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1987-01-29 第108回国会 衆議院 本会議 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和六十二年一月二十九日(木曜日)     —————————————  議事日程 第四号   昭和六十二年一月二十九日     午後一時開議  一 国務大臣演説に対する質疑     ————————————— ○本日の会議に付した案件  安田修三君の故議員住栄作君に対する追悼演説  裁判官訴追委員選挙  北海道開発審議会委員選挙  国家公安委員会委員任命につき同意を求めるの   件  社会保険審査会委員長及び同委員任命につき同   意を求めるの件  漁港審議会委員任命につき同意を求めるの件  労働保険審査会委員任命につき同意を求めるの   件     午後一時三分開議
  2. 原健三郎

    議長原健三郎君) これより会議を開きます。      ————◇—————
  3. 原健三郎

    議長原健三郎君) 御報告いたすことがあります。  議員住栄作君は、昨年十二月二十日逝去されました。まことに哀悼痛惜至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る一月二十一日贈呈いたしました。これを朗読いたします。     〔総員起立〕  衆議院は 多年憲政のために尽力し さき国務大臣重任にあたられた議員従三位勲一等住栄作君の長逝哀悼しつつしん弔詞をささげます     —————————————  故議員住栄作君に対する追悼演説
  4. 原健三郎

    議長原健三郎君) この際、弔意を表するため、安田修三君から発言を求められております。これを許します。安田修三君。     〔安田修三君登壇〕
  5. 安田修三

    安田修三君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員住栄作先生は、昨年十二月二十日、国立病院医療センターにおいて逝去されました。まことに痛恨の念にたえません。  私は、ここに、議員各位の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼言葉を申し述べるものであります。  住先生は、三千メートル級の北アルプス立山連峰を間近に仰ぐ富山魚津市に、大正九年呱々の声をお上げになりました。幼少から学業に秀で、旧制魚津中学校四年修了をもって旧制富山高等学校に進学されたのであります。昭和十五年、東京帝国大学法学部に進まれた先生は、在学中に既に高等文官試験の司法、行政の両科に合格されました。昭和十八年御卒業後、間もなく兵役につかれ、海軍主計大尉として南洋諸島を転戦し、レイテ島で終戦を迎えられました。  戦後昭和二十一年、内務省に入られた後、富山経済部農務課長として、当時の窮迫した食糧問題に取り組まれたのであります。昭和二十二年、新たに労働省が設置されるや労働省に彩られ、新進気鋭行政官として、労働関係法の立案や新しい労働政策の推進に御尽力されたのであります。昭和四十一年、中央労働委員会事務局長時代には、持ち前のエネルギーと鋭い才覚で、続発した私鉄、繊維の争議などの大変難しい労使間の紛争の解決のため、あっせんに鮮やかな手腕を見せられ、労使双方から大きな信頼を得られたのであります。  先生は、このように労働行政に専念される傍ら「雇用政策の理論と展開」などの専門書を著され、その学識の深さを遺憾なく発揮されました。長年の行政官庁勤めの中から日本政治をつぶさに観察され、高度成長期の反省として、「政治に心を取り戻そう」との理念福祉国家建設の高邁な政治目標を持たれ、昭和四十七年一月、労働省職業安定局長の職をなげうち、郷土友人衆議院への出馬の決意を打ち明けられたのであります。  その年、田中内閣が発足、日中国交正常化日本列島改造論などの論議の高まりの中で、富山県第一区から無所属で立候補、見事最高点で初当選の栄誉に輝かれたのであります。かくして本院に議席を得られた先生は、連続当選されること六回、在職十四年二カ月に及び、この間、不肖私が昭和五十八年にトップの座を譲っていただいた以外は、すべて先生最高点を占める偉業をなされ、県民からの信頼の厚さを如実にあらわされていたのであります。  本院においては、社会労働委員会建設委員保全予算委員会等の理事を務められ、委員会の円滑な運営のため、与野党間の折衝に労をいとわれませんでした。その誠実な人柄は、党派を超えて敬服されたところであり、私もまた昭和五十五年、社会労働委員会で同席であったときに、先輩各位から「君の県の住君ならざっくばらんに話ができる」と言われ、厚生年金保険法健康保険法中小企業退職金共済法、各改正案の処理に当たっておられた先生に接し、同県人の誇りとさせていただいたのであります。  昭和五十三年、総理府総務副長官、同五十五年に建設政務次官を歴任され、同五十八年には、第二次中曽根内閣法務大臣の重責につかれました。また、先生は、自由民主党内においても全国組織国民生活局長政調社会部会長総務局長経理局長などの要職を務め上げられました。特に、昭和五十八年、経理局長として、四月の統一地方選挙、六月の参議院議員選挙、十二月の衆議院議員選挙と三大選挙に直面されて、自由民主党の台所を支えられたその力量は、党内において非常に大きな評価を得られ、先生の将来への地歩を固められたと言われたのであります。  先生は、御自分のお名前を織り込んで、「住みよく栄える富山を作ろう」とのキャッチフレーズで、郷土発展に惜しみなく努力されました。富山職業訓練短期大学校富山医科薬科大学の設置を初め、雇用促進住宅建設、さらに、国営黒部川利水事業、また、富山の将来については、「第一次産業を大切にしながら、付加価値の高い先端技術産業の誘致が不可欠」として精力的に取り組まれたことは、すべて先生の情熱的な郷土愛の発露であります。  先生は、人の話によく耳を傾け、ハスキーな声で飾り気なく語りかける気さくな人柄に、「官僚出身らしからぬ」、「ざっくばらんだ」などとの親しみある声価に加え、北陸育ち特有の一歩下がって物申す控え目さと、一言言ったら引き下がらないしんの強さが多くの人々から敬愛されました。(拍手)  中学時代、人のいとう五千メートルの競走にいつも出場され、強い人はガッツポーズで、しっぽの者はおどけながら走る中を、先生は鉢巻きをしっかりと締め、心持ち背を丸めながら前を見詰め、玉の汗を流して黙々と走っておられたその姿に、みずからの目標に向かって不動の信念で進まれる頼もしき級友として映った感動が今なお鮮やかによみがえり、先生の晩年の政治姿勢は既に少年期に芽生えていたと学友の語りぐさになっているのであります。  先生は、剣道五段、空手二段、囲碁四段で、青年時代からバイタリティーあふれる行動力の持ち主であり、疲れを知らぬ「豆タンク」の愛称で先輩から信頼されたと言われます。局長時代も偉ぶらず、どちらかというと服装にも気をかけることなく、郷土にあっては、仕事自慢話もせず、後援会の会員と肩を組みながら世間話に花を吹かせ、後輩には面倒見のよいおやじさんという庶民派政治家でありました。しかしながら、事故治に対する情熱と目標は、「太陽のごとく、日本海の荒波のごとき」激しさを持っておられたのであります。  先生は、昨年十月入院に際し、「政治家は、二度も入院を繰り返しては申しわけない。二度と入院せぬよう年内いっぱい十分静養してくる」と言われ、その後の回復順調にして、十二月中旬には、新しい年の大きな構想に目を輝かされていたと言われます。常日ごろ、親しい友人に「個々のことより、党務が大切だ。国をよくして恩返しをしたい」と言っておられたことから拝察するに、いよいよ先生の次の大いなる出番へのシナリオができつつあったと思われます。その志半ばにして、生涯を通じ初めての病で去らねばならなかったことは、極めて残念であったろうと存ずるのであります。  先生法務大臣に就任されたとき、「法務省は空気みたいに余り存在がわからないのが理想的だ」と新聞社の対談でおっしゃっておられるのですが、厳正な法の執行の責任者として、温かさの持つ瀾達な御性格のあふれる言葉であります。  この就任に際し、御長兄の住庄作さんは、次のように話されております。「私たち兄弟姉妹は九人の子たくさん。家は農家で、学校から帰ると、きつい仕事兄弟が助け合い、食事も後で食べる者の分がなくならないように兄弟が分け合ったことが栄作の思いやりの柱を育てたのだと思います。世を去った父の教えは、「お金で皆さんに役立つことはできないので、せめてあぜ道に転がっている石を拾うことぐらいして恩返しをせよ」ということでした」このことは、先生のお人柄がはぐくまれた環境の一端を物語るもので、深く心を打たれるところであります。  顧みますれば、先生は今が働き盛り、六十六年の御生涯は余りにも散るには早過ぎました。今や内政に、外交に、情勢は極めて厳しいときを迎えております。こうしたときに、我が国政治の展望について高らかな理念を持たれ、人格、識見ともにすぐれて、今後の大成が期待されていた先生に去られたことは、政権を担う自由民主党はもとより、本院にとりましても、また、我が国にとっても、かけがえのない珠玉を失ったことになりました。  かつて北陸路を訪ねた俳聖芭蕉が、「早稲の香や分け入る右は有磯海」と詠んでその眺望のすばらしさに感動した有磯海に面したふるさと魚津市の母なる大地に先生は帰られました。  こよなく「ふるさとを愛した心」で「日本政治に心を戻そう」と叫んだ先生今は帰らず。厳冬の立山連峰は氷雪に覆われて人を寄せつけず、先生永遠の眠りを悲しんでおります。やがて訪れる陽春の息吹、先生幼少から仰ぎ見て育った僧ケ岳には、雪解けとともに、虚無僧が馬を引くシルエットが浮かび上がります。そして、海辺には幽幻の青白き輝き、ホタルイカの群舞と夢の世界を描く蜃気楼があらわれ、見る人々をして、その幻にありし日の先生の姿を永遠に思い浮かべるでありましょう。  ここに、住栄作先生の御功績をたたえ、その愛された人となりをしのび、心から御冥福をお祈り申し上げ、哀悼言葉といたします。(拍手)      ————◇—————
  6. 原健三郎

    議長原健三郎君) 御報告いたすことがあります。  永年在職議員として表彰された元議員金子岩三君は、昨年十二月二十七日逝去されました。まことに哀悼痛惜至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る一月十七日贈呈いたしました。これを朗読いたします。     〔総員起立〕  衆議院は 多年憲政のために尽力し 特に院議をもってその功労を表彰され さき逓信委員長農林水産委員長要職につき また再度国務大臣重任にあたられた正三位勲一等金子岩三君の長逝哀悼し つつしん弔詞をささげます      ————◇—————  裁判官訴追委員選挙  北海道開発審議会委員選挙
  7. 原健三郎

  8. 谷垣禎一

    谷垣禎一君 裁判官訴追委員及び北海道開発審議会委員選挙は、いずれもその手続を省略して、議長において指名されることを望みます。
  9. 原健三郎

    議長原健三郎君) 谷垣禎一君の動議に御異議はございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  10. 原健三郎

    議長原健三郎君) 御異議なしと認めます。よって、動議のとおり決しました。  議長は、裁判官訴追委員宮崎茂一君を指名いたします。  次に、北海道開発審議会委員上草義輝君を指名いたします。      ————◇—————  国家公安委員会委員任命につき同意を求めるの件  社会保険審査会委員長及び同委員任命につき同意を求めるの件  漁港審議会委員任命につき同意を求めるの件  労働保険審査会委員任命につき同意を求めるの件
  11. 原健三郎

    議長原健三郎君) お諮りいたします。  内閣から、  国家公安委員会委員牛場大蔵君を、  社会保険審査会委員長河角泰助君を、  同委員新津博典君を、  漁港審議会委員飛田謙蔵君を、  労働保険審査会委員仙田明雄君を任命したいので、それぞれ本院の同意を得たいとの申し出があります。右申し出のとおり同意を与えるに御異議はございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  12. 原健三郎

    議長原健三郎君) 御異議なしと認めます。よって、いずれも同意を与えるに決しました。      ————◇—————
  13. 原健三郎

    議長原健三郎君) この際、暫時休憩いたします。     午後一時二十分休憩      ————◇—————     〔休憩後は会議を開くに至らなかった〕      ————◇—————