○秦野章君 もちろん理由はあるわけでしょうが、問題は、その実体的な判断の問題だと思うんですよね。私はそういう感じを持つわけです。
それから最後に、これは私の問題提起として、ひとつ
法務省で検討してもらいたい。余りだれも言っていないものだから、これは間違っているかどうかわからぬけれ
ども、意外に思うかもしらぬが、
岡村君にしても
根來君にしても、その世界でやってきた人には、特に
検察の方には
検察一体の原則というのは戦前からずっと今日に至る不文憲法みたいなものだね。問題提起だから
答弁要らないけれ
ども、ちょっと聞いておいてください。
検察一体の原則というものは、これは私の
考えでは、
一つは
検察官が司法官であるという
時代の思想だと思うんですよ。そして戦後、
検察は行政官になったんですね。
裁判所に附置された
検察庁は行政官庁になってしまった。もう司法官じゃない、司法官は
裁判官だけだ。そういうことを
考え、かつ行政官になると上命下従の原則が適用になるわけだ。特別の事項がない限り国家行政組織法、
国家公務員法の適用があると、これは
法律に書いてある。だから、検事正は次席検事を指揮し、次席検事は
部下を指揮する、これは行政官だから当たり前の話だ。しかし、公判の関係があるから検事は独任官という性格もある。独任官という性格がちゃんとあることは当然だ。これは、
裁判の当事者になり、
裁判官に対応していわば検事個人が、検事そのものが起訴、不起訴、公判維持の役所的性格を持つ。それと矛盾することなく行政庁の一員であって、検事正、検事長、検事総長と階級、役所の階層組織があって、そのもとで指揮を受けるということもあるんですね。私は、それは矛盾しないと思うんだ。矛盾しないし、当然指揮を受ける。指揮を受けながら公判でもって
仕事をする。
そういうことになると、
検察一体の原則というのは何だろう。確かに
検察庁は全国一体にならなければだめだし、ならなければだめだというのは、これはもう行政組織だからそうなんです、もともと何も一体を言わなくたって。司法行政だけじゃない。これは全部、
事件でも上へ上げて相談して指揮を受ける、そういう行政組織というものがちゃんとあるのに
検察一体を言うと、これは私の経験からのニュアンスなんだけれ
ども、例えば第一審で有罪の論告をする、検事だから有罪の論告、それで、
裁判所が無罪と言ったら控訴するわけだ。そのときに、これは本当は無罪かもしれぬと思っても、やっぱり検事は疑わしきは罰する。それは、疑わしきは罰する立場だから、いいんだけれ
ども、これはどう
考えても無罪にしまいにはなってしまうといっても、やっぱり
検察一体の原則で、第一審が有罪なら一体の原則で有罪で持っていってしまうというのが実情のように私は感じたわけだ。
再審
事件というものがあったでしょう。一審、二審、三審やって再審で無罪になるあの中には、証拠不十分だから疑わしきは罰しないという
裁判所の原則適用でいうものと、間違いなく捜査の間違いで、まるで人違いみたいなもの、間違いで無罪というものがあるんだよ。だけれ
ども、これは一遍一審で有罪にしたら何とかして頑張らないとまずいという、それは頑張るのはいいけれ
ども、
検察一体の原則というものは第一審の有罪判決というものに対してそれが相当に働くという感じがするんですな。これは無用のものではないのか。行政組織でいいのではないか。
なぜそういうものができたかというと、
検察一体の原則というのは、これは戦前の不文の憲法ですよ。それは、日本の刑事法というものがドイツから入ってきたもんだからだ。ドイツというのは統治主義の完璧な国ですよね。日本の明治以後の近代化がドイツを入れたことによって急ピッチで成長したということは、これは確かなことであって、よかったと思う。不平等条約を取っ払って、とにかく近代化をなし遂げたのは、ドイツの系統のものを随分入れたからですよ、日本の文化に。それはそれで、急ピッチで上がるときはいいけれ
ども、普通の状態になれば、少しドイツ統治主義あるいは観念論的なものよりも英米法的なリアリズムというか経験論、そういうリアルな可能性の追求が大事だと私は思うわけです。
ところが、刑事法は現代でもやはりドイツ統治主義的、実体的真実主義的という枠組みがかなり強い。しかし刑事訴訟法第一条では、そこに戦前と違ったのは、公共の福祉と人権とを全うしつつ真実を明らかにする、公共の福祉と人権とをと、ちょっと思想が入ってきたわけですよ。それは、国家の性急な建設ということもさることながら、同時に人権が大事だということだが、憲法のいろいろな新しい思想というものが刑事法に反映されてきたという自覚というものが一体どこまであるのか。私は、別に偏したことを言っているつもりはないのだけれ
ども、やはりドイツのいわば統治主義的な観念論、これはちょっと問題なんですね。
それは、ヘーゲル、カント哲学というのは全部観念論の世界ですよ、マルクスもそうだけれ
ども。それは参考にすべきものはあるけれ
ども、一
方において英国議会主義の
歴史あるいは英国的哲学というか、英国へ行くと哲学でも芸術でも、シェークスピアなんかでもそうだけれ
ども、言うならば自然科学のニュートンですらリアルですよ。これはリンゴが落っこちるのを見て万有引力なんだから、自然科学、社会科学、哲学、すべてドイツとはちょっとニュアンスの違った思想が英国に育ち、それが米国に行った。こういうこの世界の二大潮流の中で日本は、言うならば近代化の中で大陸、特にドイツ傾斜というものがあったということは、ある程度反省する必要があるというふうに思うんですよ。
これは私の
考えだからいろいろ反対もあるかもしらぬが、要するに、特に刑事法は、東大の法学部が日本の官僚をつくった、これは間違いないでしょう。東大の法学部は何を勉強したかといったら、刑事法なら全部ドイツだよ。これは間違いないんです。それはすばらしい文化ではあった。近代化に貢献もした。だけれ
ども、戦後平たくなって
考えてみると、英米思想を、英米、英米法なんと言ってかなりばかにしていたんだ。実は私もその日かもしらぬ。私はまともな勉強してないからそこまで言わなくてもいいんだけれ
ども、どっちかといったらそうだったが、やっぱり英国はまたドイツに劣らずすぐれたものを持っている、英米法には。このことを、英米法をややばかにしておった戦前、高柳賢三なんという英米法学者がいたけれ
ども、何といったって日本ではドイツ系の学者が一流ですよ、公法を初めとして刑事法でも何でも。しかし、そういう文化の中に浸り切って今後ずっといくというのは無理なんです。やっぱりもっと切りかえなきゃいかぬ。
英米が何でもいいというんじゃないですよ。それは、アメリカだって雑なところはいっぱいありますよ。きのう
質問した中で、自治法で私は、個人個人の議員をリコールするなんというのはファッショだと言ったのだ。合議体の議会があるのだから、三十人も二十人もの、そこで除名もできれば何もできるようになっているのに一人一人をリコールするなんというのは自治じゃなくて自治の破壊だときのう言ったんだけれ
ども、こういう一種のばかげた条文をアメリカは持っていると同時にすごい民主主義のものを持っていますな、議会でも何でも。だから、やっぱり何もかもみんな満点というのはどこにもないんだけれ
ども、私はぜひひとつこれは検討課題というか、
検察一体の原則というのはちょっと問題だ。極端なことを言えば、根拠は何もないんだ。
例えば
事件をこの検事にやらしておいちゃまずいといったら移送すること、こっちの検事にやれと上の人が指揮できるし、それから、ほかの
検察庁に持っていけと、取り上げることもできる。ちゃんと規定はある。行政組織としてあるわけだ。あるのだから、一体の原則で縛ってしまうことは、むしろ下から一番最初に
事件をやった検事、それのものをやっぱり尊重するというのは結構かもしらぬが、上の方へ行かないで、下手すれば検事になりたての一番下へ来るんだから、どっちかといったら未熟ですよ。それによって全体を縛るという傾向があるようなことがある。これは下の人を悪く言うんじゃないですよ。組織というものはそういうものです。
普通の役所だって役所はやっぱり一体なんですよ。
検察だけが一体であって、普通の役所は一体じゃないかといったら、やっぱり一体なんだよ。私は、行政庁というもの、組織というものはそういうものだろうと思っている。そういう意味において、
検察一体の原則というものは
刑法や刑事訴訟法なんかの学者の本には全部書いてあるし、
検察官がお書きになったものにも全部ある。例外なさそうだが、クエスチョンマーク。思想的に
歴史的にクエスチョンマーク、検討の余地あり、問題提起と、私はそのことをきょう申し上げて、
答弁要りませんけれ
ども、ただ
大臣にはひとつ司法制度
調査会の方を一言ここで言ってもらって私の
質問を終わります。