○稲葉(誠)
委員 その会同にどうして最高裁の事務総局が出て一応の見解——これははっきりしないのですけれ
ども、別に見解を示したわけではない、ただ聞かれたからあれしたのだという意見もあるわけですが、なぜ最高裁の事務総局がそこへ出席をしなければいけないのか、こういうことも私はよくわからないのですね。別に最高裁が出席しなくてもいいんで、
裁判官同士が集まっていろいろな意見を闘わすというか協議するというか、それは自由なんで、それを司会するような形で最高裁の事務総局がやらなければならない理由はないと私は思うのですが、最高裁がそこへ出なければならなかった理由は後からお答え願いたいと思います。
それはそれとしまして、実は今度の「判例タイムズ」に、私も存じ上げています前名古屋
高等裁判所長官の千葉和郎さん、これは刑事裁判御専門の非常に立派な方ですが、この方が例のメモの判決についていろいろ感想を述べておられるわけです。このメモの判決についてはいろいろな見方もあるし、刑事実務をやっている方からの見方ももちろん一部にありますけれ
ども、それをここでどうこう言うわけではありません。メモは、多数決のように、傍聴人がとるのは当然のことであるというふうに私も
理解をいたしておるのですが、その中で千葉さんが言われておることで非常に参考になるのは、「本判決に
関連しての感想」というところの
数字2の下の方に
まず、虚偽混入の危険を防止するために設けられた証拠法則を厳格に
適用し、その証拠調手続を厳密に行うこと、ことに証拠能力の要件については、原則として、その取調べ前に実質的に検討され判定されるべきこととするとともに、
ここのところはちょっと私は見解を異にしますが、
当該の事実について反対事実の可能性を吟味し、有罪と認めるについても合理的な疑いが残らないかどうかを客観的に判断することが基本的な態度とされよう。この問題については従前から種々の研究がなされ、
この論文は特信性の問題を中心として論議されておるのだと思いますが、
この問題については従前から種々の研究がなされ、
裁判所内でも「運用の時代」と言われる程に会同、研究会等で繰返し論議されて来ている。ただ各地での運用
状況に照らすと、これまでの研究、検討の成果が十分には伝っていないうらみがある。しかし東京地裁はじめ各地の刑事
裁判官の間には「裁判は検察を検察するものなり」とか、「被告人の云い分は被告人の身になって考えよ」とか、「被告人が真に言いたいことを聞き出せ」とか、「争点には判断を」などの格言めいたものが言い伝えられていることからも窺われるように、
こういうふうに千葉さんは書かれておるわけです。
これについて最高裁側の感想を求めるとかということをするつもりはここではありません。ありませんけれ
ども、特にこういう中で「「運用の時代」と言われる程に会同、研究会等で繰返し論議されて来ている。」ということは、恐らく任意性と信用性の問題と同時に特信性の問題が中心であろう、これは当然こういうふうに考えられるわけです。そのところが刑事裁判の真髄なんで、眼光紙背に徹してその点をよく見てほしいというのが刑事裁判をずっと続けてこられた千葉さんの御意見だろうと思うわけです。
刑事裁判では、事実認定こそその真髄をなすものとされ、
裁判官は眼光紙背に徹して実体真実を発見することを使命とするともいわれたのである。
と言われておるわけです。
そして、私も存じ上げておる
裁判官の方が、お名前は伏せますが、「自白の分析と評価—自白調書の信用性の研究—」という著書を発行されている。非常に勉強される方です。私この本をまだ手にしていないものですから、本を読んでのあれではございませんが、自白調書の様式が日本独特のもので、いわゆる徳川時代の口書きにさかのぼることを論証しながら、現行法に受け継がれた問題点についていろいろ言っている。
私は前から言っているのですが、現在の供述調書のとり方は、ずらずら作文というか一人の人が全部しゃべったような形でできておる。このとり方では真実は発見できないのではないか、この点を何とかしなければ本当の日本の刑事裁判はできていかないのではないかというのが私のずっとの主張なわけです。そこで、そういうふうなことを言ったら、いやそのために三百二十一条がちゃんとできているのだから、それで担保されるのだという意見も法務省サイドからはあったわけです。
しかし、それだけでは問題は解決しないのではないか。いろいろな問題点があるのですけれ
ども、「供述録取書における自白がいったん争われることになると、」云々というのはこの方の書かれた本から出たのだと思いますが、私も本を実際に見る時間がなかったので申しわけありませんが
(1)どこまでが本来の自白なのか、(2)どこまでが取調官の
質問なのか、(3)取調官の主観や表現がどう反映しているのか、(4)何回分の取調をまとめたものか、(5)その間に否認の供述はなかったのか、などの問題を調書の記載自体から判定することが著しく困難になる。
と言っている。現実の裁判の中で一番争われているのはこの点です。眼光紙背に徹してもなかなかこれはわからない。なぜわからないかといえば、
質問が出ていないで答えだけが出て、それが作文のような形になって、私は何々しましたとずっと並んできているわけです。これでは真実は発見できないというのが私の年来の主張なんですが、そこでこの方も
法定刑に死刑を含む重大
事件や身柄を拘束されている被疑者、防御能力の乏しい未成年者の否認
事件など取調べに慎重を要する類型の
事件については取調べの公正を担保するに足る立会人の介在と供述の一問一答の形式による全部録取を
法律的に義務づけることが考慮されても良い時期にきていると思われる。
供述調書が……取調べの公正と記載
内容の正確性を担保し得る作成方式と記載形式を備えるように改善され、取調
状況を客観的に公判廷に反映させる立証が行き届くことになってはじめて、現在の刑事訴訟制度がなお引きずっている糾問主義の影がいく分でも薄らぐことになる……。
こういうふうに、私の存じ上げておる方ですが、非常に勉強家のある
裁判官が言われておるわけです。
私は、これは非常に貴重な御意見だと思うし、前の千葉さんの御意見も大きく参考になる、こういうふうに思うのですが、具体的に、今でも例えば外国人同士の
事件がありますね。そこでどういうふうな通訳をしているかわからぬけれ
ども、殺人か傷害致死かで争われている
事件が今現実にあるわけです、そうでしょう。そうすると、それは未必の故意をとらざるを得ないでしょう。未必の故意をとるために、外国人がこれを何かで刺したならば相手が死ぬのではなかろうかと思いましたなんてことを、まあ日本語で言えばわかるかもわからぬけれ
ども、それも
理解できないらしい。外国語で言ったものを通訳して、そしてそれが調書になってあらわれてきて、そしてそれが判断の材料にされたんでは、これは真実というものは全く追求されないで終わってしまうのではないかというのが私の
考え方なんです。
ですから、これは北海道大学の
先生やいろんな方がいろんなことを言われていらっしゃいまして、これらを今後十分考えながら、私は刑事訴訟法を今改正しろと言ってもすぐには無理な話なんで、少なくとも四十年たった刑事訴訟法というものはいろんな問題点を含んでいるんだから、それをどこで検討するかは別として、やはり今後検討するということをやっていかなければならない問題ではないか。そのときに問題となる一つは、やはり今言った接見交通の問題であり、同時に供述調書の問題ですよね。ここら辺のところが大きな問題になるのではないか、こういうふうに私自身は考えておる。
こういうことを申し上げて、そして今言ったようなことを中心として、さらに
裁判所内部あるいは法務省内部でも論議を深めていただきたいということを要望をいたしまして、私の
質問を終わらせていただきます。