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村上正邦君 「
木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。
一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」。これは、
島崎藤村の「
夜明け前」の
冒頭の
一節であります。
本日、私は、
皆様の御賛同をいただき、
議員一同を代表して、故
村沢牧先生の御霊に、謹んで
哀悼の
言葉を申し述べます。
行く夏を惜しむかのように、
伊那谷にこだまする蝉時雨が例年にない厳しい残暑を感じさせていた九月二十五日、
地元飯田市で、
村沢先生を長年にわたりお慕いし、支持してこられた多くの
人たちによる心のこもった
合同葬が、しめやかにとり行われました。
私は、この御葬儀に参列して帰る途中、
中央高速道路が
事故で
通行どめになり、やむなく
木曽路の
一般道を中津川を経て名古屋に向かいました。
そこは、
深山幽谷の地であり、今に至るも、「
夜明け前」の
冒頭の
一節に描かれたごとく、すべては山の中でありました。狭く急な坂道を転がるように、大きなカーブを何度も何度も繰り返しつつ、数百メートルを一気に急降下していくような、驚くほど峻険な
山道でありました。
かつては平家の落ち武者が安住の地を求め、あるときは
木曽義仲が京を目指して駆け抜けた道であろうと
思いをめぐらせながら走っているとき、ふと、「
人生に偶然はない」という
言葉が頭をよぎりました。
高速道路が
通行どめになり、険しい山合いの道をこうして走っているのも決して偶然ではない。
悠久の時の流れがここではとまっているかのような昔ながらの大自然、脈々と続いている
人間の営み、そこに息づいている
文化。
村沢牧さんを
政治に駆り立てたものは何か、生涯をかけて守ろうとしたものは何であったのか、いささかなりとも実感として
理解し得るために時と所を与えられた
思いがしたのでありました。
村沢先生は、大正十三年八月一日、古くから
遠山郷と呼ばれてきた
長野県
南信濃村の農家の長男として誕生されました。わずかな平地と山の斜面を開墾した土地での
農業と林業が、住む
人たちの
生活の糧でありました。
先生は、病弱だった御尊父を助け、若いころから
農林業や
土木作業に精を出して家計を維持したと伺っております。
十五歳のとき、
先生は相次いで大きな不幸に見舞われました。
杉の枝打ちをしているとき、過って木から落ち、
右手の筋を切断され握力をなくしてしまわれました。さらに、御母堂が
農作業の途中、狭い急斜面の
山道から足を踏み外して転落し、三十七歳の若さでこの世を去ってしまわれました。
十五歳の
牧青年の受けた衝撃はいかばかりであったかと察しますが、幼い兄弟を抱え、一家の
中心になっておられた
先生は、
悲しみのふちからけなげにもみずからの
人生に気丈に立ち向かい、戦時中は、ほとんどの若者が出征していく中、村の
食料増産や木炭の
生産に取り組みました。戦後は
青年団活動、
農民運動、
平和運動に
情熱を傾け、
地域の
人たちの
信頼を集め、いつしか
指導的な立場に立たされていたのであります。
昭和二十四年、
青年団活動で知り合った
満子さんと結婚。その後、
地方事務所に勤務しながら
独学で
大学検定に合格し、必修であった
東京での一年間のスクーリングを経て、
中央大学法学部を苦学の末、卒業されました。
東京での学費、
生活費を支えたのは、幼い長女を抱えて、
土木作業で得たわずかな賃金をためては仕送りした
満子夫人の涙ぐましい陰の力でありました。
そのときのことを、「
政治の谷間に光を」と題した著書の中で、「実に十三年の長い
独学の道程(
みちのり)であった。妻の深い
理解と
協力なしには不可能だったが、この体験から、
努力をすれば何とか出来る。今日はわからなくても勉強すれば明日はわかる。との自信を植え付けることが出来た」と述べておられます。
先生の不屈の精神はこうして培われたものであります。
ある日、私は、
長野から帰られた
村沢さんを清水谷の
議員宿舎に訪ねたことがあります。
おにぎりと
ナスの漬物で遅い夕食をとっておられました。その
おにぎりと
ナスを私に勧めながら、
平成八年に先立たれた
奥様のことに触れ、「上京の折は、いつも
女房が
おにぎりをつくってくれてね。それがいつしか習慣になって、今では自分でつくって持ち帰っている。わびしいな。
女房にはずっと苦労のかけ通しで、引退したら、新築した家でゆっくりねぎらってやりたかった」としみじみと語っておられました。
先生の飾らない朴訥としたお
人柄とともに、あのときの
ナス漬けの味が忘れられません。
参議院議員としての二十二年間、
先生は、
予算委員、
大蔵委員、
建設委員長、
災害対策特別委員長、
細川内閣の
農林水産政務次官を歴任され、党にあっては
農林水産部会長、シャドーキャビネットにおける
農林水産大臣、
参議院議員会長などを務められました。中でも、
農林水産委員会には二十年以上にわたって籍を置かれ、在職中に
先生が行った百六十九回にわたる
質問のうち、実に七十七回が
農林水産委員会における
質問であり、
農政と弱者に光を当てた
政治を目指して歩んできた
先生の輝かしい足跡として本院の歴史に刻まれております。
平成五年十二月、
先生が
農林水産政務次官に在任中、
我が国が米の
部分輸入を余儀なくされるや、「
政務次官といえども
内閣の一員になった以上、苦しくとも耐えなければならない。一方で
国際貿易体制の問題も考えなければならない。この
信条と現実の責務との矛盾に苦悩した。だが、私の
政治信条、良心がそれを許さなかった。これが
人間村沢牧の
生きざまと言う以外にない」と
政務次官を辞任されました。
農政一筋にかけた、そしてみずからの生き方においても一分の妥協も許さない
政治家・
村沢牧先生の真骨頂でありました。
また、
先生は、新
農業基本法案の
審議が大詰めを迎えた本年六月二十九日、
病院を抜け出て
委員会の
質問に立たれました。
はた目にも痛々しいほど、病魔との闘いに衰弱した体にむち打って、新しい
基本法の
理念を踏まえた
法体系の整備や
基本計画のあり方などを順次ただされ、
最後に
政府当局に「しっかり頑張ってください」と結ばれました。しっかり頑張れと厳しい口調で語られたお姿はまさに鬼気迫るものがあったと、多くの
同僚議員から聞きました。
農業を取り巻く
環境をこれ以上壊してはならないという
先生の振り絞るような叫びが、今や遺言になってしまいました。
所属する会派は異なっていても、私は
政治にかける
情熱を同じくし、多くの夢を共有しておりました。中でも、
農業は国の
基本であり、
地域は自然を守り
文化をはぐくみ、福祉は
人間平等のあかしであるとの
先生の
政治理念は、
我が国が抱えている
重要課題の解決に欠かせないものであります。私は、
村沢先生にも直接申し上げましたが、影の
内閣ではなく、橋本第二次
閣内協力による実現による
連立政権の
農林水産大臣になっていただきたかった。自然とともに生きる
人たちに根差した、血の通った、新
時代に通ずる、本音の
農政を
確立していただきたかった。残念ながら
政治情勢の変化で、それもかないませんでしたが、
先生を
農林水産大臣にと心から願ったのは、
党派を超えて、決して私一人ではなかったと確信しております。
さきの
国会の
会期末、本
会議の
採決で
牛歩戦術が行われていたときであります。
村沢先生は、お体のぐあいからして長時間立っておられるのがきっとおつらかったに違いありません。しかし、
最後まで
議員としての務めを果たされました。夜を徹した
採決の堂々めぐりが続く中、
梶原敬義先生とお二人でわざわざ私の議席まで来られ、
牛歩もこれを
最後にしなければいかぬ、積もる話もあり、
国会が終わったら一度ゆっくり会おうと話しかけられましたが、この約束を果たせないままになってしまったことが残念でなりません。
九月八日、
先生の御遺体は、生涯をかけて激しく戦ってこられた永田町を一めぐりし、
国会正門にて多くの
同僚議員に見送られながら、
南アルプスを赤く染める夕日に誘われるように、愛するふるさと・
遠山郷に帰っていかれました。今ごろは、
先生を支え続けて先立たれた
満子夫人に再会し、遠山川を見おろす段々畑に二人で腰をおろして、
夫人の御苦労をねぎらい、積もる話をなさっておられることでありましょう。
村沢牧先生、あなたの肉体は土に帰っても、
政治家・
村沢牧の魂はなお
南信、
遠山郷の山野にあって、
日本農業を守る鬼神となって生き続けられることを信じて疑わないものであります。
泡の如く、霓の如く、
幻の如く、響きの如く、
過ぎ去るものは
實在に非ず、
空しきものは「我」に非ず、
死するものは「我」に非ず、
死せざるものこそ應に「我」なり。
合掌
参議院議員 村上正邦
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