○
英参考人 私は、約四十年間
国家公務員として
日本国憲法を遵守する
生活をしたものでございます。六年ほど前に外務省を退官してからも、
民間人として
憲法問題、特にその
前文について
関心を持ち続けてまいりました。
三年ほど前に思うところがございまして、ある
総合雑誌に「まず
憲法前文の
改正を論じよう」と題する一文を寄稿いたしまして、掲載されました。これがきっかけとなりまして、一昨年の六月に、ある
出版社から、特に若い
人たちに読んでもらおうと、「君は
自分の国をつくれるか
憲法前文試案」を出版いたしました。
今回、国権の
最高機関でございます国会の、しかも
民主主義の
根底をなす
代議制度を具現する
衆議院に設置された
憲法調査会から
参考人として招致され、本日、この小
委員会において、
日本国憲法前文の
改正問題について私の
考えを述べさせていただける
機会を与えられましたことは、一
国民といたしまして身に余る光栄と存じ、深く感謝申し上げます。
もとより、私は
憲法を深く学んだ
学者ではなく、一介の元
公務員でございますので、果たして皆様の御
参考になるようなお話ができるかどうか
自信はございませんが、せっかくの
機会をちょうだいいたしましたので、簡潔に私の
考えを申し述べさせていただきます。
私が
憲法前文の
改正を提唱する
理由は、大きく言って次の
二つでございます。第一は、現在の
前文は既にその
役割を終え、私
たち日本人は二十一
世紀の
日本にふさわしい新しい
前文を必要としているということでございます。第二は、
憲法改正を行うのであれば、まず
前文から始めるのが適当であるということでございます。
現行の
日本国憲法の
前文は、
主権在民、
国際の平和、普遍的な
政治道徳などの立派な
理念に満ちていて、
敗戦後の
日本に
国民主権の
思想を定着させ、民主的な諸
制度を確立したという大きな功績があります。六十年ほど前に戦後の廃墟の中に茫然と立ちすくんだことのある私
たちの
世代の
日本人に、この
前文は輝かしい
理想を示してくれました。戦後の目覚ましい復興は新しい
政治理念とさまざまな
改革に負うところが大きいと思います。
しかし、
民主主義が定着した後の
日本に育った者、またこれから育つ者にとっては、今の
前文は、
日本の
歴史、
文化、
伝統などについては全く無
関心でありますので、どこの国の
憲法の
前文としても通用する、いわば無国籍の政治的な
蒸留水のようなものに映るに違いありません。古い
世代の
人間がいかに
愛着を持っていても、今の
前文には
若者をわくわくさせるようなところはありません。
それは仕方がないことです。時は移り、
社会は
変化し、それとともに
国民の求めるものも変わるからです。
考えてみれば、ある
世代の
考えが長きにわたってその後の
世代を拘束するというのは、不自然であるばかりでなく、むしろ非民主的であると言わざるを得ないのかもしれません。現に、どこの国でも、
時代の要請に応じしばしば
憲法改正を行っております。
冒頭に申し上げましたように、私は、今の
憲法、とりわけ今の
前文がこれまでに果たしてきた肯定的な
役割を否定するものではありません。しかし、今の
憲法が一九四六年の十一月に公布されてから既に五十七年の
年月がたっています。
人間であれば還暦に近い長さです。今の
憲法が公布された一九四六年からさらに五十七年昔にさかのぼりますと、一八八九年になります。これはまさに、旧
憲法、すなわち
大日本帝国憲法が発布された年でございます。その五十七年の間に
日清、
日露の
戦争、第一
世界大戦、第二
世界大戦が戦われたわけでございます。五十七年という
年月がいかに長い
年月であるかがおわかりいただけると存じます。したがって、五十七年前の
日本人の
現行憲法の
前文の受けとめ方と今の
日本人の受けとめ方の間に隔たりがあることは当然のことでございます。
適切な例えかどうかわかりませんけれども、今の
憲法を食べ物に例えれば、
賞味期限をかなり過ぎてしまったものと言えましょうか。食べられないことはないけれども相当に味が落ちている、もっと日がたつと食中毒になるおそれなしとしないということです。
私は今の
憲法をおとしめるためにこんなことを申し上げているわけではございません。むしろ、今の
憲法に新しい息吹と
活力を与え、この国がさらに前へ進むために
憲法の
前文の
改正が適当であり、必要であると申し上げているつもりでございます。そのために、
時代が何を求めているかを賢明に判断して、これを新しい
前文の中に追加してほしいと
考えるものでございます。
率直に申し上げて、今私
たち日本人は
アイデンティティーの
危機に直面し、
自信を失っています。私は安易に英語を使うのは好きではございませんけれども、残念ながら
アイデンティティーに相当する適当な
日本語がございませんので、この
言葉を使わせていただきます。
意味するところは、自己の特質を確認するためのよりどころ、もう少し平たく言いますと、
日本人はお互いの
文化的、
社会的な
一体感を何によって確認しているのだろうかということであります。よく使われる表現であるこの国の形と同じような
意味とおとりいただいて結構でございます。
日本におけるこの
アイデンティティー危機はなぜ起こったのでしょうか。それは、戦後の
改革と言われるものが、
天皇制を除き、
日本の諸
制度や
伝統を悪いものもよいものも十把一からげに捨て去った、昨今はやりの
言葉で言えばレジームチェンジ、つまり
体制変革であったからであります。
私は、そのことを象徴的に示すのが現在の
日本国憲法前文であると
考えています。そこには何らの
日本性がありません。そもそも
日本語としても決して美しいとは言えません。なぜそうなったかは本日の主題ではございませんので、ここでは深く立ち入りませんけれども、一口に言えば、普遍的な
理念と
制度を
日本に植えつけるのに熱心な
余り、
国家意識や
日本の
伝統的な
価値観は二の次に置かれたためであると申せましょう。
憲法の
前文は
憲法の顔であります。お配りした資料に若干の国の
憲法前文の例を挙げておきました。ごらんのように、
ロシア連邦、
中国、ポーランド、ベトナムなど、この二、三十年の間に新しい
憲法を採択した国の
憲法前文には、その国が
誇りとするような
自国の
歴史、
文化が個性的に述べられています。今の
日本国憲法前文は
日本の顔をなしていません。
私は、
憲法の
前文に明確な
日本の
アイデンティティーを盛り込むことによって、私
たち日本人は現在の
アイデンティティーの
危機を乗り越えることができると
考えます。
現在、多くの
日本人は将来について大きな不安を抱いています。しかし、今の
日本に欠けていますのは、物や金ではありません、夢と
希望であります。人と同じように、
国家も
希望を失ったときに衰退いたします。今の
前文は、この国の今の
若者やこれから生まれ来る
世代の
日本人に夢や
希望を与えることはないでしょう。
日本が、
明治維新、戦後
改革に引き続く三度目の大変革期に差しかかっている現在、
憲法の
前文に
日本の
価値観や新しい
理想を盛り込むことには大きな
意味があります。これが、私が
現行憲法前文の
改正を適当とする第一の
理由でございます。
第二は、
憲法改正における
前文改正の戦略的な
重要性です。
いろいろな
世論調査の結果では、既に
国民の過半数が
憲法の
改正を
希望していると言われています。そのような
国民の
意識の
変化を背景に今回の
憲法調査会が生まれているわけです。しかし、留意しなければならないのは、合成の誤謬でございます。
憲法改正を望むすべての
日本人が同じような内容の
改正を求めているのではありません。
環境権を
憲法に追加することには賛成だけれども
憲法第九条の
改正には反対だという人がいるという問題でございます。
日本人は、どちらかというと律儀で、
完璧主義と
整合性を重んずる
国民性を持っておりますので、
憲法の全面的な
改正を目指すという落とし穴にはまる
危険性があるような気がいたします。
敗戦とか革命とか
社会を
根底から揺るがす大変動のときには、
制憲会議を開いて新
憲法をつくるということもあり得ましょう。しかし、現在
日本がいかに
危機的な
状況にあるといっても、全面的な新
憲法制定というのは非現実的です。
議論のあげくにすべてかゼロかという選択に陥り、結局、従来同様に何も変わらないで終わることになる危険があるのではないでしょうか。
したがって、私は、
憲法を
改正する道筋としては、
国民の間に広範な
合意が存在するところから、部分的、段階的にこれを行うのが現実的であると確信いたします。それが
世界の通例であり、常識でもありましょう。
段階的な
憲法改正を
考える場合には、当然のことながら、
重要性、
緊急性、難しさなどを勘案した上で、
優先順位の設定をすることが不可欠です。それは、
政治家のお仕事であり、責任でもあります。私は、個人的には、
憲法前文こそ、まず
改正の
対象として
議論するに最も適した
分野であると
考えるものでございます。
現行憲法には
改正条項がありますが、
改正のための
関係法令の整備はまだ全くなされていません。
明治憲法も
現行憲法も、いずれも
国民に上から与えられたものでありますが、
国民の手による
改正されたことのない、いわゆる
不磨の
大典であります。つまり、私
たち日本人は、一度も真の
意味での
憲法改正の
経験を持たないのです。
日本の
教育水準は高く、
国民の
政治意識も健全です。
国民投票を経ていない
憲法は、このような
日本にふさわしくありません。また、
国際的に、
国民が直接的に選んだ
憲法のもとの政府は高い
正統性を持つと
考えられます。私は、この国が一日も早く、
日本人自身による
国民投票を経た
憲法を持ちたいと切望するものでございます。
不磨の
大典を誇るのではなくて、この問題には少し肩の力を抜いて取り組んで、まず一度、
憲法改正の
経験を持つことが賢明でありましょう。
一般国民にとって、
憲法というのは、民法や刑法と異なって、私
たちの
生活に直接かかわっていません。現実問題として、私
たちがまれに
憲法を持ち出すのは、
憲法違反だとして何かを問題にするときだけといってもよいと思います。つまり、
憲法が私
たちにかかわり合いを持つのは、私
たちを守ってくれると
考えるときが多いのです。そのため、
憲法改正と聞くと、何かいいものがとられてしまうのではないかというおそれが生まれて、本能的に身をすくめるわけでございます。
ですから、
国民合意の存在するところから
憲法の
改正を行って、いわば
憲法改正になれて、
憲法改正によって何か貴重なものが失われるのではない、そういうことを理解してもらうということが重要と存じます。それには、だれでも
議論しやすく、いい
意味で
あいまい性のある
憲法前文から始めることが最適ではないでしょうか。
私は、
日本における最初の
憲法改正においては、
憲法の
前文を書きかえるだけでも比類のない大きな意義があると
考えるものでございます。
次に、
憲法前文を改めるとした場合に、新しい
憲法前文に果たしてもらいたい
役割についての私の
考えを申し述べます。私は、大別して五つの
役割があると思います。
第一は、
日本の
伝統と
文化の上に立つこの国の形を示す
役割でございます。
私は、
日本国民が
自分たちの
憲法に
誇りと
愛着を持つことが極めて大事であると
考えます。私
たちがこれこそ
自分たちの
憲法であるという
意識を持つためには、その
前文において、
日本の
歴史、
価値観、
伝統、
文化などが述べられていることが重要であると思います。
このような
日本の
アイデンティティーに到達する一番の早道は、
先祖返りをするのではなくて、過去が投影されているこの現在を、私
たちがよく見詰めることによって、
日本人の特性を見つけ出すことであると思います。
過去から連綿と受け継いできた
日本人の
伝統の中で、何を将来に引き継いでいくべきかを
考えることから始めてはどうでしょうか。
憲法の
前文にこのような
日本の
アイデンティティーが反映されれば、
国民は今とは違った目で
憲法を見るようになるでありましょう。
第二は、将来に向けて
日本の進路を示す
役割でございます。
急速で広範な
グローバリゼーションの進展から、二十一
世紀において、
日本は過去のいずれの
時代よりも規模の大きい急速な
変化を体験することになると予想されます。
変化に対応するために私
たちが変わらなければ、
日本は取り残され、衰退していく運命をたどるでありましょう。
日本人は外界の
変化に適応することの巧みな
民族ではありますが、問題はその速度です。
今の
日本は、
アイデンティティー危機にあるだけではなく、戦後つくられた諸
制度が
制度疲労を起こして、
機能不全に陥っているところが少なくありません。近年、ほとんどの識者が
改革の必要を訴えていますけれども、
日本人は基本的に保守的で
余り変化を好みません。
新しい
憲法前文は、
グローバリゼーションが進む中で、
日本人はどういう心構えで未来に対処しなければならないかを示すという
役割を果たせると思います。私が特に重要であると
考えますのは、
グローバリゼーションが求める
変化の中における
国家の
役割の
変化であります。二十
世紀は
国家主権が至上のものとされた特異な
世紀でした。
国家はその領域の中で
国民を統治するとされ、
各国国民が何ら望んでいなかったにもかかわらず、
二つの
世界大戦が戦われ、非
戦闘員の
大量殺害が正当化されました。
国際社会は、不幸な
経験から学び、貿易や
国際金融をできる限り自由にする
制度を築き上げたり、
武力行使を厳しく制限したり、
環境破壊を減らすような
国際合意をつくったりしています。多くの
分野にわたり、
国家は次第次第に勝手に行動できなくなってきています。つまり、
国家主権に対する制限は次第に増大する
傾向があります。
欧州連合のように、
幾つかの
国家が
主権の一部を自発的に
他国との
共同処理にゆだねるということも始まっております。
このような
流れの中で、
日本が今後孤高を維持するということなどは到底できないのは明らかであります。むしろ
日本は、
グローバリゼーションの結果、必要となってくる
国家主権への制約を積極的に受け入れるべきなのではないでしょうか。私は、新しい
憲法前文の中で、
日本と
日本よりも上位の存在である
地球社会との
関係についての長期的な視点に立った
考え方をはっきりさせておくことが必要と
考えます。
第三は、
日本における現在の
閉塞感を打ち破る
活力を与える
役割です。
近年の
流れとして、
日本人の
国家への
帰属意識は次第に希薄になってきています。反面、
国民の間には、特に若い
世代の
人たちの間には、
国際平和、
環境保護、
途上国の
進歩達成、人口問題などという
地球が直面する諸問題への
関心が強くなっています。
私は、このような
意識の中に潜む
先端性を積極的に評価したいと思います。不思議なことですけれども、現在の
日本には、
世界で最も進んだ
憲法を
議論する素地が存在していると言えましょう。
私は、現在の
閉塞状況から逃れたいとする
余り、
先祖返りを図りたいという安易な気持ちが生まれることを恐れます。将来の
日本に危険な
国粋主義や陳腐なルサンチマンが生まれることを防止するためにも、前向きの
時代認識の構築に向けて、
国民的な英知を集める必要があると思います。
私は、今の
日本には、逆境をばねに、
国民のよりどころとなる健全で前向きな
日本の
理想についてのコンセンサスを築く絶好の
機会が存在すると
考えます。このような
議論が
憲法改正を機に盛んになることを期待します。そして、新しい
時代認識となる高邁な
理想を新しい
憲法の
前文に新たにうたうことができればすばらしいことだと思います。
第四は、
世界の中における
日本の
座標軸を明らかにする
役割であります。
座標軸は、
歴史認識と
世界認識で決まります。
明治以降の
日本人は、
欧米列強に追いつき追い越す
政策を国を挙げて追求してきました。
明治以降の
日本人の
意識は、他
文明との間の優劣に一
喜一憂するものであったと思います。最近でも一九八〇年代に、
日本経済の勢いが著しかったころの
日本人は、
外国でも肩で風を切るようなところがありました。しかし、バブルが弾けると、今度はしゅんとなってしまいました。
日本人自体は何ら変わらないのに、いわゆる失われた十年以前と現在の間の
日本人の
心理状態の際立った
変化は少し異常であります。
自国の
文化に
自信を持っていれば、少しぐらい
経済が浮き沈みしても平気でいられるはずであります。
日本人が
外国に対してむやみに居丈高になったり卑屈になったりするのは、
自信欠如のなせるわざであります。
明治以降、
外国から学ぶに熱心な
余り、
日本人は、学ぶものがなければその国を尊敬しないという習性を身につけてしまったのではないでしょうか。そもそも、学ぶことがないと
考えるのは慢心であります。
文化は
経済や
科学技術とは違うのであって、それぞれ個性的であります。
経済指標だけをもって
世界を階層的にとらえるのは間違っていますし、危険でもあります。
世界の多くの
文化を並列的に見るべきで、
一つの
文化が他の上に立つと
考えるべきではありません。
文化人類学者のルース・ベネディクトが名著「菊と刀」の中で、
日本人は
伝統的に
階層社会に住んでいて、各人が
自分にふさわしい地位を占めることが重要と
考えている、このような階層的な秩序を
世界にも及ぼそうと
考える
傾向があると指摘したことを私は思い出します。
私は、それぞれの
民族にはそれぞれすぐれたところがあると
考えることがこの問題を克服する上で有益であると
考えます。
日本の
文化がすぐれているという
意識を持つ一方で、他の諸国の
文化もそれぞれその
民族が
誇りを持っていることを尊重しなければなりません。
そこで、私は、
文化多元主義という
考えを
前文に取り入れるべきだと
考えています。それは、
世界の諸
文化、諸
文明の間の
同列性を認める
立場であるとともに、
幾つもの
文化が
一つの国の中で併存することに寛容でなければならないというものでございます。
そのためには、まず
日本人が
日本文化を
意識し、
自分の
文化に
国民的な
誇りを取り戻す必要があります。大陸の外縁に位置する島国の宿命から、
古来日本人が
外国文化の受容に寛容だったために、私
たち日本人は、ともすれば
中国文明や
西欧文明に
劣等意識を持つという
文化的な性癖を持ちます。私
たち日本人は、ブルーノ・タウトに
桂離宮の美を指摘されなければそのすばらしさがわからない、
欧米人が評価しなければ浮世絵も包み紙として散逸させてしまったかもしれない、情けないところのある
国民であるようです。
このような
文化多元主義の
考えを取り入れれば、一部の
アジア地域にいまだに強く残っている
日本の
アジア支配への疑念を克服することに役立つかもしれません。それは、とりもなおさず、健全な
歴史認識につながります。
一九三〇年代から四〇年代にかけて
日本の
指導者が声高に唱えた
八紘一宇の
思想は、
世界を
日本のイデオロギーのもとに従属させる主張であったと
国際的に理解されています。誤ったこの
日本主義は、自
国民を悲惨な
戦争に駆り立てただけでなく、近隣諸
国民にも大いなる災厄をもたらしました。
北東アジアの隣国においては、この記憶はまだまだ長く続くでありましょう。残念なことですけれども、愚かな
政策を推し進めた
世代から幾
世代も経た将来
世代にも、その愚行のツケは回っていくのです。
私
たちは、将来の
世代が負い目を背負って生きることのないようにあらゆる努力をしなければならないと
考えます。新しい
憲法の
前文で
文化多元主義を掲げることにより、
日本は最終的に、他
民族、他
文化支配を試みた過去を克服することができるのではないでしょうか。
日本が
国際社会の中で
他国に脅威を与えず、
他国に侮られないで、自然体で生存を続けるためには、抽象的な
国際主義を掲げるだけでは不十分でございます。みずからに
誇りを持ち、
他国も尊重するという姿勢が明確に示されなければなりません。諸
国民が持つそれぞれの固有の
文化を尊重するという
文化多元主義の
考えは、二十一
世紀の
日本に
一つの重要な
座標軸を提供することになると思います。
第五は、
包容力と
普遍性のある
日本の
理念を掲げる
役割であります。
新しい
憲法前文が掲げる
理念が
普遍性を持つべきであるという
考えには、異論を唱える方がいらっしゃるかもしれません。
日本人の
憲法なのだから、
日本人にとって大事なことだけを書けばよいので、それが
外国に通じるかどうかなど心配する必要はないという反論であります。また、
憲法は
文化的な宣言ではなく、
国家の構造を規定する
基本文書であるから、
文化が入り込む余地などはないのではないかと
考える方がいらっしゃるかもしれません。
憲法が
対象とする
日本社会は、その
構成員の大部分が
日本語を話し、
日本の
伝統的な
価値観を持つ
日本人が住む
社会であります。しかし、
日本社会は静止していた
社会ではなくて、過去に
中国文明、
西欧文明、
米国文明などの影響を受けてきていますし、海外から人の流入もあります。私は、異
文化の受容の点では、
日本社会は、特に際立った寛容さを示してきたと
考えます。
歴史的に、
指導者層も庶民も新奇なものを好む
傾向があり、このことは今も少しも衰えていません。
グローバリゼーションが進めば、
外国文化や
外国人は、今後ますます
日本社会へ流入するでありましょう。異なる
文化的背景を持つ者が
日本社会の中にふえる結果、
日本社会は活性化することは疑いを入れません。
しかし、将来にわたって
日本に調和のある
社会を維持するためには、
日本人は、
外国人を
日本社会の中に包摂していく積極的な努力をすることが求められます。それにもかかわらず、
日本においては、
外国人を受け入れる
制度的なインフラは不完全であります。例えば、義務教育、年金、医療などについて、
外国人は差別される
傾向があります。
日本に暮らす
外国人についても、
憲法の規定は準用されるべきであります。特に、永住権を取得し、
日本に暮らすことを選択する
外国人には、できる限りの配慮がなされなければなりません。
長期的には、これらの永住
外国人が
日本国籍を取得することを私
たちはもっと歓迎しなければなりません。しかし、私は、定住
外国人に地方レベルの選挙権を付与するということを
考える前に、
日本はもっと実態面で
外国人に対する差別をなくしていかなければならないと
考えます。
外国人のための諸
制度を完備することが先で、いきなり選挙権という高度に政治的な問題が出てきたことは、真の問題の解決から目をそらすもので、むしろ不幸なことだったと
考えます。
特に教育については、国籍を問わず、義務教育レベルの
日本語の話せない子女を
日本の学校が受け入れることを直ちに積極的に推進しなければなりません。
外国人の
日本社会への同化は、
日本人が掲げる
価値観や
理念が、
日本文化の上に立ちながらも普遍的な合理性を持っている場合には、一層容易になるでありましょう。
こう
考えますと、新しい
憲法の
前文は、国内にあっては、
日本人に異
文化との
関係に指針を与えるだけではなく、同時に、国内に居住する非
日本人、さらには新たに
日本社会に加わる
外国人にも
意味を持つものでなければなりません。新しい
憲法の
前文が掲げる政治哲学、
価値観は、いかなる
文化圏から来た者にとっても受け入れられる
普遍性を持ったものでなければならないと
考えます。
日本人が求める
価値観が人類共通の規範に合致すればするほど、
日本異質論は後退していきます。したがって、私
たちがこれから新しい
憲法の
前文に掲げることの多くが、
普遍性を持ち、そのゆえに
外国人に容易に理解されるということは、大変に重要なことなのであります。
さらにもう少し
考えを進めれば、
普遍性のある
価値観を掲げるにとどまらないで、他の
文化圏においていまだ認知されていない先進性を有する
価値観をも包含することが一層望ましいと思います。比喩的に言えば、諸
外国から優秀な
人間がその
価値観を慕ってどんどん
日本に来て、究極的には
日本国民となることをいとわないような
理念を掲げようということであります。
ローマの迫害の中で愛と福音を説いたキリスト教が、次第次第にローマ
世界を超えて広く全
世界に伝播していったように、
日本が掲げるそういう
理念が、近隣諸国に安心を与えるだけでなく、
歴史の中で認知され、次第に
普遍性を持つことがあり得るかもしれない、そういうぐらいの気宇と夢を持ってよいのではないでしょうか。
私は、なるたけ早く
憲法前文の
改正を行っていただきたい。そのために、今申し上げた五つの
役割を
前文には果たしてもらいたいと申し上げました。では、具体的にどういう内容を盛り込めば、そのような
役割を
前文が果たすことができるかということを申し上げたいと思います。
お手元にお配りしてあります私の試案、試みの案でございます。これはあくまでも
参考程度の私案、私の案でございます。私の
考えを具体的な
前文の形で示さないと、私が申し上げていることのイメージをおつかみいただけないと思ったからであります。別の内容を取り込むべきであるという御
意見ももちろんあると思います。あくまでも
参考程度でありますので、この御説明は簡単に申し上げます。
一つは、
日本の
伝統と
文化についてです。
私は、
日本人の四季と花鳥風月をめでる心、
生活の中に
文化があるということ、自助努力、教育重視と物づくりの
伝統、和の重視などが
日本の
伝統と
文化であるという
意見です。具体的には、
美しい自然と
変化に富む四季に恵まれた
日本に住む私
たちは、古くから自然との共生、
生活の中の
文化や
社会における調和を大切にした国柄を育んできた。
勤勉と自助の精神を尊び、他人の気持ちを思い遣るのは
日本人の美風である。
第二は、
主権在民、
民主主義、人権の尊重というような点についてでございます。
日本的な
民主主義の本質は、コンセンサスの重視であると私は思います。ですから、具体的に、
すべての
国民は等しく平等であり、このような
国民の意思を体して、和を重んじる政治が行われなくてはならない。この
憲法は
民主主義と基本的な人権の尊重の上に、公平で平和で豊かな
国民の
生活が、将来に亘って確保されるように制定されるものである。
三番目は、
地球社会の中の
日本、相互依存の認識というような点について、
人口の増加、科学や技術の発達の結果、
地球は狭くなった。
地球の環境を保全するとともに、有限な資源を諸
国民と分かち合い、争いを避けることが必要になっている。
国際的な平和の維持と繁栄の確保のために、いかなる国も勝手な行動を控え、協力し合わなければならない。そのためには
国家主権を
世界の大義のために制限することも必要になろう。私
たちは、公平と相互主義の原則が満たされる場合は、
国民の意思に基づいて、このような制約を受け入れる用意がある。
四番目は、
文化多元主義でございます。
諸
文化の間の相対性の認識、
世界史における
日本の果たすべき
役割について、次のようなものを
考えています。
私
たちは個性的な
日本の
文化を
誇りにしているが、同時に
世界の諸
国民の
文化の間には優劣はないと信ずる。
歴史を振り返れば
日本人は
外国文化の摂取に常に寛容であったし、今後もそうあり続けたいと思う。
私
たちは
日本の
文化遺産を将来の
世代に引き継がなければならない。同時に
世界の優れた
文化遺産を後世のために残す作業にも積極的に参加すべきである。
五番目が、平和の至高性と
国際協調でございます。
私は、
憲法改正すなわち第九条
改正、すなわち平和主義の放棄ではないということを強調したいと思います。
日本は既に平和愛好国でありますけれども、平和の維持にも責任があるという基本的な
立場です。具体的には、
私
たちはその
歴史から平和の尊いことを学んだ。自ら平和を脅かす行動をとらないだけでなく、私
たちは
世界の平和の維持のために積極的に貢献しなければならない。
そして最後に、
私
たちは
国家の名誉にかけて、逞しくこの
憲法が掲げる
理想を求め、実現することにより、
世界のなかで尊敬をかち得たいと
希望する。
こういうふうに結びたいと思います。
これは全く私の案でございますので、御
参考までにと申し上げたわけでございます。
最後に、新しい
憲法前文が持つ教育効果と、それからその作成をどうするかという点について、若干、私の
考えを申し述べさせていただきます。
よく
外国人などから、
日本はどういう国ですか、子供から、
日本て何ですかと聞かれます。こういう
前文がもしあれば、一通りの説明はだれでもできるわけであります。特に、
普遍性を持たすということを留意すれば、
外国人にも
日本の
アイデンティティーがよくわかるということではないでしょうか。
しかし、最も重要なのは、中学校や高等学校で
前文を教材にしてさまざまな
議論を進めることが可能になるということでございます。
日本の
伝統や
文化とは何だろうか、
社会と個人の
関係はどうあるべきか、
社会における調和とは何だろうか、
日本の
文化は
世界の諸
文化とどこが違うんだろう、
地球社会の未来と
日本のかかわり合い、
歴史から何を学ぶべきだろうか、こういうことを
議論する
国民共通の基盤ができることを
意味するのではないでしょうか。こういう意義は大きいと思います。
だれもが一度は公民教育で勉強しなければならない
憲法が、
国民の
アイデンティティーを確認する教材となるわけでございます。
明治憲法のもとの教育勅語は、ある
意味では
日本人の倫理を確認する
役割を果たしていましたけれども、いかようにしても、これに類するものを今つくり得ません。それならば、既に存在する文書である
憲法前文を、そういう
役割を果たすものとして書き直すことにしてみてはどうでございましょうか。きっと、新しい
憲法前文は生き生きと働き出すと思います。
最後に、もし
憲法の
前文を
改正するということになった場合に、ぜひ御検討いただきたいことがございます。それは、新
前文作成の過程に
国民を最大限に参画させていただきたいということであります。
国民が新しい
憲法の
前文作成の作業を
自分のものと
考えるかどうかは、極めて重要な
意味合いを持ちます。
国民が、新しい
憲法前文を、まただれかがどこかで
議論してつくったというふうに人ごとのように
考えないように工夫をすることが賢明でありましょう。それには、最後に
国民投票にかけるだけではなく、その作成過程にもできる限り
国民を参加させることでございます。
例えば、私が
考えるのはこういうようなやり方でございます。
まず第一に、
憲法の
前文にいかなる
理念を盛り込むべきか、立法府が広く
国民から
意見を徴することはいかがでしょうか。これを行うのは、
憲法検討のための、両院に何かの組織がつくられれば、その機関が適当でありましょうし、両院の
憲法調査会の合同
会議のようなものが適当かもしれません。そうでなければ、解散されることのない参議院がこういう作業の主体となるのも一案でございましょう。
こういう作業を通じて、ある者は
環境権の
重要性を
前文に取り込むべきだと主張するかもしれませんし、また、
国民の権利と義務の間の均衡を図る趣旨を入れるべきだということを指摘する方もいらっしゃるでしょう。こういう全
国民的な
議論の中から、立法府が、多くの
国民が重要と
考える
理念とか
思想を抽出して、このうちどれを
憲法前文に含めることが適当であるかを
議論されて、決定を行うわけでございます。
次の段階では、立法府がこのように決定した
理念や
思想を含む、美しい
日本語で書かれた
憲法前文の文章を
国民から公募することを提案いたします。その中から
幾つかのすぐれたものを選び、最終的にはそれらを
参考にして、立法府が最終的な
前文案を確定するということでございます。
この作業は手間がかかるかもしれませんけれども、
憲法の条文についての
憲法調査会の
議論と並行して進めることができます。その結果、新しい
憲法の意義について
国民の
関心が高まるでありましょう。
自分が作成に参加した
前文に
国民は興味と
愛着を感ずるでありましょう。また、この作業は、いよいよ
日本は変わるのだなという実感を
国民に与えるでありましょう。
日本の
歴史において初めて、この国に住む
国民がみずからの手で
自分たちの国の
あり方を確認するのであります。必ずや、今の深い混迷からこの国を抜け出させる
活力が生まれてくるものと確信いたします。
御清聴感謝申し上げます。ありがとうございました。(拍手)