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西野康雄君
過労死の問題について、私も本を読ませていただきました。「
日本は幸福か」という題名で、「
過労死・残された五十人の
妻たちの
手記」、こういうことなんですが、それを読んでおりますと、少し気になることがございました。
労働基準監督署、ここの非常に
対応に対しての不満というのが随分と出てきております。一部読ませていただきますと、
そして、
労働基準局監督署。体の不自由な夫と二人で、無理しながら、どんな思いで行ったか……。担当の人は、「なぜ、もっと早く来なかったのか」と相手にもしてくれませんでした。用紙を持っていけば、「
会社の印がなければだめだ」とつっけんどんで、取りつくしまもない冷たい
態度でした。でも、市議会の方にお願いしてついていってもらったところ、掌を返したように丁寧になり、簡単に
手続きは終わりました。このような事態になって、なんて世の中は弱いものに対して冷たいのだろう、
矛盾だらけなのだろうと、初めて気づきました。
こういう
手記がございます。
また、
一九八八年十二月、
横浜西労働基準監督署へ、
労災の
申請をしました。翌三月には
事情聴取がありました。夫を失い、悲しみにうちひしかれている私に、係官のS氏は「
過労死なんて
言葉は、あんた
たちが勝手に作った
言葉だから」と、冷たく言い放ちました。そして、公務員である彼は、私がいくら夫の長時間
労働を訴えても、
中小企業の
労働状況のことなど理解しようとはしませんでした。本来労基署は、私
たち労働者側にあって、私
たちを守ってくれるものと確信していたのに、あまりにもひどい
対応です。
申請から二年半が経過しても、結果は出ません。
夫はこのような過酷な
職場で倒れたのに、
労働基準署のとった
態度は、あまりにもひどいものでした。
西宮労働基準署は、ほとんどなんの
調査も行なわず、資料も請求せず、
労働組合の人がまだ来ていないのをよいことに、二カ月で不支給の決定を送ってきました。
品川労働基準監督署に
労災申請をし、一年以上すぎた一九九〇年三月三十一日、一枚の紙が郵送されてきました。それには、「障害(補償)」給付等不支給決定について」との四行が書かれていました。「決定理由の詳細について聞きたい点があれば、当署まで照会してください」とも書かれていたので、弁護士さん
たちと出向きました。そこで国会った
労働基準監督署の
対応は、いま思い出しても許せないほど腹立たしいものでした。応対に当たった署員(三人)は、何を考え、あるいは何も考えていないのか、「不支給」の理由を聞きにわざわざやって来ているのに、それにはまったく答えようとはせず、押し問答が続き、あげくのはて、窮するとそのつど席を立って、別室でどうやら上司にお
伺いをたてているようすなのです。私
たちのイライラ、怒りはつのるばかりでした。自分で決定したことの理由をなぜ答えられないのか。そのつど上司に聞きにいくのなら、説明のできる人物がなぜ直接応対し、納得のいくような説明をしないのか。それでよく、仕事として成り立つものだとあきれてしまいます。
警察の方でさえ、「この人は過酷な
労働をしてきた人なんじゃないか」と言っていたのに。
基準署へ行くたびに、「病気だから、
労災にはなりません」と言われ、それでもなお、お願いに行きました。あからさまに「なんだ、また来たのか」という顔をされました。「国のお金を簡単には出せない」とも言われました。私
たちの辛い気持ちなど、とうていわかってもらえません。
二十二日、私は吹雪のなかを、朝九時の汽車に乗りました。労基署で名前を言ったら、頭ごなしに「駄目だ」と言われ、話も聞いてくれませんでした。私は泣いてそこへ座りこみました。すると、審査官は、「駄目だと思うが話だけは聞いてやる」と言いました。あまりの冷たさに、涙が止まりませんでした。帰りの駅でも一人で泣いていました。
こういうふうな
手記が連綿として続きます。
なるほど、
労災の
基準の認定というものは厳しいものだということもよくわかります。しかし、大変つらい気持ちで
労働基準監督署へ行っておられるんですね。そういうときになぜ温かい
対応をしてやれないんだろうか、そういうことを非常に疑問に思うんです。この
手記の中でだった一人だけ労基署の人が親切であったということを書いておられる方もございます。それはもう本当にたった一人だけでございました。そういうことを考えますというと、
家族を失ったつらさ、まさに
会社に殺されたと言ってもいいような悔しさ、そういうふうなものを思いながら行っておられるわけですね。それに対して、非常にこの
手記を見る限り冷たい
対応がまことに多いという、これはやはり少し
労働行政の中で考えていくべきことじゃないかなと思うんですが、
大臣、御所見とうでしょうか。
局長でも結構ですが。