れる、能率や効率を上げていくためには、どうしても目的や目標を固定的にとらえなければならないわけです。目的や目標を固定的にとらえるということになりますと、能力をなるべくはかりやすい物差しではかるということになってまいります。目的や目標を固定的にとらえるということは、実は考えてみますと、外見的には成果が上がっているようであっても、教育の本質から考えますと非常に間違った方向に教育が動いていく、そういう危険を常に伴っておったわけでございます。近代の偉大な教育思想は、教育が能率主義に流れるということについて常に批判的な構えをとってまいりました。そのことを、まず私は申し上げたいと思います。そして私は、教育は非能率的であっていいということを申すつもりはございません。しかしながら、能率だけを目指すということになりますと、これはいま申しましたように、大変教育にとって望ましくない結果を招くということ。そして特に教育研究の諸領域の中で、教育方法あるいは教科教育法といったような領域は、能率主義の方に流されやすい傾向を今日まで持ってまいりましたし、現在もまた持っております。くどいようでありますけれども、私は教育において能率は要らないと言っているわけではございません。しかし、能率にとらわれ過ぎますと、人間全体の健全な発達ということを見失うことになりかねません。このことは、もちろん新設されるであろうと考えられております教員大学院だけについて考慮しなければならない問題ということではありませんので、既設の教育大学を充実する場合にも当然考えていただかなければならない問題でございます。もしそのことを考えますと、現在予想されております教員大学院のカリキュラムの問題、それからさらにそこへ人々を迎える、特に現職の教員を迎え入れる場合の入学試験の問題ということについては、慎重な検討が必要であるということを、まず申し上げておきたいと思います。  第二に、教育制度史的な考察から申し上げますと、ヨーロッパの中等、あるいは高等教育というものは、アカデミズムを志向する学校と、それから実学主義を志向する学校という二つの系列がございます。この実学主義を志向してきた学校というのは、その学校のレベルが上がってまいりますと必ずアカデミズムの方へ動くと申しますか、そういう性格を帯びる学校になってまいります。そしてその結果は、同じ学校の中で、アカデミズムを志向する、いわば教養主義的なコースと、それから実務、実学を志向するコースとが分化するというようなことになってきておるのが一般の傾向でございます。もしそのような事情から、現在予想されております教員大学院のあり方を考えてみますと、これは既設の教育大学を充実してつくられるであろう大学院と、趣旨の違った大学院が考えられているように思われますけれども、しかし、実際に大学院が発足をして、そこで研究が行われる場合に、やはりその大学研究のレベルが向上してまいりますと、どうしてもアカデミズム志向ということが生まれてくると思います。これはそこでお教えになる教官、そこで学ぶ学生の当然の要求としてそういうものが出てくると思います。そして一方では実際的な研究を重視するということでございますから、その方向に向かっての努力も行われるでありましょうけれども、実務的な修練を主とするコースというものと別に考えなければならないという状態が明らかに予想をされるわけであります。そうなっていった場合に、私が申し上げたいことは、もしいま、こういう新設の大学院がもっぱら実際的な研究ということで、実務的な修練の方に流れていくといたしますならば、というふうに私が申しますのは、先ほど申し上げました教育学という学問の性格からして、技術学的な性格が非常に強い学問でございますから、そちらの方へ動いていく可能性はきわめて強い。つまり悪しき能率主義に流れる可能性はきわめて強いわけですから、そうなっていく可能性は確かにある。そうなってしまうということはまことに望ましくないということが一つ言えるわけです。と同時に、もしこれが非常に学問的なレベルの高い大学院になっていった場合には、これは既設の教育大学を充実さして大学院をつくっていった、そういう場合にできるであろう大学院と非常に近いものになってまいります。非常に近いものになっていった場合に何が起こるか。これは新潟県の場合、兵庫県の場合、恐らく新潟大学や神戸大学にも将来大学院修士課程が設置されるのではないかと思いますけれども、そうなった場合に、学部段階にも学生がいるわけですから、初等教員に関する限り、かつて見られました師範閥というようなものが復活をする、こういう危険はきわめて大きいわけであります。同じような大学、同じような大学院、仮にそれは性格が違ったものであるにしても、少なくとも県内に教員養成を目的とする、大学大学院が二つ存在するということは、かつて日本の教師たちを不毛の対立に引き込んでおりました師範閥の復活につながる危険がきわめて大きいということを私は指摘しておきたいわけであります。特に新潟県の場合には、私はかつて教育大学に勤めておりましたときに経験がございますけれども教育大学で開設をしておりました現職教員の講習のためのコースに、ほかの県とは比較にならない多数の教員が教育大学に志願してまいりました。それは、かつてありました新潟県の師範閥の対立というものを背景としてのものであったということは事実において明らかでございます。異常な状態でございました。そういう状態が予想されるということを私は次に申し上げたい。これは制度史的な考察から申し上げることでございます。  最後に、私は日本教育学会の、先ほど御紹介がございました教員養成問題についての研究委員会のお世話をしておりますけれども、最初に申し上げました教育学の技術学的な性格というものを何とか抜け出すようにしなければならない。もし、その言い方が正確でないといたしますならば、技術学的な性格はそれとしながら、それを正しく位置づけるような教育研究成果が必要である、こういう努力が世紀末から各国において行われました。これはいろいろな名前で呼ばれておりますけれども一つにはディルタイの系譜を引きます精神科学的な研究として、もう一つ社会科学的な研究として相当の成果を上げて今日に及んできております。教育学を単なる技術学にとどまらせないための教育研究努力が行われ、そういう努力というものを私たちは踏まえながら、戦後におきましても教員養成問題については特別の委員会や、あるいは小委員会を設けて、いろいろ研究を進め、必要な場合には発言もしてまいりました。この数年間そういう問題に直接触れる活動がないように思われているかもしれませんけれども、実際には、学会におけるこの問題の研究は、教育教育と申しまして、あるいは皆さんのお耳になれない言葉であるかもしれませんけれども、医学教育あるいは法学教育と同じように、つまり医師の養成における医学教育、法曹の養成における法学教育と同じように、教育教育という概念でもって、望ましい教師教育のカリキュラムを考えるという努力をこの数年間学会の課題研究として続けてきております。そういう努力に裏づけられて、これから設けられることになっておる既設の教育大学の充実、あるいは教員大学大学院のカリキュラムを考えるというようなことをぜひしていただきたい。ところが、残念ながら私たちは、この計画について、その内容についてほとんど知らされないまま今日に至ったということは、教育学の研究者の一人といたしまして、まことに残念でございます。  ここでお話し申し上げましたような、私自身の専攻から今日の問題について問題点を指摘させていただきますと、第一には教育学の技術学的な性格から生ずるところの問題点、これをいかにしてカバーするかという配慮が必要である。それから制度史的な考察から申しますと、新しく設けられる教員大学院は、職能教育的なものに流れていってしまうか、そうでなければ既設の教育大学を充実したものと同じような性格のものになる、そうなった場合に生ずるであろう混乱というようなことを私たち考えなければならない。そういう問題について、私たち教育研究者、その多くは教育大学学部に就職をしております。そういう者たちが一生懸命努力をしている成果というものをできるだけ取り入れて、この問題に取り組んでいただきたい。  以上でございます。
  54. 吉田実

    委員長吉田実君) どうもありがとうございました。  次に、太田参考人にお願いします。
  55. 太田善麿

    参考人(太田善麿君) 私は、ただいま日本教育大学協会の会長の役を仰せつかっておりますので、その立場を中心として所見を述べさせていただくことにいたしたいと存じます。  日本教育大学協会と申しまする団体は、教育に関する学術の研究並びに教育養成を主とする大学及び学部をもって組織するということで、その目的は、会員相互の協力によって大学及び学部の質的向上と、教育に関する学術の発達を図り、わが国教育の振興に寄与することを目的とする、このように定めまして、昭和二十四年十一月に創立されたものでございます。その構成員につきましては、経過において多少の変動はございましたが、基本におきましては、国立大学のいわゆる教員養成系学部全部、これはただいま三十九ございますが、それと、同じく教員養成大学全部、これは八つ現在ございますが、これを中心といたしまして、それに所属する教官、付属学校の教官を含めまして、それらの教官を基盤として運営されてまいっております。  さて、先ほど日本教育大学協会の会長という立場を中心として所見を述べさせていただきたいと申し上げましたのでございますが、実は今日まで日本教育大学協会におきましては、いま取り上げられております教員大学の問題につきまして、正式に見解なり、意見なりをまとめたということはございません。したがって、ここで協会を代表いたしまして、協会としての意見を申し上げるというわけにはまいりません。過去におきまして、協会の理事会等の機会に、この教員大学の問題に対する協会の考え方をまとめる必要はないのかという発言は一再ならず聞かれたのでありましたが、その都度、現段階で協会として統一的な見解や、結論を求めることは困難であろうし、その必要もないであろうという判断と、問題点の指摘ということであれば、国立大学協会教員養成制度特委員会が検討しておられるところと別個に、あえてつけ加えることはないであろうという考慮もございまして、特別に審議対象として取り上げられることはなくてまいりました。  さて、このような事情でございますから、この教員大学設置に関する直接的な協会の意見は申し上げることができないのでございますが、このような経過の中で協会が実際に進めてまいりました諸活動を通しまして、会長として、実際上この教員大学問題にどのような解釈と態度で対応してまいったかについて申し上げておきたいと存ずるわけでございます。  まず、当協会は、会員大学であります全国の教員養成大学学部における、教育研究条件の整備充実とあわせて、大学院の設置の促進ということを現下の最大の課題といたしております。教員養成大学において行うという教員養成の開放制の趣旨からいたしましても、教員養成系の学部が教育研究条件を十分に整備し大学院を持つことは当然であって、早急にその実現を図るべきだと考えております。  御承知のように、既設の教員養成大学学部は、旧制度の師範学校を母体として発足したという沿革の事情もございまして、教官組織、施設設備等になお幾多の難点を残しております。そこで、これらの整備のための基準を明らかにするために、当協会では十数年来自律的な共同の作業を続けまして、曲折はございましたが、昭和四十九年に「教育関係学部設置基準要項」(試案)、同五十年に「教育関係学部付属学校設置基準要項」(試案)、こういうものをまとめるに至りまして、当局に対しましてこれを重視して、計画的に整備を進めるように熱列に要望しておるところでございます。また、大学院等委員会という常置委員会を設けまして、教員養成系の大学院のあり方について検討を重ねてまいっております。したがって、もしこの教員大学設置構想や計画が、この整備充実の促進を妨げるような要素も含むものでありましたならば、事は重大なわけでございます。たとえば、教員養成系の大学院の設置は、今後は新設の教員大学に限るとか、そうではなくとも、当分は教員大学に重点を置いて既設大学学部の整備は見送るとかいうようなことでありましたならば、これは当協会の承認しがたいところでございます。  そこで、当協会の主なる定例の会議等の際には、文部省の責任ある担当官の出席を煩わすのが例でございますが、そのような機会におきまして、その段階における教員大学調査や、準備の状況について説明を求めると同時に、まず第一に、既設の教員養成大学学部に置く大学院は、各大学教育研究体制の状況や、大学構想の検討内容等に基づいて、逐次計画的に進める方針であること。二といたしまして、既設の教員養成大学学部の教育研究条件の整備充実は一層進める方針であること。こういう点の確認をも求めてまいったことでございました。  昭和五十三年度に愛知教育大学大学院が設置されました。また教員養成系の大学院改革調査経費の計上を見たことなども、その意味で今後へ向けてのよい材料たらしめるべきものだという受け取り方をしておると申せるのでございます。  また一方、新しく設けられようとしております教員大学につきましての一般的な対応の姿勢でございますが、これについては、すでに当局側が公式に表明しているその趣旨を真っすぐに通して、万一にも教員の人事行政の手段となったり、自主的な研究が拘束される研修機関に堕したりするようなおそれのないように、教員養成、教師教育に望ましい条件や要素をもたらすように十分の配慮が加えられ、適切な措置が講ぜられるということを当然の前提といたしまして、その推移を見守っていこうというのが共通の気持ちであったと存じます。  新しい教員大学は、教員の高度の研究、研さんの機会の確保ということを一つの大きなねらいとしているものと了解しておりますが、当協会におきましても、現職教員が資質の向上を求めてする本格的な研修の機会を持つことの重要性は、十分に考えてきておりまして、本協会からその筋に提出いたしました要望書におきましても、大学設置の必要に関連いたしまして、「教員は、高度の資質、能力が要求される専門職であり、教職についてからも常にその資質の向上が図られなければならない」というふうに記しているのでございます。かつて当協会の「専攻科・大学院等検討委員会」という委員会がまとめました報告書におきましても、「未来に生きる子供を、その人間形成・自己実現に向けてはげまし援助する教員は、現代および未来社会の本質や特徴、とくにその中に生起する諸現象間の相互作用についての洞察力が必要」であって、専門職としての標準状態の絶えざる改善が、決定的な要請となっているということを説いているのでございます。これらの趣旨が生かされるのは、それ自体何の異存もないところであったわけでございます。それとあわせまして、当協会として正式に調査したことはございませんので、各地区からの包括的な情報ではございましたけれども、義務教育関係教員においても高度の研究、研さんに対する意欲は注目すべきものがあるという認識がございました。したがって、それにこたえるよき条件を整えてこれを励ますことは大事なことであり、それはできることならば、なるべく早く具体化するのが望ましいという現実に即した受け取り方もございまして、そこに適正な役割りを果たす機関設置を図ることには意味を認めることができるという考えもあったわけでございます。  で、これらの点につきましては、既設の教員養成大学学部に大学院を設置して、そこでそのような機能を果たすことにするということも当然考えのうちにございますけれども、それぞれの大学院の目的、性格その他の方針の決定は、各大学にゆだねられるという原則を尊重する、そのたてまえから、それらとは別に現段階において教員の高度の研究、研さんの機会の確保という配慮に基づいての条件づくりが行われますことは、理解しがたいことではないと存じます。今後、既設の教員養成大学学部の整備が進み、逐次各大学の方針に沿った大学院が設置されることを前提として考えたいと存じますが、そこに生まれるそれぞれ特色ある教育大学院とともに、この新しい大学院も相互に本領を発揮して、その段階その段階で相補い、また啓発し合って教育研究内容改善、向上を実現していくようになることを切望いたすものでございます。それにつけましても、今度の教員大学の教員組織や、教育課程等について、その目的、性格に照らして、どのような結論を出されるか、大きな関心をそこに注いでおるということは事実でございます。  以上をもって陳述を終わらせていただきます。
  56. 吉田実

    委員長吉田実君) どうもありがとうございました。  次に、小尾参考人にお願いいたします。
  57. 小尾乕雄

    参考人(小尾乕雄君) 教員の資質と能力の向上を意図しております本法案に対し、私は賛成の立場から若干の意見を申し上げたいと思います。  五十年に近い教職経験を通して、私は、教員が研修に励むような諸条件を整えることが、学校教育振興上最も重要な施策であると考えております。  私は東京都教育長の職にありました際、「研修は教師最高の倫理である」という小論文を書きました。それは日教組の倫理綱領の「団結こそは教師最高の倫理である」という一項の団結を研修に置きかえたものであります。そういう考えを持っていましたので、私は在職中教師の研修の機会をふやすことに情熱を持って努力いたしました。東京都の全教員に研修費を支給する制度を創設したのもその一つですが、現在は年額七千円になっているということでありますが、私のときに毎年の予算折衝で私が最も力を入れた、また苦労をした一つはこの研修費の増額でございました。  従来、各県の教育委員会には、大学派遣とか内地留学などという名前で、約一年間教員を大学などで勉強させておりました。今回の教員大学院は、このような現職教育をより整ったものにしたもので、いわば現状の発展考えられます。正規の大学院生として学べるということは、あらゆる点において恵まれたことになるわけでありまして、現職教員にとってこの上もない朗報であります。  また、教育委員会の立場から申しますと、大学院に進んだ者がまたもとの小学校に戻ってくる期待が持てるということですから、教育委員会の意図する研修の線に沿ったものとなるわけであります。いままで既設の教員養成大学大学院生が、小学校の現場に必ずしも戻ってこなかったといううらみはありました。高度の能力を備えた大学院卒業者が小学校にふえるということは、わが国の初等教育に大きな力を与えることと思われます。  以上は大学院についてでありますが、大学の方についても考えますと、新設の教員大学は既設の教員養成大学よりもレベルがダウンするのではないかという心配がないわけではありません。この点についてはいろいろの角度から十分考慮を払わなければならないと思いますが、それらの諸条件のうち、まず第一に申し上げたいことは教授陣に優秀な人材をそろえるということであります。  大学学問の府ですから、まずもって学問研究においてすぐれた人でなくてはなりませんから、りっぱな学者を教授としてお迎えすることが必要ですが、学者だけでなく、教育現場において研究を積み、教育実践者としてすぐれた業績のある人を教授陣に加えることは、教員大学としては必要なことと考えます。このことは私の勤務している文教大学の経験に基づいて申し上げているのでありまして、大学における教科教育法や教育実習、学級経営、生徒指導などの指導については、実践で鍛えた人がその指導に当たって、大きな成果を上げております。  私の勤務校のことを申し上げてはまことに恐縮に存じますが、学力の点で非常に高い評価を得ているというわけではございませんけれども、非常によくやるとか、誠実に勤めるとか、教師としての使命感をしっかり持っているというふうに言われております。実例を申し上げないと、自分勝手のうぬぼれのように受け取られるかもしれませんが、きょうはその時間がございません。どうして現場からそのようにほめられるのか、したがって、就職率もよいかという点を考えてみますと、その一つとして、さきに申しました教授陣に教育実践家を加えているということがあると思います。また、それよりもさらに大きな理由としては、教育関係のある、あるいは強い関心を持っている家庭の子弟が多く入学してきて、教師になろうという目的意識をはっきり持った学生が多いということがございます。よき教師の資質としていろいろ挙げられますが、私はその第一に使命感を挙げたいと思います。使命の命は天命などという命で、人間以上の者から命ぜられる、それに使われているということであります。つまりこれが一番自分に適している仕事である、あるいはこれ以外には自分を生かす道はないということですから、使命感を持った人はこの世に生まれてきた生きがいのようなものをその仕事に感ずると思います。使命感は純真な子供との接触を通して徐々に成長していくものでありまして、使命感に生きる教師は、身内にあふれるばかりの教育愛を持っていて、それが教育活動の原動力となっているわけですから、その情熱はおのずから子供に伝わらずにはいません。大学で学んでいるうちはそのような使命感を与えることはむずかしいことであります。しかし、そこを目指しての大学づくりが目的養成大学の基本線であると考えます。新構想の教員大学は、このような観点からさまざまな新施策が期待されますが、何よりも大事なことは、謙虚に社会の要請に耳を傾け、なすべきことは教授が先頭に立って率先実行することにあると思います。  わが国の初等教育の水準は、諸外国に比して高く、これが国力の源泉であると言われております。これを維持するには、今後適切な施策を怠りなく実施していく必要があります。それにつき最後に私見を述べて終わらしていただきます。  明治初年における教育政策は国民教育重視でありました。明治四年七月、廃藩置県が断行されましたが、そのときに明治政府は国民教育を普及しなければならないと考え、師範学校設置の準備にかかりました。廃藩置県と同時に文部省を設置しましたが、これは国民教育のための準備でありました。学制を発布して国民教育に従事する教員を養成するため、師範学校を設置したのは翌五年早々のことであります。  江戸時代の唯一の国立大学は湯島の昌平校でしたが、師範学校はそこに設置され、明治天皇はおかごでここに行幸になられました。国民の側にも政府の政策に対応する素地ができておりまして、発布後三年にして全国で二万四千校の小学校が建てられ、就学率は四〇%に及んだということであります。このような速やかな教育の普及は世界各国に例を見ないところであります。  明治政府が国民教育重視を推進した中心人物の一人に木戸孝允があります。彼は明治元年十月、小学校設置の建言をし、明治四年十二月、岩倉使節とともにサンフランシスコについたときの日記に「國の權力持し獨立不覊たらしむるには僅々の人才世出するとも尤難かるへし其急務となすものは只學校より先なるはなし」と、こう記しております。また文部省在勤の杉山氏にあてて、いま「全國之弊を顧みすんは國家之保安元より難し此風を改め此弊を矯る學校を以急務とする之外他なし我今日之文明は眞之文明にあらず我今日の開化は眞之開化にあらず十年之後其病を防く只學校之眞學校を起すに在り」と書き送っております。  木戸内務卿はこの立場から征韓論に反対し、明治七年内務卿として文部卿を兼務しましたが、台湾征討の事が決せられるに及んで、文部卿を辞任いたしております。  このような国民教育重視の精神はずっと受け継がれておりまして、師範学校卒業生に兵役の猶予あるいは軽減をしたり、学費を支給したりするなどの措置がとられ、これらは師範学校に地方の優秀な学生が集まることになった柱となっていると考えられます。  わが国が東洋の一角にあって、唯一の先進国となりましたのは、国民全体の教育水準が高く、文化を担う層が厚いことによると言われております。さきに田中内閣において人材確保法が成立し、いままた教員大学大学設置されることは、明治以来の伝統的精神を継承して、わが国の長所を一層伸長せしむるものとして評価されるべきであります。
  58. 吉田実

    委員長吉田実君) どうもありがとうございました。  次に、飯島参考人にお願いします。
  59. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 私は教育部の専門家ではございませんが、本日私が参考人として出席を求められましたゆえんは、私が広島大学長として在職中、国立大学協会教員養成制度特委員会委員長を務めておりました関係によるものであると存じます。したがいまして、まずその立場を踏まえて所見を申し述べたいと存じますが、現在私は国立大学協会を離れておりますので、以下申し述べるところの趣旨は、基本的には私の個人的見解に過ぎないことをあらかじめ御了承いただきたいと存じます。  私が国立大学協会特別委員会委員長に在任中、この委員会は教員養成の問題について三編の調査研究報告をとりまとめて公表いたしました。  その第一のものは、「教員養成制度に関する調査研究報告書−教員養成制度の現状と問題点−」と題するいわば総論的な報告でございまして、これは昭和四十七年の十一月に国立大学協会から公表をいたしました。  第二のものは、「教育大学・学部における大学院の問題」と題するものでございまして、主として教員養成大学学部における大学院問題を論じたものでございます。この報告は昭和四十九年の十一月に公表いたしました。  第三のものは「大学における教員養成」と題する、主として国立大学の教員養成の現状の批判と反省を踏まえた報告でございまして、私の在任中その構想が進展をし、私が退任して後、昨年の秋に国立大学協会から公表されたはずでございます。  以上の国立大学協会教員養成制度特委員会の作業の中で、このたび問題になっております、いわゆる新構想の教員大学大学の問題を取り上げて論及をいたしましたのは、昭和四十九年十一月の第二の報告書においてであります。申し上げるまでもなく、この教員大学大学構想は、昭和四十六年の六月の中央教育審議会の答申、「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」の中で提示をされ、それを受ける形で昭和四十七年七月、教育職員養成審議会の建議、「教員養成改善方策について」の中で、現職教員の研修を目的とする新構想大学院の創設ということがより具体的に提示されるに至ったものであります。  なお、それとほぼ機を同じくして、自由民主党政務調査会、文教制度調査会・文教部会から、中間報告として「教員の養成、再教育並びに身分待遇の根本的改革について」という文書が公表されております。  これらの提案、提示の内容は、現在の教育大学学部にとって重要な影響を与えることが予想されるものであり、また、わが国の教員養成制度上注目に値するものであると考えられましたので、国立大学協会教員養成制度特委員会は、これらの提案を中心にその構想研究、検討に取り組みまして、前に申し上げましたように、「教育大学・学部における大学院の問題」と題する報告書の中に、特に「いわゆる新構想教育大学院について」という章を設けて、この構想について言及をいたしたのであります。  その言及の内容は、主として上述の諸構想に見出される問題点考えられた諸事項について批判にわたる見解を表明したものであり、要約をいたしますと、およそ三点の問題点を提起をしております。  まず第一に、この新構想大学大学の入学に当たって任命権者の特別な推薦を得るということ、それからこの大学院の修了した者を特別に優遇をする、それから各ブロックにこの大学が配置をされて、教育委員会等と密接な連絡をとるという措置が、先ほど申し上げました提案にはうたわれておったのでありますけれども、当時の委員会は、それらの構想の運用のいかんによっては、この大学大学が結局教員人事行政の手段と化すおそれはないであろうかと、また、それによって大学としての本来の性格を失って、一種の教員研修所に陥るおそれはないであろうかということを第一に指摘をしております。  それから第二の点は、このたびこれらの文書において提案されている新構想大学大学と、既設の教育大学学部との関係ということが、その段階ではあいまいであり、新しい大学大学が一体既存の教員養成制度の中でどのように位置づけられるのかということについて不明確な点がある。万一、この新しい大学大学が、いわば特別な位置を獲得をする。そうして一方、既設の教育大学学部は、その下部機構として位置づけられて、そこに一種の上下構造が出現するということはないであろうか。それから既設の教育大学学部の整備充実ということが、この新しい大学大学の発足によって、等閑に付されるようなおそれはないであろうかという点が、つまり既設の教育大学学部との関係についてということがその第二の問題点でございます。  それから第三の提案された問題点は、新構想ということが言われておりますけれども、その新構想というものの大学としての実質的な中身は何であろうか。たとえば、その研究教育体制、あるいはカリキュラム、教育方法というふうな点で、既設の教育大学学部と別個に、こういう大学を設立するだけの新しい内容を果たして盛ることが可能であるかどうかという、まあ以上の三点が当時、国立大学協会教員養成制度特委員会でいろいろと議論をされ、それらの議論を集約をいたしまして、先ほど申し上げました報告文書に特別委員会が盛ったこの新しい構想に対する批判の大要でございます。  しかしながら、その後この大学構想が進展をいたしまして、兵庫及び新潟における新構想大学大学の準備室が発足をする段階になりましたので、国立大学協会は文部省の関係部局と話し合いをいたしまして、以上のような、当時特別委員会が持っておった疑問点について十分な話し合いをし、われわれの理解を深めると同時に、国立大学協会としては、新しい構想にいたずらに反対をする立場ではなくて、もしそれが真にわが国の教員養成制度全体にプラスになるような形で、この者を成育することができれば、国立大学協会の特別委員会としては大変に喜ばしいことであるという意味で、昭和五十一年の一月から数回にわたって国立大学協会と、それから準備室関係者及び文部省の関係者との間で懇談ないしは話し合いをいたしました。  で、私はその後特別委員長の任を離れましたが、つい最近までそれらの会合が継続をされ、先般の国立大学協会教員養成制度特委員会では、先ほど申し上げました、昭和四十九年の十一月に国大協が文書の中に表明した問題点の主要なものについては、文部省並びに準備委員会関係者から、それぞれ懸念がないように構想をし、進めるという趣旨のお話を承ることができ、それによって、国立大学協会は新しい大学大学のあり方を了承をしたということを特別委員会として決定をした旨聞き及んでおります。  以上が、私が関係いたしました範囲国立大学協会関係のこの問題に対する対応の経過でございます。  以下補足して若干の私見を申し述べたいと思いますが、以上申し上げましたように、国立大学協会、つまり現在存在する教育大学学部を持つ大学としての、この問題に対する最も重要な関心事は、まず第一に、それがいかなる具体的内容を盛った大学大学になるかという内容の問題でありますが、と同時に、すでに戦後長い歴史を持つ教育大学学部、あるいはそれがさらに戦前までさかのぼれば、長い歴史を持つ教員養成を受け持ってきた現在の大学学部との新しい大学との関係がどうであるかという点に集中をされるわけでございます。  申し上げるまでもなく、現在日本の父母の最も重要な関心は、ぜひ質のいいりっぱな先生を子供たちのためにほしいということでございます。また国家の将来から考えましても、私ども教育、ことに初等中等教育を十分に完備をし、さらに改善をし、それは要するに人の問題に根本的には帰着するわけでありますから、いい教師をつくるためには、あくまで現状に満足することなく、常に新しい施策を試み、あるいは伝統に立って問題を整備していく必要があり、またその責任があるものと考えられます。したがって、そのような観点からは、ここに一つの新しい試みが出現をしたということは、それをプラスの観点において評価することは十分に可能であります。  しかしながら、やはり問題は個々の大学、たとえば現在問題になっている二つの大学が突然出現をしたからといって、日本の教員養成制度の根本問題にどれだけの進展があるかということはすこぶる疑問でありまして、むしろこの新しい大学大学が、全体的な教員養成制度の中に整合的に位置づけられ、そしてあらゆる衆知を結集をして、全体の整合の中で、全体の日本の教員養成の問題が進展をしていくという形で、この新しい大学大学を位置づけることができるかどうかということが、やはり私は根本的な問題であろうと思います。  そういう点に関連いたしますと、当面三つの問題があるように思います。  一つは、この新しい教員養成大学内容であります。この大学内容と申しますものは、これは基本的には大学自身が責任を持って決定をするべき事柄でありますから、現在の教員組織がまだ欠けておる準備段階で、たとえばそのカリキュラムの問題、内容問題等について深く構想を提示できないのは、あるいは当然であるかと思いますが、しかしながら、よき内容を盛り得るような条件を、あらかじめ私ども考えるという必要があると思います。  ことに、現在の既存の大学教育大学学部が最も苦しんでおりますのは、小学校の先生養成ということのカリキュラムの内容がいかにあるべきかということであります。新しい大学一つは、小学校の先生養成ということに特に重点を置くということを表明をしておられるようでありまして、私どもはそこに期待を抱くと同時に、その内容が真にわが国の教員養成制度の正しい発展方向に対して参考になり、指標になり得るものであるということを期待しなければならないというふうに存じております。  それから第二の問題は、この大学がまず何よりも教員の現職教育の場として構想されたということは、確かに一歩の進展であると思われます。しかし、教員の現職教育はこの大学だけに限定されるべきものではございませんで、既存のあらゆる大学の学部、あるいは大学院等が、教員の現職教育のために進んで開放され、それに積極的に協力する必要があると思いますし、あるいは通信教育放送教育、あるいは夜間の現職教育のための整備というふうなことも並行しなければなりません。同時に、現職教育が真に現職教育たるためには、教員の現場において現職教育が十分に可能となるような人的組織上、あるいは財政上の裏づけが必要でありまして、したがって、この新しい現職教育の第一歩の場が真に全国的な効果を上げてくるためには、現職教育問題全体の視野の中で積極的な施策が進められ、その中にこの新しい大学機能が位置づけられるという必要があるように存じます。  最後の問題は、再びこの既存の大学学部との関係でございまして、従来国立の大学におきましても、教育大学学部は他の学部、学科等に比べますと、財政条件、あるいは人的条件、研究費の条件等は決して優遇されているとは申せません。  先ほどもお話がありましたように、国立の教育大学学部の中で、修士課程が認められておるものは、現在のところ二校にすぎないというのが現状でございます。  これはやはり新しい大学を進めるのと並行をし、あるいはそれ以上に積極的に現在の教育大学学部の整備充実ということに、一層の措置が加えられる必要があると考えるわけでありまして、そうしてそういう基本的な、いわば日常的な、ごくべーシックな教員養成制度の柱がしっかりし、その全体のネットワークの中で、新しい構想大学というものがそれぞれの個性で整合をするということが、私どもは最も望ましいことであるというふうに存じているわけでございます。  以上で私の陳述を終わります。
  60. 吉田実

    委員長吉田実君) どうもありがとうございました。  以上で参考人方々の御意見の開陳を終わります。  これより質疑を行います。質疑のある方は順次御発言を願います。
  61. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 参考人先生方お忙しいところ本当にありがとうございました。いろいろ貴重な御見解をお聞きしたわけでございますが、この機会に時間の許す範囲内におきまして、四名の先生方にそれぞれお教えをいただきたいと思うのであります。  発言順序で申し上げてみたいと思いますが、まず長尾先生先生は、先ほど教育が能率主義に走り過ぎておる、このことは非常によくない、このことを強く強調されて、この教員大学との関連の問題として、カリキュラムの問題、入試の問題等について慎重に考慮しなければならないということをおっしゃったようでございますが、もっと具体的にその中身をまずお聞かせをいただきたいと思います。  なお、私は戦後の教員養成の基本方針は、少なくとも教員養成大学でということ、開放制ということが、これは基本であったと思うのでございますが、この原則を私はあくまでも正しいと思うものでございますけれども先生はどうお考えになっておられるか。なおまた、その立場からして、今日のこの教員大学の今日示されておるところの問題点について御所見を若干承れれば幸いだと思います。  次に、太田先生にお願いを申し上げることでございますが、先生は、戦後統合されたところの教育系の中でも七つの教育関係大学、かつてはみんな学芸大学であったようでございますけれども、いまや学芸大学先生のところだけが残っておるような形になっておるわけでございますが、そういう既存の教育系の大学との関連において一、二お聞かせをいただきたいと思うのでありますが、今日ありますところの教育系の大学、あるいは学部が、その他の一般の国立大学学部に比していろいろな面で格差がある。このことは私は厳然たる事実だろうと思いますし、衆議院の参考人先生方の公述の中にもそのことが出ておりました。特に予算の面、教官の配置の面でもそういうふうになっておるわけでございますが、どこにこの問題の本質的な問題があるのか、そこをどう先生は握っておられるかということをお聞かせいただきたいと思います。よくこの問題について、いわゆる課程の問題ですね、学科目別制が固定的に教員養成大学関係はあるところに問題点があると、多くの識者が指摘をしておるわけでありますが、この点をどうお考えになっておるかお聞かせをいただきたいと思います。  それから、先生日本教育大学協会の今後の力点を入れておられるところの問題について、いわゆる教育系の既存の大学ないし学部に大学院を置きたいと、このことが自分たちの非常な念願だということをお述べになられたわけでございますが、事実を調べてみますと、昭和二十七年まではなかったようでありますけれども、昭和二十八年以降、先生のおっしゃったように、大学院をという要求は非常に強い。昨年の五十二年度ですか、ことしは十三校あったと、文部省の答弁はなっておるわけでございますけれども、延べで申しますと、実に五十一校になっておるわけですね、二十八年以降。これは熱烈な私はやはりその声だと思うのでございますが、たしか率直に申し上げて、戦後この教育系の大学ができてすでに三十年近くになろうとするのに、いまなお大学院があるのは先生の学校と教育大学のみで、ようやく今度愛知教育大学につけられた。文部省のいろいろな見解をお聞きいたしますと、今後さらに努力をするという話でございますけれども、四分の一世紀近くの間に一校しかふえておらないという、このことはどうも私は合点がいかない。果たしてそういう問題について熱意があるのかどうか。一体この既存の教育大学に対するところのいわゆる大学院のあり方という問題について、むしろ逆な考え方を持っておるのではないかとさえ、文部省のいままでのやり方は私は思っているのでありますが、その点先生はどうお感じになっておるか。非常に文部省が誠意を持ってこのことをやっていると御理解をいただいているのかどうか、そこらあたりをお聞かせをいただきたいと思います。  いま一つの問題は、先ほど先生がこの教員大学の問題については推移を見守りたいという、きわめて静観をされている立場が表明されたのでありますが、既存の教育系の大学院と、この教員大学とは、その目的、性格について一体基本的に同じものなのかどうだろうか。少なくともこのつくり方においては、これはまた逆になっておるわけでございますね。あるいは大学の中に入るところの学生の比重のあり方も逆になっている。こういう点を実際考えますと、同じだとは思えませんし、予算面その他の面についても格差がつくのではないだろうかということを危惧をいたしておるのでございますが、その点先生はどう見ておられるか、お教えをいただきたいと思います。  いま一点は、大学院と現職教育との関連において、先ほど飯島先生からも御要望の点があったのでございますけれども、いままでのやりとりを聞いておりますと、文部省筋の答弁は、現職教育ということを既存の大学院にもわれわれは強く要請をしておるのだけれども、余り歓迎されないんだと、こういうことをやはり答弁で述べておるんですが、皆さん方が、これが事実だとするならば、その教員の現職教育、それが歓迎されないところの理由はどこにあるのか、またそのことが肯定されるとするならば、先ほど来皆さん方から述べられておるところの、既存の教育大学大学院化という問題と、いま議論されておるところの大学院のあり方ということについては、非常に大きな差異があると言わざるを得ません。したがって、その点をはっきりしていただきたいという点でございます。  それから、小尾先生にお願いを申し上げたいのは、免許状の問題について、先生はどういう御見解をお持ちかということでございます。これもいままで衆、参の文教委員会で大分議論をされてきたところの問題でございますけれども、現在の免許状の単位取得が非常に安易過ぎる、あるいは教育実習が足りない、もっと厳しくできないかという意見が与・野党を問わず圧倒的に強い。加えて、御承知のように教養審は、現在の、たとえば小学校の四十八単位を七十単位にやはり単位数を引き上げるべきだ、あるいは中学校、高等学校にいたしましても、七十単位ぐらいに引き上げるべきだと、こういうことを強く建議をしておる。しかし大分時間もたっておりますけれども、文部省は依然としてこの問題について積極的な意欲を見せない。そこの原因がどこにあるかという問題の中で、いわゆる文教委員会の中の答弁として出てきているところの一つは、私立の側がこの問題について非常に私大関係が消極的である、こういうことを述べられておるのでございます。先生は私学の学長さんであり、しかもまた、先生の学校にも教員養成課程をお持ちの学校の学長さんですからあえてお尋ねをいたしますけれども、この点本当に私学は困ると思っておられるのかどうか、そこの御見解をひとつ先生お聞かせいただきたいと思うのであります。  ざっくばらんに申し上げて、よく私大関係学生募集の要項等見ますと、本校の教育講座は云々と、非常に麗々しく教育課程の免許状が取れるところの講座を持っておるんだと、課程を持っておるんだということで、非常に宣伝をされておる向きが多い、私は先生の学校は知りませんけれども。そのことが勢い結果的には、特に女の学生さんにとっては、この教員の免許状を得るということが、あたかも嫁入り道具の一つの条件みたいにさえも受け取られておるところの向きがある。あるいはまた、いわゆるそれぞれの私大関係においては、付属高校において余り教育実習というものもなくて、ほとんど大部分は出身校に行けという形で、その子供たちの単位の取得の中に使われておるという、この面を考えますと、これはいかがかと思えるところの問題点もあるわけでございますが、それらについてどのようにお考えになっておられるか、その点をお聞かせをいただきたいと思います。  なお、この件について太田先生にも、これらの問題は国立大学関係関係がありますからお聞かせをいただきたいと思います。  時間が参りましたので非常にはしょりますが、最後に飯島先生にお聞きをいたしたいのであります。先生が前の特別委員長時代のいろんな報告書を私も拝見をいたしましたけれども、そこに一貫して流れておるところの教育理念は、いま出ておるところの教員大学の問題の思想とは非常に違っておるように見受けられるんですけれども先生のいまのお話によりますと、ちょうど一月の二十日に、現在の特別委員長の須田先生が言われたように、これを支持するんだと、言うならばいままで指摘をされたところの問題点、疑念というものはすべて晴れたと言わんばかりの公述でございますが、すべて晴れたとお考えになっておられるのかどうか、その点をお教えをいただきたいと思います。特にまあその点で一つだけ申し上げますならば、大学のこの入学の条件の問題にいたしましても、須田先生のお話によると、まあ普通、有職者が大学院に行く場合には所属長の了解を得て行くんだから、校長さんの了解を得るのはあたりまえなんだと、またそれも得られると書いてあるからりっぱなんだと、こういう物の言い方をしていますけれども、この問題におけるところの質疑の中で明らかになっておるのはそんな簡単なものじゃないんですね、この現職教育の場合は。学校長と地教委と県教委とが協議をし、総合的に判断をして、そこでこれを認めていくかどうかを決めるんだと。実質的にこれはもう推薦入学と変わらないんですよ、それぐらいの非常な拘束力を持っておるんですけれども、本当に疑点が晴れたとお考えになっておるかどうか、それらの問題についてお教えいただきたいと思います。
  62. 長尾十三二

    参考人(長尾十三二君) 私への御質問は二つございまして、最初に、新しく予想されております教員大学大学院の入学試験や、カリキュラムについて慎重な配慮が必要であるということだけれども、具体的にどんなふうに考えているのかということでございました。私は、この大学が現職教員のために実践的な研究の場を設けるという、その精神につきましては全く賛成でございます。しかしながら、先ほどから申し上げましたように、実践的な研究というのは、教育学という学問の性格から申しまして、どうしても技術学的な性格の濃いものになってまいります。教育の目的や目標について原理的、原則的に考えるということをともすれば忘れがちになる危険がございます。したがって、学生を受け入れるに当たっては、もちろんその場合には人事が決まり、どのような教員陣容が構成されるかということから、問題は始まるわけでございましょうけれども、本当に研究したいというテーマが必要なものであり、しかも、そのテーマについての指導能力が教員の側にあるかどうかということが吟味されなければならないと思います。と申しますのは、この大学院の教員の人事構成によっては、教育についての原理的、原則的な研究をしたいという人を受け入れる枠が非常に狭くなり、そして、まあ実践的研究といっても、見かけ倒しの実践的な研究というものがまかり通るという危険性が大きくなるのではないかと。したがって、受け入れるに当たっては、現場で熱心に教育に当たってきた人であって、本当にその研究課題に取り組み得る能力があるかどうかを吟味するような、そういう配慮が当然必要ではないかと思います。  で、入学に当たっての推薦制の問題については、私は特にいままで指摘されてる以上のことは申しませんけれども、しかし、実際に考えてみますと、小学校の教員と中学校の教員の場合とでは多少事情が違う。中学校の場合にはそれぞれ受け持ちの教科がございますから、特定の教科の人間だけがどっと大学に入るというようなことがあっては困るわけであります。したがって、どこかでこれは受け入れるに当たって交通整理をする必要があるということはやはり認めなければならないだろうと思うんです。ただし、それがまあ心配されますように悪用されるおそれがないかどうかということになりますと、これはそうならないことをお願いするということしかないわけであります。私たちは、この計画について、もっと広く世論に聞くべきであるということを申しました。それは世論に聞くということを初めからなさる意図がなかったとは思わない。もし世論に聞く意図がおありになるとするならば、いまからでも遅くはないので、いま申しました手続の問題はございますけれども、特に入学試験について基本的な配慮はどういうことであるのかと、たとえば英語ができなければ入れないというようなことになるのか、英語ができなければ研究能力がないと認めるというようなことになるのか、あるいは研究テーマについてどの程度のリポートを出させて受け入れることにするのかといったようなことが、やはり人事が決まる以前に少し検討しておかれる、必要があるのではないかという、そんなふうに考えております。  それから、カリキュラムにつきましては、いまお話したことと関連がございますので特に申しませんけれども、現在予想されております中には、確かに原理的、原則的な研究をするコースも予定されているようでございますけれども、いま私が申し上げましたように、そこで用意される教官の陣容によっては、現場の教師たちが、この際大学院に行ってしっかり勉強したいという気持ちになって大学院に行こうとしても、それを指導してくださる先生がないということになりかねない。と申しますのは、三年以上の経験のある人からということでございますけれども、就職をいたしまして二、三年というのは実際に現場の仕事に追いまくられて夢中であります。そして、本当に大学院に行って勉強したいという気持ちに教師たちがなりますのは、もう少し年数がたってからではないかと思うのですね。そういうときに、教師たちの勉強したいと思う内容は、すぐに役に立つことよりも、もっと基礎的、根本的な勉強をやり直してみたい、それは教科の専門についてもそうでありますし、教育諸科学についてもそうであります。そういう教師たちの研修の希望というものを、この大学院が本当に受け入れられるようになるかどうか、そういう問題があるということを申したかったわけでございます。  それから、開放制の問題でございますけれども、これは私は戦後の教員養成の基本的なあり方として、今後もぜひ守り続けていっていただきたい原則であると考えております。私は、現在、私学の教員でございますけれども、私学における教職課程のあり方というものは、巷間伝えられるようないいかげんなものでは決してございません。実際に私学は多くの実習生を出します。立教大学について申しますならば、昨年度四百五、六十名の学生を実習に出しました。その約三割の者が本年度就職をしております。これはほかの私学と比べますと非常に高い率でございます。実際に教職課程に登録する学生の四割ないし四割五分は途中で脱落をし、まあ脱落をするか、させるか、厳しくしておりますから、それぐらい脱落をしていきます。実際に実習に出る者はかなり精選をしております。ほかの私学でも事情は同じであろうと思います。そういう私学の教員として教職課程の実情を経験していますと、私は開放制免許制度というものが、今日、教育実習においてさまざまな問題点を生じているということは確かでございますけれども、一昨年来、関東地区におきましては私立大学の教職課程の担当者が集まりまして、関東地区の私立大学教職課程研究連絡協議会という組織を設けまして、文部省当局はもちろん、教大協その他の組織との話し合いも進めまして、開放制のもとにおける私学の教員養成ということについて熱心に取り組んでおります。そういう努力というものをお認めいただいて、私たちはこの開放制のもとで、今後もすぐれた教員の養成をやっていきたいと、ただし、その場合には確かに現職教育の必要ということを強く推進していただかなければならない。ただし、その現職教育というものが、これは先ほどのお話に戻りますけれども、単にすぐ現場に役立つというような研究というふうに限定しないで、原理的、基礎的な研究が十分にできるような、そういう体制をこしらえていただきたい。それが入学試験に当たって、カリキュラムの作成に当たって、ぜひ生かしていただかなければならないことであると、こういうつもりでございました。
  63. 太田善麿

    参考人(太田善麿君) 今日の国立教育大学学部の教育研究条件の他の学部との格差、これはどこに原因があると見ておるかという御質問でございます。これはお話にもありましたとおり、現在これらが課程学科目制という枠にはめられておりまして、それに対する基準が他に比べて劣っておるということがあるわけでございますが、これは教育系学部における最低限の、もっぱら教育の必要によってという観点から配慮されておりまして、その研究の体制をどのようにして保障するかという配慮がここに大いに欠けておったという点があると存じます。そのために教員の定数、あるいは組織につきましても、もっぱら学生数を基準としてそれが考えられる、研究教育の体系を組むというそういう面からの配慮が弱かったということがあったと存じます。それがなぜ今日まで改善されずにまいったかと申しますと、私どもといたしましては、それを改めるよりどころ、これが明確でない、義務教育教員を養成する、その場合に、それぞれの教員免許状に要求されるそれぞれの素養、それ以上によりどころとして十分に検討される機会がなかったというようなことでございまして、そういう点の反省から、協会といたしましては、設置基準要項、この名称がちょっと問題でございますけれども、いわばこれを整備基準と申した方が適当なのかもしれませんが、その検討を続けまして、そこにおきましてはやはり大学としての最小限の研究体制、これを保障する裏づけが必要であるということから、研究面からは学科制をとる、そして教育面では課程制ということで、そういう構成で考えるのがよりどころを明確にするゆえんであるということで、そういう考えのもとに一つの協会の考えをまとめまして、そういう線でこれを実現に結びつけてもらえるように、その理解を求めておる次第でございます。この経過におきまして、どうしてこれがずっと長いこと放置されたかという点につきましては、われわれの努力の足りないところももちろんございますけれども、これは各大学内におきましても、共通の理解を得るということがなかなかむずかしい問題であったという点もあり、当局に対し、また、社会に対して説得性のある案というものをなかなか提出しにくかったという点もあると存じますが、それらを越えて、私どもとしてはその改善に取り組んでまいるというつもりでおるわけでございます。  それから、既存の教育大学学部の大学院を望みながら、そして、現にもう三十からの大学学部がそれを希望ないし要求しておるというのに、なかなかそれが実現しない理由はどこにあるか、それに対応する文部省の態度をどう受け取っておるのかという御質問でございますが、これは、基本的にはやはり大学設置という段階になりますと、もう一歩ここの点に整備を要する、こういう点に条件を加える必要があるというようなことになっておるというのが実情でございまして、それは、先ほど申し上げました整備がおくれておるということと表裏する関係にございますが、私どもといたしましては、事あるごとにその整備についての配慮を要望しておるわけでございます。この文部省の態度はどうなのかという点でございますが、私その結果がすぐに次々とあらわれてきていないというのは事実でございますけれども、私どもの申し述べますところ、それを十分聞いて、それにこたえる努力をしたいという御返事を得ておるわけでございます。その点まあ私どもとしても、率直に申しまして、もっとそれを積極的に取り上げていただきたいと存じておりますが、なお、内部的にも、われわれ協会といたしましても、さらにお互いに確かめ合いまして、それに取り組んでまいりたい。  それから、新しい教員大学設置についてはその推移を見守りたいというようなことを言ったが、既存の教育大学、あるいは学部、それに設けられるであろう大学院等との性格をどういうふうにとらえておるのかということでございます。その点でございますが、これはすでに公にされております趣旨をそのまま受け取りまして、既設の大学学部に設置されます大学院は、それぞれ今後独自の性格を持ったものとして設置されますでしょうが、その中で位置づけを得るようなものとしてそれが設置されるということを期待して、同時に、そのような全体としての構成になるための努力を予想いたしまして、そのように申し上げたわけでございます。  また、すでに設置されております教育大学大学院におきまして、現職教育関係のことについて余り歓迎されていないと申しますか、余りそれに積極的に取り組んでいないのが実情であるというが、その点はどうなのかという点でございますが、これは現状そのように見られる、そういう実情にあるということは事実でございます。これは東京学芸大学におきましては、昭和四十一年にこれが設置されました。十年余をこれで経るわけでございますが、その間徐々に現職教育のそのための体制を充実させるべきであるという意向が高まりまして、今日ではそういう要素をさらに充実する努力をしようということになっておりますが、今日までの経過におきまして、そういう面の配慮が比較的薄かったということは申せると存じます。そしてまた個々の問題といたしましても、やはり学部卒業生をこの大学院に受け入れて、そしてより高度の教職の資質をそこで養わせるという、その面の機能はやはり相当重視されるものと見ております。それに加えて、現職教育機能に踏み込んでいくというのが今日のあり方であろうと存じます。  以上でございます。
  64. 吉田実

    委員長吉田実君) 速記ちょっとやめて。   〔速記中止〕
  65. 吉田実

    委員長吉田実君) 速記起こして。
  66. 小尾乕雄

    参考人(小尾乕雄君) 私には免許法の基準の御質問でございますが、宮之原先生がよく御存じでございまして、私が先生参考になることを申し上げることはございません。しかし、私の意見を徴されますと、現在国立大学でいわゆる目的養成ということで、昔の師範学校とは違いますけれども、現在の免許法の基準よりも多く単位を取らしております。途中編入等もできません。これを目的養成と称しておりますけれども、その国の方針は、つまりいまの免許法の基準は低過ぎるということだろうと思います。  そこで、私の大学日本で最初の国立大学と同じ目的養成をうたっておりますので、私の意見先生と同じで、基準を引き上げるべきであるということになりますが、ただ、現在の制度というものがメリットがないわけではなくて、開放制で基準を低くしておけば大ぜい教員になれるわけでありまして、その中には、たまには二年しか短大でやらないけれどもいい者もあるわけでありまして、そういうメリットがないわけではありません。これは採用のときにしぼられますので、全く悪いことばかりじゃないということで、現状のとおりになっておりますし、短期大学ではこの基準を引き上げることに絶対に反対をしておることも事実でございます。  それから、実習の問題でございますが、これもお答えしなくていいことかもしれませんが、私は試補制度を主張しておりまして、実習を二週間を四週間にするとかということでは解決いたしません。私は、教員になって数年たってやっと一人前の教員になったという感じを持ったという、そういった実感がございますので、入ってから、先生になってから本当の修業が始まるということでございますので、実習が、非常にいま制度が悪くて困っておりますけれども、実習ということでなくて、就職してから試補制度を半年ないし一年やる。それじゃ教員がたんと要るじゃないかということになるかもしれませんが、われわれが子供のころは、校長、教頭で、教頭は、人前の仕事をして、校長は事務職員もおらずに学校をやっていたわけです。現在は、校長、教頭——教頭も十時間ぐらいしかしておりません。だから校長、教頭も学級担任をして、半年なり、一年なりそうして、その下に試補制度の教員を置けばできないわけじゃないんで、金がかからなくて試補制度ができると思うんです。こういうことで、実習ということよりも試補制度の実施ということに私は重点を置いて実習問題は解決したい、こういう私見を持っております。
  67. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) まず第一の御質問でございますけれども、御承知のように、国立大学協会と申しますのは、自主性を持った各大学の連絡組織でありますから、国立大学協会がある限定された狭い意味の、一つの何らかの理念を協会として持っておるというわけではございません。しかしながら、従来国大協で報告をしてまいりました教員養成に関する報告書の趣旨と今回の大学の問題との関連はどうかということになりますと、それはかかってこれからできる大学の性格、運用いかんの問題であるというふうに私ども理解をいたします。  私どもは、ことに昭和四十九年の五月ごろであると思いますが、新しい教員のための大学院学部に関する調査会でまとめられました構想範囲においては、この大学は私どもが議論の対象にし、その経過によって受容できるものであるという認識に到達をしておったのでございます。  第二の御質問でございますが、したがって、国立大学協会は当初から、この大学に反対をするという意思を表明し、あるいはまとめたことはございません。むしろ、先ほど私が申し上げましたように、この種の大学が、真にわが国の教員養成制度全体のネットワークの整合性の中で、既存の大学調和しながら、国民のため、社会のために役立つ大学になってほしい、そのためには、私どもはこの大学を突き放さないで、むしろ話し合いの場に入ってもらいたいということを批判を通して表明をし、また、今日まで特別委員会中心に国大協はその努力を続けてまいったというふうに理解をいたしております。そうして、その結果、かつていろいろこの大学の具体化以前に構想された疑問点について、いろいろ話し合いが行われた結果、大部分のものについて了解ができたという認識に、現在の国立大学協会委員会は立っておるということを私は承知しておるわけでございます。  具体的に御質問がありましたのは、入学の問題でございますが、これは先ほど私が批判的な条項の中で申し上げましたように、この入学に関して特別な推薦の条件というものをもし付するようであるならば、これは確かに大変な問題であろうというふうに思います。しかし、その後、私どもが承っておりますところでは、他の一般大学大学院あるいは研究生等に入学する場合と基本的に同一の手続、これは教員でなくても、どの職場にある人でも、大学院あるいは研究生として大学に受け入れる場合には、職場の関係がありますから、その職場の関係の責任者の承認を得るということが、これは学業を実際的に成立せしめるための必要条件として、各大学はそれを要求しておるわけでございますが、それから外れないという御趣旨でありましたから、それならば私どもとしては了解ができるというふうに考えております。  私は、私見でございますけれども、万一この新しい大学が、そういう一般的なルールを外れた特別の入学資格というものを付与するようなことをやるとすれば、それは、結局、この大学が教員の現職教育にこたえ、新しい教員の資質を向上せしめようとする本来の目的に対して、むしろ結果として阻害的に働く可能性こそあれ、決してプラスにはなっていかない、むしろ教員の現職教育全体を振興するという立場で、例外的ではなく、この大学教育内容と個性において寄与するという点に、この大学の性格を認めるべきであって、手続上特別の立場をとらないということはけだし当然ではないか。それがひいて教員の現職教育を大幅に発展せしめていくところの基本的なポイントである、その点は現在の準備室もあるいは文部省も了解をしておるというふうに私個人理解をしております。
  68. 勝又武一

    ○勝又武一君 社会党の勝又であります。  私、与えられた時間が非常に少ないものですからきわめて簡単にお伺いいたしますので、お教えの方もできるだけ簡潔にお願いをいたします。  最初に、太田先生にお願いをいたしますが、先ほど来お伺いをいたしておりまして、諸先生方のお話の中で、既設の教育学部の発展の方向、あるいは一般大学発展という方向の中で十分考えられ得る、そうしてまた既設の大学大学院の設立等をできるだけ努力をしていく、こういう大筋の御意見の方が多いように私は拝見をいたします。そこで、なぜこの教員大学をつくらなくてはいけないのかという、より積極的な理由がわからないわけでありまして、太田先生がこういう理由があるんだと、どうしてもこの理由によって教員大学はつくるべきだというような点がございましたら、ひとつお教えをいただきたいと思います。  それから、二つ目は長尾先生でありますが、積極的な教員大学設立の御意見の中で、これは衆議院の中でも拝見をしているのでありますが、実地研修あるいは実地に役立つ教育技術、こういうことをよりやるのが教員大学なんだという積極的な御意見を吐かれていらっしゃる方がございました。私は先生先ほどの能率主義等のお話を承りながら、やはりそういう教員大学でそのことをやるよりは、むしろいままでの戦後二十数年間持ちこたえてまいりました教育学部における発展の方向なり、あるいは一般大学における基礎的な基本的な学習、そういうものをより積極的にやる中で、言われています実地研修なり、あるいは教育技術というような問題については、教育実習なり、そういうものをいまの二週間、四週間ということでなくて、むしろやはり半年なり、一年なり、免許法の改正なり、いろんな問題も含むでありましょうけれども、むしろそういう方向こそ志向すべきだという意見がありますが、先生はこの点についてはどういうようにお考えになられますか、お教えをいただきたいと思います。  最後に、これは非常に簡単な問題でありますが、飯島先生にお願いしますが、先ほど先生のお話の中で、たしか一月二十日の須田委員長の見解表明は、私がちょっと聞いていました範囲では、何か特別委員会でその点が了承され、決定されたというように聞き及んでいるというような向きの先生のお話がありました。新聞紙上等でもありましたが、あれは須田委員長の私的な見解だという点が再三報道されておりましたが、その点はそうだったように思いますが、いかがなんでしょうか。  以上であります。
  69. 太田善麿

    参考人(太田善麿君) 教員大学をつくるべき積極的理由としては、どんなことを考えておるかという御質問でございますが、私どもといたしましては、この受けとめ方といたしまして、まず、一般的に義務教育教員を中心として考えましても、現在、高度の教職者としての資質、能力、そういうものが要求されておるということ、これは申すまでもございませんが、一方、現職の教員の方々の中に、そういう研究、研さんという方向に向けての意思が非常に高まってきている。地方の一部で行われましたような調査などを拝見いたしましても、そういうようなことがやはりあらわれておる。そういう意思をこの段階で——この段階でと申しますか、なるべく機を失しないで生かすと、こういうことが大事であるし、それから一方、教員養成に当たっております立場から申しましても、現職の先生方が、そういう意気込みで実際に研修を積み上げておるというような実際的な取り組みが現にあるということが、非常に教員養成の面から申しましても望ましい要素として考えられる。そういうようなことを考えまして、これがいまの段階で構想されるということについて、広く理解を持っておるということでございます。
  70. 長尾十三二

    参考人(長尾十三二君) 二つ御質問があったと思いますけれども、現在ある教育大学大学院を充実する方向で考える方が望ましいのではないかということにつきましては、全くおっしゃるとおりでございます。で、新しい大学院が設けられるということによって、私はかえって自由に、どこの大学に行っても研修できるといったような可能性がかえって薄らいでいってしまう。そういうことはないか。そんなことを私は心配をしております。  それから実習につきましては、これはおっしゃいましたように、現在のような体制よりは、むしろ卒業してから、採用した都道府県教育委員会の責任で、半年ないし一年間の実習を行うという形の方が、より望ましいというふうに考えております。ただし、それが巷間伝えられますように、試補制度というものが悪用されると、思想的な差別の機会にされるというようなことがあってはならないことはもちろんでございますけれども、これは先ほど飯島先生のお話もありましたように、そういうことがあれば、かえって教育家にとって大きなマイナスになるということであろうと思います。
  71. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 御質問の趣旨でございますが、先ほど申し上げましたように、私現在、国大協を離れておりますが、ただ楽屋話をするようで申しわけないのですが、現委員長と前委員長とで余りお互いに食い違った話をしては申しわけないと思いまして、須田委員長に私はお会いしてその点を確かめました。その結果、須田さんの衆議院でのお話の時点では、まだ形式上、特別委員会の完全な承認の時期がおくれておったので、個人的見解という形で表明をしたけれども、その後特別委員会を開催されて、須田委員長の御見解を特別委員会として了承したということを伺いました。  以上でございます。
  72. 世耕政隆

    世耕政隆君 私は簡単にいろいろ教えていただきたいと思いますので、お聞きしたいと思います。ごく簡単に御答弁をいただければ結構だと思います。  教育というのは永遠の問題でございまして、これでいいということは多分ないだろうと思います。私は、こういうふうに教員関係大学院が新しくできてくるというのも、実は教師自体が多分、もとより人間ですから完璧、完全ではないので、恐らく生徒を教えていながら、自分が完璧でないために、これで自分は、その指導者たるの資格があるかどうか、教師たるの資格があるかどうか、こういういろいろな自責の念があると思うのであります。あるいは大変自信満々でもって、自分の教えていること、いわゆる自分の人格が絶対であって、自分の教えていることにまるっきり間違いがなくて絶対である、こういう確信を持っている教師もおられるかもしれませんが、私は教師も人間である以上は、日夜そういう責務にさいなまれているに違いない。それで、もっと向上しようというので、だんだん大学院とか、そういうものが考え出されてくる。これは教師の側からも考えられてくるし、いろんな大学側からも考えられてくる。この教師の免状というのは、学校に行けば取れる。あるカリキュラムをとれば取れてしまう。それから文部省も与える、こういうことだと思う。ところが、それ以上のものがもう一つ教師にあるんだろうと思うんで、先ほど小尾参考人が大変際どい、一番ポイントを言われておられたんですが、教師は使命感がなければいけない、情熱がなければいけない、使命感というのは人間以上から与えられる、こういうことをおっしゃいました。これは共産党の聖なる職務というような考え方にちょっと近いかなあと思っているんですが、この点をもう一度お聞きしたいと思うわけでございます。簡単で結構でございます。  もう一つ、長尾参考人がおっしゃっておられましたが、教育学の分野ではどうしても教育技術に対するいろんな傾向が重くかかってくる、そのために効率主義、能率主義、そういったものに傾きがちであるというふうにおっしゃっておられました。そうすると、私はそれもよくわかるし、教育の場合は教育伝達技術と、もう一つはやっぱり教師の人格とか、考え方から発するいろんな教化の問題がいろいろあると思うんでございますが、つまり大学院、教員大学、いろんなものができてくる、新しい構想ができてくる、そうすると教師が仮に大学院へ行けば資格が与えられるとか与えられないとか、そういう問題を抜きにして、教師が自分の仕事の畑で一番理想に描いているあこがれというのは一体どういうものだろうか。一つや二つじゃないかもしれません。どういうものであろうか。これをちょっとひとつ現場の御関係の方からお伺いしたいと思うわけでございます。これによっていろんな今後の大学院のあり方とか、教育関係の教員養成大学のあり方というのは変わってくる。  それから飯島参考人にちょっとお伺いしたいと思うんでございますが、仮に国立大学教育学部がおありで、教育学をやっておられる、それから私立大学にもいわゆる教員養成講座がありまして、そうすると、つまり教育学というのは、広い意味でいきますと、仮に従来の既設の教育関係大学院で、教育学に関する研究をする、そういういろんなことがあると思うんですが、つまり教育というのは、やっているテーマが実際に自分の現場の教師の活動に非常にプラスになって、りっぱな教育内容になり、りっぱな教師がそこででき上がり、りっぱな生徒が、つまりすぐれた人格の人間をつくっていく、そういう現場に直接結びついていく、つまり教育大学大学院でなきゃならないし、そういった意味教育学でなければならないと思うんでございますが、実際に大学院で勉強をした者が、現場の自分の職務の上でどれだけプラスになっていくか、こういうことをちょっと参考までにお聞かせ願いたいと思うわけであります。簡単で結構でございます。
  73. 小尾乕雄

    参考人(小尾乕雄君) 聖職というのは本来宗教家に言われた言葉でございますので、そういう宗教家が自分を全部捨てて奉仕するというふうなことを教師に望むことは無理であるという意味で聖職否定論があるわけでございます。その点では私も同感でございまして、日教組が反対するのは十分理解できます。しかし、これは教師が奉仕的な職業であるということは間違いないことであります。それがなければとても教師の仕事は勤まりませんので、その点において私は聖職的という言葉を使っております。使命感ということになりますと、これは聖職には直結いたしません。政治家の諸先生方も教師以上の使命感をお持ちと思いますが、しかし政治家のことを聖職とは申しませんで、使命感から聖職ということは出てこないと私は考えます。
  74. 長尾十三二

    参考人(長尾十三二君) 御質問意味が十分にとらえられないところがございましたけれども、私はこんなふうにお答えするしかないと思います。教師の向上意欲というものは、確かに自分の教師としての専門的な能力を高めていきたいと、これは当然のことであろうと思います。いい教師になってやりたい、子供たちのために。ただし、そういうふうに考えたからといって、いい教師になれるという保証は全くございませんので、御本人の使命感だけが一人歩きいたしますと、教師としてはかえって望ましくないということになっているケースは決して少なくないと私は思います。しかしながら、それが大学院に入ったから、確かに教育についての理論的な修練あるいは技術的な修練というものはある程度そこで果たせるかもしれませんけれども、それまでその教師が持っておった教職に対する意欲というものが一層強まるかどうかということは、これは大学院に期待しても大学院の先生方の人柄の問題でございますので、そのまま大学院を設けたから、それが一層よくなるであろうということにはつながるはずはないと思います。ただ、私は大学の教師といたしまして、大学の教師も大学院の教師も、教育者としての自覚をもっと持つべきであるということについては、小・中・高等学校先生だけが現場の先生であって、大学の教師は現場の教師ではないといったような、そういう考え方をする人も少なくないということについては、これは大いに反省をしなければいけないことである、そんなふうに考えております。
  75. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 私への御質問も大変むずかしい御質問でありますが、私は大学関係する者として、一般論としては、勉強というものはすればするほど必ず何らかの役に立つものであって、勉強をしない状態に比べてプラスである、これはもう大学におる者の信念でございます。ただ具体的な問題といたしましては二つの側面があります。一つは、大学院といって考えられているものの研究内容、あるいは勉強の内容というものは一体どういうものであるか。これは先ほどアカデミズムと技術というお話が出ましたけれども、非常に狭く古典的に深く考えるという側面もありますけれども、最近における大学院の世界的な動向は、それと同時に、医師で申しますと、いわば臨床的な勉強を深める意味での大学院の機能というものを見直されておりますし、私どもは今度の大学に限らず、大学全体として大学院の学問内容というものをもう少し豊富にしていく必要があるだろう。それから一方では、私は教職の現場に深く通じている者ではありませんけれども、恐らく教職の中における知識、あるいは学問技術範囲というものは、これは恐ろしく広いものであろう。たとえば物理学、数学ということについて深く通ずるということも一つの力でありましょうけれども、また歴史的感覚に通ずるということも一つの力でありましょう。あるいは人を知るということも一つの力でありましょう。つまり、大学院を終えて、受用する側の現場というものの学問に対する必要性の幅というものは、私の理解ではかなり広いものである。その広い現場の幅と大学で与える弾力的な広い大学教育というものとが将来の形においてマッチしていくということが一番望ましい。その意味で私は私ども大学にも今後大学院をつくっていきたいと思いますし、そこで勉強してもらえることが必ず役に立つというものでなければ、これは大学なんか初めからつくらない方がよろしいというふうに思っております。
  76. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 最初に飯島先生並びに長尾先生にお伺いをしたいわけでございます。特に飯島先生は、今日国大協が何回かにわたって意見を発表してきたその全期間にわたって直接手がけてこられたわけであります。ここで国大協の方で指摘をされました三つ問題点というのは、広く有識者が憂慮深く見守っておる問題の中心をなしていると思うわけでありますが、確かにその露骨な上下関係が、既設大学と新しい大学との上で直ちに発生するかどうかというような点では、幾らかの手直しがあったかと思いますし、修了者の優遇の問題につきましても、恐らく教育委員会は自分の人事裁量でやるでしょうけれども、文部省としては直接にこのことをうたったり、法的な措置をしたり規則制定をしたりしてないという点はございますけれども、一番基本になる、入学に当たる任命権者の特別な推薦という問題については、恐らく先生方が初期の段階にこれを検討されたところと今日との間において、なお国民全般としては納得をできるような答弁を聞き得ていないのでありますけれども、これについて須田先生初め、現時点で何か特別の歯どめをとられたのかどうか。これについて聞き及んでおられるのかどうか。この点について、私はいま引き続いてその問題についてはなお大きな疑点として見守らなくちゃならぬ問題があるんじゃなかろうかと思うわけですけれども、この一点をお伺いをするわけであります。この点が処置されなければ教員の人事手段、人事行政の手段と化すという危険はかなり露骨に残っていると見なければならぬ。また、現職の教員として修士が現場に帰ってくるのがあるというのがありますけれども、現場と申しましても指導主事あり、教頭あり、さまざまでございますから、やっぱりこの目的にうたわれておる指導的な教員の養成というものと相まって考えられるなら、この点についてもさらに深く設置を前にしてただしておく必要があるのではなかろうかと思うわけであります。これ、お二人の先生にお伺いをしておきたい。  それからもう一つ、新構想内容の問題ですけれども、これも大学協会の文書によれば、専攻分野内容についてながめてみれば別段の他意はないと、既設のものも新しいものもそんなに変わったものは見当たらないし、カリキュラム、教育方法等についても、幾らか違う部分があるが、むしろ陳腐であって問題が多いというふうに、かなり手厳しく批判もされておるわけでありますけれども、これについてその後新しく見解を持たれるような点があるのか、この問題はそのまま懸念として残っておるのか、この点についてお伺いをしておきたいと思うわけであります。  それから飯島先生と長尾先生にお伺いをするわけですが、特に長尾先生には教育教育という概念で努力が進められておる、このことを生かされなければならぬということを御意見としていただいておるわけですけれども、現在の既設大学の修士課程の大学院は、それはアカデミズム志向型というふうに、定着の方向をたどっておるというふうに見られるのか、大体これが教育教育という方法で、現時点での諸科学の発達結果を反映しておる状況にあると見ておられるのか、その辺のところについての現実分析を少しいただいておきたいと思います。  それから実学主義志向というのが、特にカリキュラムと入学試験の中で慎重にされなければならぬ問題だというふうにも述べられたわけでありますが、これについては少しく具体例を挙げてやや具体的に御説明をいただきたいと思うわけでございます。  時間もございませんので、一遍に言ってしまいますが、太田先生にお伺いしたい点がございます。  東京の学芸大学は、昭和四十一年三月十一日に出されました「教員養成大学設置される大学院に関する審査方針について」、この中で、同年に設置をされたものであって、「大学院の目的・性格等について」は「義務教育諸学校の指導的立場に立ちうる者」、まさに現場の現職の教員研修の場としてこの修士課程の大学院が設置をされたというふうに承知をしておるわけでございますが、この点については、少なくとも目的については新設の大学についても全く変わりない姿で、少なくとも文部省の答弁を聞いても変わりない姿で設置されておる。にもかかわらず、このたびについてだけは特別にこれの受験者に対して、一般的にではなくして、特別に現職としての保障が求められ、これに対するペイも準備されるかに説明をされておるわけでありますが、この点について当然平等の取り扱いを要求される権利があるんじゃなかろうかと思うのですけれども、その点について、ひとつ明確にお答えをいただきたい。先ほど宮之原委員質問にもあったわけですけれども、主として佐野局長等の答弁によれば、期待をしておったけれども、東京も大阪もとんと現職教員に熱心でない、初めは少し入ってきても実際には学部から上がった者に押されてしまって、現職の者を収容していないんだから、新たな段階の大学の方に期待するというような筋の答弁が出てきておるわけです。一体こういう事情であったのか、この点について特にお伺いをしておきたいと思います。
  77. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) いま御質問の、まず第一の入学資格の問題でございますが、国大協と、それから文部省の関係者、あるいは準備室の関係者との話し合いというのは、一種の懇談あるいは意見交換というレベルの問題でございまして、国大協が文部省に対して歯どめをかけられるというふうなことができれば、それは大変愉快でありますが、しかし、そういう性質の話し合いではございませんので、たとえば、公式的な意味での歯どめとか、あるいは協定というものがあるわけではございません。  それで、入学資格の問題については依然として問題が残るのではないかという御指摘は、先ほどの宮之原先生の御質問に対して一部私はすでにお答えしたように思いますけれども、私どもが懸念いたしました根本は、これは大学の立場で大学の入学者の選定というものは、これは基本的には大学の責任であるから、したがって、その大学の主体性というものを十分に認めてもらえなければ、これは大学として不完全ではないかという議論が一番の根本でございます。その点については、他の大学院あるいは研究科の入学におけると同様に扱うということで、私どもは現在理解しているわけでございます。  それから今度は、それ以前の任命権者あるいは教育委員会教育現場での問題というのは、これはむしろ大学の側の問題ではなくて、それぞれの地域における教員行政あるいは教育行政にかかわる問題であると思いますが、私どもは、それは結局のところ、先生方にどういうふうに働いていただき、あるいは先生方にどういうふうに勉強していただくかという問題は、市民、住民、地域社会を含めて、そういう全体的な機構の中で、教育委員会がそれを制度として代行し、あるいはそれぞれの学校の管理者がそれを代行していくという形のものでありますから、したがって、今後の成り行きについては、私はやはりこれは国民ないしは市民の問題として十分に見守って、そして最もいい形で教育現場の先生方に勉強をしていただくという方途を確立をしていかなければならない。これは、ただこの新しい大学にかかわるだけの問題ではなくて、先ほどから繰り返して申しておりますように、教員の現職教育ということを今後振興していこうとすれば、基本的にはどうしても解決をお互いにしなければならない問題であるというふうに理解をしております。  それから、当時、専門分野カリキュラムについて、伝えられるところの新構想大学は何にも新しいところを感じさせないではないかという批判を国立大学協会がいたしましたが、これは実は、この課題自体が私ども国立大学の教員養成学部に関係している者として、実に切実な課題でありまして、先ほどもちょっと申し上げましたけれども、特に小学校の先生を育てるカリキュラムは一体どうしたらいいのかということで、各大学ともいわば悩みに悩んで、そして、それにかかわる制度、対策等についても悩んでおると、もし新構想ということでそういう悩みに一つの方途が与えられるような提案がなされておるならば、私どもはそれを欣然として評価したいと思ったわけでありますけれども、それが当時の段階では余りはっきり出ておらないということに対する、したがって、内部的な私どもの問題意識も含めた批判であったわけでございます。率直に申して、この問題は、先ほど申しましたように、基本的には大学成立後、大学教官団がそれを創造していくことになるだろうと思いますけれども、そこにどれだけの可能性があり得るかということについては、私どもも決して安心をする、あるいはいたずらに期待をしているわけではございません。ただ、そういう状況であればこそ、私どもとしては新大学教官団をいわば孤立せしめないで、私どもの共同の勉強、共同の研究あるいは共同の新しい教育体制の確立ということの体制の中で、お互いに苦労をしながら新しいものをつくっていくという立場に、ぜひその新しい大学教官団の方々も入っていただきたいという趣旨が、国大協が現在までおつき合いを申し上げている根本的な理由であるというふうに思います。
  78. 長尾十三二

    参考人(長尾十三二君) 入学の資格の問題につきましては、これまで申し上げた以上に申し上げることはございません。つまりそれは、先ほども触れましたように、確かに小学校と中学校とでは多少事情が違うであろうと。特定の教科の教員だけが集中して大学院に進むというような事情が起これば、これは教員の補充において困るわけですから、何らかのコントロールということを考えるという必要はやっぱり起こってくるのではないだろうかと。ただし、それが教育委員会の意図的な操作で行われては、これは教育界にとって非常に不幸なことになるというそういう事情があるということは考えておかなければいけないだろうということでございます。しかしそれが悪用されないという保証については私まだ聞いておりませんので、一般的な大学における推薦制度以上のことは考えないという御発言を信頼申し上げるしかないということでございます。  それからカリキュラムについてでございますけれども、これは教育教育という、あるいは先生方に耳なれないことを申し上げたかもしれませんけれども、医学教育、法学教育という用語はかなり熟しているのではないかと思いますけれども教育の理論や実際を学習させて、そうすることによって教育の意義というものを広く深く理解させるとともに、その理解に基づいて教育の仕事を聡明に遂行する意思と能力を身につけさせるような教育と、そんなふうに私たち考えておるわけでございますけれども、これが現在宮城教育大学その他の事例が非常に有名でございますけれども、学部段階の教育教育のカリキュラムを組み上げるということに現在精いっぱいなんですね。そして四年間ではやっぱりそれは十分できないと、もうちょっと期間を延ばして、本格的な教師教育をやっていかなければならないということで、現在研究が進められておると、その成果というものはもう事柄が教育にかかわるごとでございますから、こういうふうにしたらこうなるということはすぐ結果として出てくるわけではございません。これは非常にむずかしいことでございますけれども、そういう努力幾つかの大学が積み重ねて、学部段階からさらに大学院へと、カリキュラムの改良に努めている、そういう成果というものが生かされなければならないということを申し上げたわけであります。  実際に大学を離れて、斎藤喜博先生その他大ぜいの熱心な教師を集めて研究を進めておられる方もありますし、私たちはこういう努力というものに期待をしていきたいということを考えております。ただし、それが近い将来にこういう成果を上げることができるからというふうにはっきりした形で申し上げることはこれはできないだろうと思うんです。しかし、教員大学院というのが設けられたならば、その方向についてはっきり前進できるであろうかと言われますと、現在存在する教育大学の学部のカリキュラムからさらに大学院のカリキュラムを組み上げている段階で、大学院を主体とするような教員大学院のカリキュラムが十分に組めるという自信はちょっと私は持ち得ないように思います。  また、既存の大学院が現職教員の受け入れに適さないのではないか、あるいは不熱心ではないかというふうなお話がございました。それは確かに既存の教育大学の修士課程にはアカデミズム志向というものがあると思います。それは私が教育大学に在職をしておりました当時、東京学芸大学、あるいは大阪教育大学、あるいはその他の教育大学から、やはり東京教育大学大学院へ進むことによって、よりアカデミックな研究ができるのではないかというふうに考えて進学してくる学生が非常に多かった。それに対して彼らを送り出した学部の先生方は、自分たちだってできるはずだと、りっぱな大学院をつくることができるはずだということで、熱心に大学設置努力を続けてこられた。そういう努力が私は先ほどお話ししました教育教育研究努力と結びついて、成果を上げることに期待をしていきたい。ただし、アカデミズム志向ということになっておりますのは、これはほかの学問との関係がございまして、たとえば教科教育の領域で申しますならば、国語学教育であれば、国語、国文の専攻領域と国語科教育大学院は一体どういうふうに関係するのかというような問題がいつも出てまいりますものですから、そこで先生方は非常に苦慮をしておられる。やはりアカデミズム志向ということでありませんと、大学院にふさわしくないという考え方がございます。しかしそういう考え方で果たしてよろしいのかどうかということになりますと、先ほどもお話がございましたように、やはり教育字という学問の性質上、プラクティカルな成果というものは目指さなければならない。しかしそれを上げるためにはどうしたらいいかということについての十分に人々を納得させるだけのカリキュラム構成が現在ではまだでき上がっていない。そういう状況で一挙に新しい大学院に期待をかけるということは冒険であるように私には思われる、こういうことでございます。
  79. 太田善麿

    参考人(太田善麿君) 御指摘のように、東京学芸大学大学院が設置されました昭和四十一年、それは審査方針によりまして義務教育の指導的な立場に立ち得る者を養成するという趣旨をもってこれは設置されたわけでございます。東京学芸のその大学院規程の第一条には「学部における一般的並びに専門的教養の基礎のうえに広い視野に立って精深な学識を修め、理論と応用の研究能力及び教育実践の場における教育研究の推進者となる能力を養うことを目的とする。」と規定してございます。実際に修士論文をまとめるにつきましては、これは内規でございますけれども、その論文には教育の実験的、実証的な内容を含むということも要求しております。しかし、実際の問題といたしまして、設置当初数年間というものは、世の中の一般大学院通念によりまして、学生の選抜も大学院基準というその本学独自の基準というものが簡単に編み出されませんでしたものですから、外国語も二ヵ国語を課し、相当の水準を要求しておったというようなことがございまして、やはり選抜の段階で、学生の構成が決まっていったというような経過がございました。  それから、また一方、それと表裏する問題でございますが、教員の側におきましてもやはり世の、大学院通念というものに影響されるところが大きく、義務教育の指導的立場に立つ者を、どのようにして養成するかというその課題の追求が非常に緩慢であったという事実はございます。ただ、その後学生の選抜につきましても、いろいろ工夫を加えることもございまして、それから再三にわたりまして現職者の研究についての場という、その要素も充実しようではないかということが論ぜられまして、そちらに向けての配慮を加えておるというのが実情でございまして、現在そういう新しく教員養成系の大学院としての実体をここに生み出そうという、そういう努力が重ねられておるというのが実情でございます。ただ、見通しといたしまして、それでは現職者の入学を優先的に、そのうちのどれだけと、——相当部分というようなことになるという見通しはもちろんございませんで、教師教育という中で、新卒の、新しい学部卒の学生と、それから現職の教員である学生と、これをあわせて相互によい影響を与えながら研究を続けるという態勢をとるということで現在進めておるわけでございます。
  80. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 最後に小尾先生に一言お伺いいたします。  大変情熱的に明治以来の日本教育立国型の政策について意見の開陳をいただいたわけでありますが、やっぱり明治から今日までを振り返ってくれば、これはああいう黄金の日々のような一つの高度成長時代、これは成長した側面と、同時に今日から見て繰り返してはならない、やっぱり欠陥なり、暗黒面を両方兼ねていたというふうな点を落とさずに見ていかなくちゃならぬのじゃなかろうか。それから、特に昭和二十年以降日本国民を見舞ったああいうシチュエーションのもとに、今日の教育の基本が打ち立てられておりますけれども、これはやっぱり振り返っていくときに、明治に返ると同時にあそこでとまらなければならぬ原点ではなかろうかと、そういう点についての御意見の開陳がなかったわけでありますが、使命感ということについて言えば、やっぱり今日の教育者が何よりも使命を感じなければならぬのは、子供の発達について教師が使命感を持つということであって、この点は国家教育権などと抽象的な一つ教育の外部の方にあるところで使命感を持ちますというと、制度的には十二年制義務教育というような、ドイツのナチスのもとにあったような教育が必ずしも教育の効果を正しく上げなかったというような悪しき例もあるのではなかろうか、こういう点について教育の原点というのは、成長時代として明治を思い出すとともに、常に憲法、教育基本法をおいたこの時点というのを小尾先生、思い出さなくちゃならぬのじゃないのでしょうか、いかがですか。
  81. 小尾乕雄

    参考人(小尾乕雄君) 大変これは長い話をしないとならぬと思うわけでございますが、私は大正から昭和の初めにかけて学校時代を送りました。大正デモクラシーの時代でございまして、この時代は大変自由な時代でございまして、いまと根幹的には同じだというふうな感じを持っております、率直に。ただ軍国主義になりましてからは、大変窮屈になりましたことは事実でございますけれども、いまの個人尊重の教育の欠陥は、国家権力に対して非常にこれは排除するというふうな、そういう強い傾向がございまして、これは間違っていると思っております。例はたくさんございますが、そういうことで、もうちょっと時間をかけて個人尊重の教育というのを、個人主義というものの正しい理解、それからまた個人のない国、国民のない国はないわけでございますし、国家主義と個人主義との調和のとれた穏健な考え方というものを指導していかなきゃならぬ、こう思っております。
  82. 有田一寿

    ○有田一寿君 先ほどからいろいろ参考人方々の御意見を伺っておりまして、実は正直なところ、私もわからないわけです。もちろんいまからつくる大学のことですから、こうだというはっきりした肯定判断があり得るはずはないと思いますけれども、やはり諸先生方の頭の中にもいろいろな意味の迷いがある、それは当然だろうと思いますが、実は私も非常にわからないわけでございまして、初歩的なことを一、二教えていただきたいということでお尋ねをいたします。  長尾先生には、教育学は実学的な能率主義に走りやすい傾向を持っている、それが今度の教員養成大学の場合にどういう作用を及ぼすか、懸念があるような意味のお話でございました。学問大学院できわめると——きわめるといっても完全にきわめるわけではありませんが、学問を深めるという場合に、大学教授になる、高校、もしくは中学の単科担当の先生になる場合と、オールラウンドの小学校の先生になる場合と、当然やはりその学問のきわめ方というものは、そこに深浅の差があってもいいのではないか、そういうことであれば、いま御懸念の教育学が実学的であるということは、私は今後できるこの教員養成大学については余り心配が要らないのではなかろうか、たとえば教授法に重点が置かれてもいいのではないかという感じがいたしますが、そこら辺はいかがでしょうか。ドイツ的な観念論からきたいわゆる教育哲学というのが、戦前は教育学の主流をなしておったように思いますけれども、戦後は特にアメリカの実在論的な、あるいはデューイの教育学、そういう教育思想が日本に入ってきた、そして骨格をつくったように思うのですが、これは当然実学的であるし、技術的、能率的であろうかと思いますが、これはどんなに憂えてみても、私が思いますのは、教育学そのものが積極的な意味で主体的な学問であるのかどうか、実は私は疑っているわけです。寄せ集めのまあ学問といわば学問ということではなかろうかと、だから、どんなにこれ気張ってみても、教育学の行き着く先は大したことはないんじゃないかというような感じがしてならないわけです。それに対しての御見解を伺いたい。  それと、これはほかの参考人方々にもお伺いしたいことですけれども、名前ですね。仮に、これをつくるとした場合に、教員大学という以外に何かもうちょっとふさわしい——ふさわしいというか、何か名前はないだろうかと、私ども考えてみたんですが思いつきませんが、ありましたら、御説明は要りません、名前だけをおっしゃってみていただきたい、これはもう真剣な実はことでお尋ねをしているわけです。  それから、これは小尾先生にお尋ねしますが、まあいろいろ小尾先生の御主張、人生観等、私も多少承知しているつもりでございますから、別に改まって質問するという意味ではありませんけれども、私はこう考えているんですが、どうでしょうか。  学校の先生は、えてして閉鎖社会的になりやすい。これは先ほどお話ございましたように、明治初年に師範学校ができて、富国強兵という国策とともに育ち、しかし、日本の背骨を形づくったという大きな功績が師範学校にはあると思うんです。ただ、師範タイプと言われたように、どちらかというと職業観に徹しております。しかしながら、裏から言えば、これは多少妥協性がなく、視野がどちらかと言えば狭く、目的意識ははっきりしているけれども、ここまでおいで式の臭みが出ると、これがいわゆる師範タイプという言葉で呼ばれましたですね。いま国際化されるこの自由主義社会を迎えて、今後望ましい日本人像、言いかえれば望ましい教師像というものはどういうものであろうか考えるときに、次にできるこの大学が、師範学校の延長線上にあるようなことでない方がいいのではなかろうか。だとすると、どういうふうにこれを拡幅することが可能であろうかというようなことが、私も迷いとしてあるわけですね、どちらがいいとも言えませんけれども。だから、一長一短だと思うんです。しかし、その短をのけて、長を少しでも多くしたいということです。  それから、飯島先生にお伺いしたいのは、教員を養成するのは総合大学で行った方がいいというふうに実は私は考え続けてきた一人なんです。まあ職業観がはっきりするとか、いろいろな長所がありますけれども、またその反面、でき得べくんば、総合大学の中で多くの種類の違った、専攻の違った友人を持ちながら、そこから教壇に出ていくことが、将来やわらかな人間性を持ち、父兄や子供にもよい影響を与える面が多いのではないか。どうしても型にはめられた、いわゆる教育大学、言いかえれば師範学校的な型にはまったならば、これはどうもまずい面が出てくるのじゃないかというような不安感があるものですから、そういうふうに思ったわけです。先ほどからお伺いしましたら、教員養成大学の方は幾らか大学院が受け入れるということのようですが、他の総合大学は現職教育を受け持つことを好まないと、また、制度的になかなかむずかしいということですが、これはやはり希望がないのでしょうか、それとも、やればできるというふうのことでしょうか。あるいはそれとも目的大学の方に入れて、そこで職業人としての専門家である教師を養成した方がより望ましいとお考えでありましょうか。そこら辺のところを伺いたい。  それから、もう一つ、教職について三年以上ということですが、これ五年以上ということではどうだろうか、あるいは先ほどちょっとお話が出ておったようですが、私も、三年よりも五年ないし七年後入学資格ができるとした方がいいのではないかという感じがするんですけれども、これは自信ありません。そこを教えていただきたい。  以上でございます。
  83. 長尾十三二

    参考人(長尾十三二君) まず御質問教育学という学問の性格と、それから、小・中学校の教師の養成の仕方に違いがあってもいいのではないかということでございますけれども、これは私は違いが当然あるべきだと考えております。ただし、現在のように、小学校一年から六年までの教師を同じような形で養成するということは望ましいかどうかということになりますと、これは国大協の方に一部あったようでございますけれども、むしろ小学校の低学年と幼稚園の教師とをこうひっくるめて養成するというような方法考えるということの方が望ましいのではないかということは考えております。  それから私の申し上げたのは、教育学が技術学的な性格を帯びているのでということを申しました。これは、私はそのことを全面的に否定しようというわけではありませんので、むしろ、技術学であるということの意味は十分にあるわけでございます。ですから、教授方法研究ということの必要というものは、大いに強調されなければならないということを決して私は否定しているわけではございません。そうではなくて、先ほどもちょっと申し上げましたように、教育学を単に技術学にとどめないで、教育という事柄をもっと社会事象として、客観的にとらえる学問というものが世紀末から進んできておる。それはいろいろな名前で呼ばれておりますけれども一般的に申しますと、教育科学という名前で呼ばれておるわけでございますけれども、そういう学問成果というものを、新しい大学院の中でも取り入れていくべきではないかという意味でございます。  それから、なお、教育学についての新しい考察というのは、何も社会科学的な考察だけではございませんので、精神科学の系譜を引く解釈学と呼ばれておりますけれども、そういう方向での教育の本質についての研究もあるわけでございます。そういうものをもう学問としてどうしようもないじゃないかというふうに言われますと、これは実績でもっておこたえするしかないわけでございますけれども技術学であるということを全面的に私は否定しようとしているのではない。そういう研究は大いに必要である。しかし、それがもし最初に申しましたように、目的や目標というものを固定的にとらえるような学問になってまいりますと、これは目的や目標を固定的にとらえ方が能率が上がるわけです。目的や目標を固定的にとらえるということも、場合によっては必要なこともあるかもしれませんけれども教育目的や目標を固定的にとらえて、それに向かって能率を上げていくということになりますと、人間の全体的な発達ということについて考えますと、そういうところから考えますと、非常にマイナスになる。外面的には成果が上がっているように見えるけれども、実際には人間の全体的な発達にとってはマイナスになっている。これは、たとえば入学試験を目的とするような、そのための能率を上げるような教授方法、教授方法の工夫というようなものを例に挙げてみてもよろしいのではないかと思いますけれども、特に、教科教育関係は、それぞれの教科の力をつけるということで、そのことだけにやはり集中をしてしまって、それが必要でないというわけではございませんけれども人間の全体的な形成ということについて見落としてしまう危険性がいつもある。それを補うためには、もっと広く、教育という事柄を客観的にとらえるような学問と合わせて学習をしていく、そういう場が保障されなくてはいけないのではないだろうかということを申しているわけでございまして、実学だからいけないというつもりは毛頭ございません。そういう研究は大いに必要であると考えております。もしそういたしませんと、これは私への質問ではございませんでしたけれども、師範学校の延長線上にあるような、そういう学校になってしまう危険が大いにあるということを考えております。  それから、私は教員養成はむしろ総合大学で行われる方が望ましいというふうに考えております。実際私は師範学校から高等師範学校を経て教員養成学校で教育を受けてきた人間でございます。けれどもその私がやっぱり教員養成は本来総合大学の中で教育諸科学についての研究をしっかりやらせる、そういうことが必要であるという立場をとっているということを申し上げたいと思います。  それから教員大学という名前はよくないと、何かいい名前はないかということでございますけれども、むしろ教育大学の方がいいのかもしれませんけれども教育大学という名前も国際的に申しますと非常にこれは不利でございます。現在ほかのヨーロッパの国々考えてみましても、たとえばドイツを例に挙げてみましても、私は東京教育大学に在職しておりますときにドイツに参りましたけれども、東京教育大学をどう訳すのかと、やっぱり向こうではペダゴーギッシェ・ホッホシューレというわけです。ペダゴーギッシェ・ホッホシューレ、——P・Hと申しますけれども、こう申しますとやっぱり格の低い大学なんですね、やっぱり実情は。私はもうあえて東京教育ウェフェルジテートであるというふうに言ってまいりましたけれども、ペダゴーギッシェ・ホッホシューレだと非常にやっぱり国際的にまずいですね。そういこうとを考えますと、教員大学よりは教育大学の方がいいのかもしれませんけれども、国際的にこれを翻訳をいたしますと非常に不利な名前であると。そういうことも含めて総合大学における教員養成の方が、実態から申しましても、名称から申しましても望ましい教員の養成に適しているのではないかと、そんなふうに考えております。
  84. 有田一寿

    ○有田一寿君 もう一つ、これが仮にできるとした場合に、あえてつけなければならないとした場合は何かありますか、いまおっしゃった以外に。思いつかれる名前。
  85. 長尾十三二

    参考人(長尾十三二君) それはございません。というのは、師範大学という名前もあるいはあるのかもしれませんけれども日本の場合師範学校という言葉を明治以来使ってまいりました。しかし、これに当たる外国語がございません。これは英語のノーマルスクールを訳した言葉でございますけれども、ノーマルスクールという英語は、これはエコールノルマルというフランス語を英語にしたものでございます。ところが、ノーマルスクールとか、エコールノルマル、まあドイツではレーラーゼミナールと申しますけれども、どちらにしても人の師表たるべき人間養成するという意味は全くございません。これはモデルスクールという意味でございますね。ですから、そういう名前も望ましくないということでございます。
  86. 太田善麿

    参考人(太田善麿君) 名称につきましては、特別に意見ございません。
  87. 小尾乕雄

    参考人(小尾乕雄君) 参考人意見にいろいろ意見を言うとまたいろいろ出てきますが、それは御遠慮申し上げまして、師範学校の延長線はおもしろくないじゃないかという御質問でございますが、師範学校にも非常にいいところと悪いところとございまして、いいところをまねして悪いところをまねしなきゃいいと思います。それが一つ。  昔の師範学校卒業生は非常に実技的に、たとえば音楽なんかよくできたんですね。それがいまの人はどうもそれができない。実技的な面は非常に弱いんです。そういうところはしっかりやるというふうな点は学ばなきゃならぬわけでございます。しかし、いまの世間の風潮から言って、師範学校のような人はできゃしませんよ、やろうと思っても、時代が違いますから。ですからまあ師範学校に少し学ぶような方に——そのとおりになりっこありませんからね、強く感ずるわけです。そっちに旗を上げたいわけでございます。まあテレビなんかしょっちゅうやってますから、そんな昔のようなかたい先生にはなりはしないというふうに考えるわけでございます。だから、心棒はやはり使命感に燃えた先生らしい先生と、そこに心棒を置いて、スケールの大きい、時代に適応していく教養の高い先生と、こういう順序になると思います。  それから名前ですけれども、実は教員大学というのは、私は余り好きじゃないんで、ちょっと字引を引いてみましたら、教員というのは、あれは明治時代にできた言葉で、官員さんと並んでできた言葉ですね。小説の用例などを見ますと、官員というのと教員というのと、特に教員についてはやゆ的に使っておりますね。ですから教師と教員と比べますと、どうも教員の方がちょっと職業的な、いわば聖職的でない感じがするので、私は教育大学の方がいいと思うんです。しかし、これは教育大学にすると何か困ることあるんでしょうかね、各県に。県の名前くっつけたら、それでもまだ重なるところがあるかどうか、それはよく知りませんが、ほかの名前は思いつきませんが、教員大学よりは教育大学の方がいいという感じでございます。
  88. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 教員養成を総合大学でやる方が望ましいのではないかという御質問でございますが、私も同感でございます。それで、教員の養成、私は医学でございますが、医師の養成等もできるだけ総合大学で行う方が望ましいというふうに私は考えております。  それから、それに関連いたしまして、外国の単科大学と申しますのは、実は単科大学と申しましても、その教員スタッフの内容としては、かなり幅の広いスタッフをそろえているのが普通でございます。   〔委員長退席、理事世耕政隆君着席〕  たとえば、工科大学と言っても、経済学者、あるいは文学の先生もおるということでございますから、私は今度の新しい大学、あるいはおしなべて日本の単科大学も、たとえば、教員大学である、あるいは工科大学、医科大学であるから、その専門のスタッフだけが重点的に配置されるという構成については、今後もう少し幅広く考えて、内容的にもう少し幅の広い教育目的が達成されるような教員構成というものを、まず第一に考えるべきであると思います。  それから第二に、今度できょうとする大学については、ことに大学問の教員の交流、あるいは大学問の協力という点、これは一番初めに既存の大学との関係が非常に問題であるということを申し上げましたけれども、その一つの解決策、ないしは本来今度できる大学内容を充実する意味から申しましても、またかなり幅の広い教育ができるという点から申しましても、でき得るならば客員教授、あるいはその他の方法で、学部レベル、大学院レベルでの教員の大学問交流、あるいは国・公・私立大学、あるいはそれを問わず、場合によれば民間の人たちをも大学の教員のスタッフとして採用してもらうような、幅の広い交流計画というものをぜひ考えるべきであるというふうに思います。  それから、第三番目に、したがって、卒後研修の場面においては、卒後研修を教員大学だけに限定するというのは、これは考えられていないと私は信じておりますが、非常に狭い考え方であって、でき得れば、たとえば理学部の大学院で勉強したい人がおればそれも開放する、あるいは障害児の問題で、医学の大学院で勉強したい人があれば、医学の大学院で勉強してもらうというように、かなり幅広く卒業教育の門戸というものは広げるべきであるというふうに思っております。  それに関連して大学の側の受け入れはどうかと申しますと、私は基本的には大学が現職者を受け入れるという方向については、ことに最近数年間の間に大学側の認識も徐々に成長してまいりまして、以前考えられたような狭い意味のアカデミズムにだけこもっているという風潮は、順次解消してきているように思います。ただ、教員の大学院について、現職者を比較的入れなかったという経過は、学芸大学長からもお話がございましたけれども、そういう考えの中には、現職者を入学せしめるということが、大学研究、ないしは内容の自主性の阻害につながるというような、やや短絡的な発想が大学の教授の一部に存在をしたということは事実でございます。しかし、私はそれは基本的には問題にならない考え方であって、先ほど来申し上げているように、大学の本来の使命を達成するための自主性というものについて、国民社会の確認が得られるならば、大学は今後もっと大幅に現職者、これは教員とは限りません。あらゆる領域の社会で活動していらっしゃる方々に、大学のポストグラジュエイトコースを開放するという方向に、積極化していく可能性は非常に強いのであって、私はその点については決して悲観をしておりません。  それから名称でございますが、私も教員大学という名前はよくないと思います。それで、教育大におられた方の御意見もありますが、もし選ぶとすれば教育大学が最もよろしかろうと。文教大学というような名前も考えられますが、小尾先生がもうおとりになっておりますから。
  89. 有田一寿

    ○有田一寿君 終わります。ありがとうございます。
  90. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 本日は諸先生に大変貴重なお話をお聞かせいただきまして、感謝いたしております。本当にありがとうございました。  最後でございますので、なるべく簡単にお聞きしていきたいと思います。   〔理事世耕政隆君退席、委員長着席〕  これは重複する問題でございますけれども先ほどから出ておりました教員大学を特別な名称にするということについて御意見がございました。私もいままで文部省とのやりとりで、いろいろと教員大学大学院と、教育大学大学院との関係をお聞きしたのですが、それを整理いたしますと、大学院の部分については、いままでの教育大学大学院と性格、本質においては同じであるというふうに受け取れるわけです。  また、学部についても、広島大学に新設される学校教育学部と、教員大学初等教育教員を養成する学部としての学校教育学部は趣旨は同じだというふうに受けとめるわけでございますが、こうなりますと、一体教員大学と特別な名称にする必要があるのかどうか。  文部省では、教員のための大学であるから教員大学と言うのだと、こういう漠然とした答え方なんです。それじゃ、いままである教育大学もやはり教員養成のための大学じゃないですかと。教員養成のための大学だから教員大学だと言うのだという、もっと率直に、これからつくろうとする教員大学というものはこういうものなんだ、いままでの教育大学よりもっと進歩的であり、試験的であり、期待的なものであるというような、そうした意欲的な文部省の姿勢が受けとめられないわけなんですね。そこで、なぜ教員大学と名前だけはそれじゃ変えるのかということについての納得がいかない。そういう点で文部省とやりとりしても、それ以上のものがございませんので、現場の先生方にどうなんでしょうかということをお聞きしたがったわけなんです。  先ほどの御意見によりますと、長尾先生は、教育大学という名前は程度が低いような受けとめられ方を国際的にもされている、だから教員大学の方がいいと、こういうんでしょうか。それから太田先生は、特別に意見はありませんというお話でしたが、じゃ教員大学でよろしいとおっしゃるのか。小尾先生と飯島先生は、教育大学という名前の方がいいというはっきりした御意見を承りましたので、お二人の先生のお気持ちをもう一度、簡単で結構ですから、おっしゃっていただきたい。  それで、長尾先生にお尋ねいたしますが、教育実習をもっと充実すべきだと言われております。時間を長くするとか、内容をもっと充実させるとか、また受け入れる実習校の確保がむずかしいというような問題がございますが、これらの問題を解決するのにはどうしたらいいか。先生大学でも大変その点には力を入れていらっしゃるようなお話も先ほど承りましたので、非常に参考になることを教えていただきたいと思います。  それから、太田先生に、付属校のあり方についてお話を承りたいと思っております。  太田先生にはそのほか、現職の先生の資質向上を行う方法として、大学院でそれをやるというのが今回の教員大学大学院の設置の趣旨だということになっているんですが、そういうやり方はいいと思っていらっしゃるのか、また留意すべき点が特にあるか、この点についてお聞きいたします。  それから、教師としての使命感、教育への愛情というもののために、教育史が必要だ、教育史の教育が必要だという意見を持っていらっしゃる方がおありですが、教育史という問題についてどういうお考えを持っていらっしゃるか。  同じく、教員養成一つの重要なポイントとして、大学教官、教授の養成ということが非常に大事だと思いますが、これに力を入れるのに今後どうすればよいか、こうした点を太田先生にお尋ねいたします。  それから、小尾先生私立大学での小学校の先生養成に力を入れていらっしゃるお立場から、教員養成に対する御意見、また御要望を承りたいと思います。特に、先ほどちょっとおっしゃった試補制度、これについて先ほどおっしゃった以外にまだございましたら、御意見をお聞かせいただきたいと思います。  それから、飯島先生に、これからの教員養成のあり方を考える場合に、戦前の師範学校教育、また戦後の大学における教員養成教育のいい点、悪い点、こうしたことの最も取り上げるべきものは何であるかということをお聞かせいただきたいと思います。  以上でございます。
  91. 長尾十三二

    参考人(長尾十三二君) 名称についてでございます。  ちょっとおっしゃいましたことと私の申したことと違うように思うんですけれども、私は、教員大学よりは教育大学の方がまだいいかもしれない。それは現在ございますので、その方がまだいいかもしれないと。しかし、教育大学という名前も、国際的に見れば格の低い大学ということになるので、それもほんとは望ましくはないんだと。要するに、むしろ総合大学の中で教師の養成を、もちろん教師としての資質を備えた教師の養成考えていく方が望ましいという考え方からそれは申したわけでございます。これが第一点であります。  それから、第二に教育実習の問題でございますけれども、これは現状でいいとはもちろん考えておりません。非常に努力はしておりますけれども、現状でいいとは考えておりません。先ほどもちょっと申しましたように、できれば採用後の教員を都道府県教委の責任で半年、ないし一年間しっかり実習をさせるという体制の方が望ましいであろうと考えております。そこへ行くまでの過程、あるいはそういう方法をとりつつもなお考えられることは、やはり地域単位で、国・公・私立大学の実習生を、地域単位で教育委員会と緊密な連絡をとりながら、有効な実習を行わせるような方法を進める。これらの各大学教育委員会協力をして話し合って進めるということになりますけれども、そういう方法も可能ではないかというようなことを考えております。
  92. 太田善麿

    参考人(太田善麿君) まず名称の点でございますが、私も私なりにいろいろ考えたことはございますけれども、これがいいという案が浮かびませんでした、正直のところ。それで意見がないと申し上げたわけでございます。まあやむを得ないというような感じ取り方でございます。  それから、お尋ねの付属学校のあり方についてでございますが、これは本来の目的に立ち返って、児童、生徒の教育は当然のことでございますが、学部と共同して教育実践を中心とした研究を進める、また教育実習の実施に当たる、またその教育実習の方法等の改善研究に当たる、そういうようなこと、これにつきましては、いろいろの批判もございます面がありますけれども、これも戦後、付属学校が、そういう本来の教育大学学部の本来の目的に即して、付属学校がどういうふうに体系立てられるべきかということが根本的に検討され、それに基づいてその配置が決められる、配置が行われるということがなく、もとの付属学校を受け継いだ形で大体行われてまいりました。そういうところに、その受け継いだものだけを大事にして一生懸命現場のその付属学校の先生はやっているということが重なりまして、そして世にいわれるエリート教育というような傾きを示すような結果になってまいっておると存じます。にわかに付属学校を増設して、そしてその実習の機能その他を中心研究目的、そういうことを中心に配置を定めて、そしてその目的をはっきりさせるということ。これは望んでもにわかに実現はできませんでしょうけれども、そういう方向で教育大学協会としては取り組んでまいるのが本筋だと心得ております。また、そういうことが実現しないまでも、ともかくその経過におきましても、付属学校のあり方というものを絶えず振り返って、その検討を進めて、お互いに協力して軌道を求めていくということに努めておる次第でございます。  それから、現職教育大学院でやるのがよいのか、やるとすればその留意すべき点はどうであるかという点につきましては、これはやはり教員の現職教育におきましても、いろいろな形が考えられますし、これはいろいろなものがあってよろしいと存じております。その中で、大学院で行いますものは、やはり本人の主体的な、そして学的な追求を本体といたしまして、したがって、それを保障するという意味合いにおきまして、大学院における現職教育の積極性を考えておるわけでございます。したがって、先ほど来話にも出ております、入学の場合の選抜というようなことも、当然そういう趣旨において選抜が行われるべきであると思います。しかし、その選抜の際に、十分にその現職の教員の研さん、研究をそこで充実させるんだという、そういう方向で選抜も考えられるべきだと存じております。  それから、教育系の教員養成に携わるそういう教授の養成ということにつきましては、これは現在までのところは、正直のところ特にそういう養成の計画と申しますか、そういうはっきりとした機関もございません。しかし、今後の問題といたしましては、教育大学としては、後継者養成という意味におきまして、大学院にも博士課程をさらに設け、後継者を養成するということが必要だと考えております。その博士課程の問題につきましては、東京学芸大学におきましては、学内の意思を確かめ合いながら、その計画に取り組んでおるところでございます。やはり教科教育学というような分野を中核にいたしまして、この学問はまだ完結しておると申しますか、学問としてもうでき上がったものというものではございませんけれども、そういう学問を成立させるという共同の意思を持ちまして、これを追求する、その全体の体制を組んで進めていこうということを考えておるわけでございます。  以上でございます。
  93. 小尾乕雄

    参考人(小尾乕雄君) 名前につきましては、単科大学としますと、一番いいのは教育大学であるということを申し上げたわけでございまして、先ほど来、長尾先生、飯島先生から総合大学の方がいいという御意見がございましたが、実は私もそういう意見でございまして、教員養成審議会、それからこの教員大学大学設置委員会でもその意見を述べました。ところが私は、中学から高等師範、文理科大学をやった。あなたのような経歴の者は、そういうことを言うけれども、総合大学の出身の人から見ると、やはりはっきりした単科大学の方がいいんだという反論を受けました。そういうことで、いろんな意見があるということ。もう一つは、小学校の教員養成におきましては、やはり中等教員を養成するのと違って、総合大学でなくてはならないという点がちょっと弱いのではないかという、そういうことを、ほかの意見もあるということを申し添えていただきたいわけでございますが、私も学生時代に東大へ講義を盗み聞きに行った経験もございまして、師範学校系の大学を出た人は、ちょっと劣等感みたいなのがございましてね、やっぱりそういうことを言うのですけれども、必ずしもお耳をおかしにならぬ方がいいんじゃないかというふうに考えております。私の学校は、ですから総合大学の、と言っちゃ学部二つで、もう一つつくって三つにしようということで、実は教員養成でやっているんだから、単科大学にしろという意見もございますけれども、私は総合大学の方がいいということで、だんだん学部をふやしていきたいと思う。しかし総合大学にするということが、もしはっきりいいとなれば、まず筑波大学のようなところが、なぜいままで伝統ある教育大学、高等師範学校、文理科大学という、そういうところが教員養成をなくしてしまったかという、大いに疑問があるわけです。ですから総合大学がいいかどうかということをよくお考えいただきましてやるわけですけれども、もうそういう東大とか筑波大学とか、そういうところへ目的養成教育学部をおつくりになることが大事だと思いますが、そうかと言って、この単科大学はやめちゃ困るのです、実は。これは大学院が主なんですから、大学院が主だから私は大賛成をしたわけでございまして、これを総合大学がいいからやめちゃうということは大変困ると私は思っております。
  94. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 私への御質問は、戦前の師範教育と、それから戦後の教育の長所、短所、功罪について意見を述べろということでございますが、これは大変むずかしい問題で、私は教育学の専攻ではございませんが、仮に教育学を専攻されるという方であっても、この課題だけでライフワークになるような大変膨大な研究課題であると思いますから、私はそこの答えはできませんが、ただ印象だけを申し上げますと、私は両方の学校システムの比較ということをやる場合に、そのバックグラウンドになった、あるいは現在なっている日本社会情勢というものを抜きにして、両方の学校システムの功罪というものを抽象的に議論することはできないのではないかというふうに思っております。たとえば師範学校の問題につきましても、明治のころ師範学校が各県に形成をされた時期の師範学校というものは、それぞれかなり情熱を持った、見識のある教育家が中心になり、欧米の新しい教育制度というものを積極的に導入して、かなり意欲的な教育体系というものをつくろうとしてでき上がったという経過をわれわれは注意しなければならないので、これは単に政府が上から命令をしてできた大学であるという形のものではないというふうに私は思っております。  それから、現に私ども初等中等教育の大部分を師範学校で勉強された先生方教育をされたわけでありますけれども、私は個人的な体験から、それらの先生方はそれぞれ尊敬すべき先生方であって、私はそれらの先生に教えられたということは、生涯の幸福であるというふうに思っておりますので、抽象的に師範教育のすべてを否定するということはできないと思います。もちろん、型にはまった教育であるとか、あるいは批判的な精神において欠けるところがあったとかいう現在からの批判は十分あり得ますし、今後注意しなければならないと思います。逆に、私は旧制高等学校からいわゆる帝国大学に数えられる学校を出た者でありますけれども、戦後の教育の始まりの時期に、教育刷新委員会のレベルで、主として京都大学、東京大学等の先生方が教養主義というものを第一に掲げて、師範教育というものをやや下に見おろすような形で批判されたということについては、私どもとしてはむしろ現在反省の余地があるのではないかというふうに考えております。その問題は、現在におきましても結局教育界における困難な二つの課題というもので、現在まで推移しているわけでございまして、先ほど国立大学協会教員養成制度特委員会は、大学における教員養成という報告をまとめましたが、その作業経過の中でも、先ほど参考人からもお話しのあった、つまり教育における専門性というものと、それから開放制によって保障されるところの豊かな学際性あるいは人間性というものと、これを学問の理念においても、あるいは制度においてもどう調和せしめるかということは今日なお一つの課題であって、今後それぞれの社会情勢、及び今後われわれが期待するところの将来の社会というものに向かって、なお教育関係者を中心にすべての人がコンセンサスに到達するような努力をしなければ一まだまだ終局的に解決しない問題であるというふうに私は理解をしておりまして、したがって、戦前戦後の功罪ということをきわめて抽象的に論じ去ることはむずかしいのではないか。で、戦後の教育は確かに非常に豊かになりまして、私は、現在の教育についての欠点は、いろいろ指摘されますけれども、逆に私どもの子供の時代の学校における教育環境というものと、現在の子供が恵まれている教育環境というものをある基準で比較をすれば、それは比較にならないほど現在の子供たちの方がある意味では教育環境に非常に恵まれているという点は評価しなければならぬと思います。しかしながら、それによるところの欠落というものも、これは単に学校だけの問題じゃなくて、社会全体のバックグラウンドの中で発生していることも事実でありまして、私は素人でありますけれども、そういう考量の中で、大学の問題あるいは教員養成の問題というものを突き詰めていく必要があるのではないかというふうに思っております。  そらから、名称は私は教育大学がいいというふりに申しました。それで、お説のように確かに外国ではペタゴーギッシェ・ホッホシューレはウェフェルジテートより下に見られておりますが、これは見方によればヨーロッパ等の教員養成の理念というものが、その意味ではわれわれよりおくれいるというふうに見ることができるわけであります。彼らも教員養成のホッホシューレをウェフェルジテートのレベルに包摂をするということで、ここ数年間非常な努力をしてレベルアップを図っております。  それから、師範大学という名前は、実は日本だけではないことは御承知のとおりでありまして、たとえば中華人民共和国においても、あるはい韓国においても、アジア諸国では師範大学という名前は比較的一般的であります。ただ、日本の場合には、その師範学校というもののイメージが、いま申し上げたような点だけではなくて、たとえば軍国教育とか、そういうことに結びついて考えられがちでありますから、それらを比較考量すれば私は教育大学という名前が当面最も考えられる名前であろうということを申し上げたわけでございます。
  95. 吉田実

    委員長吉田実君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  参考人の各位に一言御礼を申し上げます。  本日は、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。  本案に対する質疑は本日はこの程度にとどめます。  本日はこれにて散会いたします。    午後五時六分散会      —————・—————