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参考人(
田島泰彦君) よろしくお願いいたします。
本日は、本院で
発言の
機会を与えていただきまして、誠に有り難く存じます。
ここでは、
憲法や
メディア法の
研究者という
立場から、
憲法二十一条が
保障する
表現の自由をめぐる最近の
動向、それからそれに伴う
課題、その一端につきまして問題を提起させていただきたいと、そういうふうに思います。
具体的に取り上げたいと思いますのは、
一つは、現在、
表現や
メディアの
在り方に重大な
影響を与える
一連の
規制法案というのが
国会などで
議論をされております。そこで、こうした
法案と
表現の自由との
関係の問題について検討してみたい、私の
意見を述べさせていただけたらというふうに思います。
それからもう
一つは、その
表現の自由にかかわるいわゆる新しい
人権と言われるような一群の
権利があります。知る
権利あるいは
プライバシーの
権利などが特にかかわると思うんですが、こういう
権利をどのように
憲法上考えるか、そういう
論点につきましてももう
一つの柱として
意見を述べさせていただけたらというふうに思います。
基本的には、お手元に御用意されていると思いますが、私の
発言メモがありますので、この柱に沿いまして
発言をするということにしたいと思います。
それで、早速、
メモ書きの二、
規制法案と
表現の自由というところに入りますが、御承知のように、現在、
国会では
個人情報保護法案あるいは
人権擁護法案、こういう
法案が上程され、
議論されております。さらに、これはまだ
国会に上程されてはいませんが、自民党は、
青少年有害社会環境対策基本法案、テレビのアナウンサーも時々正確に言えなくて間違う長い名前の
法案なんですが、これが
国会の上程に向けて取りまとめがなされている最中のようであります。
これらはいずれも
表現や
メディアだけを
対象とした
法案ではありません。しかしながら、そこでは
市民の
表現・
コミュニケーション活動や
メディアの
取材報道という
活動もその
規制の枠組みに収められております。そのために、特に
ジャーナリズムなどからは
表現・
メディア規制法案とか
メディア規制の三点セットなどと呼ばれて、非常に厳しい
批判が浴びせられてきました。また、このほかにも、同じく
国会で審議中の
有事関連法案の中にも
メディア規制にかかわる仕組みが含まれております。
そこでまず、このような
一連の
立法について、
表現の自由の
観点から検討を加えておきたいというふうに考えます。
まず、
メモ書きの1、
個人情報保護法案のところですが、この
法案は、
基本原則と
義務規定という二本立ての
規制を
内容としておりまして、このうち
努力規定と
説明される五つの
基本原則は、
メディアも含め、
個人情報を取り扱う何人にも
適用されるということに
法案上なっております。
他方で、
大臣による改善・
中止命令や罰則を伴う
義務規定の
部分ですが、これにつきましては、
報道機関が
報道目的で取り扱う
個人情報については
適用が除外されるという旨
規定されております。
それで、このうち、その適正な取得でありますとか
透明性の確保などの
基本原則部分についてですが、これがもし
メディアにも要求されるということになりますと、
政治や
行政の不正などに対する
メディアの
取材、
報道が不当に
制約され、
取材や
報道の現場が萎縮し、場合によれば裁判に訴えられる格好の口実さえ与えることになってしまうのではないか、こういう危惧が
メディアや
ジャーナリズムなどを中心に指摘されてきました。
それからさらに、
義務規定の免除につきましても、その
範囲が
報道目的という形で狭く
規定をされているために、
文学作品などはもとより、ニュース以外のワイドショーなどが広く
規制の
対象とされてしまうのではないか。あるいは、そもそも
主務大臣が、ある
個人情報が
報道目的の
情報かどうかということを認定するという
構造になっているわけですけれども、これが果たしていいのかということにつきまして、様々な
批判が提起されてきました。
いずれにしましても、
市民の
表現や
メディアの
取材、
報道に対する公権力によるかなり大幅な
介入と
規制をもたらすことが懸念されているわけであります。
それからさらに、
メモ書きの2、3の方に進みますけれども、もう
一つの
人権擁護法案というものですけれども、これは
差別表現とともに、
報道機関による
一定の
取材、
報道も
人権侵害とすることによって、
表現に対する
規制がこの
法案では二重に加えられております。
差別表現と
報道機関の
取材、
報道の自由の
規制という二重の
規制が加えられております。特に後者、
報道機関に対する
規制の
部分では、
犯罪被害者及び
犯罪被害者や
被害者、
被告人の家族などに対して
生活の平穏を害するような
取材や
報道を行うことを
人権侵害とし、これに対しては
人権委員会による勧告、公表などによる救済の
対象というふうにされております。
ここでは、
生活の平穏を害するという要件は非常にあいまいで漠然としていますし、それから公人、パブリックフィギュアですね、公の人、公人への
適用を除外するという措置も特に取られておりません。こういうことなどから、この
法案が通ってしまうと、
メディアの
取材、
報道に過剰な
制約が及ぼされるのではないか、そういう危惧や
批判が同じく寄せられてきたわけです。
それからさらに、3の方に行きますけれども、この点では、まず有害
情報、有害な
情報から
青少年を
保護するということを理由にして新たな
立法措置を取ることが自民党で検討されております。これが、先ほど申しました
青少年有害社会環境対策基本法案という
法案であるわけです。ここでは、有害
情報等の
規制について、
主務大臣など国の監督の下で、業界団体の設立も含め、自主
規制の強化ということが
メディア等に求められるとともに、もしその自主
規制が不十分な場合には、
大臣等が業界団体に対して勧告、公表などの権限を行使できるということが定められております。これは、
行政による非常に強力な
介入を認めている措置ではないかというふうに指摘をされるわけです。
それからさらに、有事法制の
関係では、政府の有事への対応に協力責務を課す指定公共機関という制度が導入されているわけですけれども、この指定公共機関にNHKなど
メディアも組み込むというプランが問題にされております。これは本来、政府から独立して権力を監視する役割を担う
メディアを政府の国策遂行の
手段にしてしまいかねない提案ではないかということで、
報道の自由から大変心配される状況があるわけです。
以上を踏まえまして、メモの4、
憲法二十一条の解釈改憲のおそれというところに入りますけれども、このような状況を眺めますと、
個人情報の
保護、
人権の擁護、
青少年の
保護、さらには有事への対応と、こういう様々な名目で
表現や
取材報道に広く国家
規制の網が掛けられ、そこでは
大臣や
人権委員会などの言わばお上が、
表現の中身に深く立ち入り、その是非を判断し、ある種の制裁を加えると、こういう仕組みが作られようとしているということが分かります。さらに、ここでは、新聞など活字
メディアも含めて、あらゆる
メディアが幾つかの
大臣や
人権委員会など主務官庁の監督の下に置かれるということが想定されております。
このように、
一連の
規制法案が成立すると、政府に
規制されない自由な言論と権力から独立した
メディアという、
憲法二十一条が
保障する
表現の自由の核心的な
部分が変質させられ、
表現の自由条項が事実上改定されたに等しい重大な事態を迎えることにならないかという危惧を私は強めております。
解釈改憲のおそれというふうに指摘しましたのは、
憲法の条文は変えないけれども、いろんな
立法措置が様々な形で取られることによって
表現の自由の本質的な
部分が変えられてしまうのではないかと、そのことを指しているわけです。
法案の修正の
議論もなされているようですが、恐らく、中途半端な修正ではこのような
憲法上の疑念を到底払拭できないように私には思われるわけです。
それで、メモの5のところに行きます。
それでは、しかし、
人権救済や
プライバシーあるいは
青少年の
保護などのために
メディアを
規制したり規律する必要はないのかといいますと、それがないという
立場には私は立っておりません。ある種の規律を加える必要は当然あるというふうに思います。
しかしながら、そのような規律は、今提案されているような法律によって権力的に押し付けるという、そういうものではなくて、裁判による
調整ということを別にすれば、それはあくまでも
メディアによる自主、自律の
努力によるべきであるというふうに私は考えます。現に、
放送や新聞など、この間、様々な具体的な取組が積み重ねられ、
一定の実績も残しつつありますし、それから諸外国の例を考えても、
メディアの
人権侵害などの解決は基本的に自主的な仕組みにゆだねているというのが通例の
在り方であるわけです。
それで、
規制法案の問題は以上にしまして、次の三、
表現の自由に関わる新しい
人権というところに入っていきたいというふうに思います。
表現の自由をめぐって、より直接、改憲論議にかかわる問題というのは、正にそこで
議論しております問題である。それは、端的に言えば、
一つは、知る
権利というような
権利を
表現の自由との
関係で
憲法上どう考えるかという問題であり、もう
一つは、
表現の自由としばしば
緊張関係に立ち、それとの
調整が求められる
権利としての
プライバシーの
権利というものを
憲法上どう位置付けるかという、そういう
論点であります。
これらの
権利は、いずれも
憲法の中には
言葉としては登場していません。しかし、今日では重要な
人権として認めていこうというのが
社会的な趨勢であります。このように、
憲法自体には明記されていないものの、その後の
社会状況等の
変化の中で
人権として新たに
保障される必要が生じた
人権のことを学界などでは新しい
人権というふうに呼ぶことがあります。ここで扱おうとする知る
権利や
プライバシーの
権利、あるいはさらには
環境権などと言われる
権利は、この新しい
人権の代表的なものとして考えられています。それが、今の点がメモの1に記した
論点ということになります。
それでは、こうした新しい
人権としての知る
権利や
プライバシーの
権利についてどう考えるべきでしょうか。
まず、
メモ書き2の知る
権利についてですが、この
権利を
憲法上承認すること自体についてはほぼ
学説の支持を受けていると言っていいと思います。しかしながら、最高裁は、
情報開示請求権としての積極的な
権利としてはまだこの知る
権利を承認しておりませんし、野党や
市民運動などから強い要求がなされたんですけれども、
情報公開法にもこの知る
権利というのは明記されませんでした。
情報公開制度が
人権に基づく制度であり、その制限を最小限に抑え、公開原則を徹底するために
情報開示請求権としての知る
権利を承認し、それを法に明記することが必要だと思われます。しかしながら、
市民社会の自由な
活動への過剰な
規制を避けるために、この知る
権利と言われるものがたとえ認められるにしても、その
対象というのは国や自治体を始めとする公共的な機関に限定することが必要で、特に
表現の自由の
観点からは、
メディアに対してこの
権利を安易に
適用拡張することは慎まなければならないというふうに思います。確かに、
メディアへの
市民のアクセスというのは非常に大事な
課題ではありますけれども、このことは国などに対する知る
権利の主張とは根本的に性質が異なり、
メディアの
報道の自由を不当に
他方で
制約するおそれがあるからです。
次に、
メモ書きの3、
プライバシーの
権利についてですが、
学説は一般にこの
権利を
憲法十三条が定める
幸福追求権に含まれる
憲法上の
権利として認めております。さらに、判例も、最高裁は
プライバシーという
言葉を
メディアとの
関係の文脈では避ける傾向にはありますが、一般的には、判例も不法行為の
保護対象として、この
権利やその
利益を承認してきました。
この
権利は人間の尊厳や自立にとって不可欠であり、コンピューター
社会、さらには高度
情報化社会の到来を考えると、こうした
権利を強化し拡充するということが求められることは言うまでもありません。そこで、今日では、この
権利を単に一人でほっておいておかれる
権利として消極的にとらえるのではなく、自分の
情報を自分がコントロールする
権利として、自己
情報のコントロール権ということですが、そういう
権利として積極的に構成するという
考え方が有力になりつつあります。
しかしながら、この
プライバシーの
権利というものが、例えば
市民が知ってしかるべき公共的
情報を隠ぺいする口実として使われたり、あるいは
表現や
メディアを
規制する
手段として利用されたりするとすれば、これは非常に大変なことになります。そのためにも、
表現の自由など他の
憲法上の
人権と慎重な
調整を図り、きめ細やかな対応を探る必要があると思われます。
この点では、
プライバシーの
権利やこれと密接にかかわる
個人情報保護制度の
適用の
在り方については、官に対しては、すなわち国家や自治体ですね、こういう官に対しては自己
情報のコントロール権を徹底させ、厳格な
規制を加えることが必要である一方、民間に対しては緩やかな
規制にとどめ、とりわけ
表現や
メディアに対しては、
表現の自由の
観点から法
規制は謙抑するなどの配慮を払うことが欠かせないというふうに思われます。
それでは、こうした知る
権利や
プライバシーの
権利を承認し
憲法に明記するために
憲法改正ということは必要なのでしょうか。
メモ書きの4のところです。
私の結論は次のようなものです。将来的には改憲を検討する余地はあるかもしれませんが、今すぐ改憲に取り組むのは時期尚早であり、またすぐ改憲しないからといって特段の不都合が生ずるものでもないというものです。
すなわち、知る
権利や
プライバシーの
権利などの新しい
人権については、理念的、原則的には前向きに受け止める必要はありますが、
さきにも述べましたように、その
内容や
範囲、
機能などにつき、まだまだ検討を深め、詰めていかなければならない点も少なくないからであります。
こうした作業抜きに拙速、性急にこれらの
権利を
憲法に書き込むのはそもそも難しいわけですし、そのことがもたらす弊害も懸念されます。学界や
国会等での十分な
議論と
立法や判例の着実な積み重ねがまず前提となるべきだと思われます。そうした
努力によって、改憲をしなくとも
権利の内実を実質化していくことは可能であるし、現にある程度このような
権利の定着も見られてきました。そして、こうした
権利をめぐって
議論や実務が
一定の成熟を見た段階で初めて
憲法改正の具体的な
議論の条件が整うのではないでしょうか。
最後に、
メモ書き漢数字の四のところですが、今日その一端をお話しさせていただきましたように、
メディア規制法案にせよ、知る
権利や
プライバシーの
権利の
憲法への明記にせよ、
憲法の
表現の自由の
在り方にとって極めて重大な
意味を持つ提案ですので、本院におかれましても、あらゆる角度から徹底した
議論と吟味を加え、慎重に対処されることを心から切望し、最初の
発言を終えたいと思います。
ありがとうございました。