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1958-04-01 第28回国会 衆議院 文教委員会 第14号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十三年四月一日(火曜日)     午前十時二十三分開議  出席委員    委員長 山下 榮二君    理事 伊東 岩男君 理事 稻葉  修君    理事 坂田 道太君 理事 山中 貞則君    理事 河野  正君 理事 佐藤觀次郎君       北村徳太郎君    杉浦 武雄君       並木 芳雄君    渡海元三郎君       山口 好一君    木下  哲君       櫻井 奎夫君    高津 正道君       小林 信一君  委員外出席者         参  考  人         (南極地域観測         隊隊長)    永田  武君         参  考  人         (南極地域観測         隊越冬隊隊長) 西堀栄三郎君         参  考  人         (南極地域観測         船「宗谷航海         長)      山本 順一君         専  門  員 石井  勗君     ————————————— 三月二十八日  へき地教育振興法の一部改正に関する請願(足  立篤郎紹介)(第二三八四号)  同(神田博紹介)(第二三八五号)  同(有馬英治紹介)(第二四四四号)  同(町村金五君紹介)(第三四四五号)  養護教諭必置に関する請願外十件(竹谷源太郎  君紹介)(第二四四六号)  同(淵上房太郎紹介)(第二四四七号) 同月三十一日  養護教諭必置に関する請願(佐々木更三君紹  介)(第二五四九号)  同(多賀谷真稔紹介)(第二六五八号)  同外一件(松本七郎紹介)(第二六五九号)  同外四件(河野正紹介)(第二七〇一号)  同外十三件(森島守人紹介)(第二七〇二  号)  へき地教育振興法の一部改正に関する請願(長  井源紹介)(第二五五〇号)  同(野田卯一紹介)(第二五五一号)  同(早稻田柳右エ門紹介)(第二五五二号)  同(丹羽兵助紹介)(第二六〇三号)  同(櫻井奎夫君紹介)(第二六五五号)  同(丹羽兵助紹介)(第二六五六号)  同(松澤雄藏紹介)(第二七〇三号)  野間小学校舎改築費国庫補助に関する請願(早  稻柳右エ門紹介)(第二五五三号)  学校保健法に関する請願櫻井奎夫君紹介)(  第二六五七号)     ————————————— 本日の会議に付した案件  南極地域観測に関する件      ————◇—————
  2. 山下榮二

    山下委員長 これより会議を開きます。  南極観測に関する件につき調査を進めます。本日は、参考人として本観測隊隊長永田武君、越冬隊隊長西堀栄三郎君及び宗谷航海長山本順一君の御出席を願いましたので、これより本観測越冬計画の放棄に至る経緯と、本観測に備えて行われた越冬予備観測の実情を聴取し、あわせて今後の対策樹立に資するため、各位の意見を聴取いたしたいと思います。  この際委員長からごあいさつを申し上げます。参考人永田武君、西堀栄三郎君及び山本順一君には、御多用中にもかかわらず参考人として御出席をいただき、ありがとうございました。南極地域観測について、それぞれの立場から率直な御意見の御開陳を願いたいと存じます。御意見開陳は、それぞれ十分にお願いをいたします。  それではまず南極地域観測隊隊長永田武君より御意見を聴取いたします。永田武君。(拍手
  3. 永田武

    永田参考人 御報告をいたします前に、本委員会を代表されまして、委員長から、現地の私あてに大へん御丁重な電報をいただきまして、われわれ大へんありがたく感謝いたします。まずお礼を申し上げたいと思います。  すでに御承知のごとく、まことに残念なことに、また私といたしましては申しわけないことに、本年度の第二次南極越冬観測隊を継続することは中絶のやむなきに至ったのでございますが、経過はいろいろ内地にも報道されていることと存じますので、大体申し上げますと、昨年の十二月の二十日に氷海に到着いたしましてから二月二十四日までの間、氷の海の中で種々行動をしたのでございます。そのうち二月七日から二月二十四日までは、アメリカ砕氷艦バートン・アイランド号協力して行動をしたわけでございます。  この間われわれの目的は、一つは今ここにおられます西堀さんを長とする第一次越冬隊の人々を日本へ連れ帰ること、第二にはそれにかわりまして村山君を長とする第二次越冬隊を交代に置きまして、そうして基地規模を拡大し、これは観測の面でも、それに付随する建物その他の設備の方でも拡大する。そして第二次の越冬隊を残し、そこで観測あるいは研究調査をしてもらうという予定であったわけであります。しかし約一カ月半にわたります長い漂流の結果、南極の最もよい時期を失してしまいましたので、初期には、あるいは昨年この席で申し上げたかと思いますけれども、日本といたしましてはかなり大規模なと申しますか、せっかくの機会でありますので、日本で種々の観測がかなり内地では発達いたしておりますので、この機会にこれもやりたい、これもやりたい、いろいろな希望がありまして、精一ぱいと申しますか、相当たくさん織り込んだ計画を持っていたわけでございます。これは約四百三十トンの荷物になります。第二次越冬隊の人数は二十名になります。これだけのことをいろいろ計画いたしますときに、われわれの計画では、大体昭和基地から二十海里もしくは二十五海里以内に近寄れば、何とかできるであろうという計画であったわけであります。と申しますのは、昨年度の第一次越冬隊を残しますときの接岸のときの距離は、約十海里でございます。その倍ないしは二倍半くらいまでの距離に到達し得るならば、これだけのことをやれるであろうという詳細な計画を持って出かけたわけであります。ところがバートン・アイランド号協力を得まして、宗谷はそのときに傷ついておりましたが、なるべく昭和基地に近づく努力をしたのでございますが、どうしても六十海里、約百十キロメートルでございますが、それ以上に近づくことはそれから以後ではできないことがわかったのでございます。そこでわれわれは、まず今の第一次越冬隊を連れ帰ることと、並びに第二次越冬隊の必要なものを送ること、これも主として空輸、われわれは、ビーバー機を持っておりまして、これによるほか仕方がないという決断をしたわけでございます。それ以来、宗谷の側から基地に参りますときには、第二次越冬隊に必要な物資空輸し、そしてその帰り、つまり昭和基地から宗谷には、西堀さん以下の人員あるいは犬及び必要最小限度のもの——ものと申しますのは、非常に必要なもの、向うでの必要な資料というものはもちろんでございますが、そういうものを持って帰るという案を立てました。もちろんこのときには、二十名の越冬計画というのはとうていできませんので、あとで西堀さんからお話があると思いますが、幸いにも昨年度は、かなりの物資基地に蓄積しておりまして——しかも西堀さんは非常に物の管理をいかに合理的にやるかということの専門家でいらっしゃいます。そういう方が越冬隊でいらっしゃいましたせいでありましょう。私も参って見たわけでございますが、非常に管理が行き届いておりまして、合理的に物をお使いになった結果でありましょう。非常にたくさんの物資が残っておる。各方面にわたりまして、去年持っていったものの約半分が残っておる。これはもちろん最初から、一年の危険を見て、二年分の物を持っていったわけでございますから、ちようどそのように計画的に消費されたわけでございます。そういうわけでありますので、若干の物資を新たに支給いたしますれば、たとえば新鮮な野菜とか、どうしても必要な観測機械というものを追加いたしますれば、十人、九人、八人といった、十人以内の第二次越冬観測隊が成立するであろうという案を早急に立てまして、そうして空輸計画を立て、それを実行に移したわけであります。もちろんこのときには、六十数海里になっておりましたけれども、雪上車を使いまして、これを往復何度も輸送することは困難でありますので。宗谷の側から基地まで、私どもは片道輸送と申しておりましたが、片道だけ行って、雪上車向うに置く。そうすれば、雪上車基地で使える。そして幾ばくの資材が行くわけであります。と申しますのは、ビーバー機人員を二人、つまりパイロット、エンジニアにいたしましても三百キロ、うんと積みましても三百二十キログラムのものしか積めませんが、雪上車の方は、二トンないし二トン半のものを運ぶことができる。かつ、雪上車自体が行くわけでございますから、それはわれわれにとりまして、非常に魅力のある、ぜひほしいことでありましたので、その計画も立て、実行に移さんとしたのでありますが、残念なことに、二月十三日から天候が非常に悪くなりまして、とうていバートン・アイランド号も、宗谷ももちろんでありますが、その場所にとどまっていることができなくなった。それで、十四日の夕方から、急遽一応その場所を出まして、そうして別の、もう少し外洋に近いところから空輸努力を続ける計画をしたわけでございますが、一応そこを出ますと、もはや安全な接岸点というものがめっかりませんで——距離が五十ないし六十マイルでもよかったのですが、めっかりませんで、やむなく今度は水上機によりまして、海の上から輸送しようとしたのでありますが、低気圧つまり暴風が相次いでやって参り、ついに宗谷安全限界と申しますが、に参りましたので、私は人員の安全を念頭におきます限り、これ以上やることは、空輸その他でも非常に危険でありますし、また船長の方からも、船自体の安全を保証できないということで、私もそれはしろうとでございますけれど、そうだと同意いたしまして、二月二十四日についに断念したわけであります。  もちろん、この長い航海の間には、ただ船の中で、輸送をし、あるいは第一次越冬隊員を迎え入れるということだけではございませんで、気象観測、ことにことしは海洋関係観測が、昨年度の経験で強化してございまして、ただ海流とか海の温度とかいうのみではございませんで、各海水の科学的な性質、あるいはその中の放射能、そこにおきます海底の沈澱物採集というような、かなり立休的な調査をずっとやってきたわけであります。そのほかに、地磁気観測は、ことしは新たなものを作りまして、船の上からずっと観測を続けております。それから昨年と同じように、夜光と申しまして、オーロラの親類でございますが、これの観測をずっと続けて参っております。それからことしは、われわれの方に生物専門家隊員にして参りましたものでありますから、南極海の海洋生物に関します限り、それの採集及び研究を続けていったわけでございます。そのほか、基地近くにおりますときには、氷の上で、重力の測定あるいは地磁気観測といったようなことをやって参りました。私はその方面専門の者でございますので、やるのは当り前なものでありますから、やったということを、別に今までどこでも報告いたしておりませんようなわけでありますが、観測隊である限り当然やるべき観測はその間にもやっており、ただいま船の中でいろいろまとめておりますし、一部のものは持って帰っております。  それで、西堀さんたちは、二月の十日から十一日の問に、十一人の皆さんが全部お帰りになったわけであります。私自身は、十一日に昭和基地に、西堀さんのおられますときにという予定で参りまして、そうして昭和基地を、設備その他を約二時間にわたりまして、詳細に点検して参りました。いずれ基地のことは、私よりも、一年間住まわれた西堀さんの方がより具体的な、と申しますか、あるいはより真実に近い御報告がされると思いますので、私はまず今度の行動概略を申し上げるにとどめたいと思います。  ただ一つ申し上げたいことは、今度は、ことしと去年は、日本観測隊ばかりでございませんで、御承知のように世界十一カ国がそれに参加しておりますので、南極大陸始まって以来完全に近い、たとえば気象ならば、気象観測綱があるわけでございます。それで、一昨年の十二月あたりからずっと、われわれのおります間にかけまして、ちようど日本天気予報と同じように、測候所が十分あるわけでございますから、あすこの天気模様というものが、初めて気象学的に解釈できるような十分なるデータがあるわけでございます。それによりますと、ことしは南極大陸高気圧が、去年に比べまして著しく小さくなっている。特にアフリカ側が引っ込んでおります。昨年ならば、あるいは例年ならば、南極のわれわれの昭和基地の沖を通ります低気圧中心というのは、南緯五十五度から六十度の間を通りまして、六十度より南に来ることはめったにないのであります。ことしは約六十度から六十五度の間を通りまして、つまりリェッオフ・ホルム湾の入口すれすれに通るわけであります。そういう様子が今申し上げましたように気象学的に説明できるような気圧配置になっていたわけでございます。それより不完全な資料でございますが、やはりそれより前に、南極に数カ所、米国とかあるいは濠州の観測所があるわけでございまして、それで去年とことしほど完全には参りませんが、しかしそれを参考にいたしまして、過去の南極大陸気象及び氷の状態を判断いたしますと、一作昨年が本年と同じ程度ぐらい悪かったのであります。一昨年は昨年よりももっとよかった、よかったという意味は、高気圧が非常に広がっておりまして、あの辺の氷が昨年よりももっと解けていたのであります。大体そういうこともわかったわけでありますが、それはもちろん結果としてわかったわけでありまして、これは、ことしの氷状と申しますか、全部宗谷及び昭和基地気象及び氷の観測を含めましての気象解析の結果とでございます。一応御報告いたしておきます。(拍手
  4. 山下榮二

    山下委員長 次に、南極地域観測隊越冬隊長西堀栄三郎君にお願いいたします。
  5. 西堀栄三郎

    西堀参考人 私も、永田隊長と同じように昭和基地の方に皆様方から激励の電報をちょうだいいたしまして、隊員一同大へん喜んでおりますので、お礼を申し上げたいと存じます。  私は隊長の命によりまして、昨年の二月十五日から昭和基地越冬を開始いたしました。それで、詳細にわたりましては、すでに公電をもって私から日常の作業様子報告いたしましたので、時間の関係上省略いたしまして、概略たち昭和基地におります間に得ました知識を少し申し上げてみたいと存じます。  まず第一に、隊長が選ばれましたあの昭和基地という場所は、非常にいいところであったということを申し上げたいと思うのであります。まずリュッオフ・ホルム湾全体につきましては、未知のところであったために、われわれとしてはそのところがいいところであるのか悪いところであるのかということは、その当時は全然わがらなかったと言った方がよかったかと存じます。しかしながら、昨年はことしに比べまして比較的容易に着岸することができましたが、着岸した場所は決して理想的の場所ではありませんでした。それでも今から思えば、ことしに比べれば、距離もそれほど遠いとは思いません。しかしそのときは大へん遠いと思いました。また氷上の輸送も大へん困難をきわめたというのは事実であります。しかしながら、これもことしから見れば、よほど距離的に近いせいで、まず克服できる範囲内にあったわけであります。昭和基地の設けてある場所は、御承知通りオングル島という島でありますが、その後その付近、いわゆるリュッツオフ・ホルム湾の周辺を調査した結果によると、このオングル島の昭和基地のある場所は、科学的観測をするには最も都合のいい場所であるという結論に達しております。場所南極でもそうたくさんあるわけではない、いわゆるオアシスと称せられる露岩地帯でございまして、その露岩がなだらかな斜面をもって上っておりますし、また砂地あるいは岩が適当に配置されておるという点では、科学的基地必要条件をすべて備えておるように見受けられます。事実私たちがそこで一年間生活をしておりますと、露岩なるがゆえに与えられるいろいろな恩恵というものがあって、非常に安定した感じがいたしますし、諸種の測定をいたします上にもきわめて容易でありました。  また気象的に申しますと、同じ南極と申しましても、この地区は海洋性の性格を持っておるために比較的温暖でございました。最も低い温度を記録いたしましたのでもマイナス三十六度という程度でありまして、これならば北海道や富士山の頂上などではしばしば経験する程度の寒さであり、満州などに比べればかえって暖かいというような状況でございます。また天候はきわめて良好でありまして、一年を通じて晴天の日が大半を占めております。しかもあらしか、しからずんば大快晴雲一つない天気が続くのでございます。ちょうど宗谷が今回漂流しておりました期問中、われわれの方では大快晴であるにかかわらず、宗谷の方はいつも雪が降り風が吹き、天候はきわめて悪いというふうなことで、われわれとしてはかえって驚いたくらいで、われわれの方が天気がよろしゅうございました。  さらに、観測の点から申しますと、ちょうどあそこの場所オーロラ圏の真下にありまして、こういう場所南極全体としても決して多くあるわけではございませんで、ごく限られた特色を持っております。オーロラが非常に多いということは、これはひいては電離層その他——私の専門ではありませんが、そういういわゆる地球物理学上非常に重要な問題を解決するのに最も適当した場所であることもつくづく身をもって体験したような次第であります。  以上のように、この土地は露岩あり、気候温暖で、将来いろいろな観測事業をやります上に最適の場所であると私は信じております。ただここに近づくことが容易であるなしという問題でありますが、これは今年は確かに悪かったことは私たちもよくわかりますが、それでは例年そうであるかどうかということについては、少くとも私にはわかりません。宗谷の運航上大へん困難をされたことは、われわれの方へもしばしば入電しておりますけれども、何せ電報のことでありますので、どういう状況になっておるのか全くわからない——全くというのは言い過ぎかもしれませんが、ほとんどわからないという状態でありましたので、宗谷の問題については私は何も発言はできません。しかしこの一年間に私たちがやりました仕事を少し申し上げたいと存じます。  私たちに課せられました任務は、第一次越冬隊または予備観測越冬隊という名前がついておるごとく、本観測に備えて果して日本人が日本の製品をもって、いわゆる物資をもって、生活がなし得るやいなやということを解決するということが最大の任務でありました。その結果、幸いにして日本の技術及び工業力というもので作られましたあらゆる物資はきわめて優秀でありまして、従って私たちは何らそういう物資の面から苦しめられたことはありませんでした。最初事業でありますから、すべてのものにきわめて安全率が高くとってあります。これは当然のことであって、そうなければならなかったわけでありますが、事実私たちがその物資などを使ってみた経験によりますと、その安全率ははるかに高過ぎたということは言えると思います。すなわち、これは第二回目、いわゆる木観測をやる場合に、それほどのものは要らないであろうということは言えるのであります。従って私たち宗谷に収容されました後に、第二次越冬隊を送り出すという場合に、きわめて少量の物資でよろしいということを申し上げましたのは、実はそういう根拠に準拠しておるわけであります。  そこで、私たち越冬中の業務というものは、今生活し得るやいなやということを証明することが第一審、第二番目は、これは国際地球観測年予備観測でございますので、国際協力のために、また自分たちの将来のために、第一番目には気象条件を調べるということがございました。しかし高層気象をやるだけの施設並びに人員を擁しておりませんので単に地上観測のみに終始いたしましたが、それでも日に四回の観測をいたしまして、その地上気象観測資料をまず、マザー・ステーションと呼ばれておりますオーストラリアのモーソンの基地にこれを送りまして、それをさらに、ミルニー及びマクマードを経由してリトル・アメリカの中央にこれを集結いたします。その集結された資料は各国のデータとともに解析されまして、予報の形をもってまた各基地に返って参ります。これらを集計し、われわれは保存しておいたわけでありますが、これをやっておりますと、いかにも自分たち国際地球観測年事業として世界の、いわゆる国際協力をしているという気持がひしひしとわれわれの隊員全員の身にしみて参ります。従って隊員は大へん張り切ってこの事業に携わって、何の事故もなかったということが言えるのではなかろうかと思っております。  この地上気象観測のほかに、宇宙線測定ということをやりました。これはネヤーという機械を使ってやったのでありますが、そのほかオーロラ観測であるとかあるいは氷雪の研究などもいたしました。またわずかながらに存在している生物もできる限り採集いたしました。そのほか、今回は地質担当員も二名おりましたので、この二人を中心として、南北四百キロ程度範囲にわたりまして地質調査をいたしました。これは大体その範囲内にあります代表的な露岩は網羅したと思っております。しかしいずれにいたしましても、その調査は限られた期間、また熾烈な条件下で行われるものでありますので、きわめて一般的な、また総括的な調査しができなかったことは当然やむを得ないことだと思います。そういう問題は今後の問題においてもっと深くやる必要のある面も現われて参っておるわけであります。  なお、いろいろな持って、参りました器材、器具、建物から雪上車機械類などに至りますすべての物資について、いわゆる耐久試験とでも申しますか、使用上のいろいろな注意を調査いたしまして、これはエホクと私たちが俗称しておるいわゆる越冬隊報告の形でもって無電でこれを本部に報告しております。  以上のようなことをあとう限りやまして、いよいよ引き上げるという直前になりましたときに、もし宗谷が近づくことがついにできなくて、私たちを収容し得なかった場合には、私たち十一人は全員あるいはその一部が残存して、もう一年越冬を継続することが可能なごとくして待機いたしておったわけであります。このことは逆に申しますと、まだ十一人程度人間がもう一年継続してやる、入れかわるにしてもそのまま残るにしても、いずれにしても、十一人程度人間があの昭和基地において生活するとも、きわめて安全であるという状態になっております。  先ほど永田隊長からおっしゃいましたように、これは私が管理がうまかったというのでは必ずしもなくて、実は皆様おわびを申さなければならないことなんでございますが、昨年宗谷から荷おろしをしていただきましたあらゆる物資はほとんど全部が基地に運ばれましたけれども、一部の品物がなお海水上にあったのでございますが、これが三月十二日以降に起りました大暴風のために氷山もろとも約十キロの範囲がすっくり流れてしまいまして、それとともに相当多量物資が消失いたしました。このことは私たちの全く未知による不覚でありまして、まさかあんな秋深くなって冬も間近になっておるときに、海氷が流れてしまうというふうなことは予想だにいたしませんでしたので、建設に非常に忙しかったために、まあ春になってひまになったらその物資を取りにいこうじゃないかというふうな気持であったわけであります。と申しますのは、冬ごもりをいたしますのに必要欠くべからざる品物、並ひにもしや来年、つまり今年のことでありますが、宗谷が迎えにきてくれなかった場合であっても、何とか生きてだけはいけるという物資は、一応基地に運んでしまいましたので、一つは安心しておったわけであります。いずれにいたしましても非常に貴重物資を流失いたしたわれわれの不覚について、重々おわびを申し上げたいと存ずる次第であります。  従って一部の物資が喪失いたしましたために、やむを得ずいろいろな使用管制、いわゆるコントロールを行わなければならないことになって、相当節約はいたしました。しかしながら今残っております機械類建物、及びわれわれの使用しておりました一部の衣類等は、全く無傷で残っているといっても差しつかえないくらいでございます。ただ第二回目のいわゆる第二次越冬隊が参ります場合には、どうしてもこれとこれとこれとが要るんだというものを宗谷に打電いたしまして、これはわれわれを救出していただきます場合の便で相当運びました。約ニトンほどのものは運び得たのであります。従って私たちが残しました物資にプラス、その必要欠くべからざるニトンというものは、すでに運ばれていると見てもいいくらいでございます。すなわち副食物の大半、主食の一部というものが運ばれております。今度第二次越冬隊を不幸にして送り届けることができなくて、ついに昭和基地はあき家に一年なることになったわけでありますが、この場合にでも、食料品の一部を除くのほかは、安全に翌年、つまり一年のあき家の後でも使えるということは考えております。すなわちわずかな手を入れることによって、直ちに使用し得るものがほとんど全部であるということは申し上げられるのであります。  なお犬は、あれも皆様の御心配によって手に入れられたものでありますが、非常に有効でありましたけれども、ちょうど私たち昭和基地を引き揚げますときには、第二次越冬隊というものが必ず来てくれるものと確信をしておりましたし、またそういう希望が非常にある限り、どうしても犬は残しておかなければならない、つまり第二次越冬隊が来たときに、直ちにこれを使えるような状態にしておくということが、第一次越冬隊任務でもありますので、役に立たない小犬とか、あるいは雌犬とかいうものはこれは持って帰らなければなりませんけれども、役に立つ十五匹の雄犬は残してこなければならなかったわけであります。ところが不幸にして第二次越冬隊を後ほど送り届けることができなかったために、ついにこの十五匹の雄犬を救うことができなかったというのが実情でございます。これもおわび申し上げたいと思います。  ともかく今申しましたように残留物資はございますし、またあの場所は非常にいいところでございます。従って私たちとしては、ぜひ第二次越冬隊を残したいという気持は非常に強かったけれども、天これにくみせずして、ついに私たち引き揚げなければならないことになったわけでございます。はなはだ私たちの微力で十分な成果を得られませんでしたけれども、しかしそれでも第一次越冬隊は各基地から非常に喜ばれて、また世界地球観測年としての役目は果し得たと思っております。私の話はこれだけで終ります。(拍手
  6. 山下榮二

    山下委員長 次に南極観測宗谷航海長山本順一君にお願いいたします。
  7. 山本順一

    山本参考人 今次の本観測におきまして宗谷のとりました行動の概要について御説明いたしたいと思います。  十二月の十一日にケープタウンを出航いたしまして、目的地に向けて一路南下を続けたのでありますが、予備観測と同様に、まず目的地へ直接突っ込む前に、エンダービーの氷を見ることによりまして、今年のリュッッオフ・ホルム湾付近の氷状がどういう傾向をなしているかということを調査する必要を感じまして、あちらに向けたのでございますが、暴風圏は、私たちの想像以上にしけの期間も短かく、意外に感じたのでありますけれども、その後、昨年の予備観測の例によりますと、暴風圏を過ぎると、パックに近づくに従いまして天候も回復し、海面も静かになって参ったのであります。今度は逆にパックに遭遇したのが二十日でございますけれども、十八、十九日とニ日間にわたって相当なしけに遭遇しております。それから、二十日夕刻パックに遭遇したのでありますけれども、それに先だちパックの線から北方ほぼ八十マイル付近からすでに氷片が現われてきました。氷の小さいかけらでございますが、北に吹き出されまして浮いているわけでございます。それともう一つ違った点は、海水温度が非常に早くから下つたということでございます。これを予備観測のときから比較しますと、水温が零度になったのが、約三百二十マイル北の方から零度になった。それからマイナス一度になったのが、前回よりもおそらく十マイル程度北方からそういう状況になっております。この水温が一度違うということは非常に大へんなことでございまして、極地におきましては、〇・一度が非常に問題になる温度でございます。そのとき受けた感じといたしましては、今年は昨年とは非常に違っている、氷も相当多かろう、あるいはパックの様相からしますと、昨年は外洋と群氷域の境界線というものが非常にはっきりしておったのでありますが、今度は本格的なパックの境界線がどこにあるかということが非常に判別しにくい境界の外縁線の様相を呈しております。これを具体的に申し上げますと、本格的なパック・ラインから帯状になった群氷帯が北の方に流れ出しておりまして、その帯状の幅でございますが、これは短かいのは十メートルあるいは五十メートル、それからまた帯状の群氷帯の間隔でございますが、これも非常に距離はまちまちでございます。しかしその様相から判断しますと、群氷域の外縁線、これは北端でございますが、境界線付近が相当しけにあっているということをすでにそのときに判断したわけでございます。そういうことからしまして、楽観できないというような感じを早くもそのときにしたのであります。そうしてなおエンダービーの陸岸からの距離でございますが、これは一昨年でございますが、松本船長が捕鯨船によりまして調査をしたとき、一月上句におけるパック・ラインは約十マイルほどでございました。それから予備観測のときには三百六十マイルで、大体同じ時期になっております。今回は大体十七、八日時期は早かったのでございますけれども、エンダービー沖から九十六マイルというところにパックの線があったわけでございます。これはあとからそういう結論が出たのでございますが、大体エンダービー沖の氷の様相はリュッッオフ・ホルム湾一体の気象なり氷というものを如実に物語っておったということでございます。そういうような状況でございますから、あの辺一体の氷については松本船長は非常に心血を注いで調査研究をされておりましたので、その判断に基きまして、ことしは航空偵察をパック外でやることに相当困難があるだろう。——これはあとからわかったのでありますけれども、先ほど隊長からの御説明のように極冠高気圧の勢力が非常に弱かったものでございますから、南大西洋から東進しますところの低気圧中心が非常にパックに近づいておったわけであります。それからまた、これは御参考まででございますが、よく捕鯨船に乗っている人たちからの御意見を聞きますと、これは私たちも実際そういう点にしばしば会っているのでございますが、あちらの方では低気圧中心よりもむしろ外周の方がしけるというような傾向がございまして、捕鯨船なんかは場合によりますとかえって中心の方へ逃げていくというようなことがしばしばあるのでございます。  そういうような関係でパックの外周は低気圧中心とは比較的離れておりますけれども、しけはかなり多いというか、しばしばそういう傾向を示すわけでありまして、さらにまた群氷線の外縁付近に南極前線がありまして、非常に天気が悪いということでございまして、そのほかにしけがときどきやってくるものでございますから、ヘリコプターの偵察さえも外洋からやるということは困難がございます。さらにビーバーによる偵察ということになりますと、これはセスナと違いまして、かなり長さが長くなっております。そしてマストと船橋との間に一ぱい一ぱいに納めてございますので、これをつり出して水面におろす作業は、ビーバーをこわさずにやろうということになると非常に困難がございます。そういう点から見まして、これはどうしてもある程度パックに進入して、パックの中にあります海水面によってビーバーを飛ばして、全般的な調査をやるより以外にないということを判断されまして二十三日ごろからパックに入って海水面を求めながら調査を続行していったわけでございます。二十六日に至りまして南方約三十八マイルのところに有力な海水面がありしまて、ビーバーを飛ばすことが十分であったばかりでなく、基地に進入する有力な手がかりとなるということが判断されまして、一応その海水面に向けて、二十六日から基地に向けての突入を開始したわけでございます。  しかし、その後の気象なり氷状は非常に悪うございまして、具体的に例をあげてみますと、宗谷の砕氷能力は再改装によって相当増強されました。この全能力を常に発揮したのでございますが、前進は非常に困難をきわめまして、予備観測のときとは比較にならないほど困難をしました。それからまた前進するためにはそのつど船長がみずからヘリコプターに乗られまして氷状を偵察しなければ進めなかったということでございます。さらに船長が偵察されて進路を決定すると同時に、航空士が乗りましてその進路を導くために千メートルおきくらいに赤旗を立ててそれを伝わって進まなければ、いつのまにか泥のようなところに突っ込んでしまって抜き差しならなくなるという、氷状が常にそういう状況をいたしておったのであります。そういうような状況でございましたから、そのころからすでにプロペラなんかも相当氷もかんでおりますし、またプロペラに氷が当るのを気にしておったのでは、一歩も進めなかったという状況でございます。その氷状はそういうことでございますが、これは前回の予備観測よりも時期が早いために、しかもその時期は進入に最もいい時期である、融消の最盛期に当っておるわけでございますから、いずれはよくなるということは、われわれとしては予想しておったのでございますけれども、その最もよくなるべき時期に相当強いしけが二回ほどやって参りまして、ことに一月の九日から十一日にかけての大しけには、宗谷のまわりの氷ばかりでなくリュッッオフ・ホルム湾一帯の氷状一つの大きな氷原になりまして、水面がほとんどなかったと言われるくらい氷盤が重なり合って二重、三重あるいは四重にもなりまして、そういうものが固まり合って一つの大氷原をなして、宗谷はここに身動きもできなくなりまして、長期戦を余儀なく覚悟したわけでございます。  その後は機会あるごとにヘリコプターを飛ばし、船長みずから氷状がどう変化しているかということを克明に調査されたのでございますけれども、その間にも次第に海流に流されまして、クック岬の方へ近づきまして、基地とはだんだん遠ざかってしまう、このまま基地に進入することは氷状からも非常に困難である、ほとんど不可能であるという判断のもとに、一応外洋へ脱出しまして、基地の北方海面から再び入り直すことが一番可能性がありますし、しかもまた距離的に短かいということになりまして、外洋脱出をはかることにきめまして、そちらの方の氷状を終始偵察したのでございますが、時期的に遅延することは、氷状の条件から飛行機を飛ばす機会も非常に少くなりますし、あらためて基地の北方海面から入ることができたとしても、おくれることは再び脱出するときに脱出できなくなるという可能性が出て参りますので、ここに自力で脱出できるという自信はございましたけれども、そういった関係から本観測をゼロにすることはできないということになりまして、外国船の依頼ということが東京で決定されたわけでございます。  バートン・アイランド号が救援に来ることが決定されまして、こちらにだんだん近づいておったのでございますけれども、私たちといたしましてはバートン・アイランド号によって引っぱり出されるということになりますと、非常に時間もおくれますし、次の行動に制約されるということが判断されまして、氷状がよくなり次第、自力で脱出するということは、当然私たちとしてやらなければならないことでございますので、氷状のよくなる機会をとらえながら、自力脱出を努力いたしまして、なるべく早くバートン・アイランド号と会合して、次の進入地点に入らなければならないという必要を感じて、全力をあげて脱出をはかったのでございますけれども、たまたま二月一日の朝の五時半ごろでございましたか、ついに左舷推進機の一翼を折損してしまったわけでございます。これもいつやったかということははっきり断定ができませんので、先ほど申し上げましたように、ことしは最初から氷状が悪くてプロペラが常に氷をかいておったというような状況でございますので、そういうものが重なってそういった結果が現われてきたということを申し上げたいと思うのでございます。その後はバ一トン・アイランド号の誘導に従いまして氷海へ進入したのでございますけれども、その辺の経過につきましては、先ほど隊長から御説明がございましたので省略させていただきまして、いよいよバートン・アイランド号も氷海にこれ以上長くとどまることはできないということになりまして、十四日の夕刻再び外洋から第二次越冬隊空輸するということに計画を変更したのでございますが、十七、十八日と空輸する計画実行中でございましたけれども、十九日正午に至りまして非常にしけて参りました、当時そのパックの外縁付近におったのでございますが、その付近には非常に氷山が多うございまして、傷ついた宗谷は操縦性が非常に悪くなっておりますし、こういった海面でしけられるということは大きな氷塊にぶつかっても危険でございますし、さらに氷山にぶつかるということは船体を破損して百三十名の生命にかかわる問題になってきますので、一たんその海域を退避せんとして努力したのでございますが、傷ついた宗谷をもってそういった退避のための行動をするということは非常に危険をしばしば感じております。それからややおさまって参りましてから、今度はさらに次の低気圧の間を縫って二十三日、二十四日ごろ、残されました好天時の最後のいい機会をねらってパックに再び近づきまして、空輸機会をねらったのでございます。  その当時の気象並びに海洋の模様でございますが、低気圧が過ぎましてしけがおさまりかかりますと、また天気はよくなって参りますけれども、この天気のよくなる時間というものも非常に時期がおくれればそれに従って晴天の日というものは短くなって参ります。天気はよくなりますけれども、海面の状況はまだ波浪が相当残っておりまして、ビーバーを水上におろすというようなことはほとんど不可能な状態が続くのでございますが、しばらく海面がおさまって参りますと、今度は次の低気圧によりまして天気が悪くなって、飛行機が飛ばせないというような悪循環がやって参りまして、チャンスが少くなるような状況でございます。二十四日には一時よくなりかかったのでございますけれども、しばらくして今度はしけて参りました。バートン・アイランド号といよいよそこを引き揚げることになりまして、バートン・アイランド号と別れるときなどは非常にしけておりまして、砕氷専門に作ったバートン・アイランド号は、本船よりも相当動揺をひどく感じておりました。電報で、いろいろこれまでの御好意を深謝するというあいさつをかわすと同時に、国際信号旗でもって、旗流で御苦労さま、救援を感謝するという信号を掲げたのでございますが、これが近づいておるバートン・アイランド号からめがねでつかめないほどしけておりました。これ以上長くおるということはとうてい——一日や二日、もう少しねばろうという気持のあった人もあるだろうと思いますが、船の状況としてはその海面を一時避難しなければならなかったような状況でございます。  それからもう一つは、予想以上の長期間にわたった行動でありますので、真水の確保については、氷に閉ざされている間、長期戦を覚悟してからは節約をはかりまして、ほとんどタンク内の水は使わずに、氷から水を作りまして雑用に供すると同時に、今まで洗濯もやっておったのでございますけれども、その洗濯さえもケープ入港までは取りやめというようなことをやりまして、真水の確保に努めたのでございますが、すでに二月の末、二十四日ころになりまして、ケープまで入港するのを確保するために残しておいた水が、非常に心細くなったというような状況から、ここで船長と協議のもとに、涙をのんで南極氷海面を離脱しなければならないような状況になったわけでございます。  はなはだ説明が要領を得ず、お聞き苦しかったことと思いますが、なお最後に、今宗谷は松本船長以下最善を尽したということで満足して、たんたんたる気持でインド洋を航海しております。  それから氷海に閉されたときに、皆様方から御激励の電報をいただきまして、乗組員一同非常に感激しておりますので、一同にかわって御礼を申し上げます。(拍手
  8. 山下榮二

    山下委員長 以上をもちまして参考人の御意見開陳は終りました。  これより参考人に対する質疑に入ります。質疑の通告がございますからこれを許します。佐藤觀次郎君。
  9. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 南極観測の挙に当りまして、今回無事帰還されましたことを心からお喜びいたします。ことに西堀越冬隊長初め、越冬隊皆様の御労苦を謝し、永田隊長初め宗谷皆様に対しても、その御苦心のほどを感謝する次第でございます。  私たちがあなた方に対していろいろ質疑をするというようなことは、何かあとでいろいろそれがために無理なことを言うのじゃないかというような考えがしますが、将来の大成を期する意味において、また参考にする意味において、西堀隊長から二、三の点についてお伺いしたいと思うのであります。  先ほど西堀隊長は、昭和基地が適当な地域であったというようなお話がございました。しかしわれわれ内地においては、現状はわかりませんけれども、あの接岸地帯の関係その他の状況で必ずしも昭和基地は適当な基地でなかったというような意見があるわけであります。そういう点について、西堀隊長は現場に一年以上もおられたのでございますが、一体昭和基地が適当な土地であるかどうか。またそのほかに適当な地域があったかどうかということについては、現場におられましたのでおわかりと思います。その点についての西堀隊長の御意見をまず承わりたいと思います。     〔委員長退席、坂田委員長代理着席〕
  10. 西堀栄三郎

    西堀参考人 ただいまの御質問に対しましてお答えいたします。これは問題を二つに分けるべきだと思います。まず昭和基地そのものの地点は、先ほど私が御説明申し上げましたように、確かにどの南極基地と比べましても、得がたいいい場所一つであるということは申し上げられる、また確信しておるわけであります。問題は第二の問題である接岸の容易さという問題でございますが、確かに今回の経験に徴しまして、また昨年の場合にいたしましても、決して容易な場所であると言うことはできません。しかしながら一般にどこの基地を見ましても、毎年接岸の容易さにおいて同じようであるということは言えないと存じます。しかし他のもっと近寄りやすい場所に、いい場所がないかという点につきましては、実はそれほど広範囲にわれわれとして調べたわけではありませんけれども、昭和基地から東北方、いわゆるオラフ海岸と称するところがありまして、これは調査に参りましたときにもそういうことを一つの目標に置いて調査をいたしました。ところが不幸にして四十二度半、すなわちオーストラリヤの領域と称する限界と、われわれの昭和基地との中間あたりに当るところまで行って参りましたが、その結果二、三可能なる場所はないではございません。特に四十二度半のところにあります、われわれ勝手に日の出岬と称したところでございますが、その場所基地として可能性は十分ございます。しかしながら昭和基地といいましても、この場所昭和基地そのものに船が接岸し得るような土地というものもあるということを申し上げたいのであります。これは昭和基地の周辺に氷山がたくさんございます。この氷山というものは必ずその場所に広い開水面ができなければ氷山の移動はいたしません。それがために逆に申しますとあれだけたくさん氷山があることからして、オングル島附近は、いつか相当広い範囲に開水面が出たという年があるということであります。この年が一体何年目にやってくるかということは、これはつまびらかではございませんが、しかし過去十年ごとに偶然写真がございます。これはノルウエーの写真とアメリカの航空隊の写した写真とがございますが。このいずれを見ましても、氷山の配置がそれぞれことしと全く違うのであります。従って十年以下の周期でもってそういうところに開水面があったということがわかります。そういうことからして、ことしの状態が平均の状態であるか、あるいは最悪の状態であって、それよりかもっといい年ばかりがあるかということにつきましては、これはやや私の気持では、開水面のもう少し広いのが普通であるような気がする、これは資料不足で的確なことは申し上げられませんが、そういうことが言えると思うのであります。  なおいずれにいたしましても、こういう仕事というものは絶対安全という、また絶対確実ということをいい得るような性質の事業ではございませんで、ある確率のもとにおいてのみ、またある確率の限度においてのみ決定すべき問題であると私は思っておりますので、ただ御参考までに状況を申し上げた次第でございます。
  11. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 本年は不幸にして本観側ができませんが、あのままに捨てておいていいものであるかどうか、また日本だけが参加できないことになるが、今後継続するのには、一年休むと差しつかえができると思うのですが、そういう点について西堀隊長はどういうふうにお考えになっておるか、ちょっとお伺いしたい。
  12. 西堀栄三郎

    西堀参考人 この問題につきましては私個人の考えさえも言えないくらい大きな問題でありまして、今ここで申し上げることはできませんが、隊員十一名の持った感情を申し上げますと、われわれといたしましてはある意味の苦労をいたしております。それがためにどうしても愛着の深いあの昭和基地で、今後とも永続的な研究をしていくべきものじゃなかろうかというふうに感じておるわけであります。先ほども申しましたように、あの土地というものがいろいろな地球観測的なことをやるのに最もふさわしい場所であるという確信が、今申ましたことをさらに裏づけておりますし、またもしこれを中絶するならば、ただに観測という問題だけではなく、日本の青少年に与える影響が相当大きいのではないか、何とかしてこれを継続していかなければ、将来の日本の国際的立場というものをも考えて重要ではなかろうかというふうな工合に、私たちひそかに考えておる次第でございます。
  13. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 もう一点お伺いしたいと思います。今後問題になるのはあとで永田隊長から伺いたいと思うのですが、西堀隊長個人の考えでけっこうですが、今の昭和基地の家屋、器材、もっと大きなものは領土権の問題、こういうことがいろいろ問題になってくると思うのです。そういう点についての今の問題と関連して、西堀さんはどういうふうにお考えになっておるのか。これは文部省にいろいろ伺う参考のためにその点についてもう一点だけお伺いしたいと思います。
  14. 西堀栄三郎

    西堀参考人 他の各国の基地を見ますと、各国の基地のうち大半はいわゆるシェル・ファイスと称せられる非常に厚い氷の上に基地が設けられております。少数の国々が露岩の上に建てておるのであります。きようの新聞で見ますと、アメリカのリトル・アメリカ基地も放棄して、マクマード・サウンドにこれを移すという話がございますが、やはりリトル・アメリカはシェルフ・アイスの上にございますので、それを露岩地帯にありますマクマード・サウンドに移したという点からかんがみましても、昭和基地の位置は露岩地帯にありますために建物やあらゆる施設は今後非常に長期間保存し得るものと考えます。もちろん使用してもしなくても保存し得るものだと思うのであります。ことに持って参りました器材類は、わが国の最も優秀なる技術によってなされたということを立証するごとくはなはだ丈夫でございまして、このものは十分使用にたえ得るのでありますから、これは役に立つと思うのであります。  ただ領土権とかいう問題につきましては、私は法規上の問題は全く無知な人間でありますので、全くわかりませんが、気分的に申しますと、ああいうところに別荘を建てたらいいだろうな、こう思うくらいな気持はしているわけでございます。はなはだつまらないことを申しまして……。
  15. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 どうもいろいろありがとうございました。今度は永田隊長にお伺いするんですが、永田隊長は立場上からも当然そういう気持があると思うのでありますが、実はこの問題は日本最初の非常に大きな計画でありまして、いろいろな工合でこういう結果になったんですが、隊長としてはどうしてもこれを続けたいというような決心とか御決意等を発表されておるわけですが。第一回にはオビ号に助けられ、今度はバ一トン・アイランド号に助けられたのでありますが、一体宗谷の船でこれがやっていける考えがあるのか、また何かの方法でこうやったならば一つ成功してみせるというようなそういう御決意ができるものであるかどうかということをお伺いしたいと思います。
  16. 永田武

    永田参考人 お答えするのには非常にむずかしい問題でございますが、ただいまお話のありましたように、私個人と申しますよりは、一緒に昨年度及び今年度参りました隊員の諸君のすべてが、われわれの昭和基地中心とする観測を続けていきたいという非常に強い気持を持っているわけでございます。これは単に日本が、地球観測年はことしで終りますけれども、そのあと勝手にやっていこうというわけではございませんで、御承知の通りに南極に関しましては国際地球観測年が終りました後も、国際協力の形でやはりユネスコの中でやっていくということがきまっておりますもので、その中に参加していきたいという意味でございます。  問題は宗谷でやっていけるかどうかという問題でございます。これは一つ規模の問題でございまして、私はかねて今度の第二次の隊が出かけます前に方々で申しているわけでございますが、もしもわれわれの第二次の観測隊越冬隊規模がそのまま全部できましたならば、南極における最大の、もっともりっぱな観測所になるということを申し上げたのであります。それはそう申し上げたのでございますが、逆に申しますと、日本の各界の方々は非常に実力を持っておられますので、非常に重要な観測であるし、またそうしばしばこない機会であるから、何とかしてこの機会にこれもあれも観測しようじゃないかという御希望がありまして、そのときの判断では、もしも天候その他がかなりよかったならば、そこまでは行き得るだろうというので、私はそれを全部引き受けたのであります。今度の場合に、たとえば十名もしくは十一名、つまり昨年度と同じ程度規模——しかも二年目でありますから、機械その他は新しいと申しますか、より進歩したものに置きかえるというようなことでまずそれをやる、そうして、もしも天候その他が許せば、それを十三人、十五人というふうにふやすということでやっていく、そういうプランであったならば、果して今度できなかったかどうかという反省をいたしてみますと、私は、本年度はまず十人、十一人程度確保するのだという最初のプランで出かけて参りましたならば、今度の場合も十中八、九できていただろうと確信いたします。  そういう意味で、ただいま私はそれは規模の問題であると申し上げましたのですが、しからば十人、十一人、あるいは十二人といったようなものが意味がないのか、あるいは観測関係、あるいは南極の科学的開発としてどのくらい意味があるかということになりますが、これは逐一全部のことを申し上げれば非常に長くなりますので、ごく結論的に申し上げますが、それはどのくらいかと申しますと、イギリスもしくはフランスの基地がやっている科学的観測面で——イギリスのフックスの横断は、これは地球観測年ではない、別の問題でございますが、たとえばイギリスが地球観測年に参加している観測所もしくはフランスがやっているという程度と同じ内容のものであります。言いかえれば、ことし日本がやろうといたしましたことは、アメリカよりもソ連よりも、位置観測所としては大きくございませんが、非常に道具のそろったものにしようとしたことであります。その意味で、これは国際協力で、各国十一カ国が協力してやっていく限り、先ほど西堀さんの御説明がありましたように、何しろ昭和基地付近というのは南極全体の自然にとりまして非常に重大なかなめの点でありますから、そういう点があろうと思います。  ただ、ただいまの御質問では、それを確実にということでありましたので、私どもの希望といたしましては、最低の場合はどうするかと申しますと、やはり航空機による輸送と、最悪の場合は片道輸送であります。すなわち雪上車が何べんも往復して運ぶのではありませんで、宗谷から基地まで運ぶ、そういうことをやって、実際非常に詳しい積み上げを——私どもは二十四日に断念いたしまして、その晩は実はやけ酒を飲んでおりましたが、翌日からはさっそくこの再建計画を一生懸命いたしまして積み上げた数字を持っております。それによりますと、相当大きな、つまり物を運び得るヘリコプターが一台か二台ありますならば、それからビ—バ—とか、そういうのがございますならば、最初片道輸送と航空輸送ということをいたしますれば、接岸距離が四十マイルくらい——たとえばことしも最初からそのつもりならば四十マイルあるいは四十五マイルのところへ行き得る可能性はあったわけであります。そういうことでやれると考えております。
  17. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 これは最初のことでございますからいろいろ失敗もあると思いますが、この南極はもともと天候に支配されやすいということは永田さんも御存じだろうと思います。私たちは、せっかくやられるならばやはり成功してもらいたいというのが国民の感情だと思いますし、しかもこれは御承知のように予算の要ることでありまして、予算の獲得にいろいろ文部省が非常に苦労されたことは知っておりますが、ただ国民がやはり納得して——まあ幸いにして今度は人の被害がなかったので国民は喜んでおりますが、やはり何といってもわれわれが新聞やラジオで騒ぐ点もありますけれども、先ほど西堀隊長は皆が心配しているのでびっくりしたと言われますが、これはあなた方の責任ではございませんけれども、どうも合理的でないような点を考えて、ああすればよかったのじゃないか、こうすればよかったのじゃないかというような非常な不安を国民は持っておるわけであります。しかし今後やる場合には、この次はこれだけの確信があるからこれだけの設備をしてくれ、これだけの飛行機を持たせてくれというような、そういうあれがないと、国民がなかなか納得しない点があるわけであります。こういう点について、これはわれわれ国会議員の一人として予算は出すけれども、しかし前のような失敗——失敗というのはおかしいけれども、とにかく本観測ができなかったということについて国民は相当失望をしている。これはジャーナリズムの関係もありますけれども、やはりこれだけの大きなことをやるのに、ああもしたかった、こうもしたかったがあとの祭だではだめなんです。やはりこれだけの確信は持っておるというようなことだけはやっておかないと、私たちは今後不安を持つわけであります。それで、せっかくこれだけのことをいろいろやり——長年日本人が、白瀬中尉が南極探検をやって以来何十年目にこういうことをやったのでありますが、しかし世の中が人工衛星の時代になりまして、日本人がこんな南極観測ぐらいのことでそう騒ぐ必要はありませんけれども、初めてのことであったから非常に騒いだ、こういう点で永田隊長にお願いしたのでありますが、やはりどれまでやればこれだけできる——日本の予算にしても何百億という予算があるわけではないのでありますから、その予算で縛られるということは、やはり一通りこれだけのあれがなければできないという確信を持ったものがないと、ちょっと今度は国民がなかなか納得しない面があるように考えるのでありますが、その点についてはどういうふうなお考えを持っておられるのか、お伺いいたしたいと思います。
  18. 永田武

    永田参考人 ただいまの御質問に対しましてのお答えは、先ほどお答えいたしましたことと重複すると思うのでございますが、もちろん現地の氷の状況及び気象状況ということに支配される問題でありまして、それの見通しがどれほどであるかということが入って参ります。で、私は先ほど申し上げましたように、一昨々年が本年程度に悪くて、昨年はややよくて、一昨年は非常によかったということをお話し申し上げましたが、しからば来年はどうなるかということでありますけれども、これはわれわれのつまり専門からいたしましても、四カ年のデータでもって来年を的確に当てることはなかなかできませんので、それなればこそ、実は各国が約四十の気象観測所を設けまして、そして南極大陸中心とする南半球あるいは地球全体の気象を的確に当てようという努力をいたしておるのであります。もしこの国際協力が成功すれば、数年ぐらいでぴったり当るようになるかもしれませんが、ただいまのところはだれにもわからないのであります。そういう意味で、最低どこまでかというお話でございましたが、私が先ほど申し上げましたように、大体最悪の場合には空輸と、それから雪上車片道輸送で二十トンないし二十五トン程度の資材を新たに送りますならば、それで十人、十一人程度の、その半数が科学者であり、そして先ほど申しましたように、フランスもしくはイギリスが現在やっております程度観測研究を遂行できる、私の予想では、先ほどの四カ年の天候資料で、それは確実にできるということでございます。そして天候は私はことしよりはいいだろうと思います。しかしこれは確からしさが今申しましたわずか四カ年の資料によりまする、しかもそれはふらつきという理論を使いましてのことでございまして、なかなかそれでやることはむずかしいのでございますが、それでやりまして、よくなれば、つまりもっとよくなると申しますことは、接岸距離昭和基地より二十海里ないし十海里になるということになりますれば、多量のものが運べるわけでございます。そしてことし準備いたしました資材というものはすべて健全でございまして、もちろん食糧のごとき、冷凍食品のごときものはこれは処置せねばなりませんけれども、他のものは健全でございまして、新たにそういう観測器械そのものは購入していただく必要はないわけでございますから、それもそういう好天候の場合には、それだけ分増していくということにして、もしそれにしてもやや天候がよくて十五人程度になりますれば、これはなにしろ場所観測研究上非常に要点でございますので、非常にりっぱな、すなわち国際的な協力の中でも目立った仕事ができると考えております。
  19. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 山本航海長に一言お伺いしたいのですが、実は隊長の、宗谷をもう少し改装すればというような意見もあり、おそらく来年やろうと思えば、新しく船を作るような余裕はありませんので、当然宗谷の改装ということになると思うのです。私も宗谷に乗せてもらって知っておるのですが、果してあの船を改装して、たとえば今度の場合は、一万三千馬力も持っておるようなバートン・アイランド号でも砕氷能力に欠けたということもあるわけです。一体山本さんたちの考え方で、宗谷を改装して、あの船でほんとうに昭和基地接岸ができるかどうかということについて、これは天候の工合もあるから、それはわかりませんと言えばそれきりだけども、しかしわれわれ国民としては、そう言ってしまってからあとでしまったというのではしようがないので、初めから困難なことは知っておるんだけれども、宗谷のあの能力を改装して、それで間に合うものかどうかということを、これは専門家の立場からお聞かせ願いたいと思います。
  20. 山本順一

    山本参考人 先ほど隊長からお話がありましたように、ことしの氷状が最悪であるかどうかということもわかりませんし、来年がどうなるかということも、これは非常に予測するところの資料が少いために、予測が困難なのでございますが、しかしやるからには、少くともことしのような氷状を想定に置いて計画を進めなければならないというふうに私個人としては考えております。それでもし宗谷がやるということになりますれば、現地の実情というものをよく申し上げまして、海上保安庁のそれぞれ専門の分野からいろいろ今検討をしておられるわけでございますが、宗谷の砕氷能力という点につきましては、これは私の感じとしましては、もう砕氷能力をあれ以上上げるということはほとんど不可能ではないかと思うのでございます。与えられた宗谷の現在の砕氷能力でもってやれるものか、やれないものかという、その可能性の確率の問題でございますが、これもやはり今隊長から申し上げましたような、空輸を主体として、さらにできるならば雪上車片道というようなことを考えれば、あるいはこの可能性ということも相当確率があるのじゃないかというふうに、私個人としては考えております。
  21. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 西堀越冬隊長に、もう一点だけ最後にお伺いしたいと思うのですが、一年間越冬隊十一人で苦労されたことを思い、いろいろその後週刊雑誌、新聞などに、あのときのいろいろな話が出て、われわれ読んで、想像もできないようなことだと考えておるわけですが、この一年間の苦労はやはり将来の日本南極観測についていろいろ参考になり、これが根となって将来の日本の発展に資するところが多かろうと思いますが、この一年間に、どういう方法をしたら今後さらにこれに積み重ねていくような方法ができるのか。また当時一年間おられて、いろいろ不自由も感じられたと思いますが、どういうことを今後やっていったならば、将来の成功に資するようなことになるかというようなことの参考の御意見がありましたならば、最後に承わりたいと思います。
  22. 西堀栄三郎

    西堀参考人 この問題は、実は私たち参ります以前には、私もまた他の隊員も、あるいはまた国民の皆さん方も、すべて未知なゆえに、大へん御心配していただきましたし、私たちも非常な不安を持っておったことは事実であります。しかしながら幸いにして、行きました人間もいい人が選ばれておりましたことがまず第一番に考えられまして、このために非常に楽をいたしました。また物的な問題は、先ほど申しましたように、十分与えられておりましたので、何の不足もありませんでした。しかしながら何といってもやはり熾烈な環境に置かれておることはいなめない事実であります。ところがもし私たちの場合のように、皆さんの大へんな精神的あるいは物的な支援というものがあります場合には、だれしもそういう苦労というものは決して耐えられないようなものではなくて、常にその方々の御期待にそむかないようにしたいという気持隊員すべてにありますから、何のトラブルもなかった。  なおまた自分たち国際協力をしておるという意識が常にわれわれを刺激しまして、どんな困難をも克服しようとしておった。これらのことから考えますと、将来どんな観測隊がここで作り上げられましても、それは常にそういう支援を受けておるという意識を持っておる以上、私は必ず安全にやっていけるものと考えております。でありますから、ある困苦欠乏に耐え得る性格の人さえ選ばれており、そういう支援がある以上、何ら心配なく生活はできるということになります。また観測等の問題にしましても、何しろああいう大自然の非常に新しい事実のたくさん転がっておるところにおいて、何がしかの観測器械を与えられますならば、その観測は必ず人類に非常に大きな貢献をするに違いないということはよくわかります。でありますから、将来そう大きな規模でなくても、きわめて少人数な規模であっても、私はこの昭和基地において観測を続け調査を進めるということは、非常に意義深いことだと信じておるわけでございます。  なお先ほどから問題になっておりますいわゆる着岸その他接近という問題になりましても、一度や二度、しくじったからといいますか、うまくいかなかったからといって、これをやめるべきような筋合いのものではない。ことに日本経験が浅いのでありまして、他の国々のように逐次今日まで長年かかって積み上げてきた、それに対して近づくためには、当然あり得るところのできごとであって、これでひるむようなことがあっては、日本の国民全体に対する非常に悪い精神的な影響を与えるのじゃなかろうかと、ひそかに考えておるわけであります。  なお山本航海長がおっしゃいましたように、宗谷の今までの砕氷能力というものを少々増してみたところで、そんなものは五十歩百歩で、私はよけい違わぬと思うのであります。それよりか航空機の方に力を入れる。最も抵抗の多い氷の中をぐんぐんめくらめっぽう行くよりか、上を飛ぶか下をくぐるかという手のあることを忘れてはならぬと思うようなわけでありまして、この次もぜひやっていきたいと私たち思いますけれども、その場合にはぜひそういうものを加味していただいて強化していただくことが願わしいと思います。  また私は今度の問題に対してあまり批判する立場ではありませんけれども、ただひそかに考えますと、これはどこが悪かった、ここが悪かったということで、あとになって感ずることはありますけれども、これは全体の計画といいますか、そこのところにもしウイーク・ポイントがあったとすればあったのじゃなかろうか。その点については先ほど永田隊長がおっしゃいましたように、フレキシビリティのある案が不足しておったということがすべての根本じゃなかろうかというふうに、ひそかに考えておるわけであります。
  23. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員 いろいろ議論があっても、初めてのことでありますから、いろいろ無理もあったと思うのです。ただ国へ帰られて地方へおいでになっても、いかに国民が関心を持っておったかということは、これはお三人の方が経験されたと思うのですが、そういう点で、今度は全部成功ではなかったけれども、しかし国民がこれに直接の関心を持っただけでも大きな、いい結果が出ていると思うのです。どうか御自重、御自愛されて、さらに成功されることをお願いたしまして、私の質問を終ります。
  24. 坂田道太

    ○坂田委員長代理 河野正君。
  25. 河野正

    河野(正)委員 実は先回の本委員会におきましても、今後この問題を中止することはまことに残念である、従って永田隊長あるいは松本船長等が帰還されて、その上でいろいろ最終的な話し合いを進めて、もしできることならもう一度この観測を継続していきたいということを、文部大臣は本委員会におきましても言明をされておるのでございます。先ほど来いろいろと論議を承わって参りますと、大体の基地の設定あるいは設営等におきましては、何ら問題はなかったというふうなお話のようでございます。そこで問題となりますのは、時間的な問題、あるいはまた宗谷の能力の問題、こういったことがやはり何と申し上げましても問題となるものと考えます。ところが外国におきましても、今度の観測におきましてはそれぞれいろいろな苦労を重ねられたようでございます。なおまた米ソにおきましては、強大な国力の上に軍艦あるいは航空機というものも惜しみなくつぎ込んだというような話も承わっておるのでございます。ところが今度永田隊長以下非常に御苦労をいただきまして、そして非常に大きな御成果をいただいたのでありますけれども、しかしながら一面におきましては、本観測、いわゆる本番が失敗に終ったということで、いろいろ論議も行われておるというのが実情でございます。それらにつきまして、実は学術会議計画というものに何らか欠陥があったのではないか、あるいはまたもともと宗谷という老朽船を使うということに問題があったのだ、あるいはまた文部省、学術会議、海上保安庁といった三者一体でありまするところの南極観測統合本部に、予算その他の面おいていろいろと不統一の点があったのだというような意見がいろいろ述べられております。先ほど来西堀隊長からも、もしあるとすれば全般的な計画において問題があったというふうなお話もあったのでございますけれども、ただいま私が御指摘申し上げまするように、学術会議の問題あるいは宗谷の問題、あるいはまた統合本部の問題等々の点が、今日から見ますれば結果論でございまするけれども、いろいろ論議されておるのがこれまた事実でございます。そこでこういった点につきまして、いろいろお話にくい点もあるかと思いますけれども、しかしながら、われわれはこの反省というものを一つの教訓にして、そうして今後さらに成功という方向に導いていかなければならぬ、そういった立場から、建設的な立場から、一つどういう点にほんとうの原因があったんだというような点についてお話願えれば、今後の問題等につきましても、非常に有益ではなかろうかというふうに私は考えますので、そういった点につきまして、率直な御意見を承わりますならば幸いだと思います。
  26. 永田武

    永田参考人 まことに失礼でございますが、ただいまの御質問に知っている限りお答えいたしますが、御質問の中に学術会議のことがございましたのですが、私今ちょっと考えておりまして、思い当ることがございませんので、もう少し私が具体的に答えられますように、内地で何事か問題があったのか、もう少し詳しくお尋ね願いたいのでございます。
  27. 河野正

    河野(正)委員 私どもも専門家でございませんので、具体的にはっきりわかりませんが、学術会議計画が多少無計画であった、そういう計画に基いて実行されたので、いわゆる今日の失敗が起ったんだというふうな話があるわけでございます。私どもは専門家でございませんから、具体的な点はわかりませんけれども、そういった点で、もし専門家の立場からお気づきになった点があれば、お漏らし願えればけっこうだというふうな質問でございます。     〔坂田委員長代理退席、佐藤委員長代理着席〕
  28. 永田武

    永田参考人 ありがとうございました。よく御質問の要旨がわかりました。  先ほど西堀さんもおっしゃいましたが、それは全体として甘かったということはどうしても反省しなければいけないということであります。学術会議云々もございますが、それは結果から見まして、確かに南極観測をやるならば、これだけの観測研究をやれ、これもやれということで、先ほど私が申し上げましたように、非常に盛りたくさんな御注文がございました。もちろん茅学術会議会長も、私も当面の責任者といたしまして、具体的な面でもう少しまからぬかということをいろいろ言ったわけでございますが、結果におきまして、私が先ほど申し上げましたように、何と申しましても条件のいい場合にはできる可能性もあるんだからというので、最後にはそれを引き受けたわけでございますから、責任はあるわけであります。そういう意味でもしもありとすれば、これは学術会議というお話がございましたが、日本全体が幸か不幸かこの方面の自然現象の研究におきましては、質的にも量的にも世界的なレベルでかなり進んでおります。と申しますのは、ほかの学問も進んでおります。たとえば原子物理学の理論といったようなものもございますし、あるいは生物の部門というのもございますが、それらとともに非常に進んでおりまして、しかもかなり優秀な人物がたくさん政府の機関にもおられます。そういうことで、もしもかりに日本南極基地を設営するということについて、もっと強大な、つまりアメリカに近いような力を持っておりますならば、観測あるいは人及び機械には不足をしないというのが日本の現状でございます。そういうことのために、その人たちの立場からすれば、それでもやはりかなり援助して盛り込んだということなのでございますから、私どもはやはりその気持に負けたと、今から言えば言えるわけでありますが、そこまでは無理かもしれないが、とにかく持っていこう、やってみようということにしたわけであります。そういう意味で結果論的には計画が甘い、こうおっしゃればその通りであると考えます。もちろん私どもは、少くとも私あるいは西堀さんは、かなりに多くの今までの南極のエクスペリションに関します文献その他を研究いたしまして、西堀さんまた私は諸外国の、この方面経験のある外国に派遣されまして、ひざをつき合して日本の現状その他というものについて話し合い、かつアドヴァイスを受けております。その結果確かにやはり日本も何年かかかって、少しずつ基地を建設していくべきである、やはりそうであったという反省をいたしております。私は文教委員会委員長から電報がありまして返電をいたしましたときに、いろいろ考えたのでございますが、そのときに多分こういうことを書いたと思うのでございます。それはいろいろお礼を書きましたあとに、日本もやはり諸外国と同じようにステップ・バイ・ステップにやっていかなければならなかったのだ。あのとき日本の地球観測年、これは今さら言うのはおかしいのでありますが、多少世論に押された傾向もございますが、うまくいったらやるかもしれないから、この際先ほど言ったように、二年くらいの間に急遽世界一の、南極一の観測所を作ってやろうというような野望を持ったことは、やはりうぬぼれであったという反省はしたという意味のことを、もう少し丁重に返電に打ったつもりでございますが、私は全くそのつもりでおります。それで先ほど西堀さんから御説明のありましたように、各国の基地も何年も何年もかかりまして建設したものでございます。そして幸い昭和基地南極全体で、建物その他は腐ったり飛んだりすることはございませんが、下が岩盤で、しかも割合に去年の経験ではブリザードその他を吹き込ばしてしまうような強い風も吹きそうもないし、地形的に見ても、将来といえども比較的おだやかな気候のところであるというために、ずっと残るわけであります。そういうことで、一種の碁でも打っているようなものでございます。それにだんだん広げていくわけでございますが、そういう意味で何年かかかってやっていく、そういうことをやるべきである。であるから今年もやはり——いろいろ世論というのは、一般の方々のみでなく、直接関係しておられる政府及び民間の観測関係の方々、専門家も含めましての世論でございますが、そういう方の御熱心のあまりに押されて、少し宗谷の実力以上に大きな計画を持ち過ぎたという反省はいたしております。
  29. 河野正

    河野(正)委員 御承知のように昨年はソ連のオビ号、それから本年はアメリカの、バートン・アイランド号でありますが、こういった各船にそれぞれ援助救出を願った。ところがただいま永田隊長のお話を承わりますと、日本の科学者の水準というものは非常に高いのだ。なおまた優秀な人物も非常に多いのだというお話でございますし、私どもも率直にその点につきましては認めて参りたいと考えます。そこでこういった日本の科学水準というものが非常に高く評価されておりますので、学術のみに参加するという意味で、接岸の方はむしろ国際的な協力を求めていく、船の方は国際的協力を求めていく。むしろ日本は、永田隊長おっしゃいますように、学術水準は非常に高いのでありますから、そういった面で日本協力していく。そういった意味で、もちろん新しく砕氷船を作るということにつきましても二、三年はかかる。あるいはまた数十億円の巨大な予算もかかるというふうなことでございますから、日本の場合には、こういった世界から高く評価されております学術的な面に協力するというような立場から、むしろ接岸の方は初めから国際的な協力を求めた方がいいのではないかというふうな考え方を持っておるわけでございますが、この点は永田隊長はいかがお考えになりますか。また専門的に山本航海長あたりが考えられまして、そういった点についてどういうふうにお考えになられますか、一つ率直にお漏らし願えればけっこうだと思います。
  30. 永田武

    永田参考人 ただいまの御意見は確かに一つのお考えだろうと思います。そうしてもしも日本の各界の方々がぜひそうしたいということになれば、必ず実現できると思います。具体的に各国の事情もありますから、どの国がどうということをすぐお答えするわけに参りませんけれども、可能であると思いますが、先ほど来申し上げておりますように、まだ私実はおっしゃいましたようなことも、たくさんの可能性の中の何番目かに私の頭の中で考えていたことでございます。一番目は、先ほどから申し上げておりますように、宗谷で極力強化してやっていくのが最善であろうというわけでございますが、場合によりましてはよその国ではすでにそれをやっているわけでございまして、たとえばソ連のミルニーの作業の一部に、実はバートン・アイランド号が援助に行っておるわけでございます。ごく一部でございましょうが……。そういうことで、いろいろありますが、南極におきます国際的な協力に関しましては、お互いにあそこの住民だというのでしょうか、仲間だというので、こちらにおります考えではへえと思うようなことがしばしば行われておるわけでございます。そういう意味で、ただいまの御意見は実現性のないことではないと思いますが、私は先ほどから申しておりますように、日本宗谷で極力やっていくということでも、これを積み重ねていくならばかなり確実に、しかも所期の目的を達し得るものだと考え、それを私は第一に念頭に置いております。
  31. 河野正

    河野(正)委員 今度の観測に当りましては、私は日本の科学技術というものが世界各国からいろいろの面で評価をされたというふうに考えるわけでございます。御承知のように今度現地に持っていかれましたいわゆる発電機あるいは雪上車、いろいろあると思いますが、そういった日本製のものがどのような性能を持っておったかというような点につきまして、世界各国が非常に注目しておるのじゃないか。あるいは日本の国内におきましても、今日の日本の科学技術というものがどういうふうに世界的な地位を占めておるかというようなことにつきましても、私は非常に大きな関心を持っておるのじゃないかというふうに考えるわけでございますが、そういった機材等におきます日本の物の性能がどのような状況であったのか、この点一つお漏らしを願いたいと思います。これは西堀隊長に伺いたいと思います。
  32. 永田武

    永田参考人 まず私が概略申しまして、そのあとでまた西堀さんから具体的な一、二の例を申し上げて御返事をしていただけると思います。まず性能の問題がございましたが、何といたしましてもヨーロッパの諸国及び、たとえばアフリカの人たちにとりまして驚きであったことは、日本隊の物が、飛行機、若干の精密機械を除きますすべてのものが日本製であるということであります。こういうことをやっておりますのは米国とソ連と日本しかないのであります。不幸にして飛行機は戦後のいろいろな条件のためにできません。若干あるいは写真機その他で、特別の航空測量用の写真機で、これはアメリカでもツァイスの機械を使うということになるわけでありますが、あるいはごく小さなもので、ラジウスと申しまして、山の中でたく火でございますが、そういうものは特殊のスエーデン製とか、いろいろなものがございますが、すべての、建物にいたしましても、雪上車にいたしましても、全部日本製でございます。たとえば雪上車にいたしましても、これを作っている国というのはカナダとアメリカでありまして、ほかはないのであります。日本はすでに作っております。しかも使っておりますものをちょっと改良いたしまして持って行きまして、すでに、豪州の観測隊が発注しております。私、留守中になりましたが、昨年度の経験によりまして、豪州がさっそく日本のを一台買いまして、よかったらもっと買うということです。そういう意味で、まず物が全部日本製であること自身が各国にとっては驚きであるということであります。その成績でございますが、私の知っております限りでは、雪上車建物、発電機その他のものは何ら故障なく十分働いております。みんな喜んでおりますことは、日本製品でありますのでラベルその他も日本語でありますし、仕様書も日本語であり、きわめて楽であって、こんなありがたいことはないというのが越冬隊員諸君の話であります。その一、二の例は直接西堀越冬隊長からもうちょっと補足していただいた方がよりほんとうに近いのじゃないかと思います。
  33. 西堀栄三郎

    西堀参考人 今永田隊長のおっしゃいましたことに、わずか補足させていただきますが、基地で使いました機械類というものは、ときどき故障を起したことがございます。しかし、それの大半と申しますか、全部と言いたいのですが、われわれの取扱いの方の技術不足ということにあったと思います。発電機にいたしましても、また通信機にいたしましても、建物にいたしましても、あるいはまた雪上車にいたしましても、これみなわれわれが熟練不足による欠陥であったということは言えると思います。  なお、少し別のことになりますが、先ほど外国船の援助というお話がございましたのにちょっと私見を述べさせていただきますが、実は各国の気持をしょっちゅう無電で、いろいろな点で交信をしておりますので、外国の基地のいろいろな気分がほのかに無電でで通じて参りますが、これによりますと、先ほど永田隊長がおっしゃいました通りでございまして、この南極における事業というものは、いわゆる国境を離れて互いに協力するということを非常な喜びとしてやっているというふうに感ぜられますので、外国の援助を得ても、端的に申しますと、誇りを傷つけられるようなものでは絶対ないというふうに私は考えております。やはり安全度を増し、いわゆる成功の確率を高めるという意味において、この外国の援助を得るということは、私個人としてはきわめて望ましいと思います。だが初めからそれをやっておるということは、かえって反対の方で手薄になる心配を持ちますので、やはり自力でやれるだけの力を最初にこしらえておいて、プラスそういうものを考えるということが非常に望ましいと私個人は考えておるのであります。
  34. 河野正

    河野(正)委員 現在南極に十カ国、六十余の各国基地があるわけでございます。ところが私どもが仄聞するところによりますと、おそらく各国はこの基地を引き揚げないだろうというようなことがいわれておるようでございます。その理由とするところは、南極に特に豊富でございまする地下資源、こういったものが非常に豊富でございますので、その調査基地として今後いろいろ活動をしたいというふうな意味で、今後十カ国、六十余の基地があるけれども、その基地は撤退せぬのじゃないかというようなことがいろいろ伝えられておるようでございます。しかも先日来新聞をながめますと、すでに越冬隊におきましても、調査班が、昨年の秋でございますか、放射性能を持ったウラン鉱を発見したというようなことも大々的に国内の新聞に報道されております。一説によりますると、アメリカあるいはソ連においても発見したのであるけれども、秘密にしておるのだというような話も承わりますが、そういった資源的な価値の点についてどういうふうにお考えになっておりまするのか、一つお漏らし願えればけっこうだと思います。
  35. 永田武

    永田参考人 ただいま日本観測隊は、先ほど御指摘になりましたように、確かにある場所でウランのピッチブレンドを見つけております。採取いたしておりますが、それはまずあの地域全体の地質調査、それは学問的な意味あるいは科学的な開発の意味で調査をいたしましたときに見つかったわけであります。一般的に申しますと、ちょうどこの間フックスが横断いたしました道よりもわれわれの側、つまり豪州からアフリカの側のところと、それとアメリカ側とは地質が違いまして、あのフックスの通りましたところから向うは第三紀と申しまして、割合新しい火山もありますれば、地層も動いておる、石炭もあるというところでございます。それからこちらの広いところ、日本側の昭和基地側を東南極大陸、それからアメリカ側を西南極大陸と言うのでありますが、東南極大陸の方は、前カンブリア紀と申しますか非常に古い。すなわち何かと申しますと、南アフリカ連邦あるいはオーストラリアの西部といったところの地質と同じ非常に古いものでございます。それでいろいろのことで資源的には、豪州でも御承知のように金から始まり、南阿連邦ではダイヤモンドがら始まりまして、最近では南阿連邦はウラン・ブームでございます。そういうことがございますので、地質学的にはそういうものが出ても、ちっともおかしくない。つまり必ずあるというのではございませんが出てもいい素質を備えたところであるわけでございます。そういう意味で各国にはそういう希望なり目的を持っているもあるかもしれませんが、日本隊の場合は、ただいまわかっておりますことは、その辺の地質日本隊の昭和基地の付近も、先ほど西堀さんの御説明もありましたように、約四百キロにわたりまして地質調査もいたしまして、その結果かなり詳しい地質状態もわかっております。その一部として、ただいまのところはそういうものがあるということを率直に申し上げたのでございまして、非常にはっきり申し上げますと、南極観測隊の各国の中で、日本だけが完全なシビリアンと申しますか、でありまして、よその国の新聞記者に言わせますと、日本隊だけが一切の質問に対して答えてくれたそうでございまして、ノーコメントのところもだいぶございますが、そういう立場で申し上げたのでございまして特に隊の報告に意図があったわけではございません。
  36. 河野正

    河野(正)委員 ただいま資源的価値の問題について率直なお答えを願ったわけでございますが、私はやはり、日本昭和基地はもとよりのことでございますが、純粋の科学観測基地でなければならぬというふうにかたく信ずるわけでございます。ところがただいまもいろいろ御説明がございましたように、今日におきましては、南極一つの戦略的な価値あるいは資源的な価値、さらにめぐっては領土権の主張や国際管理等の問題がいろいろ論議を呼んでおるというふうに私ども承わっております。そこで私どもは、先ほども申し上げましたように、この南極基地というものはやはり純粋の科学観測基地でなければならぬという建前をとって参りますためには、いろいろ各国におきましては、一つの野望と申しましょうか、言い過ぎかもしれませんけれども、領土権の問題あるいはまた戦略的な問題等も論議されるような状態でございますので、そういった一つの野望を抱く各国に対して、南極というものはやはり人類共有のものだ、そういった点を強く主張するためにも、こういった純粋な科学観測基地であるという建前をとっておりまする日本昭和基地を捨てるということは、やはり私は国際的にも大きな問題を残すというふうにも思いますが、そういった建前からこの昭和基地をどういうふうにお考えになっておりますのか、この点につきまして一つ永田隊長からお漏らし願えればけっこうだと思います。
  37. 永田武

    永田参考人 私どもは全く立場から当然そうでございますが、科学者としての立場から、もちろんその途中にはいろいろなことをいたしますけれども、一本通っております筋は、あくまでも南極全体の科学的な観測にのみ目標を置き、それに全力を尽しておるわけであります。昭和基地はその一環として、しかもあの膨大な土地をとても一国ではできないというので、各国手をつないでやっておるわけであります。私は、地球観測年、その一部の南極観測に当って、引き続き日本の代表としてほとんど多くの場に出ておりますが、私は甘いのかもしれませんが、常に表にうたわれております人類全体のための地球全体の研究、特に未開発地域、の研究ということをそのまま信じ、そしてそれが実際とにかく理想の——口通りではないかもしれませんが、実際世界で進んでいると確信しております。そういう意味で私はその進め方に疑いを持たずにやっております。ただ科学というものは、私どもの観念では、すぐその場でないとしても、いつの日にか人類のよりよき発展のために、よりよき仕合せのために、いつの日にか役に立つことを確信してやっておるわけでございます。そういう意味でわれわれの南極における仕事もいつの日にか人類全体の役に立ってくるときがあるであろうと考えます。そういう意味で国会の皆様方あるいは政府の方々、直接そういう衝に当って指導される方々がいろいろお考え下さいまして、私たちはその直接の科学的探求の一線に立ってできるだけの努力を続けていきたいという覚悟であります。
  38. 河野正

    河野(正)委員 いろいろと貴重な御意見をお漏らし願いまして心から感謝を申し上げたいと思いますが、最後に現実の問題として一点お尋ねを申し上げたいと思います。  それは、国際地球観測年の仕事といたしましては、国内観測がございます。もし南極観測を放棄してしまう——ことしはどうせやらないわけでございますから、そういたしますれば、当然この際国内観測にこの一年間の重点を向けるべきではないか。これは予算面もそうでございますが、そういったことによって国際協力を行い、かつまた国際的な期待にこたえるべきではないか、本年の課題としてはそのように考えるわけでございますが、そういった点に対してどういうふうなお考えなりあるいはまた御構想なりを持っておられますか、その点を一つ最後に承わっておきたいと思います。
  39. 永田武

    永田参考人 私はこれからお答えをいたしますが、私の立場は、南極地域観測隊長でありますが、と同時に国際地球観測年——英語でアドバイザー・コミッティ・オブ・インターナショナル・ジオフィジカル・イヤー、各国から一名ずつ代表が出まして地球観測をやっております、その日本代表であります。その両方の立場でお答えいたします。  お言葉のように、南極基地観測は地球観測年の一部として本年末までやられているわけであります。同時に、日本の地球観測年の仕事も非常に着々と成果を上げつつありまして、私帰りまして二日ばかりその報告はずっと聞かされたのでございますが、いっております。ただこの場合に申し上げたいことは、これは地球観測年の問題というのは何かと申しますと、一国がその場所でどんなに金をつぎ込み、どんなに努力を、してもわからないもの、つまり国境その他のために制約を受けていてはわからない問題、たとえば気象にいたしましても、地球全体を取り巻く気象を、一国がやっているとほとんど同じような規模観測しなければ、幾ら金を使っても、アメリカ天気予報も当らなければ、日本天気予報も当らぬ、イギリスの天気予報も当らぬ。それは何かというと、結局その国境によって違う問題だと思います。そのために、第一の目標は、各国協力して地球全体に関するような大きなスケールで動くようなことを、しかも最近非常に物理学が発展いたしまして、今まで古典的な物理学で現象でごまかしておりましたことが原子物理学の発展で因果関係がはっきりわかるようになったこともたくさんございます。その新しい物理学の立場から、しかも国境を離れて、この一年半の間全力を尽す。そうしてしかも天気予報が、日本の汽車の時間表のように当るようにしようというのが理想でございます。理想までいかないかもしれませんが、その意味からいたしますと、現在の日本の面積というのは地球の面積に比べましては何%を占めるかということを考えますときに、それに必要以上のネットをふやすことは、日本の国土について特別の目的があれば別でございますが、地球観測計画としては意味がない。むしろ今国会あたりでお考えになりまして、その金で、中共が手薄だからあそこでうんとやろうじゃないかというようなことが出れば、それは地球観測の面からいたしまして別でございます。国内でやるという場合におきましては、特にそのことが地球観測年の国内観測に大きくプラスするとは考えません。
  40. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員長代理 小林信一君。
  41. 小林信一

    ○小林(信)委員 時間が延びてまことに恐縮でございますから、ほんとうに簡単な質問を一つ申し上げまして、御答弁願いたいと思います。  先ほど西堀隊長のお言葉の中に、この失敗をこのままにしておいて今後継続しないというようなことは、青少年の希望というふうなものに非常に悪い影響を与える、だからぜひとも何らかの方法でこれは継続したいというようなお話があったのですが、私、これは非常に意義のあるお言葉だと思います。そこでその点からお尋ねするのですが、何か今のところの日本の青少年層の受ける感じというものは、いわゆる観測上の南極の問題でなく、従来よく言われておりますような探険的なものに失敗したというふうな感じでいるんじゃないかと思うのです。私はこれを日本の科学とか、あるいは世界の国際的な観測というふうな問題から、もっと青少年諸君にこの問題を深刻に考えさせる大事な教育的な機会でもある、こう考えるわけなんですが、そこでお願いしたいことは、この日本の度の第二次越冬隊が上陸できなかったということは、国際観測にこういうふうな穴があいてしまったとか、日本の第二次越冬隊が行くことができたならば、こういう点で世界的に貢献できたんだが、それができなかったんだ、これは西堀隊長の長い間の御研究で体験されておられるところと思うわけですが、その点を西堀隊長からできるならば詳しく承わりたい。  それから先ほど永田隊長のお話に、日本の科学的の研究、それから科学者の進んでいることに対する非常に自信のあるお言葉があったのですが、今度の第二次越冬隊が行くについて、その人たちももちろんでありますが、機械等も世界にすぐれた、日本でなければ研究できないというふうな機械、あるいは日本の科学的な研究、こういうふうなものも相当持っておいでだということを私は聞いておるのですが、これを永田隊長から、こういうものが使えながったのだ、こういう研究ができなかったのだ、これが世界的に貢献できなかったというばかりじゃなくて日本自体の研究にも、大きな残念さがあるのだというようなことを、この際時間が許しませんので、ごくお気づきの大事な点だけでけっこうですからお漏らし願って、私たちは、それを青少年等に強く、感銘さしていきたい。もしそういうふうなことがほうはいとして起きるならば、とかく予算を出し惜しみます政府も、もっと積極的態度でこの観測を継続させるようなことに私はなるのじゃないかと思うわけです。  続けて御質問いたしますが、先ほど永田隊長は、今後もしここに上陸しようとするならば、雪上車を一方的にでも送り込んで、人間なり荷物なりを運び込む方法があるんだ、こうおっしゃっておいでになりますし、それから西堀隊長の方は、やはり航空機を重視されておるようなお話なんですが、いずれにしても、これを実現するために宗谷級の船ではとてもこれは不可能じゃないかと思うわけなんです。そういうふうな点からお二人の御意見——これは別にそごしているわけではないのでしょうが、これを実現するためにはまた船というふうなことも問題になるわけなんですが、その点はどうでありますか、やはりお二人から御意見を承わりたいと思います。まとめてそれだけお願いしてお話を承わりたいと思います。
  42. 西堀栄三郎

    西堀参考人 ただいまのお話につきまして、まず青少年の問題から申し上げますが、実は私たち基地におります場合に、また自宅に帰りました場合に、非常にたくさんの青少年からの激励の手紙をちょうだいいたしております。また基地にも、もしあのときに自由な通信が許されておりました場合には、とうていわれわれの処理し切れないほどのたくさんの激励電報が来たことだろうと想像いたします。それらの内容を見ますと、私たちの信じておりますごとく、観測といわゆる探検というふうなものを決して区別はしていないと思うのであります。すなわち観測もまた探検も、事実決して別個のものではあり得ないし、ないと私たちも思っておりましたが、やはり青少年もそういうふうに考えているようであります。でありますから、これを今後区別して考えないで、ともどもにそれは一つのものであって、今までわれわれが永田隊長の御指示に従いましてやっております一挙手一投足というものは、すべて区別をしないでやってきておるわけですから、この点を、私たちもう少し青少年に強調し、またさらに彼らの希望をつないでやるような努力をすべきだと思います。これにつきまして何か参考になることと言われましたが、今直ちに思いつきもいたしませんし、また今後皆さんの御協力を得て、私たち大いにやっていくべき問題だと思いますので、ただそういう青少年の気持をお伝えするにとどめておきたいと思います。  なお、先ほど永田さんのおっしゃいました雪上車による云々の問題でございますが、これは仰せの通り決して矛盾しておるわけではないので、私の言葉が足りなかったせいでありますが、つまり具体的に申し上げますと、宗谷でやはりある程度の所まで行く、まあ端的にいえば行けるところまで行く、その上で雪上車も使い、飛行機も使う、つまりあくまで、しまいまで、昭和基地がいかなる氷の状態であっても到達できるような改装を宗谷に要求するということは、やってもそういうことはできない相談である。またかりにバートン・アイランド号やオビ号にしても、そういう外国船の援助を得ても、ある限度が必ずあるわけであります。その限度以上のところをそういうふうにしてやる、それが最小限度であろう、こういう意味でありまして、決して航空機だけで、たとえば内地から飛んで行くというようなことを考えているわけでは毛頭ありませんし、また接岸した上において、そういう飛行機だけでやるということを考えておるわけではない。ただちょっと永田さんの言葉に補足いたしますと、雪上車というものは実は基地に四台ありましたが、そのうちの二台は端的にいえばつぶしてしまったといいますか、部分品を取りましてほかのところに流用いたしましたので、そのうち二台だけがともかく生きておる。しかしながら昨年の輸送のときに相当むちゃな使い方をいたしましたので、相当いたんでおります。従って、今後第二次越冷隊が行きました場合に、現在ある雪上車というものは、長距離輸送にはそう耐えないであろうという心配がありますので、どうしても今度は基地にもう一、二台、少くとも一、二台の雪上車を届けてやる方がいいであろう、これとてもなかったならば生命にどうするとがあるいは調査が不可能になるとかいうことではありませんけれども、効果が薄くなり、また活動能力が弱まるであろうという意味で、老婆心からぜひ持っていってやりたい。それならついでにいろいろな荷物も運ぼうじゃないかということも含んでおって、私ももちろんその説を支持し、またそのことを願っておるわけでありますから、決して矛盾はありません。
  43. 永田武

    永田参考人 二つ要点がございましたが、西堀さんの続きで、二番目のことを先にもう一度私から申し上げます。  ただいま西堀さんのおっしゃった通りでありまして、私は、やはり宗谷の、砕氷能力ではございませんで、修理はもちろんいたしますが、それを基準にして考えまして、そしてシコルスキー級の大型ヘリコプターあるいは飛行機でもって空輸を主とするのでありますが、どうしても基地雪上車がほしいのであります。もちろん基地及びその周辺十キロあるいは百キロ以内ならば現在でもよろしいのでありますが、相当広範囲調査研究をいたしますには、やはり新鋭の雪上車をただいま持っておるわけでありますから、それを送り届けたい。それなら、先ほど申し上げたように一台でニトンないしニトン半は積める、そういう意味で宗谷がずっと近づけるだけ近づきまして、私は四十海里やそこらは今年でも行けたはずだと思いますので、その場合に飛行機、ヘリの方は絶対に確実である、それから多分おそらく雪上車もそのつもりで使っていけば、雪上車片道は行けるところは行けるだろう、そうすれば雪上車が届くだろう、そういう意味で、第二次に使いたいという意味で申し上げたつもりでございまして、私も西堀さんもこの点はしばしば相談しておりますので、違うはずはないわけでございます。  それから第一の問題でございますが、それは私からことにことしあったらばどうだろうということは、ちょうど死児のよわいを数えるわけでございまして、まことに私の気持では悲しいわけでございますが、まず死児でない、生きている方の子供のことを申し上げます。それはただいま昭和基地はからだと申しましたが、ただ一つ生きているものがございます。それは長期自記気象計であります。これは一カ年間普通の測候所でやります気温とか気圧とか、風速、風向といったものを記録する器械でございます。昨年一年それは働きまして、これは人間がおりましての普通にやります観測と併行してやってりおりまして、一ぺん故障があったりいたしましたから、ことし絶対故障がないという自信はないのでありますが、どうにか一年間は故障がなければ動くはずでありますし、まずくすれば半年かもしれませんが、それだけの気象観測は無人のままやっているはずでございます。これは初めてのことで、ございまして、もしもこれがたとい半年にしろ三月にしろ、気象観測を無人のまま続けるとすれば、これは相当りっぱな結果が出来ると思います。そしてこれがもしいきますれば、将来には日本ばかりでなく、あちこちに、つまり一カ年間、しかも極地の悪条件のもとに気象観測し得るわけでございますから、これを一年目にとるということでかなり気象に関してわかるわけでございます。  それからいよいよ死児のよわいを数えるわけでございますが、日本は非常に地球の学問を志す人が多いせいでございましょう、世界中でかなり進んでいるので、私は日本人が特に頭がいいと申しておるわけではございませんが、比較的多い上に、なにしろ地震があり、地震の災害がしょっちゅうあり、台風にはしょちゅうやられ、洪水があり、海洋資源にはたよらなければばいけないという環境のせいで、割合にその方面の学問が進んできたわけでございます。そういう意味でありますので、南極から離れまして、地球の問題、たとえば日本では見られないようなオーロラとか、それに伴います地磁気あるいは宇宙線あるいは電離層といったような、このごろ地球の外を取りまいておりますもろもろの物理現象の根本である原子反応による現象でございます。これをほんとうに総合いたしまして、たとえば電波屋さんが電波だけやっておるのじゃなくて、あるいは物理屋さんがオーロラだけをはかっているというのじゃございませんで、一つの総合した、つまり一つの物理現象として本質的に全部を基本的な立場から調べるという仕事を日本がやってきたわけであります。最近、戦後になりましてそれが各国に伝わりまして、私に言わせれば、日本のまねをして、そういう国際的な総合団体ができたというわけでございますが、そういうわけでありますので、観測器機そのもの、たとえば電離層にいたしましても、地磁気にいたしましても、極光にいたしましても、宇宙線にいたしましても、そういう本質的な立場から調べるのに都合のいいようにデザインがしてあるわけでございます。でありますから、今度第二次の越冬隊が成立いたしましたならば、そこに使いますところの器械も、またそれを担当いたします隊員も、この地球の大気の自然現象をほんとうに原子物理学的な立場から観測し、かつそれをまとめるだけの技術と能力を持った人が残るはずであったわけでありまして、そういう意味で、高層現象の方はそうでありますが、それから氷河、地理的な構造の方でございますが、これの方の人は、そういうふうな経験の多い人が、何せ日本は貧乏でございますが、行っております。ただし器械は、何しろアメリカが例の石油開発で、非常にその方の技術が進歩いたしておりますので、その器械はアメリカの器機でございますからいばれないのでございますが、人の方は、この地震の多い日本は、多くの経験研究をした人が行って、その機械を縦横に駆使して、あの辺の地下構造、氷河の構造も含めて調査研究をするはずであったわけでございます。まあこのくらいで答弁にかえさせていただきたいと思います。
  44. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員長代理 坂田道太君。
  45. 坂田道太

    ○坂田委員 長い間非常に御苦労になったことを深く感謝を申し上げる次第でございます。こういう南極観測というような問題は、未知世界に行かれるわけなんで、最初からすぐ成功ということ自体がむしろ非常にまれであって、やはり何年か積み上げて初めて成功できるというふうに私たち考えます。たとえばフックス隊の横断にいたしましても、あれはスコットの悲劇以来、イギリスが何十年かかってあそこまでやったことであろうと思いますし、あるいはヒマラヤのエヴェレストの登頂ということも、あの成功の陰には、私が小学校の子供くらいのときから、タイムズなんかに出ておった写真を見て、その積み重ねがあの成功をもたらしたというふうにわれわれは考えるわけでございます。また最近のわれわれの例といたしまして、マナスルの成功にいたしましても、第一次、第二次の失敗がありましたけれども、ようやく第三次でございますが、成功いたしておるのであります。ことに第二次の失敗の後において、政府の方においても予算措置をやめたらいいじゃないかというような議論もあったのですけれども、失敗したればこそ、今こそつけなければいけないのじゃないかということで、むしろ前のときよりも予算を増額しまして、その結果登頂にに成功したという例も近くにあるわけなんで、われわれは今度の皆さん方の御苦労が、たとい失敗にいたしましても、またそのやり方については皆さん方としましてはいろいろ御反省になる点も幾多あるとは思いますけれども、われわれ国民の側から申しますならば、こういうような世界的な科学的な仕事に協力をしておる日本といたしましては、その後幾多の困難はあるにいたしましても、その積み上げをやって、そうして皆さん方の御期待に沿いたい、そうして世界の学問の発展のために貢献をしたい。そのことが人類の非常な発展に寄与するというふうに私たちは考えまするので、決して今度の失敗というものを失敗というふうにお考えにならない、むしろ成功に一歩、前進したのだ、また私は、皆さん方としてはそういうおつもりであると思いますし、われわれ国民の側からいたしましても、政府を激励いたしまして、地球観測年のわれわれに与えられたところの責務が十分果されるようにしたいというふうに考えております。で、希望を申し上げておきますが、私どもといたしましては、もちろん人命をなくするというようなことは絶対避けていただきたいと思いまするけれども、しかしながらやはり日本人がこれにとりかかって、日本人に与えられた地球観測年の一環としての大事業をやるからには、やはり与えられた一つの環境のもとにおいて、日本宗谷によって、先ほどお話になましたような飛行機なりあるいは雪上車等の十分なる計画を立てられまして、皆さん方の力でもって、われわれ日本人の力でもって、この成功が遂げられますることが、やはり私は日本人の青少年に与える影響が非常に大きいのではなかろうかというふうに思いまするので、どうかそういうような意味合いにおきまして、われわれといたしましても、今後大いに皆さん方に御協力をいたしたいというふうに考えておるということを申し添えまして、皆様方の御苦労に対して深く、感謝を申し上げる次第でございます。一言御礼を申し上げまして最後の締めくくりといたしたいと思います。
  46. 佐藤觀次郎

    ○佐藤(觀)委員長代理 他に御質疑はありませんか。——御質疑がなければ以上をもちまして本日予定いたしておりました参考人よりの意見の聴取は終りました。  参考人各位には、長時間にわたり貴重な御意見を、御開陳下さいましてありがとうございました。本日御開陳いただきました各参考人の御意見は、今後本委員会におきまして南極地域観測に関する調査を進める上に多大の参考になることと存じます。まことにありがとうございました。  本日はこの程度とします。明日は午前十時より理事会、十時三十分より委員会を開会いたします。  これに散会いたします。     午後一時一分散会