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川島(金)
委員 今の副総裁のお話は、東京駅の八重洲口が十二階でなければならぬ、あの規模でなければならぬという前提に立てば、そういう議論になつてしまいます。しかし
国鉄は
国鉄なりの一つの力がある、その力に沿い、しかもまた国民がその計画を納得すれば、あるいは他の方法も生れたと私は思うのであります。私の率直な目解なもつてすれば、
国鉄は
国鉄で純鉄たる国有の姿であつてほしい、これは私の一貫した一つの考え方であります。どうも最近の
国鉄の姿を見ておると、そういうことからだんだんはずれて来ておる。しまいにはどこまで民間の資本が乗り入れて来るかわからぬというような危惧さえ抱かざるを得ないような姿になろうかと、私には感じ円れるのあります。そういう姿になることは、まことに警戒すべき事柄ではないかと私は思う、その観点に立つて私のお尋ねなのであります。今の副総裁のお話は、なるほど世界一の八洲口停車場をつくる。それが地下二階、地上十二階、こういうものでなければ、日本におけるセンター・ステーシヨンとしての景観も、実力も、みえもない、こういう絶対的な立場に立てば、なかなか容易ではなかろう。そういう方法はあつても、借り賃も高かろう、返す金も容易でなかろうということになつてしまいますが、何も東京の八重洲口の停車場が、十二階でなければならぬという絶対条件はないわけです。そういう弾力のある立場で物事を考えれば、おのずからまた他に方法があつたのではなかろうか、こう私は思うのですが、どうもその方法を十分に考えずして、内輪同士で、つまり率直に言えばあまりはなれ合いのような形でやつてしまつたために、あちらにもこちらにも、国民の立場から言うと、ちよつと納得のできないような姿が現われて来たのではないか、こういうふうになつて来たのではないかと私は考える。また国民の大部分もそう思つておるわけで、そういうことを明らかにしたいために、われわれは連日皆さんとあなた方とともに、余分な努力をしておるような形で、われわれにとりましても非常に迷惑千万なことなのであります。私もこういうところでこういう議論をすることを、何もすき好んでやつているものではない。しかも一旦天下の疑惑をこうむつた問題であります。われわれは運輸
委員会の名において、これを明らかにする必要がある、そういう責任を感じておる立場から申し上げておるわけであります。そこでさらにお伺いしますが、副総裁は、端的に言えば、民間の資本を利用しているのだというようなことを言われておるのですが、との問題について、さらに疑問が一つおるのです。それはきのうも立花さんに申し上げたのですが、たとえば副総裁は書類をよく見ておるかどうか、私はわからないのでありますが、あの高架下の工事の問題、これは一例でございますが、高架下の問題で、会社側のその工事の予定金額は九千二百万ばかり、ところが高架下で今日まで早くも現金収入になつたのが一億二、三千万円ある。何のことはない、前家賃の三箇年分で、当時の予定工事費より三割も上まわつてオーバーしておる、こういつたかつこうになつておるわけです。こういうかつこうを一つ見ても、国民の側から申すと、何か
国鉄が施設を提供して、利便をはかつて開放しておいて、そうして資本を持つた利潤追求の立場に立つておるところの会社の利便にだけ供しておる、そうして会社はうまいことをしながら、ふたをあけてみれば、工事費よりも三割も四割もよけいの金をすでにとつているではないか、しかもこれに対して
国鉄自身は一銭も収入を受けておらない、こういう姿である。どういうことで一体こんなことをやつておるのか、こういうふうに国民は感ずる、単純に割切つて考えてしまう、そういつたところに非常に誤解をされておる重大な条件があるのではないか、こう私は思うのです。こういう姿で来ておることを何とか明らかにして、国民に納得させるためには、立花さんは、契約をするときに、何か抽象的ではあつたけれども書いた、そして、
国鉄内部のいわゆるそういつた賃貸料の問題についての規則があるが、お互いに仲間であるから、そういう規則はお互いが知つているから別に書かなかつた、書く必要はなかつた、こういうふうに一概に言つておられますが、少くとも経済行為の伴う契約書というものは、そういうふうに抽象的なものだけではいかぬと思う。ことに厖大な契約を持つたものであり、しかもそれは国民の財産であるその施設を一部提供する形になる、そういうことに関係のあるいわゆる経済行為の伴う契約書に対して、漠然たる抽象的な基本契約ならそれでいいのだという安易の考えで締結されたというところにも、欠陥があるだろうと思う、そういうことを立花氏は釈明をしているのですが、そういうことになれば、すでにこの会社というものができ上つて、
国鉄と契約をいたした場合に、契約書には基本的なものきり書かなかつたが、そういうことははつきり規則にあるのだからということで釈明されるならば、すでに契約当時に、今後
国鉄側に会社からどのくらいの金が年々入つて来るかということは、概算としてははつきり出て来る。ところがその概算も、日がたつてみなければわからぬという実情であります。そういうところにわれわれの疑問もあり、国民の側から見て疑惑も必然的に起つて来る。そこでお尋ねをするのですが、そういうことであるとするならば、この契約をいたしました当時において、すでにどのくらいの概算的な収入というものが、
国鉄の側に入つて来るということの見通しくらいはついおつたんじやないかと私は思いますが、今までの答弁によりますと、それが漠然としているが、その点はいかがでありますか。