○岡田(正)
委員 ありがとうございました。
義理のお父さんが自分の
子供の奥さんが非常によくやってくれたというふうに認めた場合には遺贈するという
制度もあるわけですね。ところが、先ほどおっしゃいましたように、なかなかこれが
国民になじんでおりませんので、広く活用するということが非常にむずかしい。冒頭私が注文を申し上げましたように、こういう点のPRもしっかりやってもらわなければなりませんが、私
どもが
心配するのは、こういう問題はもっと前進的に
考えていただかないと、ますます農村へ行く花嫁さんというのが行きにくい、やはり農村へ花嫁が行くという、いわゆる行っていただけるというような態勢をとるためにも、これから後重要な問題としてさらにひとつ御研究をいただきたいと思うのであります。これは注文を申し上げておきます。
時間がなくなってまいりましたので、次に妻の代
襲相続の
関係でありますが、
一つだけにしぼらしていただきます。実は今回の法
改正におきまして、
一つの例を取り上げて申し上げるのでありますが、お父さん、お母さんはおらない、
夫婦だけが住んでおった、その場合に
子供もないという場合は、いままでは御主人が亡くなったときには奥さんの取り分が三分の二で、そして亡くなった御主人のきょうだいが何人おってもその取り分は三分の一、こういうふうになっておりました。それを今度の法
改正で奥さんの取り分が四分の三にふえ、そしてその他の亡くなった主人のきょうだいがお取りになる分が四分の一というふうに、これは大きな前進をしたわけでございますけれ
ども、私がいまから訴えたいと思いますことは、これは実話によって申し上げるのであります。実はこういう例が非常に多いのです。
これは一部恥ずかしい話でもありますから、名前は一切言わないことにいたしますけれ
ども、実はこの御
夫婦というのは終戦前まで満州におられたのです。満州におりまして、土地も家屋も
財産をりっぱなものを持っておった。女の子が一人おったのです。ところが、御承知のあの終戦のどさくさのときに、日本赤十字の看護婦で従軍看護婦として出ておりましたが、それきりどこへさらわれていったのか行方不明というようなことになりまして、ついに子なしの
夫婦となりました。そして終戦のために海外にありました
財産一切を没収せられまして日本へ帰ってきました。
帰ってきたときの年が五十五歳、両方とも年をとり過ぎてしまった。働こうと思っても働くところがありませんので、ある小学校の小使さん、いまの言葉でいう用務員ということで雇っていただいたわけです。自乗、学校の先生方の温かい援助によりまして二十年勤めたのでありますが、両足がもう立たなくなってきた。皿に水がたまるという状態になりまして歩行困難というような状態になったものですから、学校の方も大変気の毒ではあるけれ
どもやめてもらいたいというので、二十年目にやめた、こういう状態であります。したがって終戦後二十年たって学校の小使さんをやめたわけです。
そのやめましたときに、もちろん海外に
財産があったのですから、わが日本には土地もなく家もないわけです。学校の小使室に入って
夫婦二人が生活をしておったわけですが、節約をどんどんいたしまして、最後に退職金を含めてその
夫婦が貯金通帳へ貯金しておったお金がちょうど百万円ありました。それで、そのお金を持って学校を出たわけですが、出るともう住む家もなく、土地もないわけです。
そこで、実は私
どもの方の家に転がり込んできました。それで非常に狭い社宅でございますので、えらい私事で恐縮でありますけれ
ども、
子供が四人おる、妹がおる、そして
夫婦がおる、そこへおじとおばと、合計九人の者が京間の四畳半と六畳の部屋にいっぱいになったわけです。寝るところがありませんから、私
ども夫婦は玄関の土間のコンクリートへ、五尺角のコンクリートがあるのでありますが、そこへござを敷いて布団を置いて寝るというような生活を続けました。
これはもう大変気の毒だというので、そのおじさんが、とらの子のように大事にしておりましたその百万円の通帳と実印を出しまして、見るに見かねるから、そのお金でスープが冷めない距離に自分たちの家を建ててくれということを申しました。探しまして、幸いにしてありました。そこで七十三坪の土地を買い、そこへ十五坪の平屋の家を建てました。そこに住んだら、非常にりっぱな家でありましたので、それで安心をしたのでありましょうか、自分のお金を出した、そして建てた、そのおじさんはころっと死んだわけです。
そうなりますと、そのおばさんに登記を変えてやらなければいかぬ。私
どもおいとしてはあたりまえのことでありまして、その登記を変えようと思って行ったら、いま言う三分の一は、亡くなった主人の
財産であるから、そのきょうだいの人らの判がなければどっこいどうもなりません、こういうことになりまして登記ができない。やむを得ぬものですから調べましたら、きょうだいが九人おりました。そのうちの四人が死んでおって、そしてその
子供がたくさんおるわけです、例の生めよふやせよの
時代でございますので。その
子供の中でもまた死んでおるのがおりますから孫ということで、合計いたしまして二十八個の判をいただいたのであります。これは東京から鹿児島までかかりました。
それで一番最後に、現実に生きておる、その亡くなったおじさんのきょうだいの人のところへ二十八個目の判をとりに行ったのでありますが、そのときにどういう状態であったかといいますと、こうやって満州から引き揚げて小使さんをやって、自分たちでつくったお金で土地を買って家を建てたのだから、どうぞひとつ気持ちよく判を押してやってもらいたいと言いますのに、人のところへ物を頼みに来るのに空手で来るのか、何も下げないで来るのかと、大臣、こうおっしゃるのですよ。まことに情けなかった。仕方がないから、お酒を二本ほど買ってそこの家へ持っていきまして、失礼をいたしましたと言ったら、最後には判を押してくれましたが、もしそのときに二十八人目の人が判を押さなかった場合にどうなるかというのです。登記一切変えられないのですよ。こんなばかなことがあっていいでしょうか。
それで、いま核家族の
時代ですよ。みんな若い
夫婦がそれぞれ共同して家を建てているでしょう。建て売り住宅を買っているでしょう。それは日本の国内でずいぶんたくさんの数だと思います。そういう
人たちが、やはり私たちのおじとおばと同じような悲劇を味わわなければならぬのじゃないでしょうか。今度の法
改正におきまして、サトイモの子のようにずっと何ぼでも行けというのではなくなった。おいとめいまででとまることになりました。なりましたけれ
ども、一人でも合意しなかったら
財産は登記ができないのですよ。こんなあほなことがあっていいですか。私は、何のために四分の一という
制度を残したのだろうかと非常に実は憤慨をしておるのであります。この点につきまして、ひとつはっきりした御回答をいただきたいと思います。